2008年02月21日

お久しぶりです

久しぶりに投稿開始します こんにちわ奄美愛です

病気のため、休んでいましたが
再開します
宜しくお願い致します


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  テレビ放送が、まだ奄美には来ていない時代でしたので、楽しみと言えば、たまに映画を上映してくれる事でした。公民館の前の広場で観覧出来るように、設置してくれて、芦花部の人達の殆どが観に来ていた様な気がします。その頃の映画は、東映が配給した時代劇が主流でした。悪人に、殺されそうになると、なぜか、鞍馬天狗が馬に跨って、さっそうとやって来る。観ている人達(特に子供)がそのシーンになると手を叩き声を出して、一気にボルテージがあがり、皆の心がひとつになれた様な気がします。映画が終わるとさっそく、私たちは「鞍馬天狗ごっこ」をするのですが、殆どの子供が鞍馬天狗になりたがるので、鞍馬てんぐ同志で斬りあうという、不思議な現象が起きたものでした。   








ラジオ体操(上級生の威厳)









 学校が、春休み・夏休み・冬休み、になると芦花部の生徒達は中学の上級生が中心になって、NHKの6:30のラジオ体操に間に合わせる為に、集落の中を声を掛け合って走るのが慣わしでした。だんだんと輪が広がり全員が揃うと学校の校庭へみんなで行き、体操をするのを休みの間毎日続けていた様な気がします。冬休みの時などは、朝の6:00と言えば、真っ暗です。上級生が率先してやらなかったら、たぶん、皆が集まると言う事はなかったと思います。それだけ上級生が下級生に対して親とは違う威圧感を持ち合わせていたのだと思います。遊びなどは、上級生に教えてもらい、日々を過ごしていたので、仲間はずれがとても、怖かったのだと思います。怖いだけでなく、いろんな事を教えてくれたので、信頼感や親近感があり、まるで、ひとつの家族の様だったと思います。かずのり兄、会いたいです!
















 芦花部の海岸は、集落と1キロぐらい離れていますが、潮干狩りや泳ぎによく行っていました。がしち(うに)は特に美味しかったと思います。海に潜っては、少しずつ、砂浜へ運び、小石で割っては指ですくって食べていました。適当な天然の塩味が効いて高級なレストランで食べるのとは、一味違った「おいしさ」があった様な気がします。あの頃は海亀が産卵によく来ていて、砂浜の陸に近いところへ卵を産んでいました。大人たちが掘り起こし、貴重な栄養補給源でした。現在、海亀の個体数が激減しているとのこと、わたしも恩恵を受けて成長しましたので、今度は環境に留意して、大恩を返さねばと思っています。 奄美愛。








芦花部小中校歌










「白河の泉湧き出る里の朝日輝く緑の丘に映える姿に生気みなぎる若き命のはぐくむところ、ああ!元気な子らの芦花部校」当時の森田校長が歌詞を書き上げ私の父が作曲を担当した芦花部小中校歌です。歌詞の漢字が少し曖昧なのですが、いまでも時々口ずさんでいます。にわとりを追いかけていた時、倒れられ、そのまま帰らぬ人となった校長のことを思い出すとき父と母が深く悲しみ、落ち込んでいたのが蘇えってきます。白河(しろご)で当時飛び込みをしたりして泳いでいました。今でも泳げるのでしょうか?同級生のたかみつ君とひろかず君に今度訪ねる時聞いて見たいと思っています















作下先生











芦花部小中学校は複式学級制を敷いていましたので、私は、3,4年生のクラスになったのですが、最初は父が担任で、ぎこちない思いをしていた様な気がします。さすがに父も、やりにくかったのでしょうか、1,2年生の担任をなさっていた作下先生(ここが初めての赴任先)とクラスを交替していただいた様でした。新米女性教師としては、とても不安だったに相違ありません。そんな大人の気持ちも知らずに私はてこずらせてばかりいたような気がします。本当は大好きなくせに、困らせてばかり、でも根が優しい先生は、いつも、いやな顔をなさらずに、ニコニコしていました。ある時、自宅にクラスの生徒達を招待して下さって、「さつまいも」のポテト・サラダを作ってくださいました。その時の味の感触が今でも、脳裏に焼きついています。先生に再会できることを楽しみにしています。私なりにお礼と懺悔をしたいと思っています。















自転車の思い出  自転車に乗り始めのころ、背も低く、当然、足も短かったので、サドルに座って
運転することが、できず、「三角乗り」とか「中乗り」とか言われる乗り方をしていました。
かなり疲れるにもかかわらず、一生懸命だった記憶があります。
自転車を買って、芦花部〜大熊の山道を父親がフーフー言いながら押して、運んでくれたので感謝の意味もあったのだと思います。その父も今は、この世にいません。
まだ80にも届いていなかったのに・・・・くやしくてたまりません。















養豚の思い出(芦花部)

島豚(黒豚)を各家庭で飼っていたのですが、わたしの家はそれができなかったので、同級生の岡江君の家の豚小屋で子豚を育ててもらえることとなり、わたしの父が購入金を出し、岡江家が育てて、成育したときに肉を半分にするということでした。塩漬けにした豚肉が、3〜4ヶ月ぐらいあったような気がします。野菜などいろんな物を部落の方々からいただき、私たち家族も深いお付き合いをして、3年間を過ごさせていただきました。お世話になり本当にありがとうございました・・・













陸の孤島(芦花部・有良)











芦花部と有良は大熊から険しい山道を行くか、小さな船に揺られて行く方法しかなかったので、かなりの辺境地でした。話す言葉も大熊とはかなり違った方言でした。‘芦花部英語’と言われたゆえんです。「奄美」はカトリック教会の多いところですが、ここにも、やはり、教会があり、日曜日ともなると、かなりの人達がミサに集まってきていました。青木家、仰家、森家、の方たちとの交流は鮮明に覚えています。
森家の双子の兄のただし君が亡くなられた時には深い悲しみを感じたのを覚えています。弟のたかし君とはかなりの年月お会いしていないのですが、ただし君の分まで、頑張って下さっていることと信じています。








方向音痴








小学一年生の頃だったでしょうか、旧名瀬市の父の弟(俊朗叔父さん)の家へ遊びに行った時、母と叔母(よしの)さんの話がはずんで、退屈したのでしょうか、いとこの貴俊、伸子、妹の順子、わたしの四名で遊びに出かけたようでしたが、いつの間にか三名とはぐれ、大熊とは反対の朝仁(あさに)部落へ通じる山道を歩いているところを親切な‘おじさん’に保護され、交番にいたところをこれまた偶然通りかかった、父の叔父(直方)さんに会えるということで、無事に帰り着くことができました。
山道で保護してくださった方が「どこ。いくの?」と尋ねられたときわたしは「大熊」と答えたそうです。











友人転落?

