竹久夢二の来洗記事

竹久夢二22歳の読売新聞社員時代。

以下に、大洗町を訪れた紀行文と、それに添えられた大洗の松と海とのスケッチが掲載されています。

明治40年(1907)6月22日 読売新聞朝刊 3面
【涼しき土地(了)】
「▲大洗、朝、水戸公園の川岸より、大洗行の汽船に乗る。那珂川の流れにしたがひ、一時間ばかりにて、海門橋につく。
ここより汽船を上れば、右は祝町、左は平磯町なり。自分は橋の袂で、大洗へゆく途をきくと、「旦那、安く行きますぜ」と、すれたもの言ひでいふ、車には乗らずに、祝町を南へぬける、町の両側は、悉く妓楼と引手茶屋とで、充されてゐる。町はづれから、路が二つに分れる、左は磯づたひの砂路で、車は通らぬ、ここから車を雇ひ、森を一巡すれば大洗町なり。西は鹿島灘をうけ、東は岬をなして、ここに大洗神社あり。海浜に、魚来庵、小林楼、金波楼、大洗ホテル等あり。近年、東京より避暑に来るもの極めて多く、頗る俗地なり。」

大洗町史(通史編)の検証

昭和61年に刊行された『大洗町史(通史編)』。体系的に町の歴史が纏められたほぼ唯一と言っても良いこの本、未だに影響力は強い。

しかし、その記述が諸本の内容に照らして相容れないものになってきているとすれば、それは是正されなければならない。少なくともおかしな部分を指摘し、周知とする必要があるのではないか。

799頁の大洗町の観光に触れた一文に、
「明治22年(1889)、旅館川崎屋は尾崎紅葉によって魚来庵と名づけられ、翌年には金波楼が開業した。」とある。

何の本に拠ったのか、出典が明記されていないので、そもそも検証のしようがないが、魚来庵の歴史は、一々の出典を明記した上で先に書いた記事の通りである。

大洗・魚来庵の開業と変遷

これに拠れば魚来庵の名前は明治17年から使用されているし、魚来屋という名称が登場するのは、遡る明治3年である。魚来屋の成立が、伝兵衛氏が弘化年間に東海庵魚来宗匠の養子になったことに起因するとすれば、江戸時代末期に遡る可能性も十分にあると言えよう。

まとめると、下記の通りとなる。

嘉永3年開業:屋号不明→明治3年:魚来屋→明治17年:魚来庵

そもそもの尾崎紅葉(1868.1(慶應3年12月)-1903.10(明治36年))が魚来庵と名付けた、魚来を新設したかのような流布であるが、明治3年には使用されているから乳児の紅葉が命名するのは困難であろう。百歩譲れば、魚来屋という江戸時代風の屋号を魚来庵と近代的な屋号に変えた可能性は残るが、これとても出典が示されない中では、検証のしようがない。紅葉が本当に明治17年頃、ネーミングに関わったのかどうかは、不明と言わざるを得ないだろう。

同じく『町史』で扱われた金波楼の明治23年開業説についても、小中村清矩の『有声録』による明治21年夏の記録、及び正岡子規の『水戸紀行』による明治22年4月の記録を総合すると、明治21年夏の開業が濃厚である。

大洗・魚来庵の開業と変遷

大洗下に位置する魚来庵は、江戸時代以来続く海水浴旅館として、明治10年代後半〜20年代前半に隆盛を極め、以来、今日までその位置を変えず営業を続ける、大洗町の観光の黎明期を紐解くのに大切な旅館である。今ここに、その開業と変遷について、主に明治時代前半までの動向を年譜として記録しておきたい。

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魚来庵を創業した初代・川崎伝兵衛氏(明治36年『茨城県名士肖像録』より転載)


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魚来庵2代目本館(小生蔵絵葉書より)


