2018年02月

2018年02月28日

学校

スポーツ庁の有識者会議。
中学校は休みを週2日以上、平日は2時間、休日は3時間まで。
自民党の中から…中学の運動部は廃止を検討してはどうか。色々な学校から生徒が集う地域クラブを作ろう。


確かに理想だ。

現場で日々生徒と向き合っている私たちから見たら自民党の中から出た意見は笑える。現実味が全くない。


運動部を廃止して、色々な学校から集う生徒で地域クラブ、おおいに結構なことである。だが、誰が指導する?
スポーツ庁、政治家にはわからないだろう。部活指導の9割は生徒指導である。残りの1割が、その部活の競技指導である。部活、部活、批判ばかり耳にするが、生徒指導上学校の中で部活指導が果たす役割は大きい。

荒れた中学校を部活動で立て直した学校は無数にある。

日々生徒と向き合うことがどれほど大切なことか、国民と向き合っていない政治家に理解は出来ないだろう。


色々な学校から集う地域クラブ。理想だ。しかし、誰が指導し、誰が責任を持つ?どういう方々が行う?皆、自分の生活で忙しい。生徒が活動する時間帯は仕事をしている。退職された方が指導されるのか?指導者として相応しいか、誰がどう判断する?それとも、そのような職業を作るのか?地域クラブ指導員。月給30万円。ボーナスあり。その経費はどこが負担する?活動場所はどうする?あるのか?ある訳がない。結局、学校で活動することになる。


結果、指導者が教員ではなく一般の方(私には非現実的としか思えないが)になるだけ。つまり今、教員がしていることを別な方がしているだけのこと。絵が変わらない。



そもそもこの議論には盲点がある。
議論の出発点が、授業が上で、部活が下という大前提のもとに議論されている。

私は30年間教員をして来た経験から主張する。生徒の立場になった時、授業が上で、部活が下などという論理は通らない。どちらも大切なものである。
授業で自己実現している生徒がいる。
部活動で自己実現している生徒がいる。
両方で自己実現している生徒がいる。

自己実現。つまり自己肯定感は私たち人間を大きく成長させる。

学校は国語算数理科社会を教える場所ではない。
自己実現し、自己肯定感を味わい、自分は自分でいいのだと感じる場所である。そうあらねばならない。その為に私たち教員は努力を重ねる。


国語算数理科社会が学校の全てなら、必ずそこから、はみ出してしまう子がいる。はみ出した子は自己実現出来なくなる。自己否定感しか持てなくなる。こんな悲劇があっていいものか。断じて許されるものではない。それは部活動とて同じ。


尾崎豊が浮かぶ。

退屈な授業が俺たちの全てならば
なんてちっぽけで
なんて意味のない
なんて無力な15の夜


あれだけ多くの若者の支持を得た尾崎豊の音楽が学校のあるべき姿の真実を語っている。



学校にはどちらも必要だ。

そもそもその出発点が誤っているから、こんな訳のわからぬことになる。


教員の激務を真剣に本気で減らす気があるのなら、

それは部活廃止ではない。部活動の制限ではない。一律にすることではない。


廃止したら、激務は減るどころか、机上の空論をしている方々には全く理解できないだろうが、激務は増える。増え続け心身共に教員は疲労困憊することになるだろう。疲弊しきってしまうだろう。放課後、ゆっくりなど出来ない。街へ子どもたちを探しにいくことになるだろう。



地域クラブにするのならば、教員が行った方が理に適っている。

教員の勤務体系を授業と部活動同等に考えた上で見直すことこそが最も現実的な改革である。

なぜ、そこに気付かない?
なぜ、誰も声をあげない?


生徒から多種多様な価値観を奪ってはならない。学校を国語算数理科社会だけにしてはならない。偏差値教育へ戻るなど愚かそのものである。


人間の価値は実に多種多様なものである。国語算数理科社会で決めつけられるようなものではない。もちろん部活動だけで決めつけられるようなものでもない。一つの偏ったものではなく、多くの価値観が自己実現には必要である。


私たち人間にとって、自己肯定感がどれほど大切なものか。私たち大人は誰もが理解している。

子どもは「こうあるべきだ」という私たちの固定観念から、私たち大人が抜け出さない限り、子どもの悲劇は消えることがない。

私たち大人が知る多種多様な価値観を伝えようではないか。

たとえ国語算数理科社会が出来なくても別な価値観があることを伝えようではないか。







学校には授業も部活動も両方必要である。
議論のスタートラインを変えてほしい。

授業は上、部活動は下という固定観念を捨て去ってほしい。


生徒の成長にはどちらも必要である。

成熟した日本社会を目指すのであればどちらも必要である。

















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ichifunawoct at 18:13|Permalink

2018年02月25日

暗澹たる

ブラック部活か。

週に2日は部活をするな、か。

お気持ちはわかります。

しかし、部活を学校教育から切り離すことが何を意味するか。

生徒から部活を取り上げてしまうことが何を意味するか。



なぜ何でもかんでも平均化させ、一律にさせるのだろう。
なぜ個性、特化を認めないのだろう。

平均化された国民の方が操りやすいから?