旧名瀬市の大熊に住んでいたのは5歳〜小学2年までなのですが、かつお漁船(宝勢丸、金鉱丸)の大熊港の岸壁から友達が転落したと大人に告げ部落中で大騒ぎになり海を網で総ざらいしたのですが、友達は見つからず、いろんな魚がたくさんとれたようでした。これは、もう沖に流されたのだと言っているところへ当の本人がおじいさんと畑から帰ってきたものだから、びっくりするやあきれるわで、父と母が部落中の人たちに謝って歩いたそうです。嘘をついたのか、夢を見ていたのか記憶がありません。






金魚迷惑な腕白坊主

わたしのやんちゃぶりを披露させていただきます。
「奄美」へ来たとき、お世話になったのが、直樹(なおたつ)おじさん、祖父の兄です。
 家族四名で泊まっていたので父も母もとても気を使っていた筈なのですが、、、、、、 わたし、なんと、おじさんが一番大事にしていた金魚鉢の中で水浴びをしていたそうです。それだけなら、まだなんとか、なりそうだったのですが、鉢の中で泳いでいた金魚を残らず外へ放り出して死なせたものだから、父が烈火のごとく怒ってわたしをロープで縛って天井に吊り下げたそうです。直樹おじさんはと言えばわたしを怒る筈だったのに、父の形相が凄まじかったのでしょうか、逆に冷静になり父をなだめるほうに回ったとのことでした。






いろんな方々に支えられて


そんな父と母も赴任当初の頃は貧乏でしたが、旧、名瀬市、現在の「奄美」市の大熊(だいくま)で
同じ年代の方々に支えられ、過ごしてきた記憶が、幼なかった、わたしにもあります。
特に大熊はかつお漁の盛んなところでしたので、よく、わたしの家へ“おじさん”、“おばさん”が、おすそわけしてくださったのをおぼえています。
父の転勤で芦花部(あしけぶ)、有良(ありら)、和光園、仲勝(なかがち)と住まいを
替えてきたのですが、その土地土地でいろんな方のお世話になりながら学生時代を過ごしてきました。その頃の友人や村の人たちとの記憶が‘楽しかったこと’、‘悲しかったこと’、‘悔しかったこと’、いろいろと蘇えってきます。





他人を叱る勇気 こんにちわ!奄美愛です!
人と人の繋がりを考えています
今時のネット(網)は繋がりがあっても
こぼれる事が多いのではないでしょうか
昔の方々はロープ(綱)の付き合いを
していた様なきがします

私たちが育った頃の「奄美」では隣近所の“おじさん”や“おばさん”が、他人の子供にも愛情を注ぎ、
又ある時は叱るというのがあたりまえでした。いつのまにこんな他人行儀な人達が増えたのでしょうか?
私の父と母は教員同士で知り合いゴールインしたそうですが、物心ついたときにはすでに母は教員を辞め、
父の故郷である「奄美」へ沖縄の北大東島からついて来たようです。
母はわたしと19歳と13日しか違わないので、「奄美」へは25歳になるかならないか、だったでしょう。
誰も親戚がいない処へよくぞ、来たものだとつくづく感心させられます。


 

2007年03月25日

里山関、本日優勝決定戦!

こんにちわ!奄美愛です!

いよいよ、千秋楽!
勝った方が優勝
勿論、里山関が勝つと信じています
今晩、美味しい黒糖焼酎が飲みたい

頑張れ!里山関!
浩作君、皆で応援しているよ

優勝しました!12勝3敗
皆様、ご声援有難うございます!

2007年03月24日

里山関、遂に単独トップ11勝2敗

皆様、こんにちわ!奄美愛です!

十両の里山関が単独トップの11勝を勝ち取りました
3敗と4敗が一人ずついますが、優勝を意識せずに
今日の取り組みに全力を傾けて欲しいと思います
頑張れ!里山関!
きばれ! 浩作!

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2007年03月23日

幕内が見えてきました

皆様こんにちわ!奄美愛です!

里山関(浩作君)が10勝2敗、幕内への最低ラインを
クリアしました
現段階で幕内からの陥落者は同部屋の
バルトを含め2名ですので安心はできませんが
幕内で2回もとり、しかも2回共勝利しています
番付を考える方々の印象はすこぶるいいと確信しています

残り3日、最低でも1つは上乗せして欲しい!
本音は優勝ですが、意識しないで頑張ってもらいたいです

昨晩は里山関の親戚2人(私の同級生)と軽くお祝いを
しました
浩作君から、電話が入り、2人で活を入れていたようでした

幕内で頑張る為にも、是非、勝ち星を上乗せして
簡単に十両に戻らない位置へ昇進して欲しいです

残り3日、頑張れ!


ダウンの皆様有難うございます(現在48名)
次世代ポイントサイト!PointDream









2007年03月18日

奄美島唄ライブ

こんにちわ!奄美愛です!

築地俊造さんとRIKKIの島唄ライブの案内です
4月22日(日)午後3時
労音大久保会館
R’sアートコート

詳しくはRIKKIのブログでご覧下さい

里山関7勝1敗で頑張っています

2007年03月17日

里山 6連勝

みなさん、こんにちわ、奄美愛です!

十両の里山関が6連勝しています
足のけがやおとうさんが亡くなられた
事などの不幸を乗り越え頑張っています

ダウンサポートの杜

2007年02月05日

銚子に行って来ました!

こんにちわ!奄美愛です
昨日の日曜日、銚子に行って来ました
渋谷をAM6時に出発して式場に着いたのが
9時30分、遠いですね
おかげで、体の{ちょうし}(調子)が
おかしくなりました?

銚子市長の野平さんの講演会で
奄美の民謡、特産品の紹介をして
参りました

私は特産品の販売をしました
野平後援会の皆様に手伝って
頂き、お陰様でサン奄美さんから
送って頂いた410点の品物
完売しました

これからも、奄美の特産品を
関東で紹介していきたいと思っています

http://pointdream.jp/member_regist.aspx?LinkID=521292

2006年06月27日

ダイビング(奄美愛)

    こんにちわ! 奄美愛です!


   奄美大島は、梅雨も、あがり、

   絶好のダイビング日和だそうですよ!

   うっとおしい本土の梅雨を避けて

   自然いっぱいの海を探検しませんか!