天保元年(1830)11月:川崎伝兵衛誕生【明治26年『水戸東茨城行方鹿島一市三郡名家揃』】
弘化3年(1846)年:伝兵衛18歳。母方の伯父・東海庵魚来宗匠の養子となる【昭和2年『東茨城郡誌下巻』1218頁】
嘉永3年(1850)春3月:開業【明治28年〜34年頃※『茨城県水戸大洗下海水浴魚来庵』】
※刊行年は未載であるが、大洗磯前神社が国幣中社となっており、常磐鉄道の布設も書かれているため、明治28年11月以降で、描かれた本館の建物が初代のものであるから明治34年までの内容。
元治元年(1864):伝兵衛、餅屋を開業して繁昌【昭和2年『東茨城郡誌下巻』1218頁】
慶応元年(1865):伝兵衛36歳。大洗に料理店を開業【昭和2年『東茨城郡誌下巻』1218頁】
明治3年(1870)1〜9月:大洗磯前神社における明治の大改修時、「魚来屋伝兵エ」として寄付【明治3年『大洗大神宮御普請村役人・世話人名』】
明治3年(1870):伝兵衛、大洗で海水浴旅館(潮湯治宿ヵ?)を兼業【昭和2年『東茨城郡誌下巻』1218頁】
明治12年(1879)9月:魚来屋伝兵衛、大洗磯前神社石燈籠製作に伴い5圓寄付【大洗磯前神社境内石燈籠より】
明治17年(1884):魚来庵の伝兵衛、『大洗磯前神社真景図』発刊。「魚来庵」表記の初出。
明治34年(1901):三層楼の2代本館を建設【明治34年8月『山影水声 避暑旅行』・明治35年『常陸の海水浴』36頁】

おでぃば山の春

随分と更新を怠っておりました。
おでぃば山は日々、年々、手が加えられ、いつの間にか、人々が寄り付く場となっています。今年の春、お花見をしましたが、来訪する人が良い具合に続きました。

景観を良くしました。日々、除草と枝拾いをして、きれいにするエリアを広げています。古墳や海防陣屋に関する説明サインも最近3基目が立ちました。ガールズ&パンツァーの舞台としても登場しました。

すごく景観が良く、この景観を愛する人が増えています。地元の人もお散歩コースにしているようですが、遠来のお客様にも浸透しています。夏の花火や正月の初日はここから楽しむ人が増えています。

浸透した一方で、この場の歴史的な価値を地元で確認する機会って、意外と無かったなぁ、ということに気が付きました。平成30年度はこの場の歴史的価値を、分かりやすく伝える・伝わることを幾つかしようと思っています。

天保12年北国見聞記にみる大洗の様子

天保12年(1841)6月11日〜9月23日
群馬県伊勢崎市連取→常陸→金華山→湯殿山→函館→松前の旅行記

森村新蔵による 【北国見聞記】所収(日立市郷土博物館 古文書学習会編 2008 『道中記にみる江戸時代の日立地方』より転載)

「磯ノ浜 城下より二里半、此処家数千軒余有、田畑なく皆魚猟渡世也、此浜に与力大明神、大洗大明神ノ二社アリ、祭神ハ不詳、此両社ハ魚捕守護神にて此地ノ土砂神なり、此大洗の社の表大門の右の方より清泉出ル、眼病の人祈願ヲ篭メ、此水にて眼を洗候ヘバ平癒なすと云、予の参詣の時節も眼疾の祈願にて参篭の人二三十人あり、扨此社の大門を出て石階を下り浜へ至ル、此崖ニ大岩海中に差出波荒く岩の狭間へ大波打込、又岩上へ打あげ其景色言ハん方なし、又此処二蚫取の海士数人出居、男女共に皆赤裸になりて腰に網袋を詰付て、岩の上より仰向に岩を背の方にして逆さまに汐中へ飛入り、稍暫く過て、蚫を手に持捧ゲて岩に向ひて浮き上りて岩に上り、持シ蚫を腰の袋に入レ、又外の岩に移り前のごとく波底に入ル、其業水無処を働に異ならず、又此処に葭簀囲の茶店ありて酒肴も商ふ故立寄、休息の内、蚫取を見物せしに、予が如き海なき国に生れてハ誠に珍しく思ハず時をぞうつしける、扨又爰ニ珍しき物と云ハ蚫を蒲焼となし酒の肴に出せしが、其味ひ至て美にして、是迄喰ハざる故殊の外賞玩せり、扨此茶店を出て渚伝へに一り程行て左りの方に松並木有、其木間より家見ゆ、是を目当に路に登り祝町に至ル」

