一高玉杯会便り

第33号(平成26年5月21日)

(連絡先)kudo@gakushikai.jp



訃 報

24理乙二 岡本 重幸H24.2.25)
(遺族)三島市谷田小山中島80−2
             (妻)岡本笑子

25理乙二 中野 滋H26.4.26
(遺族)276-0032 八千代市八千代台東1-26-2

               ()中野 洋子

             04-7485-8722

お知らせ

秋の寮歌祭

秋の寮歌祭を下記の通り開催致します。奮ってご参加下さい。

日時:11月1日(土)12時開会

場所:駒場生協食堂2階

 

報告とお願い

従来、駒場玉杯寮歌祭の開催案内葉書は、常連のメンバにのみ発送して居りましたが、本年春には、一部の方々から現在連絡のつく同窓会員の名簿を提供して戴き、発送先の増加を図りました。その効果は顕著で、同窓生出席者の約25%が新規参加者となり、かつ「玉杯会便り」の電子メール配信先も、倍増して200名に垂々とする状況に達しました。今回ご提供戴いた年次は、昭和18年入学、昭和23年卒業、昭和25年卒業文甲、昭和26年卒相当に過ぎませんので、その他の年次につきましても、情報をお持ちの方は、お差し支えなき範囲でご提示下さるようお願い申し上げます。送付宛先は、

電子メール:kudo@gakushikai.jp

郵 便:〒248-0035 鎌倉市西鎌倉2-13-17

                                          一高玉杯会 工藤 康

FAX:0467-32-3410

にお願いします。

 

記 事

向陵塚例祀

516日恒例の向陵塚例祀が鎌倉東慶寺において執り行われた。柏尾会総会と重なったため、当日のお世話は詠帰会会員有志にお願いした。出席者総数は約50名であったが、一高関係者で記帳された方々は下記の通りである。

五十嵐力:五十嵐小太郎(大3文)氏甥

坂野博一・由紀子:坂野喜之(大11理甲)氏長男夫妻

石田鑛太郎:石田鑛一(大12理甲)氏長男

武貞しげ:武貞彦一郎(大13文乙)氏夫人

吉岡眞一・艶子:吉岡潔(大15理乙)氏長男夫妻

加納昌子:野田宣三(昭3文甲)氏長女

吉田祥子・尚子:村上俊昌(昭5文甲)氏長女・孫

逆瀬川映子:逆瀬川貞幹(昭9理乙)氏夫人

大道鮎子:寺島信一(昭13理甲)氏長女

清水真美子:寺島信一(昭13理甲)氏孫

中村美智子:河西健一(昭13理甲)氏長女

加納晋六(昭17/9文丙)ご本人

今井淑子:今井宏(昭17/9理甲)氏夫人

下河原達哉(昭18理甲)ご本人

秋間美江子:秋間浩(昭19理甲)氏夫人(在米)

鹿島實(昭19理甲)ご本人

高橋千恵子:高橋清(昭23文三)氏夫人

山田忠治(昭23文三)ご本人

和田昭三(昭23理甲一)ご本人及び桂子夫人

景山英子:景山栄一(昭24理甲二)氏夫人

岡政昭(昭24文甲三A)ご本人

藤瀬宣久(昭25文甲一)ご本人

投稿規定

原稿はワープロファイルとし、電子メールに添付してkudo@gakushikai.jp宛お送り下さい。郵送はご遠慮願います。できるだけ簡潔にお纏め下さい。卒年・科・類・氏名を原稿末尾に括弧書きして下さい。紙幅の関係から掲載を見送らせて頂くこともあります。予めご承知置き下さい。


 


投 稿

無検証のはなし

                                                         山崎 卓(昭和25年文甲三C)

【前書き】

 一高撃剣部の特色は何かと問われれば、同部の関係者は異口同音に無検証と段級無視と答えるであろう。 

 昭和2年、一高撃剣部は、東大剣道部との見解の相違から、剣道優勝旗大会には参加せず、孤高の途を歩むことになったが、その原因がこの無検証にあることは、関係者の間では、既知のことである。

 小生も以上のことの外、無検証が青山塩谷時敏先生の主張するところであり、佐々木保蔵先輩(明治38年仏法)がこれに同調せられたことは熟知していたが、その余のことは知る処が薄かったので、この際、.関係資料に当ってみようと思い、「向陵誌」並びに「東大剣道郎百十年の歩みj(赤門剣友会編)に目を通してみたが、その結果を以下に報告する。