  参考サイト

 マリーンスポーツ奄美・・・言葉では言い表せない感動、その無限に広がる

              小宇宙へ私たちが、ご案内致します

 あまみこダイバー  ・・・一人でも多くの方が奄美大島を第二の古里のように
              思えるように頑張っています

 よいこダイビングリゾート・安全第一に初めての方も、お子様も優しくご指導
              致します。南国の楽園「奄美の海」を皆様へ・・・


奄美大島総合検索サイト(愛美奄)・・奄美愛
  


    

2006年06月26日

7777(奄美愛)

    こんんにちわ!  奄美愛です!


  今日は、「マングローブ茶屋」のご紹介です 

  サイト訪問していたところ、偶然にも、カウンターが

  7777になっていました

  思わず コピーしていました

  相互リンクして頂いていますので

  FAXを送りましたので、お知らせ致します

 
  「マングローブ茶屋」で、奄美の自然を体感して下さい!


参考サイト
      いも〜れ奄美大島
      奄美愛 

2006年06月22日

騙されない為の情報の共有(奄美愛)

      こんにちわ!  奄美愛です!


    悪徳商法や振込み詐欺等に引っかからない為に

    情報の共有で対応しています、私の友人の

    サイトをご紹介します!

    本人は、ものすごく、感激する人ですので

    書き込みをしていただければ、天まで、

    昇って行くと思いますよ!


   参考サイト

      ようこそマジック      奄美愛      いも〜れ奄美大島
      鹿児島徳洲会病院

2006年06月21日

命泉塩(奄美愛)

     こんにちわ!  奄美愛です!


    皆さんは、奄美大島群島の一番、南の島「与論島」をご存知ですか!



    今日は、南の島からの{贈り物}のご案内です


     参考サイト

         奄美愛株式会社IBC

         与論徳洲会病院

         名瀬徳洲会病院

         いも〜れ奄美大島

2006年06月11日

”ゆりどろ”とは?(奄美愛)

    こんにちわ!  奄美愛です!


   社長の生まれ故郷(奄美大島の瀬戸内町)の「ゆりどろ」を

   ご紹介致します。


    ”ゆりどろ”とは奄美大島の方言で

    「人々が寄り集まる場所」という意味なんですよ!

     奄美大島に来て、間もない方の体験記が、ありましたので、

     ご紹介致します。


     参考サイト・・・ゆりどろ
             奄美瀬戸内町

民宿たつや旅館(奄美愛)

   こんにちわ!   奄美愛です!


   わたしの父が、奄美大島の篠川小学校で教頭をしている頃は

   父と母は2人暮らしでしたので、「教頭会」が旧名瀬市である時は

   母も一緒に行き、「たつや旅館」に宿泊していたようでした。

   当時のご主人が、父の同級生だという事を聞いたことが、ありましたので、

   亡くなった父に替わり、「たつや旅館」のお客様の声を、ご紹介したいと

   思います。

        たつや旅館(番外編)を是非、ご覧下さい!


       参考サイト・・・あまみ便り
               
                いも〜れ奄美大島


2006年06月10日

Renaの初仕事!シーズン直前の奄美大島突入!(奄美愛)

     こんにちわ!  奄美愛です!


   女性の一人旅の記事を、見つけました。


   奄美大島サーフィンの旅を綴っています。

   人情豊な島ですので、ひとり旅も安心! 
   
   どうぞ、御覧下さい!

   詳しくは、こちらで!  http://www.j-surftrip.com/report_ama.html


   参考サイト いも〜れ奄美大島(奄美愛)

女性専用民宿(奄美愛)

  
      こんにちわ!  奄美愛です!


   今日は、奄美大島発(初?)女性専用民宿のご案内です!

   龍郷町といえば、大島紬の龍郷柄、西郷隆盛(愛カナ)が有名なところ!
 
  
   詳しくは、「あまみ便り」の「あまみリンク集」の中で御覧下さい


  紹介文・・・奄美大島の安宿1泊素泊まり1500円、女性専用のドミトリスタイルの
        民宿です。サーフィンスポット、奄美の情報も随時更新中。


       ここの素晴らしいところ、、長期滞在したい方々の為のプラン

                    30日まとめると、なんと3万円



                        奄美愛







2006年06月08日

奄美福祉専門学校(奄美愛)

   こんにちわ!  奄美愛です!


  全国の皆様、奄美福祉専門学校で学んでみませんか!

  自然を満喫できますよ!  花粉症のひどい方は特にいいですよ!
 
 
  詳しくはホームページで確認して下さいね!


          
奄美看護福祉専門学校

奄美市ホーム・ページ

         
いも〜れ奄美大島

         
子育て支援少子化ストップ

         
奄美愛株式会社IBC



2006年06月07日

奄美大島発展のアイデアお願いします(奄美愛)

  奄美大島発展のアイデアを宜しくお願い致します。

 全国の皆様! ご教示下さい!


       奄美愛


    メール:IBC@chiba.biz-web.jp

FAX:047−441−7636

2006年06月03日

無免許運転(奄美愛)

  有良の同級生は、「けんお」君、「かずと」君、「かずこ」さん「みえこ」さん
  そして私の五名でした。人数が少なかったせいか、兄弟のようでした。

  ある時、中学生の先輩が、オートバイを家から、持ち出して、得意になって、
  乗り回していました。羨ましそうに見ていたところ、その上級生が、「おまえ達にも
  練習させるから」と言ってくれました。私達は、集落の山手にある、農道で、指導?を
  受けながら練習していたのですが、なんと、バイクをひっくり返してしまい、ミラーを
  割ってしまいました。黙って、持ち出したものだから、困り果ててしまいました。
  村には、自転車屋さんも、バイク屋さんも、なく、又、今のように、あちこちに
  捨てられていると言う事は、まったく、ありませんでした。

  殴られるのを、承知で、みんなで、誤りにいきました。黙って持ち出した事に対しては
  起こっていたのですが、ミラーの件に関しては、「こんなもの、どうせ、必要ないから」と
  全然気にも、とめていないようでした。

  確かに、信号もない時代でしたので、動くだけで、よかったのでしょう。
  今でも、有良には、信号はありませんけどね。のんびりした、いい村ですよ!

