2016年08月

2016年08月30日

尖る

歳を重ねる毎に丸くなると言いますが、私は歳を重ねる毎に尖っていっている気がします。





丸くなるどころか、尖り頭。




まっ、いいか。




世間様より、自分自身へ尖れ。


ichifunawoct at 23:19|Permalink

2016年08月28日

幸せ

何をして平凡というかは、人それぞれだと思います。

平凡の極みこそ幸せの極みですね。


けれど、実はその平凡の極みは、平凡の極みではなく、スペシャルな極みである。

このことに気付いた人が幸せの極みを感じられるんですね。



私は平凡の極みをとことん大切にしたいと思います。


ichifunawoct at 23:45|Permalink

お守り

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私はポテトヘッドに似ていると言われています。笑

そのポテトヘッドと今年の自由曲「富士山」との奇跡のコラボ!!つまり、私と富士山のコラボ!



ある保護者の方が旅行先で見つけてくださり、なっなっなんと!!親父会がコンクールお守りとして全員にプレゼントしてくださいました。何という愛情でしょう!!

しかも、一人一人へガメラ付きのシール。そして、富士山の上に亀が載っているシール。これも作ってくださったのでしょう。泣。



この愛情。涙、涙、涙無しでは語れません。




ありがとうございます。




東関東吹奏楽コンクールは筆舌に尽くしがたいものです。魔物が取り憑いています。


このお守りに護られ、魔物が住む中、伸び伸びと演奏することを私たちのポリシーにしたいと思います。何ものにも囚われず伸び伸びと。


ichifunawoct at 01:14|Permalink

2016年08月27日

お守り

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ichifunawoct at 20:37|Permalink

2016年08月26日

危険!危険!危険!

写真を観ると、あの時は楽しかったな、と思う。

そんなの当たり前。


なぜなら写真は楽しい時しか撮らないから。(報道写真などは別として)
恋人同士、喧嘩した時に写真は撮らない。
楽しい時しか撮らない。

だから写真が楽しいのは当たり前。











プラスだけ見れば、全て楽しく前向きな気持ちになれる。

マイナスだけ見れば、全て悲しく前向きになれない。


そんなもん当たり前。


全てプラスなどありえない。
全てマイナスなどありえない。

物事には必ずプラスとマイナスがある。


別名
プラスは自分にとって好都合。
マイナスは自分にとって不都合。
とも言う。


全てが自分の好都合のわけがない。
全てが自分の不都合のわけがない。


人生。やはり捨てたものではない。




一点だけを見るのは危険!危険!危険!


両方を考えよう、必ず。


ichifunawoct at 22:04|Permalink

丸ごと

昨日のオフを利用し帰省。
正月以来、母に会う。固形物を口にすることが出来なくなった母は痩せ衰えていくばかり。物忘れの激しい認知はあったが、会話は成立していた。ところが、痩せ衰え体力を失ってからは会話もままならない。何を伝えようとしているのか一生懸命聞き取ろうと試みる私。だが、普段一緒にいない私には難しい。介護士さんの方がよくわかっていらっしゃる。情けない息子だ。

食べる楽しみを奪われ、人とのコミュニケーションを奪われた母は何を思い、考えているのだろう。何を楽しみに生きているのだろう。

ずっと考えている。

私の顔を見た時の満面の笑顔。まるで子どものようだ。やはり、これだ。遠く離れているが、たかだか福島県。正月と夏にしか帰らぬ親不孝息子。仕事、仕事と考えず、顔を出来得る限り見せに行くことが一番大事なことと痩せ衰えた母を見て痛感した。部活も若い者に譲り、そろそろ自分の人生を生きないと。


子どもの頃、身体の弱かった私。母はいつも心配していた。何を食べるにも、何をするにも気にかけていた。けれど、私に何かを強く言うとか、要求するとか、親のエゴを押し付けるとか一切ない母だった。それは父も同じ。私のしたいようにさせてくれた。甘やかされた訳でもない。勉強しろと言われたこともない。こうしなければならないと言われたことがない。

口癖は健康であれば何もいらない。だから、健康第一で健一。それ以上は本当に望まないようだった。身体の弱かった私も中学、高校と体力がついて来るとたいした病気もせずに毎日好きなことに熱中させてもらった。

私の友人関係のことも何も言ったことはない。時に明らかな不良を家に泊まらせた時も、特に何も言わなかった。黙って美味しい夜ご飯を出してくれた。



私は丸ごと受け止めてもらっている安心感に包まれていた。当時はそんな風には思わなかったが、今、考えればただただ丸ごと愛されていたのだと思う。それ以上でも、それ以下でもない。これが最も大切なこと。出来そうでなかなか出来ない。

親の欲を押し付けず丸ごと愛してもらえるありがたさ。

今しみじみと感じている。

たいした人間ではないが、今の自分があるのは間違いなく母のお陰である。


私を丸ごと愛してくれた母。何をするにも私を一番に考えてくれた母。その母を残し、私は地元の大学を拒み、東京の大学へ。18歳で家を出て、結局今尚37年間、家には戻らなかった。


そんな私を母はどう思っていたのだろう。さびしく思っているのだろうか。


たまたま私が全国版のテレビに出た時、観るのを何よりも楽しみにしていたと言っていた。

母の子に生まれたことを感謝している。






誰にも親はいる。けれど、中には親のエゴを押し付けられボロボロに傷付いた幼少時代を送り、親に対し憎しみしか感じていない人もいる。

親だから大切にするのではない。親に丸ごと愛されたから親を大切に出来るのだと私は考えている。親ではなく、それは他人でも何の問題もない。他人から丸ごと愛されたら、その人を大切にすればいい。それだけのことである。



親だから、という考え方は違うと、救われない虐待を受けた多くの実に多くの生徒を見て来て確信するようになった。

何も知らずに、わからずに、親だから大切にしろ、という言葉ほど無神経なものはない。
親から虐待を受けたことのない人にはわからない。
簡単に言う言葉ではない。


私は何度か、生徒に親など捨ててしまえ、自分の力で生きていけ、と言ったことがある。
その私の言葉に救われた生徒は残念ながら少なくない。

親だから・・・そんな綺麗事は嘘だ。


幸いにも私は親に丸ごと愛された。これは決して当たり前のことではないと思っている。幸運だったと思っている。




自分自身の良いところも、悪いところも、過去も、今も、未来も、丸ごと愛される幸せ。これこそ人間の究極の安心感だと私は思う。それが親だろうが、他人だろうが、そういう人を持てた人生は何ものにも変え難いものである。


出会いの大切さ。
その為には、そういう出会いを呼び寄せる自分自身になること。人のせいにしても何も変わらない。


ichifunawoct at 01:27|Permalink