2018年05月

2018年05月30日

学校

よく聞く言葉。

「私は人の為に働きたいです。」
「人の役に立ちたいと思います。」


私もそう思います。

人の役に立ちたいと思います。


なぜか?


答えは簡単。


人の役に立てる=自己肯定感

だからです。


自己肯定感は自分一人では作り出せません。他人からの肯定があり初めて成り立つものです。


人の役に立ちたいと話されている中学、高校生の皆さんは、そんな風には考えていらっしゃらないと思います。純粋に真っ直ぐな気持ちで「人の役に立ちたい。」と思っていらっしゃる。

これは私の独断ですが、恐らく私たちは本能的に人の役に立ちたいと思うのだと考えています。人の役に立てれば自分の存在意義が見出せると脳にインプットされているのではないかと思っています。


人の役にも立ち、尚且つ自分自身の存在意義も見出せる。人間とはなんと上手くつくられているのか、と感心するばかりです。


人の役に立ちたい→努力、行動する→結果、人の役に立ち、人に喜ばれる→自己肯定感を得る

この一連の流れを学校は考えなければならない。もちろん一人一人に対して。


だから、授業が必要。行事が必要。部活動が必要。時に雑談も必要。

という考えになるべきだと強く主張。


自己肯定感を得られないような学校では存在する意味がない。それでは、学校が学校としての役割を全く果たしていない。



人の役に立ちたい→努力、行動する→結果、人の役に立ち、人に喜ばれる→自己肯定感を得る


この連鎖をつくり出す努力をするのが学校。学校とは私たち教師と生徒のこと。


もちろん、簡単なことではない。
しかし、学校というものを、視点を変えて見てみようではありませんか、そろそろ。


固定観念を捨てましょう。


世界中の幸福の為に。









ichifunawoct at 01:23|Permalink

2018年05月28日

日大アメフト部の問題。

世間を騒がせている日大アメフト部の問題。


絵柄は、監督が悪。選手は犠牲者。

あの会見を聞けば、私たちは誰もがそう思うであろう。

だが、マスコミの情報しか知らない私たちに真相はわからない。

マスコミの偏った情報で思い込み、決め付けて物事を考えるのは危険そのものであると私は考えている。




ただ
ブラック部活と呼ばれる昨今。
この日大の問題は、決して日大だけの問題ではない。学校と呼ばれる小学校、中学校、高等学校、大学校全ての問題であると考えている。


私は、ブラック部活と呼び、部活動を批判する方々を常々批判し続けて来た。それは今も変わらない。

しかし、小学校、中学校、高等学校、大学校、私たち教師は戦後の部活教育の中で、あまりに勝利至上主義に走り過ぎたのではないだろうか。それは、学校が偏差値至上主義に走り過ぎているのと全く同じ現象である。学校教育は目に見える誰が見てもわかる結果ばかりを追い求め過ぎた。


確かに目に見えるものはわかりやすい。しかし、私たち人間にとって大切なもの、教育に必要なものは決して目に見えるようなものではない。


勝利至上主義は結果的に競技レベル、音楽技術レベルを飛躍的に成長させた。特に日本の十代の音楽合奏力は世界一と言っても過言ではないであろう。世界中が驚嘆するレベルである。まさにコンクール至上主義がもたらし結果である。


この勝利至上主義が健全に回っている時は、それでもいいのかもしれない。(勝利至上主義が健全に回ることなどあるのであろうか。自分で書きながら、疑問に思うが、あえて健全に回っていれば、にしておこう。)ところが、勝利至上主義が健全に回ることなく、歪んで来ると顧問も生徒も大切なものを見失い、勝利の陶酔感に酔い始める。


これは私の偏見なのかもしれないが、決して外国の方々を侮辱している訳ではないので誤解しないで頂きたい。あくまでも監督、その学校自身のモラルの問題だと考えている。
それは、例えば高校バスケットや高校陸上の世界での外国人の起用。わざわざ外国まで赴きスカウトをして来る。ご自分の意志でその高校に行かれたなら話は別である。これは度を越した勝利至上主義なのではなかろうか。

勝利することはあくまでも目的ではなく、教育における人間陶冶という目的へ向かう為の単なるいち方法に過ぎない。

しかし、勝利至上主義は教育そのものを歪んだものにし続けた。歪みはカリスマ顧問を生み出し、さらに奥深く手の届かないところまで歪み続けることとなる。選手の心身を鍛える教育は消え、選手は勝利至上主義の駒となっていった。

カリスマ顧問は勝利という美酒に溺れ、生徒を駒としてしか見ないようになる。


レギュラーになれた者は自己実現が叶う。しかし、そうではない者は自己実現どころか、自己否定感しか残らなくなる。

それは偏差値至上主義とて同様である。偏差値の高い学校へ進学できた者は自己実現できるが、いわゆる偏差値の低い学校へ行った者は自己否定感の中で苦しむこととなる。

何かおかしくないか?