2006年05月30日

子育て支援(奄美愛)

  現在、ネット愛好者の間で、盛んに、クリックされているものに、「命のクリック」が
  ありますが、大好評のようです。

  少子化対策の、一つとして、「子育て支援クリック」を、企業の皆様にお願いして、
  いだだけないでしょうか?税金主導型では、なかなか、前には、進まないような、
  気がします。

  政治家の皆様、宜しく、ご検討下さい。

               奄美愛(株式会社IBC)

2006年05月26日

アンテナ・ショップ(奄美愛)

  私が、朝日中(奄美市)に通っていた頃、現在の名瀬徳洲会病院の辺りは、「たんぼ」  
  でした。畑のある、農家が多い時代でしたので、収穫期になると、生徒達が、稲刈りを     を手伝ったりすることが、あたりまえでした。物資が少ないせいもあって、「ひもじい」    思いをしていましたので、食へのこだわりは、今の子供達とは比較にならない程、強かった   のだと思います。

  ところが、だんだんと、田畑が、少なくなり、自然の恩恵を受けた1次産業を収入源とする
  家庭が、数える程しかない現状です。離島ということで、輸送コストが高いと言う事も、
  一つの原因にあげられるのでは、ないでしょうか!

  奄美在住の友人や、他府県で活躍している、方々との話を拡げていく時期にさしかかったと   考えています。NET販売と店頭販売の良さを活用して、奄美アンテナ・ショップを、たちあ
  げることにいたしました。幸い、永年の内地生活で培ってきた、企業団体、個人の協力が
  頂ける環境にありますので、精一杯、奄美の特産物を、宣伝していきたいと、思います。

   和から輪へ、そして全国へ     奄美愛(株式会社IBC)

2006年05月25日

こども達の未来(奄美愛)

 私が、小学6年の時に、初めて、NHKの試験放送(テレビ)が、ありました。勿論、白黒で
したが、胸をわくわく、させて、その日を待っていたのを、覚えています。大相撲と高校野球でしたので、私達は、すぐに、その影響を受け、相撲は、有良の公民館の土俵(奄美では、各集落にある)で、野球は、砂浜でしていました。
今のように、選択枝の多い時代では、ありませんでしたので、テレビの影響は、計り知れなかったと、思います。子供は、まず、母親の影響を受け、父親、兄弟、祖父母、親戚、友達先生、ご近所、環境、、、と繋がっていくものでは、ないでしょうか?
経済的な支援など、いろいろ、あるとは、思いますが、回りの環境造りも大事な、ものの一つだと思います。政治の流れが、その様に向かって行くことを念じてやみません。

パソコンにばかり、向かっていると、「視野」が狭くなると、専門家の先生が、テレビでおっしゃって、いましたが、周りを気遣う「視野(心)」まで、失っていただきたくはありません。
 
    和から輪へ、そして、いろんな方々の心へ届いて下さい!

                   奄美愛(株式会社IBC)




2006年05月21日

奄美大島でアフィリエイトな生活始めませんか!(奄美愛)

  奄美に、行ってみませんか!  是非、癒しの空間を体験して下さい!           
  パソコンとの「にらめっこ」に疲れた時、奄美の自然が、皆様をリフレッシュしてくれますよ   
  花粉症の方は、特に、いいと、思いますよ!
  
  田舎に行くと、空き家が、いっぱい、あります!


  奄美の海は、きれいですよ! マングローブ知っていらっしゃいますか!

 
  「奄美の黒うさぎ」聞いた事、ございますか!

  大島紬の泥染めの風景、ご存知ですか!

  泉 重千代さんは、世界一の長寿記録を持っていたのですよ!

  どうして、長生き、されたのでしょうね!

  その答えは、皆様が、奄美でだして下さいますよう、お願い致します。

  参考サイト 「奄美瀬戸内町」 「フルーツの里あまみ」 」「あまみ便り」

                   奄美愛(株式会社IBC)

                   

   

2006年05月20日

和先生(奄美愛)

  大島高校2年5組の担任が「和」先生でした。奄美大島は一文字の姓が、非常に多い所です。 皆様は、この姓の読み方を、ご存知ないのでは?「かず」、「わ」、私も高校に入って初めて  知りました。「にぎ」と読むのですよ!平和の「和」ですから、お互いに、手を「にぎる」と  言う意味なんでしょうか?                                
 先生に、「沖縄返還が遅々として進まないのはどうしてですか?」と、お尋ねした事が、    ありました。その時の先生の答えは、思い出せないのですが、続けて、「総理大臣を、     殺したら、沖縄は、還ってきますか?」・・と                       
 なんと、馬鹿な質問をしたのでしょう!先生は一言「かわんないじゃない」と、微笑みながら  おっしゃいました。その言葉で、私は、「我に返った自分」を見つめなおすことが、出来たと  今でも考えています。その時から、回りに気遣いが、少し出来る様になったと思います。    
 生まれたのが、沖縄でしたし、母が沖縄出身でしたので、きっと、いらだちが、募って     いたのでしょうね!沖縄に行くのに「パスポート」が必要でしたから・・・          
 和先生の書かれた本をご紹介致します。                           

   「奄美ほこらしゃ」 和眞一郎(にぎ しんいちろう) 南方新社           

    
                            奄美愛(株式会社IBC)   

2006年05月19日

有良へ引越(奄美愛)

 小学6年にあがる時、私達家族は、有良(あった)に引っ越しました。学校は、芦花部にありますので、教員の殆どが、芦花部に住んでいました。そう言う事もあって、引っ越した当初は、村の人達が、次々に来られて、毎夜、宴会状態でした。荷物もまだ、整理出来ていなかったので、母はさぞ、大変だったと思います。でも、村の方々の、気さくな、笑顔を見るにつけ、有良に来て本当に良かったと、考えていたと、思います。私達、兄妹にとっては、学校までの、距離が長くなり、少し嫌な気持ちがあったのですが、月日が経つにつれ、そんな事も忘れていた様でした。山道と海岸道路とを、うまく、使い分け通学していました。陽が照っている時には、「ハブ」は恐くないので、山道(近道)を、出そうな時は、海岸道路をと、言う具合に使い分けていました。山道を行く時は、「やまいちご」や「しいのみ」を採って食べるのが、とても、嬉しかった記憶が、あります。引越しをした、理由を父と母は言わなかったのですが、酒の席で、父と芦花部の方が、言い合い、になったと言う事を聞いていたので、その事が原因の一つだと、私は考えています。その際に、守先生が、間に入ってくれなかったら、大変な事になったかも、しれないと、思っています。   守先生、お世話に、なりました!    奄美愛(株式会社IBC)

「やいと」の効果(奄美愛)

