雑記

雑記

当時の母の実家は大変な状態だった。
後で分かった事だが仏壇の後ろから祖母が払った借金の証書が多数出てきた。戦前と違い戦後は働き手もなく子供を養いうだけで大変で借金まみれだったようだ。

 オヤジは教員と働きながら母の店の手伝いも帰ってきたり夏や冬の休暇の時に手伝っていた。当時は北に3時間程行けばスキー場が多数あり、そこにお酒やビールを卸に行くのはオヤジの仕事だった。もちろん販路を開拓したのはオヤジの成果だった。
 オヤジは家を立て直すために身を粉にして働いた。養子という肩身の狭い状況で周囲に認めてもらいたいという思いも強かったのだろう。自分が小さい頃は余りにオヤジが居ない為に、たまに家にいるオヤジをどこか他所の伯父さんと思っていたらしい。自分が小さい時にトラックにビールケースや日本酒の10本箱を一杯に積んでスキー場に行き、夜寝静まった頃に帰ってくるオヤジの姿を見て子供ながらに尊敬し頼もしく思っていた。オヤジは力があったので大ビールを2ケース一度に運んでいた。1ケース運ぶのでも重いが、オヤジの体の鍛え方は小さい頃からの山歩きの為かちょっと今の人とは違う。

 オヤジは子煩悩でもあったため小さい頃にスキー場まで時々連れて行ってもらい、そこでアイスクリームなどの御馳走してもらった事を覚えている。

 母が酒屋を始めた時は家の玄関という狭い空間を利用して始めたが、オヤジの頑張りもあり隣の駐車場にしていた空き地に2階建ての店とその後ろに酒を置く倉庫を作るまでになった。当時は酒屋も免許制のため酒屋でしかアルコール類は手に入らないためお中元やお歳暮の時期は特に搔き入れ時だった。自分が中学生の頃には夏休みや冬休みにはお酒やアルコールを軽トラックに積んで配達の手伝いをすることは決まりになっていた。
 

 
 


オヤジはその後自分の母親と見合いで再婚し婿養子として入籍した。35歳頃のことだった。
母の実家は兵庫県の旧家で、戦前はその地域では成功していた家で通っていた。初代の祖父が醤油を作ることで成功し、その地域の山を多数所有していた。2代目に当たる母の父も村長をする程の人物であったが、戦争で2度に渡り招集され満州で終戦を迎えた。その後ソ連軍にシベリアに抑留されモスクワの南100kmにあるモルシャンスクという寒村で強制労働の末、亡くなっている。
 祖父は部隊長を務め、別名が「人情部隊」と言われる程情に厚い人であった。近所の人でも祖父と同じ部隊に所属し戦後抑留から帰還した人がおり、祖父の事を懐かしんで話してくれる人がいた。

 祖父がいなくなり、家を支える人間はいなくなった。醤油を作るノウハウを持った人間も居なくなり、GHQの農地改革で田畑も半分は小作農に取られる事となった。残されたのは祖母と母の兄弟7人だった。
 だが祖母には生活能力はなく、煽てられればホイホイとお金をあげたり、人に意地悪をするような人物であった。母の兄弟には長男がいたが、その人は優秀で龍野高校まで入学したのだが体が弱く若くして亡くなっている。残されたのは5人の姉妹と末っ子の男だった。今の私からみれば伯父さんに当たる人物は若干発達遅滞があったのか知能が低く酒癖も悪く暴力的な人間だった。スナックに付けでお酒をのんでは母に払わせることを一生してきた。オヤジもこの伯父さんの尻拭いをよくさせられていた。一度などはスナックから連れ帰ってほしいという電話があり、オヤジが泥酔した伯父さんを連れ出そうとしたら、伯父さんがビールの空き瓶を割って振り回しオヤジに襲いかかってきた。オヤジが脚をすくって叔父さんを転ばせて上に乗りかかり、観念したか?と脅したこともあったそうだ。以後はオヤジには暴力は振るわなかったようだ。
 母の姉妹は全員が気ままで自分勝手な人が多く、皆先を争うように結婚して家から出て行った。母は家業の醤油作りから酒類販売に変えて、当時はまだ車も手に入らないためリアカーを女手で引きながら近所にお酒を売って糊口をしのいだ。
 母が30歳も過ぎて、もう結婚もできないかなと諦めていた時にオヤジとの見合い話しがあり結婚することになった。