石井力氏の大洗ホテル(大正6年頃〜昭和15年)

石井力氏は「明治28年生まれ」(昭和5年『茨城人名辞書』)。

明治43年〜大正前期に益子薫氏により経営された三層楼の游神閣(明治44年『水戸名勝誌(三版)』・大正元年頃『郷土大観』・大正3年『常陸三浜市街全図』)。

「夙に早稲田大学を卒業し、当時仝町(磯浜町)の新智識と称せらる。帰来一意実業界に入りて活躍し、往年大洗神社前に建坪五百有余の大建築をなし、遊神閣と称して旅館を経営したりしも、後大洗ホテルと改称し今日に至れり、改称当時は君の年二十三才、今より二十数年前の事に属す蓋し県下有数の高等旅館なり。」(昭和5年「石井力君」『茨城消防発達史料』)

石井氏が大学を卒業したのが、生年より考えて22歳に達した大正5年頃と見られ、帰郷し23歳となった翌6年には、経緯は不明ながら游神閣の営業権をにぎり、大洗ホテルと改称して営業を開始したものとみられる。

大正11年(1922)10月までに、個人名で磯浜局の電話番号30番の登録を行い、翌年12月以降は大洗ホテルの名称が併記されるようになる(江口又新堂蔵『大正7年9月改茨城県下各地特設電話番号簿』・『大正11年10月改茨城県下各地特設電話番号簿』・『大正12年12月改茨城県下各地特設電話番号簿』)。

この大正時代中期以降の「大洗ホテル」が、大洗地区で最南端(大洗磯前神社一の鳥居付近)の住所「大洗15」に位置した、絵葉書1・2に写る増築前の三層楼の建物で、経緯よりして明治43年建築の游神閣そのものの建物と考えられる。


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絵葉書1 大洗ホテル(増築前) 蓼沼個人蔵



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絵葉書2 大洗ホテル(増築前) 蓼沼個人蔵


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絵葉書3 大洗ホテル(増築後) 蓼沼個人蔵



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絵葉書4 大洗ホテル(増築後) 蓼沼個人蔵

昭和5年 磯浜町→大洗町改称の議

『いはらき』第103005号掲載
昭和5年12月21日発行  

「磯浜」の町名を大洗町と改称の議
同町有志間に問題となる

磯浜町の一角にある大洗が大洗神社及び遊覧地又は民謡磯節によって唄はれて白砂青松の大洗の存在は国内の津々浦々にまで知られているが単に磯浜と言う町名を聞かされただけでは県外には磯浜という町の何処にあるさへ知らぬ者が多いという有様を全地方民が旅行の際など各所で聞かされる事実なので磯浜の町名を大洗町として改称する事が寧ろ磯浜町の発展策であり大洗の勝地紹介のため地方を有利に導くものではあるまいかと最近識者間に研究されるに至り将来興味ある問題として詮議されている。

大正7(1918)年9月の磯浜町における米騒動

磯浜町における米騒動には、八朔の流れを組む9/5〜翌6日の明神町・一丁目・二丁目を中心とした市街地東部のもの(第1期米騒動)と、その影響を受けた9/7夜〜翌8日未明の永町を中心とした仲町・金澤町・通町・新町・髭釜・大貫町寺釜を含む市街地西部のもの(第2期米騒動)とがある。