 なお、無検証とは、聞き馴れない言葉であると思うが、検証は審判のことで、無検証とは審判者無し、即ち審判を立てず、勝負の判定は、勝敗を競う者自らが決するということである。

 以下においては、「向陵誌」は「誌」と、「東大剣道部百十年の歩み」は「歩み」と略記する。

【無検証の宣言】

 まず無検証の宣言についてである。「誌」は、次のように記述している。

 『翌40年(明治40年)5月4日、第19回大会を催す。此大会に於て、本邦剣道界に特筆大書すべき事柄を有す。吾塩谷部長世間勝敗を争うの余り、審判の声のみを待つを認めらるるや久し。吾撃剣部員は古武士を以て自ら任ずる者なり、自ら潔うするに於ては何ぞ他人の容喙を要せんや、との先生の発議に、先輩師範亦之を賛し、本大会より自信あるべき五級以上の試合には検証を廃止す.敢て是が濫觴を作りし所以の者は、徒らに奇を好むに非ず。試合を君子の争たらしめ、幾分にも正々堂々ならしめんが為めの武士的大精神に源するものなり。後日東京学生剣道会に於ても、之を範とするに至れり。』

 上記に於て注目すべき言辞は、「無検証は本邦剣道界に特筆大書すべき事柄であること」、「先生の発議に先輩師範亦之を賛したこと」及び「後日東京学生剣道会に於ても之を範とするに至ったこと」であろう。

 上記宣言を敷衍する言辞を引用の文献に探れば、「歩み」に水野秀先輩(明治43年仏法)の次の言葉がある、

 『明治44年新年号「運動世界」付録に寄稿した「帝国大学剣道選手水野秀」は「竹刀の響は無上の音楽」と題した一文の中で審判制度に触れ、「六級以下の者はいざ知らず、苟も五級以上の剣士ならば、試合中撃たれたか撃ったかは自分で分る筈である。また当人程よく分る者はいない。其れに審判を付すると云うのは、剣士:の人格にたいする大なる侮辱である。云々』

 亦、「誌」には次の記述がある。

 『百本稽古と云い、無検証と云うは、幾多先輩の精進して我等に齎せる所、即ち我部数十年の歴史の成果にして軽々と忘却し去るは到底我等の耐え得ざる所なり。部史を繙けぱ対校戦華やかなりし時代、優勝旗戦に栄誉をいし時代を見る。されど得の到底失を補い得ざるを知り廃止するに至り、爾来百年一日の如く日々の稽古に精進し来りたり。撃剣は魂と魂、人格と人格との搏撃なり。所謂わざなるものも非難し、軽蔑す可きには非ざれど、以て本道となす所に非ず。現代の剣は人を斬る為に存するに非ざればなり。一にも二にも修養の為の剣、されば空虚なる傲慢、徒爾なる卑下も為す所無く、些の衒気も要する無く、唯正しき剣の理法に従って強撃するあるのみ。正しき勝を主張し、正しき敗を判断するは我等の希って意向する所にして、我等の大呼強調し来れる無検証の由来する所も茲を出でず。検証は、或いは、人格の侮蔑とも解し得ん。判断信念等自力的人格を拒否すればなり。再び云わん。.撃剣は全人格の搏撃なり、然るに何ぞ徒らに検証を云々せんや。云々』

 この記述は、昭和6年の記述である。 

【無検証宣言以前の一高撃剣部の思想と試合形式】

 上記に述べた如く、無検証の宣言は明治40年に至ってなされたものであるが、それは塩谷青山先生の見識に依る処大である。

 先生の見識を窺うに足る記述を「誌」に拾ってみると、『我一高撃剣部は其創立既に古きに属す、上に古武士の典型青山先生塩谷部長を戴く事終始一貫云々』とあり、青山先生が撃剣部創立当初から指導に当って来られ、その挙措進退は古武士さながらであったことが判る。