 オヤジには病弱な母親が居たが、その世話も結局全部している。
父親には世話をするだけの甲斐性は無く、兄は大学卒業後に兵庫県庁に勤めたが自分の事だけしか考えていない人間だった。
 母親が結核になり入院させなければならないが医療費が工面できない状態になった。オヤジは一計を案じ、父親と母親を形式上離婚させて母親をオヤジの扶養家族にした。そうすることで教職員組合の保険が使えるため医療費を賄うことができた。
 親への最大の親孝行として兵庫県では当時一番良かった近畿中央病院に母親を入院させた。もう母親の状態が良くならないことは誰が見ても明かだが、精一杯のオヤジの気持ちだった。
 阪急電車に乗って見舞いに行き、その帰りに電車の車窓から夕暮れの六甲の家々の明かりを見ながら涙がでたそうだ。もう助からない母親への思い、自分の人生がどうしようもなく惨めでどんなに足掻いても抜け出せないこと、自分勝手な親兄弟への思いなど色々な思いが心に去来したのだろう。
 
 その後オヤジに再婚の話しが舞い込んだが、その話しは弟に譲っている。相手は東京の女性で条件も良かったのだが、自分が行けば弟が貧乏くじを引き大変なことになることが分かっていたため自分を犠牲にして弟に譲ったようだ。
 弟さんは其の女性と結婚し、その後札幌に転居して幸せに暮らしている。

 
 

 
 

オヤジには一度離婚歴がある。自分の母と結婚する前のことだ。

どういった経緯かはしらないが、恐らく養子として入ったらしい。そこで子供を1人もうけている。結婚生活については余り語らなかったが、お嫁さんの両親と上手くいかなかったようだ。虐め抜かれたと表現している。オヤジが我慢の限界となり離婚を突きつけて離婚が成立した。相手の両親は驚いて離婚を思いとどまるように言ったようだが、オヤジは「お前らが俺にした事をやり返してやる」と言った為に先方は驚愕し離婚となった。夜に家を出る時に子供の寝顔を見ながらもう二度と会う事はないと思い心の中でお別れを言ったらしい。オヤジは親権を放棄し独り身となっている。


その後、その子供と本当に接触があったのかどうかは不明だ。ひょっとしたら一度くらい訪ねてきたかもしれないがオヤジの口からはそういった話しはなかった。




オヤジは小学校の教員として社会人生活をスタートさせた。
主に兵庫県の山間部の学校を数年毎に回っていったようだ。
当初は普通の児童のクラスを受け持っていたが、数年で障害児学級の専門となった。オヤジ曰く、障害児の方が進歩が見えて面白いとの事だったが、恐らくオヤジの性格と普通クラスの児童の親と衝突があったのではと推測する。
オヤジの様に勉強がしたくても出来なかった者からしたら授業に出てる遊ぶ様な児童の気持ちは理解出来ず、厳しく当たったのではないかと考える。

そしてオヤジは教員という職業自体を軽蔑していた。
教員の世界でもヒエラルキーがあり、兵庫県なら神戸大学教育学部卒がトップになる。
オヤジの様に1年しか勉強していない者は底辺のため軽く扱われていた様だ。
教員間でも衝突は色々あったようだ。

45歳頃に兵庫県の教育視察に応募し、簡単な小論文で合格して10日間程アメリカのテキサスやアーカンソーの小学校視察旅行に行った。
初めての海外旅行でホストファミリーにも歓待されて嬉しそうだった。
アメリカでも裕福な家庭の子供が通う学校とそうでない所ではやはり違うとの事だった。
そして日本では失われた家族の絆がアメリカではまだあると感激していた。

その他にオヤジは平ではあったが日頃の勉強などが認められてボーナスは校長よりも多いと自慢していた事がある。

教育生活での楽しかった思い出かもしれない。

オヤジはその後高校に行った。
その地域では普通科の龍野高校が一番優秀で毎年東大にも数は少ないが何人か合格していた。
しかしオヤジが進学に許可されたのは龍野工業高校だった。
最初から教科書が違う。
オヤジの父親にしたら農家の次男には必要ないという判断だったらしい。

オヤジの兄は優遇されていたらしく、その後大学にも進学している。しかし成績はもう一つだった。それに自分勝手な人だったので仲も悪かったようだ。

一度オヤジが父親に聞いたらしい。「なんで兄貴ばっかり優遇するんや?俺も勉強したい」
父親の返事は、「忘れとった。」という情けないものだった。
父親が子供の能力を見極める事を最初から放棄していた事が、オヤジの悲劇だったのだろう。