第1期米騒動は、警察により、大正7年9月5日の八朔における神輿渡御が禁止されたことに対し、明神町を中心とする漁夫を中心に蜂起されたもの。大洗磯前神社末社三祠を担ぎ出し、町内を練り歩いた。その中で、米穀商を襲うこととなる。要望は、一円で四升売ってくれというもの。一升25銭である。一升30銭で妥結したようである。

この蜂起に先立つ、8月13日には、米穀商であった仲町の木屋・後藤兵助により、外国米が一升24銭で販売され始めている(東京日々8・14)。この経緯を組めば、それより東の明神町〜二丁目の米穀商に対しても、相当の安価で米の販売を要求したものと考えることができる。

続いて、第2期米騒動。第1期米騒動が30銭で妥結した話が、永町を中心とした磯浜町西部にも伝わる。
現在の永町会館のある場所は、以前は第三保育所で、大正年間は西福寺の迎西坊であった。ここが蜂起の中心地となった。
大正7(1918)年9月7日
19時30〜40分 寿町(永町・髭釜)の若衆約百数十名、須賀神社の神輿を担ぎだす。
          大貫町寺釜の二百余名、神輿に擬えた小祠を担ぎ出す。
          桂町(仲町〜通町)若衆、小祠を海で清め神輿を作り、担ぎ出す。
          新町も三々五々町の中央に集合。

新聞記事には、上記の大貫寺釜〜磯浜仲町より集まった神輿・小祠が「一斉に町内をもみ始め、形勢いよいよ暗澹として、殺気全町にみなぎり危機刻々にせまり」とあり、警察・憲兵と対峙する緊迫した状態となった。

19時30分頃、担ぎ出し、22時にかけて、永町を中心とした米穀商へ襲撃した。出入口の戸障子を粉砕し、神輿を座敷に担ぎ入れ、小豆を台所に撒き散らすなど。

【9/7に襲撃された米穀商】(『米騒動の研究 第3巻』、東京日々9・9、11・21を総合)
永町東部(寿町一丁目)
20時00分前 宮崎屋(宮崎福之助)1回目 麦桶破壊
20時30分頃 阿賀屋(片岡造酒次郎)1回目 被害無し
21時00分前後 阿賀屋(片岡造酒次郎)2・3回目 障子6枚・雨戸1枚破損
21時30分頃 宮崎屋(宮崎福之助)2回目 電球・障子・半切桶等毀損
時間不明 登利屋(服部すて) 障子破損
時間不明 屋根屋(長田徳次郎) 硝子蓋の鶏卵入れ一つ破損、小豆5〜6升をひっくり返される。


永町西部(寿町二丁目)
時間不明 富田屋(関根軍吉) 雨戸の戸袋に5〜6寸の穴、障子の硝子4枚破損

永町下通り〜髭釜下通り(砂町)
20時00分頃 川上屋(川上孫三郎) 障子4枚破損、棚覆される。
時間不明 森田屋(森田秀彦) 表の内戸・硝子障子毀損

6./21 茨城県における中世城館の現状

今月は、15世紀後半の中世城館の調査に関わり、個人的に関心が高まっているので時宜を得た内容となりました。


茨城県考古学協会第37回研究発表会 茨城県における中世城館の現状
6月21日(日)
茨城県立歴史館講堂
※資料代500円。会員外聴講可

会長挨拶 11:00〜11:10

講演 中世武士を考える ―佐竹氏の祖・新羅三郎義光の活動から―
茨城大学 高橋修先生 11:10〜12:00

(昼食 12:00〜13:00)