個性、特化を潰した先にあるもの。

暗澹たる思いしかありません、私は。


ichifunawoct at 07:57|Permalink

2018年02月21日

暗雲

尾崎豊
15の夜

大人たちは心捨てろ捨てろと言うが俺は嫌なのさ
退屈な授業が俺たちの全てだというならば
なんてちっぽけで
なんて意味のない
なんて無力な
15の夜



私はこの尾崎豊の言葉をいち教師として大変重く受け止めています。
この言葉には校内暴力、教師不信、大人への反抗などというものでは推し量れない意味が込められていると私は考えています。



人間そのものの存在に対する尊厳の喪失を尾崎豊は叫びたかったのではないかと私は考えています。


存在への尊厳の喪失。
偏差値で子どもを輪切りにし微笑む大人たちを目の当たりにし、尾崎豊はひとりの人間の存在について、何度も何度も自問自答したのではないかと。

数字で中学生、高校生の価値を決めつける。つまり、それは人間存在への尊厳の喪失を意味する。



人間存在に対する尊厳が、退屈な授業で決まってしまうなど、尾崎豊には耐え難い苦しみだったのではないかと。






昨今の教育界の動き。
暗雲を感じます。





ichifunawoct at 01:13|Permalink

2018年02月17日

意見

生徒に教えられました。


他からの自分に不都合な意見を素直に謙虚に聞き入れ、それを乗り越えてこその成長だと。


自分にとって都合のいいことばかりを他から聞いても何の進歩もないと。


全くその通り。


いくつになっても、いやいや歳を重ねれば重ねるほど、忘れてはいけないこと。





自分にとって不都合な意見。
自分にとって好都合な意見。



生徒はよくわかっています。
頭が上がりません。







ichifunawoct at 21:40|Permalink

2018年02月16日

失敗

失敗。

失敗は成功のもと。

それは、失敗が次のステップへと繋がった場合のこと。

失敗が失敗で終わったら、何の意味もない。





大人とは困ったものだ。

親も、教師も子どもの失敗を責め立てる。かつて自分も子どもだったことを忘れ。時に感情をむき出しにして責め立てる。責め立てることが、あたかも子どもの為であるかのように。


失敗をしてしまったのだから、叱責されることは仕方ない。


しかし、感情的に怒られた子どもはどう思うだろう?



失敗する。
親に感情的に怒られる。
教師に感情的に怒られる。


親も、教師も…恐らく異口同音に本人の為に怒ったと言うであろう。


本当にそうなのだろうか?

感情的に怒られて、良い気持ちがする人などこの世にいない。

失敗した時点で『悪い』と子どもは既に思っている。そこを更に追い討ちをかけるように感情的に怒ることに意味があるだろうか。私には思えない。


失敗は次のステップへと進む為のものである。だから、叱責し、諭す。
失敗した子どもを追い込んでどうする?
何をしたい?





追い込まれてしまった子どもは次に失敗をした時、失敗を隠すようになる。親、教師に失敗してしまったことを話さなくなってしまう。

当たり前だ。失敗したことを言えば、また感情的に怒られる。
隠して当然。





これは子どもに限った話ではない。
職場も同じ。
上司と部下の関係と同じ。
部下は感情的な上司に失敗を報告しなくなる。それは企業にとって大きな痛手になることだろう。





ドイツの企業では、失敗を報告しに来た部下を褒めると聞いた。
賢い。なるほどと思った。


親は、教師は、上司は、感情的になる仕事ではない。
子どもを人間的に豊かに、おおらかに、明るく伸び伸びと育てることが仕事である。


感情的になっても何も良いことはない。
何も改善はされない。
むしろ、嘘つきの子どもに育てているだけ。
後ろで舌を出している部下にしてしまうだけ。



賢くないと、頭がよくないと、
子どもは育てられない。
部下は育てられない。



感情で怒鳴り散らすことが、子どもを、部下を真逆の方向へ進ませていることを知るべきである。




指導と感情は別のもの。
似て非なるもの。




もちろん、自分に言い聞かせています。




ichifunawoct at 23:56|Permalink

2018年02月14日

進路

進路。

大学へ行こうが、専門へ行こうが、就職しようが、教師になろうが、寿司職人になろうが、ユーチューバーになろうが、美容師になろうが、起業しようが、何でもいい。
問題はどこへ進むかではない。

進んだ先でどう生きるかだと思う。

そこに価値があるのだと思う。
進んだ道ではない。
進んだ道でどう生きるかだと思う。





人間の価値って進んだ道で決まるのではなく、その道でどう生きているかで決まるのだと思う。




この頃、強くそう思います。


ichifunawoct at 22:17|Permalink