確かに生き物は弱肉強食の世界であり、遺伝子的に考えても優秀な個体が生き延びていくのかもしれない。

しかし、私たち人間には能力よりも大切な心というものがある。



戦後、学校の偏差値至上主義、部活の勝利至上主義は結果的に心を殺して来た。

「そんなの甘い。」
「生きるには勝ち組になるんだ。」
「心なんてウジウジしたこと言っているんじゃない。勝利という結果で、行動で示せ。心よりも結果だ。」
「世の中なんてのはな、そんな心なんていう綺麗事は通用しないんだ。今から世の中の厳しさを教えてやる。」

そんなような言葉に私たち指導者は酔いしれ、ナルシスティックになり、本当に大切なものを学校の隅に70年以上忘れ続けて来た。

その結果が、日大アメフト部の問題の核心であるような気がしてならない。

あの勝利至上主義は日大アメフト部が作ったのではない。日本人皆でつくりあげたものである。私たち、過去の既に亡くなられた方も含め、全ての日本人に原因がある。


部活動だけではない。
偏差値至上主義の教育も歪んでいる。


共におかしい。


学校の考え方を根本的に改めない限り、日大アメフト部が起こした問題は、再び形を変え、教育の現場で必ず起きるであろう。


学校は勉強をするところではない。
部活動をするところでもない。


学校は自己肯定感を育む所である。

その為には勉強も部活動も、その他の活動も必要である。

考え方を改める必要がある。

同じ過ちを繰り返すだけだ。



と言いながら、コンクールでは勝ちたいというスケベ心を持つ私。受験の落とし子の私は東大と聞いただけで、すげえとすぐ様思ってしまう私。情けない。

これが人間の本性であることも確かなこと。否定など出来ない。しない。




だが、そのスケベ心と闘いながら進むことが私たち指導者がしなければならないこと。

どんな不器用な3年生でも、3年生最後のコンクールに出場させ続けるこの市船吹奏楽部のやり方は変えない。また、偏差値で人の持つ力を思い込まない。

強く自分自身に言い聞かせる。




私は、よくカリスマと言われるが、カリスマではない。カリスマは生徒に怒られない。



日大の監督も選手も犠牲者であり、加害者である。いや日本中の教育現場の指導が加害者であり、被害者である。そこから抜け出すには自分のスケベ心と葛藤する以外魔法はない。


これが私の結論である。






ichifunawoct at 11:02|Permalink

2018年05月26日

毎週提出される部活ノートから抜粋。





客観的に物事をとらえることは、すごく大切なことだと思います。それは楽器だけではなく人間が話す言葉でもそうだと思います。言っている内容は同じでも言葉の選び方を少し変えるだけで相手にとっての印象はかなり違って来ると思います。楽器を演奏する時も少し何かを変えれば相手への印象はガラッと変わると思います。自分はその「少し」が意識できる人間になりたいです。 1年生



苦手だった子の良いところを探すとその子がいい人に感じます。結局、自分が人の悪いところばかりを見ていた証拠ですね。自分の方がよっぽど直さなければいけない所があります。 1年生




相手が自分の為に意見を言ってくれているのに素直に受け入れることができず、自分の世界に入ってしまったり、少し何かあっただけでこの人と上手く関われないと決めつけてしまったりと相手から逃げてしまいます。 1年生




最近はYOSAKOIの練習時間中、正直きついと感じる時があります。そんな時つい手を抜いたり心の中で他人に文句を言ったりする自分がいます。本当に自分勝手です。こんなに自分は嫌な奴だったのかと気付きました。 1年生




独りぼっちに感じていたのは間違いでした。悲しくなったり、嬉しくなったり、楽しかったり、つまらなかったり・・・。感情は独りぼっちでは絶対に生まれないものだと思うからです。この感情の大切さに初めて気付きました。今まで感情なんて全然気にしていませんでした。きっとそのせいで傷ついた人が沢山います。独りぼっちでは感じる事の出来ないこの感情を大切に毎日を過ごしていきたいです。 1年生





私は昔から、相手がどこのポジションにいるのか。つまりスクールカーストのどこにいるのかを考えてしまいます。誰が上だとか、誰が下だとか。馬鹿ですよね。わかっていても最低だとわかっていても分けてしまいます。 1年生







教師生活30年間。
部活ノートにハッとさせられ続けて来ました。

高校1年生。こういう気持ちを自分の言葉で素直に表現できることに明日を感じます。


もちろん、人間。
言葉のようにはいきませんが、自分の気持ちを文字にすることは自分を客観視する上で大きな一歩となります。前進への道のりとなります。


と、そんな上目線で言えることではありません。私はただただ十代の文章の前でいつもいつも私自身の無力さを感じて来ました。と同時に考えさせられ、勇気をもらって来ました。