 また、明治32年度の記録に、『方今武道世の風潮と共に漸く衰頽に傾き、彼の江戸三家の薫陶に浴せる知名の剣士も、誠に指を屈するに止り、世間技術をのみ徒に争い、其弊甚だ憂うべきの今日、向陵気清き所卓然として横行澗歩、苟も偏せず、苟も党せず、勝負競争を以て目的とせず、自重自信、鋭精なる塩谷部長監督の下に、剣道の本旨を守り、礼譲を重んじ、和気堂に満ち、凛然犯す可からざる所あるは、実に一高撃剣部なりとす』(「誌」)とあり、ここには「勝負競技を以て目的とせず」の語が見える。

 なお、これは無検証宣言の後の明治43年の記事であるが、『塩谷部長誡めて曰く、「願くは態度を慎み、品格を重んじ、鋭鋒を譲の間に蔵め、奇略を謙抑の内にみ、衿誇なる勿れ、怯儒なる勿れ、敵を侮る勿れ、己をむ勿れ、徒に勝負の末を争う勿れ、勝つべきに勝ち、勝たざるにも亦勝つ、是れ我党の精神なり。」』の記述もある。(「誌」)。「勝つべきに勝ち、勝たざるにも亦勝つ」の語の意味は深遠である。

 以上のような青山先生の指導の下の一高撃剣部ではあるが、この頃の試合は検証を立てて行われている。明治36年、同37年及び同39年、対二高有志試合が行われているが、これらの試合には、いずれも検証を立てている。(「誌」)

 なお、この時代の記事を「歩み」に当ってみると、次の記述が関心を引く。即ち、『この頃、撃剣部(東京帝国大学撃剣部)では山田次朗吉の影響で、いわゆる仕合撃剣を排し、鍛錬としての稽古が行われたことが、さきの山本五郎の回想によって判る』という記述である。「この頃」とは前後の関係から明治35年乃至同37年の間のことと思われ、また「仕合撃剣を排し、鍛錬としての稽占」が稽古に臨む態度のことなのか、試合における審判の問題に迄言及するものなのかは不明であるが、前述の「誌」の引用文の書き出し部分及び後に述べる無検証採用に至る世の風潮の記事の傍証を為すものとしては、意味が深い。

【一高撃剣部の無検証宣言の頃の撃剣に対する世間の受取り方】

 一高撃剣部が塩谷青山先生の主唱の下、無検証を宣言したのは、前述のとおり、明治40年5月であるが、この頃の撃剣に対する世間の受取り方について、「歩み」は以下のように記述している。

『さきにも見た「三十周年記念誌」(関東学生剣道連盟)の「全学剣連前身時代」で、笹森順造はつぎのように書いている,

 当時学生剣士は志操高邁で見識が高く、意気軒昂で剣道の教えを以て人格形成の精神的基調となし、猛練習を以て身体鍛練の法とした。従って伎倆に於ては専門大家の妙技を尊敬しその稽古を受けるが、精神品性行状に於ては自ら高く持し、仕合審判に付ては学生自身主体的良心の判断を堅持し、専門家を煩わさず、学生仕合者自己審判制を採り、仕合は堂々と公明で立派な勝負をつけていた。己れが心と体の隙をやられたと感じた時には奇麗に勝ちを相手に譲り、徒らに観客の顔色を見ながら、打って引き上げて逃廻るような未練がましいことがなく、勝敗を超えて自主的で純真な学生らしい行動をとり、人格形成のよすがとしていた。』

 さらに同誌の「回顧学生剣道五十年」で石田一郎がつぎのように書いている。

 『その頃、一般社会の剣道修行の態度について種々意見が出されるようになり、それが紙面に出るようになった。当時の町道場ならびに警察の稽古ぶりが暴力的なことが問題となったようで、剣道の専門家に対して批判的であった。

 また、旧来の剣道専門家が権門に媚び、私情に駆られて試合審判に依恬ひいきするなどのことがあり、学生剣道はこれに飽きたらず剣道修練の主目的を人格の向上に置き、剣道の理念、技の理合を尊び、試合においてもいたずらに打突の当りにこだわらず、心気力の横溢にかけ、自覚ある審判および試合を自ら実行することにした。

 すなわち自己審判制を採用したのである。もっとも、これは一部の大学でおこなわれたのであるが、このことは剣道の方向にひとつの指針を与えた尊い経験としてみるべきものであると思う。』