研究発表 テーマ:「茨城県における中世城館の現状」
1 土浦市土浦城跡の調査・研究成果 比毛君男氏 13:00〜13:40
2 小田城跡周辺曲輪跡の確認調査成果 広瀬季一郎氏 13:40〜14:20
3 中〜近世における水戸城の展開 関口慶久氏 14:20〜15:00
4 笠間城跡の石垣応急処置について 額賀大輔氏 15:00〜15:40
5 史跡真壁城跡の発掘調査と歴史景観 宇留野主税氏 15:40〜16:20

涸沼水系における15世紀後半の江戸氏の防衛ライン

登城館跡の深く掘られた堀を見ながら、15世紀代の県東部における江戸氏、鹿島氏一族の動向に思いめぐらせました。

15世紀中頃より、大谷川・鉾田川の分水嶺あたりが、相互の最前線となり、対峙していたのではないか?といった話。 涸沼水系を抑えた江戸氏とその配下となった大貫氏という構図。

鹿島台地上を北進する鹿島氏一族に備える、大貫の城館群。大貫の城館群を構築する谷の源頭部は、鹿島台地を縦貫する南北陸路が最も狭くなる位置で、そこに成田郷(現・夏海市街地)が形成されるのは、決して偶然ではないのでしょう。涸沼水系における水上交通上の要衝と見て良い、涸沼に向けて半島状に西に突き出た亀山郷(現・神山)が文献上登場するようになるのも、この頃。

15世紀後半頃、水陸交通の要衝への郷の形成、そしてその後背の位置に築造される大貫の城館群という構造。こうした県東部地区南部を拠点とした鹿島氏一族を意識した配置は、決して個別に形成されたのではなくて、涸沼水系の防御を意図した有機的に結びついた、動向の結果、残されたものなのでしょう。

あるいは江戸氏の更に後背に位置する、大貫郷北端の涸沼・那珂川水系で水運力を持った木下・島田の防衛こそが、意図するところだったのかもしれません。そこを守るための大洗町南部の動向という視点の用意が必要かもしれませんね。

江戸時代中期の『養生訓』にみる潮湯浴・潮湯治

貝原益軒による正徳2(1712)年成立の『養生訓』。

江戸時代中期の【湯浴・浴・潮湯浴・湯治・潮湯治】などの用語の用法を理解するのに便利である。

井水や河水を温め温湯とし浴する【湯浴(ゆあみ)】 又は【浴(ゆあみ)】という言葉が元々あるから、海水(潮)を利用した湯浴を指し【潮湯浴(しおゆあみ)】と呼ぶらしい。
温泉に浴する【湯治(とうじ)】 という言葉が元々あるから、海水(潮)を利用した湯治を指し【潮湯治(しおとうじ)】と呼ぶらしい。

貝原益軒『大和本草』にみる潮湯治

江戸時代の本草学者である貝原益軒(1630-1713)による、宝永6(1709)年刊行の『大和本草』。

この「付録巻之二」に、潮湯治の内容が書かれている。

「本草(江戸時代初期に日本に入る『本草綱目』)二海水ヲ煮浴スレハ風瘙癬ヲ去ト云リ」
「海水ヲ煮テ浴スル二水ヲ半分加フベシ水ヲ加ハ不レハ性ツヨクシテ病人二害アリ」

中国の『本草綱目』に書かれた海水温浴が体のかゆみを去るという内容を紹介し、その上で、海水を煮る際には、真水を半分入れ薄めて入る必要を述べている。江戸時代前期の潮湯あみには海水を汲んでそのまま沸かして入るケースが存在し、それでは肌に強すぎるから、それを是正したい益軒の意志が見てとれる。