小学校のころ、私の、膝小僧には、たくさん、「いぼ」が、ありました。痛くは、なかったのですが、半ズボンをつけると、みっともない、ということで、母が、毎日、少しづつ、やいと(お灸)をしてくれました。かなりの高温ですので、とても痛かったのですが、「必ず、いぼ、が取れる」からと、母が、自信満々にいうので、我慢して、続けました。どのぐらい、月日が経った頃か、記憶が曖昧なのですが、見事になくなりました。しばらくは、焼いた跡が残って、黒ずんでいたのですが、今では、遠目には、判らない程、きれいに、なっています。なんで、「いぼ」が、あんなに、沢山できたのか、今でも不思議です。上級生に聞くと、「蛙にしょんべん、を、ひっかけられる、と、いぼ、ができる」と、まことしやか、に言っていたのを、思い出します。良き時代だったのですね。母に感謝!                株式会社IBC(奄美愛)

2006年05月15日

沢先生(奄美愛)

 小学5、6年の担任は、沢先生でした。とても、生真面目な方だった、と思います。私は、いたずらが多い子供でしたので、いつも、叱られてばかりでした。学校の成績は、まあまあ、だったと、思いますが、本当の意味での勉強じゃなく、父や母に褒められることと、テストでいい点を取る為に勉強を、していた気がします。沢先生は、そういう私を見抜いておられたのだと、思います。当時は、判らなかったのですが、大島高校に入学してから、勉強の意味が少し判って来た様な気がします。「井の中の蛙」だったのですね!先生の奥様がとても、きれいな方で、母とも、年齢が近く、親しくさせて頂きました。3、4年前奄美に、久し振りに帰った時、朝仁(奄美市)のお宅を訪ねたのですが、運悪く、お留守でした。名刺をドアに、はさんで、来たところ、私の携帯電話に奥様から、連絡が入りました。相変わらずの、美声で、先生の体調がおもわしくないので、名瀬徳洲会病院に行っていたとのことでした。後日、お伺いいたします、と返事をしたのですが、仕事が急に忙しくなり、まだ、お会いしていません。今度、行く時には、お訪ねしたいと、思っています。           

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2006年05月14日

守家(奄美愛)

 守先生のお宅とは、深い、お付き合いを、させて頂きました。私が小学4年の時、先生の長女の「よっちゃん」が、3年生、妹の順子が、1年生、守家の長男の「たかひと君」が、順子の1つ下その下に、「ゆきちゃん」がいて、5人家族でした。お互いの家を行き来しては、遊んでいました。芦花部校には、幼稚園が、なかったので、たかひと君は、1つ上の1年生と勉強をしていました。利発で活発な子でしたので、1つ下なのに、すぐに、頭角を現わし、「けんか」も勉強も1番になっていました。「よっちゃん」は私にとって、特別な存在でした。好きなくせに、いつも、いじわる、ばかり、していた様な気がします。私たち家族は、父の転勤で「和光園」に引越したので、中学1年から、朝日中(名瀬徳洲会病院の隣)に通い始めました。「よっちゃん」との別れを一番寂しく思っていたと思います。その、よっちゃんが中学2年の時、朝日中に転校して来ました。飛び上がるほど、嬉しく思ったのですが、よっちゃんは、私の手の届かない美少女に変身していて、声をかけるのが、気軽にはできない自分がいました。「初恋」だったのでしょうか!よっちゃんが「亡くなった」と聞かされた時は、目の前が真っ暗になりました。今でも時々思い出します。天国のよっちゃん!父に会いに行ってね!   スーパーバイオ21

2006年05月13日

大島紬(奄美愛)

 芦花部の経済を支える、重要なもの、の一つは、「はた織り」でした。大島紬の工程は、いろいろ、あるのですが、特に、女性の仕事として、又、収入源として、織り賃が、家族の生活を支える大部分だったと、思います。同級生の「ひろかず君」の家が、紬の機織り工場を持っていたので、よく遊びに行っていました。お兄さんの「とよ兄」が、とても、おもしろい方だったので、話を聞くのが、楽しみだったのだと、思います。又、ひろかず君と一緒に、宿題をしていると、ひろかず君のお母さん(大親友の隆三郎君のおばあちゃん)が、いろんな、食べ物を出して下さいましたので、それが、とても嬉しくて、しょっちゅう、お邪魔していた様な気がします。結構、「ちゃっかりもん」だったんですね!私の母も、機織り、を習って、少しずつではありますが、頑張っていた様でした。母のスピードでは、せいぜい、半年に一反織るのが限度でしたが、慣れるにつれて、織り上げる期間が短くなっていった様でした。元来、負けん気の強い母でしたので、父も体の事を、かなり、心配していた様でした。でも、私達、兄妹にとっては、織り賃を母が「親方」から、頂くのを、首を長くして待っていました。何故なら、その日は、「ごちそう」が出たからです。母の体を心配するより、「ごちそう」が、頭に浮かんでいたとは!  恥ずかしい!
                          スーパーバイオ21

2006年05月12日

農業(奄美愛)

 芦花部の生活を支えるものとして、農業、漁業、大島紬、等がありました。集落と海との間に水田がありましたが、自給できる程度のものだったと思います。当時は耕運機などの便利なものは、ありませんでしたので、手作業が主でした。馬に鋤を引かせて、ウ(右)、サ(左)と言いながら、作業をしていたのを思い出します。稲を植える時も、一列にならんで、腰を屈めながら、植えていた記憶があります。お互いの家庭の田んぼをユイワーク(共同作業)でこなしていました。労働対価として、現金のやりとりは、少ない時代でしたので、当日の持ち主が昼食と10時やお昼3時の飲食を準備するというのが、慣わしでした。子供たちは、学校が休みの日に、大人たちが、休憩しているところへ行き、飲み物や食べ物を貰うのを、楽しみにしていました。手伝うといっても、大したことはできないのですが、仕事に参加できる喜びを感じていました。上級生は殆どの人たちが、一人前の扱いを受けていましたので、私は、羨ましく思っていました。 あの頃の生活に戻ってみたい、、、、スーパーバイオ21


2006年05月11日

盲腸(奄美愛)

 小学校5年生の時、おなか、が急に痛くなり母親に涙目で訴えていました。医者のいない村ですし、名瀬に行くのには、遠いので、すぐ、診察を受けると言う事は、不可能でした。母が盲腸を切った経験がなかったら、どうなっていたか、判らなかったと思います。すぐに、父におぶられたり、しながら山道を「大熊」迄行き、名瀬港近くにあった、吉川外科病院で、診察をして、頂きました。「急性の虫垂炎」でした。すぐに、手術をして、切り取ってもらいました。手術は順調に終わり、病室に移動してきたのですが、両親に「おなかがすいた」といったら、こまった表情をするので、不思議に思っていると、看護婦さんが、来られて、優しく、食べれない理由を説明してくださったので、しぶしぶ、納得しました。当日の病院の夕食は、良い臭いが漂ってきた、私の好物の「ライス・カレー」でした。入院していた方々が、口々に「我慢強い子だね!」とおっしゃって下さいましたが、心地よい反面、不思議でした。全然痛くもなかったのです。七転八倒する患者さんも、いらっしゃる、と言う事を聞いて、「そういう事だったのか」と子供心に思った気がします。両親の判断が、もし、1日遅れていたら、どうなっていたか、わかりません。 そんな、気がします。                            スーパーバイオ21