 学生剣道の理想を求め、自己審判制を採用してこれを遵守した一部の大学とは東京帝国大学撃剣部であった。いうところの無検証試合が撃剣部ではじまったのは、この明治40年代のことで、これを首唱したのは第一高等学校撃剣部部長塩谷時敏であった。第一高等学校「向陵誌」のなかに、一高撃剣部の根幹的伝統は無検証に表徴されるとして、これは『「明治40年頃から塩谷青山先生が言い出されたもので、まぎれもなく武士の精神に淵源するもので、剣の神髄に通じるものとした」とある。当時、東京帝大撃剣部は一高撃剣郎のいわばもちあがりで、塩谷時敏の思想的影響のもとにあった。』(「歩み」)

 もっとも以下のような批判的意見もない訳ではない。

 明治41年3月行われた東京帝国大学剣道大会の模様を報じた「運動世界」はつぎのように書いている。

 『最後の7組程知有の剣士の試合を審判者なしで稽古の様にしたのは一寸変わってる。聞けば其理由は敗者は審判者の命を侯たずとも自ら認めて名乗り上ると云う方が男らしい、即ち武士道に叶うからだとの事で当局者は得意の芸らしい。成程一寸面白い人聞きの善い話だが、翻って考えると審判なるものの性質や、勝負の原理を無視したもので、其真の利弊は余程疑いを容るる余地がある。加うるに一方では明らかに勝負をつけられては天狗連の虚栄心を傷つくるからむしろかかる妙な策を取ったのだとも伝えらるる。しかし、そんな事はあるまい、ある筈はないと記者は信ずる、が何れとしても此挙はいやに気取った極端を云えば偽善としも云いたい様な趣がある点は否定しがたい。武士道も妙に濫用されたものだ』(「歩み」)

 そしてこの記事について『すなわち、同大会から東京帝国大学運動会撃剣部では、一部(上級者)の試合で、自己審判制(無検証試合)を実施したのであった。だが、同誌の記事はこれにたいしてすこぶる批判的で、たぶん同じ感想を抱く者も少なくなかったであろう。自己審判制による試合がどう運ぱれたかについては言及していない』と続けている。([歩み」)

【無検証による試合並びに無検証をめぐる動きの記録】

 まず無検証による試合の記録を「誌」及び「歩みjによって拾ってみよう。

 「誌」には『拍手声裡無検証勝負を開始す。数十番の龍攘虎搏中旧き先輩の組合は殊に万目を峙てしめたり』とある。明治42年10月31日の創立20年記念大会のことである。

 次の記事は大正9年2月に跳ぶ。即ち、『大正9年2月8日東京帝国大学運動会剣道部は第19回剣道大会を開催した。同年2月20日発行「学士会月報」につぎのような記事が見える。「東京帝国大学運動会剣道部にては、去る2月8日午後1時より同大学道場に於て第19回剣道大会を挙行せるが、都下各中学、専門学校、大学の来賓の三本勝負あり、次いで会長挨拶、長谷川流居合、槍術試合、無検査試合、学士対学生の順にて勝負あり。(中略)」。自己審判制による試合が実施されていることに注目したい』とある,(「歩み」)

  第3番目は大正9年11月である。『大正9年11月20日東京帝国大学剣道部の全権大使として西久保弘道が京都帝国大学剣道部をたずねた。西久保はこの頃貴族院議員、大日本武徳会本部副会長と武道専門学佼校長を兼任し、月のうち半分を京都に赴いて校務にたずさわっている。東京大学在学中は直心影流榊原鍵吉に、山梨県書記官時代は無刀流香川善治郎に就き、大正8年1月武専校長に就任し身辺多忙になるまでは、東京帝大道場でしばしば学生を指導していた。それまでの武術専門学校を武道専門学校に改めたのをはじめ、「術」を用いてきた名称をすべて「道」に改めたのはこの人物である。西久保弘道は「試合は無検証、自己審判制を採用したい」と申し入れたが京大剣道部は「理論として賛成だが、わが部には経験がない」として拒絶し、西久保も了解して東京に帰った。

 11月26日、一高・東大先輩の佐々木保蔵が土田豊、周東英雄の学生2名をともなって京都にはいり、京大剣道部代表大野熊雄、酒見、日高の3名と会合して無検証による自己審判制の採用をふたたび主張した。佐々木と大野のあいだで激論がたたかわされ、険悪な様相を呈したが、上田と周東が仲裁しておさまった。結局試合は当初の決定どおり審判をたてることにした。云々』とある,(「歩み」)

