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丁寧な心配りをしてくれる人を「よく気が付く人」という言い方をする。
こちらの気持ちを先取りしていろいろ世話してもらうと嬉しいが、過度になるとうっとうしくなる。
反対に他人の気持ちを汲んであげることに全く疎い人もいて、そんな人と一緒に行動すると気を揉むことが多い。
「気の利かない人」には疲れる。
死語になったが「KY(空気を読めない)」な人もこれに近い。
「気の置けない人」とは「余計な気遣いをしなくてもいい人」「遠慮しなくてもいい人」という意味で、気楽に付き合える人だ。

家庭は心休まるところでなければならないと思う。
育ちも趣味や価値観も異なる二人が同じ屋根の下で暮らすのはとても難しいことのように思えるが、結婚と言うスタイルはそれを可能にする。
とは言え気楽に過ごせる空間を作れるかどうかは、お互いの思いやりの心が不可欠だ。
「私はこうするのが一番落ち着く」
と主張しても、相手がそれを好まないなら遠慮しなければならない。
独りなら構わないだろうけれども。

宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」に下記の一節がある。
「決シテ怒ラズ イツモ静カニ 笑ッテイル」
私はしばらく前から、この言葉を頭の中でつぶやくようにしている。
「笑ッテイル」は気味悪がられるからやらないが。
「怒らない、怒らない」と自分に言い聞かせるのだ。
するとちょっとしたイヤなことや"頭にくる"ことも、あまり気にならなくなる。

具体的なことをひとつ。
わたしは車を運転中に助手席から突然、
「ホラ! 自転車が来てるよ」と叫ばれたり、こちらが優先なのに向こうの車に気を遣って「早く、早く」などと急かされると、理性が一気に吹っ飛んでしまう。
「同乗者に不安を抱かるような運転はしない」ことをモットーとしているわたしだ。万全の注意を払っている。

だから「たとえ人を跳ねても全責任は運転手にあるのだから、黙ってろ!」と叫びたくなるのだが・・・
じっとこらえる。
懸命に抑える。
このときのストレスは大変なものだ。

しかし、わたしは「怒らない」ことに決めたのだ。
「注意してもらえたら、それはありがたいことだ」と思うようにした。
それからは不思議なことに(当然と言うべきか)、傍から注意されるのがあんなにイヤだったのが、それほど気にならなくなった。
運転技術に対する自負を潰されても、どうでもいいと言っちゃぁ投げやりだが、「そんなにトゲトゲすることじゃあない」と思えるようになったのだ。
注意してくれてありがたい、と思えるようになった。

これは「年のせい」なのかもしれない。
まあそうだとしても、少し心穏やかに過ごせるようになってきたと言える。
そんなことが少しずつ増えてくると、
お互い相手を思いやり、心を開いて話ができるようになってくるんではないでしょうかねぇ。