この文は、江戸時代前中期頃の日本における潮湯治(潮湯あみ)の内容を示すものとみられる。

江戸時代前期の那珂川中流馬頭町小口における煙草栽培

那珂川中流の那珂川町(旧馬頭町)小口の庄屋・大金重貞(1631-1713)が、天和3(1683)年に著した『田畑難題物語』。

この中に、小口付近における江戸時代前期の煙草栽培の普及経過が書かれている。

「たばこ慶安年中(1648〜1652)より高値に成りてひろく作り出す。寛文戊申年(寛文8・1668)に猶高直に成りて金を儲ける事思ひの外なり。」

那珂川中流域において、17世紀の中頃には、広く煙草栽培が普及したものとみられる。

また、煙草の連作が畑の土壌を疲弊させる問題点と重ねて、

「こぶはれ物出来て身のふへたる・・・」
「暫くたばこを作らずば腫物平癒すべし。跡の不治先に作るべからず。」
「彼のしゅもつ(腫物)を、りやうち(療治)すべし。」

など、煙草栽培を通して、瘤・腫物など、人体に与える影響を危惧している。

以上の那珂川中流域における17世紀中頃の煙草栽培の成立展開は、那珂川河口域(三浜地方・平磯・湊・磯浜・大貫)における肥料である干鰯の生産、河川流通、あるいは煙草生産者の農閑期の潮湯治治療と連動する可能性が高い。






常陸における江戸時代潮湯治の起源

明治35年(1902)に刊行された『常陸の海水浴』中に、「常陸海水浴起原」という一項目がある。

「当国の海水浴は全く煙草耕作業者の創むる所に係り」、「元禄年中(1688〜1704)那珂、久慈二郡の山中を始め、下野那須野郡なる馬頭烏山等の各地は、煙草の栽培次第に盛んに赴き、土地の住民等は」「煙脂自づと身体に付着浸染し、盛夏の交に至り青疸病を発するの恐れあるを以て、脂毒を防ぐには海水浴を以て洗滌するに若く無し」

那珂川・久慈川流域における江戸中期の煙草栽培の隆盛に伴い、人体に与える脂毒の洗浄を目的として、水戸藩沿海における潮湯治の形成に繋がるようである。

潮湯治の内容とは、
「隣閭互に伴を結び、米麦味噌等の糧食を背負ひつつ、那珂の平磯、多賀の河原子等に来り漁家細民の居宅を借り受け、互に自炊して入浴するを年々の例と為したるが如し、其浴法たる、近来の如く直に海中に入りて冷浴するにあらず、海水を汲み来りて之を風呂桶に充たし、温熱を加へて潮湯と為し、然る後浴を取り名づけて潮湯浴と称す」

江戸時代の潮湯治とは、風呂桶に汲み上げ温めた潮湯が基本であった点は、注視される。上記のような居宅借受方式による湯治ばかりではなく、潮湯に入れる旅人宿が形成されてくるのは必然的と言える。

先に書いた江戸中後期頃には、大洗・磯浜についても潮湯治場の記録があるため、那珂川中流域の煙草栽培農家との関連で、平磯や河原子と期を同じくして、大洗・磯浜の潮湯治場・宿が形成されたものと見て良いのではないだろうか。

明治15年『海水功用論』の刊行

150426海水功用論愛知病院長の後藤新平によって、明治15年3月に、『海水功用論』が著される。
内容は、海水浴の効用に関する一般概説書である。
日本における海水浴を扱う初めての普及書であり、北海道から九州の32軒の書肆で専売された。この中には、水戸の新報義社が含まれており、本の販売を通して、茨城県内の浴場の成立に寄与したものとみられる。

本の中では、岩石が多い、波が激しい場所が、海水浴場としては適している地とされた。

確かに、江戸時代に成立する潮湯治場である愛知県大野、茨城県磯浜村大洗・西福寺などは、両方の条件を満たしている。

江戸〜明治時代の潮湯治場・海水浴場とは、医療行為の側面から、潮の流れが強く、体に激しく潮がぶつかる場所、外洋の礫浜などが理想とされたようである。

江戸時代末期の磯浜村大洗における料理屋・旅館の形成

明治3年の大洗磯前神社における修理事業の関係者を記した『大洗大神宮遷宮時村役人世話人諸職人明記』には、「明神町縄舟中」として、江戸屋・小林屋・杵屋・大和屋・魚来屋の5軒が登載されている。この5軒が明治3年当時の大洗下(宮下)の料理屋・旅館とみられる。