 第4番目は大正10年である。『大正IO年1月7日東京帝国大学と京都帝国大学の剣道試合が、大日本武徳会本部武徳殿でおこなわれた。これが両大学対抗定期戦の第1回大会である。午後3時、まず京都帝国大学総長荒木寅三郎の開会の挨拶があり、いよいよ試合の開始となった。

 結果は東大が大将、副将を残して勝利を収めたが、試合のあと、京大はこの日の審判にたいして不服を唱えている。東大の自己審判制にたいして有審判制を主張したのはわが部ではあったが、としながらも、さきの「懐古対東大戦記」におさめられた戦況概評は「されど当日此試合を目撃したる教養ある第三者や、観衆の批判を聞くに斉しく審判は我に不利なりと云えり。例えば(中略)我の弱かりし為に非ざる事は何人も認めたる所なり」と書き、以下なおもつづく。

 そういう事情もあったか、第2回大会は早くも同年中におこなわれ、10月31日、東京帝大の道場で両大学が相対した、このときはそれぞれ21名の代表選手を出しあい、自己審判制を採用してたたかっている。第1回から第3回まで京大選手として出場した木村潔が京都大学剣道部誌「剣友」(第25号)の座談会に出席しているが、それによれば今回無検証試合を主張したのは、審判に不服のあった京都帝大のほうであった。無検証試合はどのように運ばれたのか、木村潔はつぎのように語っている。

  しかもそのやり方がまたおもしろいんです。私はあなたとやりたいと東大の人を指名  するんです。むこうも誰々とやりたいと互に指名し合うわけです。(中略)京大はそ  の時は勝ったんです。そうしたら東大の方がまた文句を言ってきまして、あれじゃど  うも気の弱いやつが負けるということで、また審判をつけることになりました。(笑)

 大会結果は(後略)』(「歩み)とある。

 この記事は、関係者が勝敗の結果のみにこだわり、無検証が求める本義からは遠く離れていることを物語っている。

 第5番目は大正13年10月のことである。『大正13年10月中に運動週間を設け、京都で各種対抗競核が実施されることなった。

 いよいよ期日が迫った。(中略)。京都遠征にさきだって10月18日午後1時、剣道大会が開催されることを報じた。(中略)。無検証三本勝負20組(後略)』とある。([歩みj)

 第6番目は同じく大正13年10月である。『東大が一列車をかりて京都にやってきて(中略)対抗競技に参加した。「この大運動会に参加した東大剣道部選手は25名、大正13年10月24日付「帝国大学新聞」に両校出場選手の名簿が記載されている。東大では大会開催にさきだち無検証個人三本勝負を主張してきたが、結局、試合は検証付き個人三本勝負ということで落着した。』とある。(「歩み」)

 第7番目は大正14年である。『東京学生剣道連合会発会記念剣道大会が陸軍戸山学校で開催された。(中略)このあと加盟23校300名の代表選手による個人三本勝負(三段以下)と無検証試合14組(四段)がおこなわれた。(中略)。無検証試合が実施されていることは、東大剣道部の影響がつよかったことをうかがわせるが、云々』とある。(「歩み」)

 第8番目は、次に述べる脱退宣言の時点より大分後のことになるが、昭和13年のことである。『総長長与又郎が七徳堂と命名したあたらしい道場の正式な落成式と記念剣道大会かおこなわれたのは、昭和13年12月4目であった。式のあといよいよ注目の選抜剣士優勝試合がおこなわれた。この日三本勝負も選抜剣士優勝試合も剣道専門家の審判によったが、このあと先輩と来賓のあいだで、14組の無検証試合かあった』の記事がある。(「歩み」)

【剣道優勝旗大会不参加宣言とその原因に関する考察】

 いよいよ不参加宣言の記事である。

 まず「誌」によってこれをみる。

 『4月(昭和2年4月)新入部員を迎えて益々健実に進みつつありし我部は、優勝旗試合の弊害を指摘し、之が改革を求めしが容れざりし為左の如き声明をなすと共に、優勝旗を返還して優勝旗試合に参加することを中止せり。

