こんにちは。
私たちの生活に欠かすことができないケータイ。
中学生のころ、着メロが3和音だの10和音だの100和音だのと話題になっていたのが私のケータイの一番古い記憶です。
ご存知のとおり、そこからの進歩は凄まじいものがあり、近年はスマホの登場、各種SNSの登場で、時間を気にせず、料金を気にせず、人と繋がれるようになりました。
繋がりという点では、こちらからアクションを起こす必要すらなくなったのです(隙間時間にFacebookを開くだけで、長い間会っていない友人の近況が表示されます。) 。
私は以前から常々思っていることがあります。
人と人が遠く離れる話や歌詞に共感できなくなった。
そういったものは比較的遠距離恋愛のものが多いですが、例えば名曲「なごり雪」。
今の若い人は、この曲が発表された当初にみんなが感じたほどの衝撃的な切なさに胸を打たれることはないのではないでしょうか(私も世代ではありませんが。) 。
人が人として人と関係を続ける限り、会えない時間は必ずある。
しかし、連絡をとりたければメールをすればいい。
声を聞きたければ電話すればいい。
今はどんなに離れていても、簡単にコミュニケーションがとれる時代です。
便利なものです。
一方、それによって失われたものも確かにあるのではないでしょうか。
何年か前の正月に酔った勢いで、両親に、お互いと出会う前の恋の思い出をきいたことがあります(笑)。
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父は郵便局員で、若い頃は配達もしていたのですが、いつも配達に寄るある会社の事務の女性に、郵便物と一緒にラブレターを渡したそうです。
数日後に配達へ行った際にOKの返事をもらい、デートをしたとか。
(ちなみに、父は長男ですが、長男はやめときなさいという相手のご両親の意向により恋は成就しなかったそうです。)
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母は短大時代に友達の友達として知り合った男性にデートに誘われたところ、待ち合わせ場所に指定された公園の入口が実は2つあったらしく、ケータイもない時代ですから行き違いになってその日は会えずじまい。
その後は、そのままなんとなく会うこともなく…。
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自分の両親のそういった話はこれまで聞いたことがなかったので、それだけで衝撃的だったのですが、この話を聞いたとき、なんとなく心のどこかで「いいなぁ」と思ったのは確かです。
全体的に「切なさ」を孕んでいるからでしょう。
しかし、この切なさは、決して恋が成就しなかったというところからくるものではありません。
父がラブレターを渡してから、次に配達へ行くまでの時間、どんな気持ちで過ごしたか。
母が待ち合わせ場所でなかなか現れない相手を待つ時間、どんな気持ちで過ごしたか。
同じように、人と人との関係において、会わない時間、繋がらない時間に、今どうしてるんだろう、元気にやっているんだろうかと、相手のことを考える時間、想像する時間に人は思いを「溜める」のです。
便利になった現代において、そうやって相手を思いやる時間が消えつつある。
いつでも繋がれるという安心感によって、人は思いを「溜める」時間を減らしてしまっているのではないか。
どうでしょう。
毎日メールや電話をしている人がいるならば、今一度それを少し減らしてみては。
どうでしょう。
いつでも連絡できると安心していたけれど、気づけばずいぶん連絡をとっていなかった人に思いを馳せてみては。
きっとそこには、人との繋がりを本当の意味で豊かにするヒントが眠っている。
そんな気がしてなりません。
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