この内、「江戸屋」は明治34年刊行の『三浜志』に記された幕末の頃繁盛を極めたとされる「江戸楼」に、「杵屋」は、同「甲子楼」に相当するものとみられる。「江戸屋」の位置は未定。「杵屋」は、木根屋とも書き、明治20年代の大洗磯前神社の真図複数に描かれており、現在の二の鳥居北側に建っていた。「小林屋」は現在の「小林楼」の可能性が高い。「魚来屋」は、嘉永3年創業の「魚来庵」であろう。「大和屋」はまったく不明である。

幕末の頃には、磯浜村大洗下には、江戸屋・杵屋・魚来屋・小林屋等から構成される、大洗磯前神社参詣客や潮湯治客を迎え入れる、料理屋や旅館が形成されていたようである。

江戸時代前期の磯浜における潮湯治

 『徳川実紀』の寛永19・20(1642・1643)年の記録には、

「寛永19年旧8月28日、けふ紀伊大納言頼宣卿野島の鹽湯あみに出たたる。」
「寛永20年旧8月6日、松平伊豆守信綱して。紀伊亜相に鎌倉へのいとまたまふ。これは鹽湯あみに赴かるるきこえし。」

江戸時代前期の寛永年間頃と言えば、日本における潮湯治の記録が初めて登場する段階と言えます。


出典は今のところ不明なのですが、『大洗町史(通史編)』の巻末の年表には、簡略に、

「寛永13(1636)年、磯浜で塩湯治をしたという記録あり」とあります。

出典不明ですので、現在、調査中です・・・。
日本最古の潮湯治記録と比肩、あるいはやや遡る記録が磯浜村の潮湯治に存在するとすれば、それは、それで驚きです。取り合えず、裏をとりたいと思います。

江戸時代中後期の磯浜村における潮湯治

戦国末期の天正年間(1573〜1592年)、茨城町の小幡城主・小幡氏が、大洗へ参詣に来た折、水戸城主・江戸氏に討たれるという事件がありました。

海老澤さん情報に拠れば、

安永年間(1780年)に、この事件について、某家が水戸藩に提出した由緒書には、

「小幡城主・小幡宥円が、江戸氏・但馬守へ逆心があるので、江戸氏家臣の式部が、宥円を磯浜鬼洗へ塩湯治として引出、但馬守より兵を出し弓にて射殺さる。時に宥円死後に但馬守へ甚だ祟り、教化の為すなわち宥円権現を祭り後止む」

と、あるとのことです。

「鬼洗」とは、大洗岬から大洗下(宮下)付近をさしたのでしょう。

 海水浴の効能が初めて記述される『本草綱目』が中国において完成、上梓されるのが、ほぼこの天正年間頃で、果たして潮湯治が日本において中世末に遡るのかどうかは不明です。由緒書が作成された江戸時代の後期頃には、磯浜村の大洗が潮湯治場として、知られていた可能性が高いのでしょう。だから、大洗来訪の理由として潮湯治が記録される。先の宝暦7年(1757)の西福寺における潮湯治の記録とも重ねると、江戸時代中期頃には、磯浜村沿海一帯が潮湯治場として周知されていた、とも言えましょうか。