  試合不参加声明

 抑々優勝旗試合の成立当時の事情を見るに、皮相なる夷狄の模倣、日本古来の武士道の忘却、滔々たる浮華軽俳の風潮は心ある入をして国家の将来を憂えしむに至れり。此の時勢に鑑み、一高撃剣部先輩等数名協議の結果、大学主催の剣道優勝旗仕合を行い、第二の日本国民たるべき青年を正しき剣により導かんと企てたり。前一高撃剣部部長青山塩谷時敏先生大いに此挙に賛同せられ、この大会によりて些かなりとも廃頽せる思潮を鼓舞し、眞の武士道を伝うるを得ぱ、国家の為、斯道の為欣快の極なりとて、優勝旗を寄贈せられ、以てこの挙を熾ならしめられたり。

 夫れ成立の精神上の如し。ぞ流俗の優勝旗試合の方法を模するの要あらんや。否、寧ろ流俗を模せんよりは流俗に範たらざるべからず。現下の一般剣道が技巧の末に走れるを思う時益此の感を深うす。即ち試合は無検証によらざるべからざるなり。

 本大会成立の衝に当られし先輩も大いに此点に留意し、種々研究せられしが、結局、無検証は最善の方法なるも時機尚之を断行するに適せざる故に、無検証に至る楷梯として、機熟するに至る迄、形式的に検証を附する事とせり。而して検証の衝に当る人も、この精神をよく体得せる人を選び、些かにても剣道の眞精神に庶幾からしめん為、大学並びに一高の師範にして、一高撃剣部の精神を了し居る筈の中山、大島両師範に依頼せり。

 本大会成立に至る事情は右の如し。然るに実際は大学常務委員によりて試合を行わるるや、成立当時の先輩の精神は全く没却せられ、徒らにその形骸のみの試合行わるるに至れり。かくて無検証の精神も、剣道の眞髄も、忽ちにして破壊せられ、残りしものは世上一般の優勝旗争奪の為の試合に過ぎざりき。

 抑々我が一高が古くより行われたる京都大学の優勝旗試合に参加せず、敢然孤立して、或は春稽古夏稽古により、或は武者修行によりて吾人の主義を天下に弘めんとせし所以の者は、よって以て滔々たる浮華文弱の風を矯正し、眞の武士道に帰らしめんが為なりしなり。然るに今や吾人の満腔の嘱望を託せる東京帝大の優勝旗試合も実質に於て世上一般のそれと何等選ぶ所なきに至る。吾人の失意落胆何物か之に過ぎん。.

 かくては大会設立の趣旨にも反し、また優勝旗を寄贈して本大会の隆盛を祈られし青山先生の御精神にもそむくものなれば、吾人は極力大学委員と交渉し、その誤れる態度を指摘し、彼等をして正道に着かしめん事に努力せり。然るに彼等の頑迷固陋なる、言を左右に托して吾等が主張に耳をさざるのみか、終には之を以て一高及び先輩の専横なりとし、積極的に一高先輩を排斥するの手段に迄出でたり.

 ここに於て萬策は尽きたり。全力を尽くして容れられざれば止む。退いて彼等が為すに任せんのみ。かくて我等は暫らく退いて、本大会の健全とならんを折りつつ、吾等自身古に帰りて孤軍奮闘、我等の主義を天下に唱導せんと決心せるなり。』

 「歩み」のこの点に関する記述も概ね以上の「誌」の記述と一致する。この記述は、或は「誌」の上記の記述を下敷きにしたものかもしれない。

 優勝旗試合脱退に関する両文献の記述は以上の如くであるが、無検証そのものに関する記述で目を引く記述は、「歩み」にある『東京学生連合剣道会では、かねて大学での審判廃止を圭張してきたが、会長渡辺昇の反対でいまだに実現していない』の記述である。このことは「誌」には書かれていない。

 渡辺昇氏は河田景與氏と並び、明治24年当時から毎年開催の大会に出席して斯道の鼓舞振興に努め(「誌」)、同32年には道場に掲額の「無声堂」の揮毫も行っている一高撃剣郎の功労者である(「誌」)。明治39年東京学生連合剣道会の発足に当っては、初代会長に就任している(「歩み」)。同会長は大正2年死去し、二代会長には塩谷時敏氏が就任したものの2年程で辞任、渡辺昇氏の子息渡辺七郎氏が会長代行を勤め(「歩み」)、昭和2年の優勝旗試合不参加宣言の頃は、大正14年就任の福田雅太郎氏が会長を動められた(「歩み」)。塩谷時敏(青山)先生はこの間大正14年に逝去されている(「誌」)