2006年05月10日

船長の死(奄美愛)

 芦花部と有良は、いわゆる、陸の孤島でしたので、食品の買出しは、小さな定期船が、その役目を果たしていました。名瀬〜大熊〜有良〜芦花部の航路だったと思います。(間違っていたら、ゴメンナサイ!)その為、台風の影響や、発達した、低気圧の影響を、もろに、受けていました。海が、時化て、船が出せない日が続いたとき、船長は、責任を感じていたのでしょう。名瀬から、いっぱい、食料などを積んで戻る途中、有良沖で、船から、放り出されたそうです。乗り合わせていた、村の人達が、助ける間もなく、帰らぬ人となりました。泳ぎの達者な方だったのですが、長靴をはいていたらしく、大波の中で、思うように動けなかったのでは、と思います。責任を果たした安堵感から、緊張の糸が、切れていたのかも、しれません。捜索の甲斐もなく、戻らぬ人となりました。訃報を聞きつけて、村中の人達が悲しみ、「申し訳ない」と口々に言っていたのを思い出します。車の通れる道があったら、こんな事はなかったのに、と、私は、つぶやいていました。 天国の父と仲良くして下さい!                 スーパーバイオ21

2006年05月09日

家庭崩壊?(奄美愛)

 父は、かなり、短気でしたので、「恐い」イメージが、大きくなるまで、私の脳裏から、抜けきらなかった様な気がします。ある夕食時、カレーライスを2日続けて母が、出したのですが、学校で嫌な事でもあって、ストレスが、かなり、たまっていたのでしょうか、お膳ごと、ひっくり返して、とごら(炊事場兼食堂)から、おもて(寝室及び居間)にひっこんでしまいました。母としては、冷蔵庫のない時代でしたので、もったいない、と言う気持ちで2日続けたのでしょうが、よっぽど、くやしかったのでしょう、「にいちゃん(両親は私をこう呼んでいました)沖縄に帰ろうか!」と泣きながら私に言いました。私も即座に「うん」と言っていました。ところが、父も冷静になってみると、全面的に自分に非があると考えたのでしょう、母に謝ったようで、翌朝は普通の生活に戻っていた様でした。短気だけど、正直な父と、社交家で、明るい性格の母でしたので、何とか離婚の危機を乗り超えられたのだと、思っています。 両親に深く感謝!                スーパーバイオ21

2006年05月08日

思いやり(奄美愛)

 父は、当時、かなり痩せていて50Kに満たない体重でした。いかにも神経質そうな顔をしていたと、思います。食べ物の好き嫌いが激しく緑の野菜は大丈夫なのですが、人参など、癖のある野菜は食べなかったようです。私達、兄妹は、その事に全然、気がつきませんでした。たぶん、母があらかじめ、嫌いな物は父の皿には、もらなかったのだと、思います。教員をしていたのですから、当然、給食に嫌いな物も出る筈なので、「嫌いな物は残していたの?」と、私が成人してから、尋ねたとき、父は照れくさそうに、「教える立場の人間が。残す訳にはいかないから、生徒に気づかれないように、かあちゃんが用意してくれた、容器に最初から取り分け、家に持ち帰っていたんだよ」と言っていたのを、思い出します。母の父への気遣い、父の生徒に対する思いやりを感じたときでした。そんな両親も順風満帆とはいかなかったのです。その事は後日、書きたいと思います。                          スーパーバイオ21

2006年05月07日

修学旅行(奄美愛)

 芦花部校は人数が少なかったので、修学旅行は小学5年から中学3年の生徒達全員で喜界島に行きました。中にはいろいろな事情で行けなかった子供もいたのですが、今だったら、笠利空港まで、バスで行き、喜界島へは飛行機で簡単に渡れるのですが、当時は旧名瀬市へ行くのも大変でした。名瀬港から船で喜界目指して出発したまではいいのですが、海が時化ていたので、殆どの生徒と先生までが、船酔いしてしまいました。あちらこちらで、ビニール袋に戻しているものだから、臭いが船室中に広がり、普段、船酔いしない人達までが、ぐったりしていたような気がします。先生や先輩が献身的に面倒を見ている姿に深い感謝の念を抱きました。自分たちも気持ちが悪かったと思いますが、それ以上にぐったりしている人達を見過ごす事が出来なかったのだと思います。この修学旅行で学んだことは人と人の「繋がり」の大切さ、だったと思います。人と言う字の「支えあう」を「和」に発展させ、そして「輪」に繋げていく私の考えの基礎を作ったのではないかと思います。                       スーパーバイオ21

2006年05月06日

落下傘(奄美愛)

 芦花部の学校は村里離れたところにあり、途中に橋が架かっていました。そんなに大きなものではないのですが、川底まで2辰阿蕕い蓮△△辰燭任靴腓Δ、小さい頃でしたので、飛び降りるには充分、恐怖感があった様な気がします。そんな時に誰かが、傘を持って飛び降りたものだから、みんなが、まねをして、家からいろんな傘を持ち出し遊ぶようになりました。何回も飛び降りると「傘のほね」が折れたり曲がったりするものだから、親に叱られ、叩かれる子供たちもいました。物資が少なく、なかなか手に入らない時代でしたので、親として、当然の成り行きだったに相違ありません。それでも、懲りずに、壊れた傘に本物の落下傘に使用していた「ぬの」を貼り付けて飛び降りる上級生が出てきました。それが、うまく、いったものだから、最初は借りて遊んでいたのですが、飽きてきたのでしょうか、その「遊び」をいつの間にか、しなくなりました。失敗していた時の方が良かったのでしょうか?       スーパーバイオ21

2006年05月05日

五右衛門風呂(奄美愛)