今から250年前の磯浜村西福寺における潮湯治記録

茨城大学附属図書館編 1991年 『水戸下市御用留(一)』

宝暦七年(1757)丑七月九日
「大学頭様為御湯治、御下リ被成候二付、磯濱村西福寺に御逗留被成候旨、・・・」

「七月十二日、・・・磯浜において潮御湯治被成候由二付、・・・」

「大学頭様潮為御湯治、当月廿八日松川江御下、磯濱村西福寺江御入被遊候由ニ候、・・・」

※大学頭様:守山藩2代藩主・松平頼寛(よりひろ)のこと。

県刊行物の頒布についての建設的意見

以下は、小生のFacebook上でこの4月13〜14日に交わされた茨城県の歴史に関心のある中世史学者・考古学者・郷土史愛好家などによる会話である。

高橋 修編 2015 『茨城県歴史の道調査事業報告書中世編 鎌倉街道と中世の道』茨城県教育委員会
「関東の水系は、利根川ー武総の内海水系と常陸川ー常総の内海水系が最も近接し、陸路(後の奥大道)で繋ぐことができる場所が将門の本拠地となる猿島郡であった。」8頁

大洗町教育委員会 2015 『日下ヶ塚(常陸鏡塚)古墳』
「これまでも、前期に遡る臨外海性の磯浜古墳群(大洗町)・長柄桜山古墳群(葉山町・逗子市)の両例の占地を、広く太平洋沿岸の海路の動線の中で捉える視点が用意されてきた経緯があり(川西2002)、日下ヶ塚(常陸鏡塚)古墳の立地を、坂東から陸奥へと開けた門戸としての機能を強調する立場があった(日高2002、西川2007)。そのような北太平洋航路上の外洋航路の門戸としての地勢を考慮した場合、後背に東京湾・香取海という二大内海を持ち、なおかつ両古墳群が相互の内海との結節点に占地している点は、大いに注視されるべき立地上の特徴と言えるだろう。」4頁

前者は内海間の位置を評価、後者は両内海ー外洋との結節点の評価。重なるようで、面白く読みました。


以下、上記本文で扱った『鎌倉街道と中世の道』の頒布に関するコメント。 Is・T・W・Ichi・K・N・Mの7名が会話しています。実名は伏字としました。

Is : どこで読めますか? 大洗?
T : 3月刊行で、この4月に配布しているんだと思います。県内図書館入ると思いますが、横断検索でひっかからないですね・・・。大洗も読めませんです。5月ぐらいからポツポツ読めだすかもしれません。
W : ぜひ購入して読みたいです。
T : Mさんのところで、購入について難しい件、書かれています。FacebookURL引用。
W : ありがとうございました。しばらくしたら、佐倉市から一番近い茨城県の利根町か河内町の図書館の蔵書を検索してみます。
Is : 徳川以前の古い街道とか探るのおもしろいですよね。県立図書館に近いうち行ってみます。
Ichi : Wさん>茨城県教育委員会に問い合わせたら、メールでコピーして下さいって(笑)。
K : こういう文献こそ、県のホームページで電子媒体を公開しないといかんと思うのは、ボクだけでしょうか?
T : 数年前の近世編1【水戸道中】が刊行された時も、販売希望の声が多くありましたね。良いものは「手元におきたい。」、我々の性かと思いますが、そうはできない国補事業。県庁2階で販売している毎年刊行する【茨城の文化財】なんかより、よっぽど、県民からのニーズがあるでしょう。Kさんのおっしゃるとおりでしょうね。
K : 県の単費で増刷して頒布しても良いかと思います。
N : この報告書を契機に、各自治体や民間で再編集したものを頒布するようになればいいんですけどね。
Ichi : Nさん>岩田書院さんか戎光祥出版さんに期待したいですね。
T : 県単費で増刷が本筋でしょうが、出版社とタックを組むというのは、買い手にとっては、最良ですね。さてさてどうなりますか?このままかな(笑)。
Ichi : PDFは難しいのでしょうか。例えば、こちらとか。文書館と比較するのはおかしな話かもしれませんが。http://www.archives.pref.fukui.jp/・・・/2014b・・・/lindex11.html
M : これだけ反響もあるのですし、なんとか多くの方々に見ていただけるような方策を考えたいですね。たぶん増刷は難しいので、出版社とタッグを組んで、公刊していただく方向がいいのでしょう。
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