 そのことはとも角としても、学生剣道界の状況の変化ということも考慮しなければならなかった事情ではないかと思う。「歩み」は『ながらく一高撃剣部を母胎としてきた東大剣道郎は、大正11年頃から世代交代がすすみはじめ、ここに来てその陣容をまったく一新している』と書いている。旧制高校の設立状況は調べれば判ることだが、ナンバースクールの設置が終り、都市の名称を冠した旧制高校が現われ出したのは大正期であったと思う。そこで学んだ剣道部出身者が大正11年頃東大剣道部の中核をなしたであろうこと、即ち、試合といえば審判付きということに疑を差し挟むことのない剣道界で育って来た者が大宗を占めることとなったであろうことは想像に難しくない。これが無検証不採択の原因であったのではなかろうか。

【随想】

 本稿を執筆しているうちに、いくつかの感想が浮んだので、以下にこれを書き止めてみる。

 まず最初は、勝負の判定基準、即ち、何をもって勝とするかの点であるが、この点に関しては、「誌」も「歩み」も何ら触れるところはない。愚考するに、互に争って勝負をつけるという場合の勝の態様には.三つのタイプがあると思う。

 その一は、実戦の場合の勝であるが、この場合の勝は、相手を殺傷するか、又は相手の戦意を喪失させるかによって得られる。

 組太刀は、実戦に辺い体験を得させるべく、一方ではルールとして〃寸止め〃という危害防止策を定めるも、勝に至る手順の習熟と胆力・心法の鍛錬を目差して考案されたものであるが、互に勝を求めて争うというものでなく(常に仕太刀が勝つという設定になっている)、したがって、この場合の設問とは関係ない。

 第三は、競技性(スポーツ性)に傾斜した勝負における勝である。打突の部位を特定しておいて、相手を気剣体一致(あるいは気剣態一致)の下に打突した場合を勝とするものである。

 以上に対し、第二のタイプの場合は、以上の二つのタイプの勝の中間を占める、いわぱグレーゾーンとも名付けられる勝である。

 時代は江戸時代だと思うが、木刀を使っての他流試合に臨んだ二人の剣士のうち、一人が相手の籠手を斬り、他方がすかさず籠手を斬った相手の面を打ったのに対し、互に自己の勝を主張したという話がある。寵手を斬られた剣士の主張は、「自分の流儀では、相手に籠手を与えて、その間に相手を倒すのが勝と教えられている」と云い、他方の剣士は、「相手の体の部位を最初に斬った方が勝である」ということであった。

 江戸時代には、道場は、流儀の秘密を守るため、外部からの覗き見を防ぐ構造になっていたと云う。

 勿論、江戸時代でも、例えば御前試合のように見る者の存在を前提にして勝負を競う場合がなかった訳ではない。そのような場合、一方の剣士が「参った」と負けを認めれば勝負の帰趨は明らかであるが、藩の指南役等の権威者でなければ、その判定が困難であった事案もあったことであろう(普通の者には勝負の帰趨は判然としない)。

 時代は下り明治初期になると、庶民にとってはそれ迄は見ることが難しかった剣術の試合を見ることができるようになった。撃剣興行である。この興行は武士階級の困窮を救うぺく案出されたとの話であるが、興行を行う側としては、勝負の行方が観衆にハツキリと判るようにする必要が感じられたであろう。この辺りから剣道の競技性(スポーツ性)への傾斜が始まったのではなかろうかと思ったりしている。

 明治20年頃創部の歴史を持つ一高撃剣部は、当初から塩谷青山先生並びに幕末維新の動乱期をくぐり抜けてきた根岸信五郎氏の薫陶のもとに出発している。矢崎憲正氏(松江高、京大)だったか土田国保氏(東京高、東大)だったかが第一生命相悟道場における自らの、一高撃剣部OBを相手にしての稽古の体験を評して、「一高撃剣部の剣道は斬る剣道である」と某紙のコラムに評したことがある。その一高撃剣部にしてからが、弥生会という会を組織して、大正8年の九州遠征の武者修行を試みた際、熊本で「各学校選手並びに武徳会会員と猛烈なる地稽古をなしたるが、其勇猛なる体当りには一同大いに得る所ありと記録している(「誌」)。一高の剣道が「斬る剣道」ならば「斬る剣道でない剣道」とはどのような剣道か,思うにそれは「竹刀を操って叩く(或は当てる)剣道」という趣きの剣道であろう。即ち「跳び込み面」や「引|き上げ面」に見られるような技を是認する剣道であろう。