私たちは理屈で生きているのではありません。絶えず揺れ動く心で生きています。

だから、時にすれ違う。
だから、時に喜びを分かち合う。
だから、時にたまらない孤独を感じる。
だから、泣きたくなる。
だから、怒りがこみ上げる。
だから、涙が出て来る。
だから、勘違いが起きる。
だから、人を嫌いになる。
だから、人を好きになる。


だから、生きている。





絶えず揺れ動く。

止まることはありません。



心に安定など存在しません。



そもそも心に安定など存在しないのですから、安定などというこの世に無いものを求めること自体違うということに気付いた方が安定します。



そこに気付いた人の勝ちです。

そこに気付けば、自分が自分にOKを出してあげられます。



自分が自分にOKを出せる人になりたいと、ただただそのことだけを願って日々闘っているのかな。


と思います。


それにしても部活ノート。
考えさせられることばかり。

57歳のオッさんは、10代の高校生には敵いません。私の心がいくつあっても足りません。






























ichifunawoct at 23:39|Permalink

2018年05月25日

無様

市船さんは、そろそろYOSAKOIをやめて、コンクール練習に徹したらどうですか?とアドバイスしてくださる方が結構いらっしゃいます。


とてもありがたいアドバイスなのですが、市船吹奏楽部が何物なのかをご理解されていない方々かもしれません。善意でおっしゃってくださること、もちろん感謝しています。







市船吹奏楽部が大切にしているもの。
それはブレることなく未来永劫続いていってほしいと願っています。


大切にしているものは、目には見えない。形にも表せない。言葉にすることもできません。それぞれが感じるものです。


それが何なのか、私にもよくわかりません。けれど、確実にこの胸の内に現れて来るものです。

それは、その代、その代によって根幹は同じですが、色は違います。

今は音巴たちのそれを求めて、その何なのかを知る為に日々、生徒も私も自分自身の不甲斐無さとの闘いです。

それは無様そのもの。

しかし、その無様がいい。






きっとどの学校にも大切にされているものがあると思います。




とことん大切にしましょう。お互い。










ichifunawoct at 23:51|Permalink

2018年05月23日

重さ

日々思うことばかり。





若い頃は勢いだけで立ち向かっていた。
今ほど自分自身について深く考えはしなかった。勢いに任せていた。





若い頃も、今も、生徒と向き合うことだけはし続けて来たつもりだ。




多くの生徒がいる。考え方も、感じ方も、育ち方も様々。誰一人として同じ生徒はいない。



向き合うことをしんどいと感じたこと数知れず。
失敗数知れず。
後悔、反省数知れず。



それでも、こんな私でも向き合い続けることをやめる訳にはいかない。


やめた途端に困り果ててしまう生徒数知れず。前へ前へ進んでいくだけ。




己の不甲斐無さを背負って、無様な姿を見せながら前へ前へ進んでいくだけ。


教師という仕事の重過ぎる重さをずっとずっと感じ続けて来た。



誰でも出来る仕事ではない。
もちろん自分が出来ているとも思っていない。

しかし、誰かがやらなければならない仕事であることは確か。








ある教職関係の編集者に聞かれた。
若い教師に望むことは何ですか?と。

私はすぐに答えた。

生徒のせいにしない教師であれ、と。



自分に問う。






ichifunawoct at 21:47|Permalink

2018年05月20日

瞬く間

瞬く間にまた1週間が終わった。1週間前はバンドフェスタのリハーサルを行っていた。早いなぁ。

あっと言う間とはよくぞ言ったものだ。

まさにあっと言う間の1週間。


こうして青ジャ音巴たちと共に過ごせる時間はどんどんどんどん失われていく。
緑ジャ未来たちともあっと言う間だった。赤ジャ真映たちとも、青ジャ花純たちとも、瞬く間の出来事だった。夢を見ているようだ。毎年、毎年。そう夢を。





気付くと、今の赤ジャも引退し、今の緑ジャが定期演奏会の舞台にいるのだろうな。どんな表情をしているのだろう。


明日はどんな日になるのだろう。


20年後、市船吹奏楽部はどんな活動をしているのだろう。

20年など、まさにあっと言う間だ。

今と変わらず暖かな空気が流れているのだろうか。








もちろん上手くいかぬことばかりだが、市船吹奏楽部は暖かい。なぜこうも暖かいのだろう。

特に音巴たちは暖かい。
音巴の放つプラスのエネルギーは眩しくいつもキラキラ輝いている。くすむのは私に怒られて沈んでいる時だけ。(微笑み)音巴一人のプラスのオーラは147人全員を暖かく包み込んでしまう力がある。何よりもその音巴のオーラに応える青ジャが暖かい。


今という時間の大切さに気付いた人だけが幸せを感じられるようになるのだろう。

青ジャは、今というこの時間がどんなに幸せな時間かわかり過ぎるくらいわかっている。だから、あんなにも前向きなのだろう。


明日からの1週間。
また瞬く間に過ぎていくのだろう。


大事にしないと。



















ichifunawoct at 01:49|Permalink