 当時、芦花部では殆どが「ごえもん風呂」でした。それも、各家庭に備わっているわけではなく、共同風呂が主流でした。それも、家の中にあるのではなく、外にあるのが普通で特に女の人たちは入浴の時間に気を使っていたのではないでしょうか。あたりが暗くなるのを待って風呂に入っていた様な感じでした。いつの世にも「のぞき」はいたんですね。奄美では夏は日が暮れるのが遅く夕方8時にならないと暗くはなりませんので、大変だったと思います。そのせいかは、判りませんけど、父の同僚の守先生のお宅ではドラム缶を切り抜いて風呂を作られていました。先生の手作りでした。完成した時に私も「ドラム缶風呂」を体験したのですが、やけどをするのではないかと、恐かったのですが、子供のなかでは、私が一番上でしたので、そろそろと「金属」の部分を触らないようにして入りました。お湯の底には板が敷いてあったので大丈夫でした。「熱い」と思った金属部分も平気でした。水のすごさを感じた時でした。  スーパーバイオ21

2006年05月04日

台風(奄美愛)

 私達、親子四人が、芦花部で住んでいたのは、今の割烹料理の店「味銀」の店主「きょうあつ」君のおじいさんの家でした。集落の中央に位置していて「とのち」と呼ばれていました。他に「うぶれ」、「しゃぶれ」という所があり、小さな村の中でいろんな、呼び方をする所が、ありましたが、記憶が曖昧なので、書かないことにします。後日、友人(孝光君)に尋ねてからにしたいと思います。その頃、奄美大島を大型で強い台風が猛威を振るいました。住んでいた家は「かやぶき」でした。「おもて」と呼ばれる寝室兼居間と「とごら」と言う炊事場兼食堂とが渡り廊下で繋がっていると言う風流なものでしたが、台風が吹き荒れている最中に雨漏りがし始めました。父は危険を承知で、「学校へ避難しよう!」と母の同意を得ていました。父が先頭に私が二番目、妹、母の順番で身を屈めながら歩いて行きました。学校も枝がガラス窓を突き破って危険な状態でしたが、なんとか、朝方には風も弱まってきたので、父に「もう、大丈夫?」と尋ねたら、「吹き返し」があるから、「もう少し辛抱しよう」といわれ、初めて、自然の怖さを体験した様な気がしました。昼時には台風一過となりましたが、なんと、炊事場の天井から、太陽が見えるではありませんか、「かや」が吹き飛び家の中はびしょびしょでした。父の判断が正しかったのだと思います。                スーパーバイオ21

2006年05月03日

かずのり兄(奄美愛)

 私達の先頭にたって、いろんな事を教えてくれたのが、かずのり兄でした。凧揚げというものは、買った凧を使う事があたりまえの私の考えを根底からくつがえす衝撃的な出来事でした。竹を切ってきて、それを割いて凧を作っていったのです。結ぶヒモも、魚釣りに利用する丈夫なもので、長さも、ゆうに100mを超えていたと思います。しかも、凧は市販されている物の10倍はあったでしょうか、出来上がった凧を運んで行ったのがなんと山の中腹でした。そこから、集落の上空へ飛ばしたのです。どんどん、凧が遠くへいくにつれて、すごい力がヒモに伝わってきます。みんなで、必死に支えていたのを覚えています。かずのり兄の統率力の賜物だったに違いありません。みんなで成し遂げた満足感が私達の脳裏に刻まれた瞬間でした。スーパーバイオ21

2006年05月02日

鞍馬天狗(奄美愛)

 テレビ放送が、まだ奄美には来ていない時代でしたので、楽しみと言えば、たまに映画を上映してくれる事でした。公民館の前の広場で観覧出来るように、設置してくれて、芦花部の人達の殆どが観に来ていた様な気がします。その頃の映画は、東映が配給した時代劇が主流でした。悪人に、殺されそうになると、なぜか、鞍馬天狗が馬に跨って、さっそうとやって来る。観ている人達(特に子供)がそのシーンになると手を叩き声を出して、一気にボルテージがあがり、皆の心がひとつになれた様な気がします。映画が終わるとさっそく、私たちは「鞍馬天狗ごっこ」をするのですが、殆どの子供が鞍馬天狗になりたがるので、鞍馬てんぐ同志で斬りあうという、不思議な現象が起きたものでした。               スーパーバイオ21

2006年05月01日

ラジオ体操(奄美愛)

 学校が、春休み・夏休み・冬休み、になると芦花部の生徒達は中学の上級生が中心になって、NHKの6:30のラジオ体操に間に合わせる為に、集落の中を声を掛け合って走るのが慣わしでした。だんだんと輪が広がり全員が揃うと学校の校庭へみんなで行き、体操をするのを休みの間毎日続けていた様な気がします。冬休みの時などは、朝の6:00と言えば、真っ暗です。上級生が率先してやらなかったら、たぶん、皆が集まると言う事はなかったと思います。それだけ上級生が下級生に対して親とは違う威圧感を持ち合わせていたのだと思います。遊びなどは、上級生に教えてもらい、日々を過ごしていたので、仲間はずれがとても、怖かったのだと思います。怖いだけでなく、いろんな事を教えてくれたので、信頼感や親近感があり、まるで、ひとつの家族の様だったと思います。かずのり兄、会いたいです!          スーパーバイオ21

2006年04月30日

芦花部海岸の思い出

 芦花部の海岸は、集落と1キロぐらい離れていますが、潮干狩りや泳ぎによく行っていました。がしち(うに)は特に美味しかったと思います。海に潜っては、少しずつ、砂浜へ運び、小石で割っては指ですくって食べていました。適当な天然の塩味が効いて高級なレストランで食べるのとは、一味違った「おいしさ」があった様な気がします。あの頃は海亀が産卵によく来ていて、砂浜の陸に近いところへ卵を産んでいました。大人たちが掘り起こし、貴重な栄養補給源でした。現在、海亀の個体数が激減しているとのこと、わたしも恩恵を受けて成長しましたので、今度は環境に留意して、大恩を返さねばと思っています。 奄美愛。       スーパーバイオ21

2006年04月29日

芦花部小中学校校歌

「白河の泉湧き出る里の朝日輝く緑の丘に映える姿に生気みなぎる若き命のはぐくむところ、ああ!元気な子らの芦花部校」当時の森田校長が歌詞を書き上げ私の父が作曲を担当した芦花部小中校歌です。歌詞の漢字が少し曖昧なのですが、いまでも時々口ずさんでいます。にわとりを追いかけていた時、倒れられ、そのまま帰らぬ人となった校長のことを思い出すとき父と母が深く悲しみ、落ち込んでいたのが蘇えってきます。白河(しろご)で当時飛び込みをしたりして泳いでいました。今でも泳げるのでしょうか?同級生のたかみつ君とひろかず君に今度訪ねる時聞いて見たいと思っています。                 スーパーバイオ21

