電脳日本の歴史研究会blog

日々、徒然なく語ろうかと…

特別何があるというわけじゃありません、単に自分が思ったり、感じたりした事だけを語ろうかと…。

 毎年、5月18日は静岡県熱海市伊豆山、興亜観音において例祭が行われている。
 ここ最近は仕事が忙しく、中々向かうことができなかったが、ラッキーにも今年は参加のチャンスが偶然出来た。

 と共に、風光明媚な熱海伊豆山の興亜観音の美しさを以前から知って欲しいと考えていた。
 ドローンを飛ばそうと考えるも風が強く難しいと思っていたが、撮影を始めると突然、強い風が止んだ。

 今まで幾度もトライしようとした際には、雨や風が多かったが、偶然、今年の例祭は撮影が行うことが出来た。(映像の木々の揺れに注目)
 そこで早速、ユーチューブにUPしてみた。

 午後1時の例祭から1時間近く経っての撮影だが、阿羅健一先生や藤田裕行さん達と会え、大満足でした。
 4Kで撮影した映像なのに、ユーチューブにUPすると画像が一気に悪くなるので不満ではありますが、美しい映像美の一端を感じて頂きたい。
 

 雑誌『WiLL』2017年5月号に、水間政憲『「南京事件」の死者数がわかった その数1793人』論文について余りにもバカげた主張を今でも行っていることがメールから報告を受けたので一応、まとめておく。

 これは今でも水間政憲氏が南京事件の死者数を1793人と主張しており、余りにもずさんな説過ぎ、困り果てる上に、この様な幼稚過ぎる説を流布させること自体、南京事件において弊害化するのは間違いなく、彼の余りにもずさん過ぎる説について解説、否定しておく。

 まず、彼の主張が正しいとするならば、南京大虐殺の死者数は1793人となる、彼は自身で「南京虐殺は存在する」と認定しているようなものであり、南京事件の中間派と自称し宣言しているようなものだ。

 そもそも基としている朝日新聞朝鮮版の記事の元となっている情報が紅卍字会による公式発表である。
 それを持ってして紅卍字会の埋葬数と合致するなどと主張はマッチポンプ意外何物でもない、全くバカげている。

 これについて、以下を参照して頂きたい。

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『ミニー・ヴォートリンの日記』 1938年4月15日
DIARY OF WILHELMINA VAUTRIN

卍会の本部を訪れた時の会合の後、彼らは私に以下のデータを示してくれた---彼らが、遺骸埋葬が可能だった間、即ち1月中旬から4月14日までの間、彼らの会は、市内に1793体の遺骸を埋葬しており、このうちの約80%が市民だった。市の外には、この間に彼らは39,589体の男性、女性および子供を埋葬しており、このうち約25%が市民だった。

After the meeting when calling at the headquarters of the Swastika Society, they gave me the following date --- From the time they were able to encoffin bodies, i.e. about the middle of January to April 14, their society had buried 1793 bodies found in the city, and of this number about 80% were civilians outside the city during this time they have buried 39,589 men, women, and children and about 2_1/2% of this number were civilians.

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 まず、遺体を市民と判断したのはどういった根拠なのか?
 恐らく遺体が軍服では無く平服をまとった人物をそう紅卍字会が判断したのであろう。

 1937(昭和12)12年13日の南京戦において陥落直前、多くの中国軍兵士は戦闘服を脱ぎ捨て、平服へ着替え、南京城下関の悒江門から脱出しようと大混乱に陥り、日本軍により掃討され、安全区、建物内へ逃げ込んだ事は言うまでもない事実である。

 その後、日本軍は入城と共に掃討を行い、彼ら国際法違反の中国軍兵士(便衣兵)を南京城内において処刑したがこれらは(陸戦法規)国際法違反であり、何ら問題は無い。
 この際に、平服に着替えた兵士の死体が数多く存在していたことは外国人の記録にも残されている。

 つまり、この紅卍字会の埋葬根拠については信ぴょう性が低く、さらにこの発表を聞いて朝日新聞が朝鮮版の記事にしただけである。
 史料価値で言えば、1938年の紅卍字会の埋葬記録は2等史料。朝日新聞朝鮮版は3等史料である。水間氏が主張する様な1等史料では決してない事は言うまでもない。