 小生が剣道を始めた昭和10年代の頃は、普段の稽古でも組打ちが行われた。相手が被っている面の蒲団部分の後部の縁を掴んで手前に引き寄せ戦闘能力を奪うなり、或は相手の面の垂れの部分を握って面を脱がせてしまうことをもって勝とした。

 また同じ頃の市民剣道大会では、異種試合もあった。薙刀と剣道の対戦である。戦闘は剣が相手とは限らないとの発想であろう。剣士の側は普通の防具の他に臑当てを着けての試合であるが、普段の稽古では、面、籠手、胴、突きの四箇の打突部位に対する攻防であるから、自ずと臑の防禦は疎かになり、剣士の側は分が悪かった。

 以上、これらのことは、剣道をしてできる丈実戦体験に近からしめようとの発想を持つものとして括り得るタイプかもしれないが、但し、危険を避ける防具の装着は、生命を賭しても戦うという実戦との間には二律背反の関係を生じ、胆力養成(胆力開眼)という目的の達成との間ではなかなか困難を伴う宿命を背負っている。

 以上のことはさておき、折角だから「誌」も「歩み」も触れていなかった「審判規程」はどうなっているかに目を回けてみることにした。

 「歩み」には『大日本武徳会は明治28年に設立され』とあり、また別の箇所に『「中学校令施行規則」が一部改正され、撃剣及び柔術を正科として体操科の中に加えることとなったのは、同年(明治44年)7月30日であった』とある。この二つの事実は、それらの時点で審判規程乃至は勝負の判定基準が定められていたのではないかとの憶測をもたらす。

 審判規程について真正面からこれを採り上げて記述しているのは、「財団法人全日本剣道連盟三十年史」の記述である。その記述とは『武徳会時代の試合審判規程は現在のように整備されたものではなく、別掲のように条文も十か条前後のきわめて簡単なもので、試合規則と審判規則をまぜ合わせた、いわば試合者、審判員の心得書のようなものであった。(中略)。当時、剣道は武道としての性格が強く打ち出され、審判員が心眼で審判するという考えが強く、しかも武徳会の規則が全面的に行われたわけではなく、陸海軍にはそれぞれの規則があり、当時盛んに行われた高専剣道大会、学生連盟などでも独自の立場からの規則を実施していた。』との記述であり、別掲のタイトルは「昭和2年5月改訂大日本武徳会剣道試合審判規程」となっている。別掲のタイトルに「昭和2年5月改訂」の文字があることは、それ以前のものがあることを物語っているが、その内容は不明である。「当時剣道は武道としての性格が強く打ち出され、審判員が心眼で審判する」という表現は言い得て妙と云うべきかもしれない。

 いずれにしても、現在の剣道は、全剣連制定の試合・審判規程によって競技性に色濃く傾斜したルールの下に勝敗を争っているが、実戦の体験の味得を目差し、迫真性を求める勝負と、競技性(スポーツ性)を追究する勝負との間で揺れ動いたであろう前述の「勝の態様の考察その二」に係る勝負において、勝とした判断の実態を探求してみることは、――前述の二律背反の宿命を負いつつも――温故知新、思わぬ知見が得られるかもしれない、

 最後に、無検証に関係があるか否かは判らない小生の体験を一つ述べておく。頃は平成になってからだが、東京都江東区の少年剣道大会に招かれて出席した時、主催者から来賓の高段者との試合を懇望された。主催者の依頼の言葉は「お稽古拝見でお願いしたい」であったか「手の内拝見でお願いしたい」であったか、とに角、審判は立てないというものであった、

 この審判を立てないという発想が無検証の主義に連なるものであったのか、高段者同志の試合であるから、その判定を検証するなどは恐れ多いという発想に出たものかは知らない、

 試合は高段者同志の試合であるから、お互い攻守は堅く、トーナメント方式のように優劣をつけなければならない状況ならばその想いが勝敗の帰趨に作用することもあろうかと思うがそうした状況ではなく、また時間が限られた出来事でもあったので、結局無勝負に終った。だが、それでも相手の手の内を推測するには十分であった。