2006年04月28日

作下先生

芦花部小中学校は複式学級制を敷いていましたので、私は、3,4年生のクラスになったのですが、最初は父が担任で、ぎこちない思いをしていた様な気がします。さすがに父も、やりぬくかったのでしょうか、1,2年生の担任をなさっていた作下先生(ここが初めての赴任先)とクラスを交替していただいた様でした。新米女性教師としては、とても不安だったに相違ありません。そんな大人の気持ちも知らずに私はてこずらせてばかりいたような気がします。本当は大好きなくせに、困らせてばかり、でも根が優しい先生は、いつも、いやな顔をなさらずに、ニコニコしていました。ある時、自宅にクラスの生徒達を招待して下さって、「さつまいも」のポテト・サラダを作ってくださいました。その時の味の感触が今でも、脳裏に焼きついています。先生に再会できることを楽しみにしています。私なりにお礼と懺悔をしたいと思っています。

つづく                     スーパーバイオ21

2006年04月27日

自転車の思い出

 自転車に乗り始めのころ、背も低く、当然、足も短かったので、サドルに座って
運転することが、できず、「三角乗り」とか「中乗り」とか言われる乗り方をしてい
ました。かなり疲れるにもかかわらず、一生懸命だった記憶があります。自転車を
買って、芦花部〜大熊の山道を父親がフーフー言いながら押して、運んでくれたので感謝の意味もあったのだと思います。その父も今は、この世にいません。
まだ80にも届いていなかったのに・・・・くやしくてたまりません。
        スーパーバイオ21

2006年04月25日

いも〜れ奄美

いも〜れ奄美
 私たちが育った頃の「奄美」では隣近所の“おじさん”や“おばさん”が、他人の子供にも愛情を注ぎ、又ある時は叱るというのがあたりまえでした。いつのまにこんな他人行儀な人達が増えたのでしょうか?
私の父と母は教員同士で知り合いゴールインしたそうですが、物心ついたときにはすでに母は教員を辞め、父の故郷である「奄美」へ沖縄の北大東島からついて来たようです。
母はわたしと19歳と13日しか違わないので、「奄美」へは25歳になるかならないか、だったでしょう。誰も親戚がいない処へよくぞ、来たものだとつくづく感心させられます。
そんな父と母も赴任当初の頃は貧乏でしたが、旧、名瀬市、現在の「奄美」市の大熊(だいくま)で
同じ年代の方々に支えられ、過ごしてきた記憶が、幼なかった、わたしにもあります。
特に大熊はかつお漁の盛んなところでしたので、よく、わたしの家へ“おじさん”、“おばさん”が、おすそわけしてくださったのをおぼえています。
父の転勤で芦花部(あしけぶ)、有良(ありら)、和光園、仲勝(なかがち)と住まいを
替えてきたのですが、その土地土地でいろんな方のお世話になりながら学生時代を過ごしてきました。その頃の友人や村の人たちとの記憶が‘楽しかったこと’、‘悲しかったこと’、‘悔しかったこと’、いろいろと蘇えってきます。
わたしのやんちゃぶりを披露させていただきます。 スーパーバイオ21

「奄美」へ来たとき、お世話になったのが、直樹(なおたつ)おじさん、祖父の兄です。
 家族四名で泊まっていたので父も母もとても気を使っていた筈なのですが、、、、、、 わたし、なんと、おじさんが一番大事にしていた金魚鉢の中で水浴びをしていたそうです。それだけなら、まだなんとか、なりそうだったのですが、鉢の中で泳いでいた金魚を残らず外へ放り出して死なせたものだから、父が烈火のごとく怒ってわたしをロープで縛って天井に吊り下げたそうです。直樹おじさんはと言えばわたしを怒る筈だったのに、父の形相が凄まじかったのでしょうか、逆に冷静になり父をなだめるほうに回ったとのことでした。
旧名瀬市の大熊に住んでいたのは5歳〜小学2年までなのですが、かつお漁船(宝勢丸、金鉱丸)の大熊港の岸壁から友達が転落したと大人に告げ部落中で大騒ぎになり海を網で総ざらいしたのですが、友達は見つからず、いろんな魚がたくさんとれたようでした。これは、もう沖に流されたのだと言っているところへ当の本人がおじいさんと畑から帰ってきたものだから、びっくりするやあきれるわで、父と母が部落中の人たちに謝って歩いたそうです。嘘をついたのか、夢を見ていたのか記憶がありません。

小学一年生の頃だったでしょうか、旧名瀬市の父の弟(俊朗叔父さん)の家へ遊びに行った時、母と叔母(よしの)さんの話がはずんで、退屈したのでしょうか、いとこの貴俊、伸子、妹の順子、わたしの四名で遊びに出かけたようでしたが、いつの間にか三名とはぐれ、大熊とは反対の朝仁(あさに)部落へ通じる山道を歩いているところを親切な‘おじさん’に保護され、交番にいたところをこれまた偶然通りかかった、父の叔父(直方)さんに会えるということで、無事に帰り着くことができました。
山道で保護してくださった方が「どこ。いくの?」と尋ねられたときわたしは「大熊」と答えたそうです。


芦花部時代(小学3年〜小学5年)

芦花部と有良は大熊から険しい山道を行くか、小さな船に揺られて行く方法しかなかったので、かなりの辺境地でした。話す言葉も大熊とはかなり違った方言でした。‘芦花部英語’と言われたゆえんです。「奄美」はカトリック教会の多いところですが、ここにも、やはり、教会があり、日曜日ともなると、かなりの人達がミサに集まってきていました。青木家、仰家、森家、の方たちとの交流は鮮明に覚えています。
森家の双子の兄のただし君が亡くなられた時には深い悲しみを感じたのを覚えています。弟のたかし君とはかなりの年月お会いしていないのですが、ただし君の分まで、頑張って下さっていることと信じています。

養豚の思い出

島豚(黒豚)を各家庭で飼っていたのですが、わたしの家はそれができなかったので、同級生の岡江君の家の豚小屋で子豚を育ててもらえることとなり、わたしの父が購入金を出し、岡江家が育てて、成育したときに肉を半分にするということでした。塩漬けにした豚肉が、3〜4ヶ月ぐらいあったような気がします。野菜などいろんな物を部落の方々からいただき、私たち家族も深いお付き合いをして、3年間を過ごさせていただきました。お世話になり本当にありがとうございました・・・
続く・・・                スーパーバイオ21

こちらは奄美応援サイトです!奄美愛 (株)IBC


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