 そもそも水間氏は史料の等級分類に対して知識すらない。 
 更に、南京戦後遺体埋葬を指揮した南京特務機関員・丸山進氏や特務機関長・大西一氏が戦後語ったインタビュー内容を以下に要約すると。【丸山進氏インタビュー

 ① 中国軍兵士の死体埋葬は2月まで行われず、放置されており埋葬が完了したのは3月15日。
 ② 紅卍字会の埋葬対数、約3万2千体のうち約1万7千体は水増ししている。

 要するに①②を理解していれば、朝日新聞朝鮮版の1793人という内容が紅卍字会の発表を元に書かれており、紅卍字会の埋葬記録自体が如何に不正確であるか容易に理解できる。
 そもそもボートリンが出席した際の会合に朝日新聞の記者が同席していたかすら怪しい上に確認できない、つまりほぼ人づてによる伝聞による記事だと断言できよう。(2等もしくは3等史料以下となる)

 1938年3月15日に埋葬を終えているにもかかわらず、翌4月15日までの遺体をなぜ日本軍による処刑の埋葬数だとしなければならないのか?それ自体、水間氏の南京事件に関する知識が低いことが証明できる。
 さらに言えば、遺体について当時の南京における史料は山ほどあるが故・高橋義彦氏からの手紙には中国人の遺体に対する考え方が書かれており大変興味深い。

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死体を1ヵ所に集める習慣


 《昭和17年12月、私は南京城内の軍官学校に駐屯していた第15師団の野砲連隊の大隊長として再び南京城に戻ってきました。
 その時、戦闘のあった新河鎮に行ってみましたが、死体は全くありませんでした。
 あれだけ多くの死体をよく片付けたものだと思いました。これらの死体も、おそらく新河鎮付近のどこかまとめて埋葬されたと思います》
 さらに高橋氏は、中国人が戦死した死体を1ヵ所に集める習慣があることを証明する興味深い事実を目撃している。
 《昭和12年12月17日、南京の中山門を通った時、城外には約60ほどの中国人の死体がころがっていました。
 昭和17(1942)年に再びそこを通ると、白骨化した死体がそのままあったのですが、どう見ても数が多くなっているのです、少なくとも白骨死体が500くらいはあると思われました。
 戦争当時よりも死体が6倍以上も増えるなんておかしいと思いましたがすぐ合点がいきました。
 死体がすべて中国人によって集められてここに置かれたのでしょう》
本多氏の言う”万人抗”なるものは中国兵の戦死体を中国人が一ヵ所に集め、あとで埋葬した場所にすぎないようだ。では江東門付近の「死体橋」は事実なのであろうか。
 《本多氏は当時12歳くらいの中国人の証言をそのままうのみにしています((注)本多氏は孫殿炎さん=59歳=の目撃談を引用)。
 そもそも江東門と江東村の間に流れていた運河は幅20メートルくらいでした。
 しかし本多氏が引用する目撃者は幅4、50メートルの運河の橋と言っています。
 運河の幅からしてそもそも記憶が間違っているわけです。それに日本軍は工兵隊がいましたから、2~3時間あれば、20~30メートルの橋はわけなく造ることが出来ます。わざわざ運河に死体を重ねて死体で橋を造り、その上を通る必要など全くないわけです》
 また前述の鵜飼敏定氏もこう断言する。
《江東門の警備を担当したのは第3大隊ですが、警備期間は7日に過ぎず、12月15日、師団長、旅団長の戦場視察、17日軍の合同慰霊祭、続いて太平府への出発準備と部隊は多忙を極めていました。わざわざ死体を積み上げて”死体橋”をつくるなど考えられません》(「南京大虐殺」問題取材班)

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 そもそも、紅卍字会の埋葬報告書は2度改ざんされている。
 
 1.1938(昭和13)年の埋葬時
  2.東京裁判時に提出した際

 2度も改ざんされている史料は価値はゼロである、ましてや又聞きし内容が不正確な新聞記事など当然である。
 こんなバカげた紅卍字会の埋葬体数といったいい加減な根拠を持って、多くの研究者達が扱わないのは当然であり、ましてやこの程度のモノをもって主張など私ですら恥ずかしくて絶対に出来無い。

 ごく最近の自称・南京事件研究者は、新史料等を発見する事が出来ないため、既存の史料を思い込みやどう考えても合理性に欠ける独善的思考を持って歪曲解釈が得意な連中が異常に多くなりつつある。
 無論、こうした連中の土壌に藤岡信勝、東中野修道らの様な盗用グループの存在が大である事は否定出来ない。
  