オヤジは工業高校でも成績は優秀だったようだ。
クラスの同級生から点取り虫と冷やかされた事があるようだが、本気で激怒したらしい。

高校3年が終わり進学を決める段階になったがお金のないオヤジには進学先はなかった。
担任にお前の成績やったら何処でもいけるけどどうするんや?と聞かれたようだ。
「タダで行ける何処があれば行くけどなぁ」というオヤジの返事に担任が教えてくれたのが豊岡の教員養成所だった。
当時は戦後の人出不足の為か1年で教員になれる官立の学校があったようだ。
オヤジは其処に1年行き、教員として働く事になる。


オヤジは兵庫県の山間にある貧しい小作農の生まれだった。兄弟は4人で兄、姉が1人、弟が1人、それに父親と病気がちな母親が居た。

 母親は優しかったらしいが結核と喘息持ちで仕事はなかなかできなかったらしい。
だからオヤジも子供ながら農家の大切な働き手の1人だった。学校に行く前に働いて、学校が終われば一目散に帰って山の手伝いや畑の手伝いをしたらしい。
 夏なんかは近くの川に橋の上から飛び込んで遊んだりしたらしい。

 オヤジは家族思いで病気がちの母親の薬を近くの医院にもらいにいったりしたらしい。だが小作農でお金も無い家のため、お金が払えない時にそこの先生が、お金はできた時でいいよと言ってくれて泣きながら帰ってきたらしい。
 
 オヤジはとても勉強ができた。だがいつも学校の成績は2番だった。授業の内容は授業を聞くその時間内に必死で覚えて山の手伝いをしながら暗唱をしていた。でも1番にはなれなかったらしい。1番は村のお金持ちの息子で、時間さえあれば勝てたと悔しがっていた。多分医者の息子だったのだろう。
 だから自分や弟が勉強をさせてもらえる環境がとても有り難い事を何度も言い聞かせていた。まるで天皇陛下やぞと。
 今考えれば、どう考えても違うし天皇陛下に失礼だと思うけど。

 とにかくオヤジは能力があるが貧乏なために勉強が出来る環境になかった事を終生恨んでいたように思う。
 医者への憧れもこの頃からあったのだと思う。

オヤジは10年前からアルツハイマーになり痴呆が徐々に進行した。

母の世話が効いたのか、それでも進行はとても緩やかで昨年末まで自宅で過ごす事が出来た。
子供の名前もわからなくなったのは1年前で、その時は流石に泣いた。
あんなに一所懸命に子供を塾に行かせたり、医学部に合格したら凄く喜んでたのに、その記憶も無くなった。
あの喜びも悲しみも何処に行ってしまったのだろう?と思うと、とても感傷的になった。
翌日神奈川に戻り、夜に駅を降りて考えながら歩いていたら自然と涙が溢れた。

今年の1月に認知症がかなり進行し暴力行為をデイサービスの人にしたりして、自宅で母一人で見る事が出来なくなり病院に認知症の投薬コントロール目的で入院になった。
精神科の病院で隔離されており、母は最後まで入院させる事に抵抗があった。
一度面会に行ったが、もう自分の事もわからず、母の名前も出ないが、それでもなんとなく知っている人がというのはわかっていて、面会が終わって帰ろうとしたら父は病棟のロックのついたドアに入るのを抵抗していた。

2月に状態が徐々におかしくなり、医師がCTを撮影して慢性硬膜下血腫により意識状態が悪化しており緊急手術が必要との事で夜中に転院して手術をした。
後で病院でCTを見させてもらったら血腫が脳幹を圧迫していて、もう少しで死ぬ所だった。
もう少し早く気付けよとも思ったが。
10日程で状態は落ち着き、元居た病院に転院になった。
でも以前より状態は悪くなり、歩行も出来ず、経口摂取が出来なくなり鼻からチューブが入っている。
誤嚥の為に微熱がちになった。

脳外科の病棟で面会した時に、声を掛けても反応ご鈍く目の焦点を合わせる事が出来ていなかった。
もう以前の憎たらしい位元気だった父の面影は無い。

でも自然と思ったのが、自分が医師になって本当に良かったと心の底から思えた。
オヤジが人生を掛けて自分を医師にしてくれた。
大変だったが、なんとかオヤジの生きた証、元々持っていた能力の高さの証明も出来た。
オヤジをバカにしていた人達を見返す事が出来た。

そんな事を思った。

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