 以上、水間政憲説は本人も含め「完結」したと断言できる。
 しかし、水間氏が虐殺肯定者へと転向した事もどうやら致し方ないであろう。なぜなら、ロクに史料を精査も出来ない、入手も出来無い部類なのだから。

 流石、能力が低い藤岡信勝一派の亜流メンバーだけはある。
 彼らは基礎知識、最低限度の史料すら所有しておらず、無論図書館などにも一切通わない。

 90年代にはこのような連中の存在はほとんどなかったが、藤岡信勝グループが彼らの様な存在を育て育んで来た、全く呆れるばかり。
 流石、「完結」「ケリをつけます」と出来もしない上に、妄想レベルのレッテル貼りや勝手な思い込みをするだけはある。(笑)

 正直、この連中、南京事件の研究に1欠片も貢献どころか役にも立ってない。
 東中野と言い、基礎能力すら備えてない低レベル自称・研究者を大量生産した事でむしろ何1つ新史料を発見する労力よりも既存の史料を歪曲し手前勝手に解釈する方向へ努力する!まさに心底、大間抜けである。

 これでは将来「南京事件があった」と考える人たちが増殖しても仕方ないのでは無いか?
 藤岡信勝のBSフジでの情けない対応を見ても十分理解出来る。※BSフジ()(

 1997(平成9)年12月13日に東大にてプロパガンダ写真研究会設立を藤岡信勝東大教授(当時)によって発表された。
 主旨が書かれたA4サイズの紙が配られた。

 私は別に興味も無かったが、1月頃に藤岡信勝氏から電話をもらい参加を呼びかけられたので1998(平成10)年2月の第1回研究会から参加し、10月頃まで参加している。(その後私が退会したので研究者が不在となり自然解散)
 
 これは98年10月頃から栃木の谷原茂夫なる人物が、私が藤岡信勝を批判しているなどとネットの書き込みを編集し文書をばらまき、この頃、私も藤岡信勝達に対して辟易しており、余りの酷さに(個人的に詐欺師などが会員にも多くおり、当方も事業を行っていたが茂木弘道らに騙され、一旦事業などをたたまねばならない状況となった)退会すべきであると考えた。

 この間の約10か月、毎月1回土昼1時から18時までの間に研究発表を行っていた。(ちなみに当時、茂木弘道は藤岡信勝の大のお気に入りであった)

 話は逸れたが、会での研究発表を盗用する事しか頭に無い、全くの役立たずの顧問の2名であったが、唯一、東中野修道亜細亜大教授が発表を行っている。
 今読むとお笑い内容だが、しかしどう考えてもこのレベルがどうやって『「南京事件」証拠写真を検証する』等と言った写真検証本を出版出来るのか不思議でならない。(笑:実際98年の発表をそのまま盗用しているからだが…。)

 この映像はユーチューブでも公開しているいるが、当時、パラマウント・ニュース映画社のアーサーメンケンが南京陥落と同時に撮影を行っていおり、後半には南京戦以前の映像も含まれているモノの、別段問題のある映像とは言えない。

 途中、男性がカメラに近寄っているが、大阪毎日新聞記者・五島広作氏であり、その模様について阿羅健一著『「南京事件」日本人48人の証言』(小学館文庫)に証言しており、当人と確認出来きた。
 この映像については拙著『プロパガンダ戦「南京事件」』(光人社)に分析を行っているので参照して欲しい。

 ずらずらと述べたが、第2回プロ写研にて東中野が配布した分析が残っており、それを公開したので、そのお笑い発表を読んで欲しい。
 この発表直後に、写真など研究どころか才能も無い同じく顧問の藤岡信勝氏も批判していた。(この2名は顧問という肩書だけで役立たずで、発表者の研究を盗用するだけの存在であった)

 東中野修道によるとこの映像にある南京の建物は全てセットだそうだ。
 流石に、当時、聞いてた連中が絶句していた。

 まぁ、読んでみて下さい。(笑)爆笑モノです。
 http://www.history.gr.jp/nanking/owarai_higashinakano19980314.pdf

 藤岡信勝氏の南京SM店のイベント写真をチベットでの処刑と断ずるレベルと大差ありません。
 こうした過去の事実を次々と上げないと、「貴方との付き合い方を考える」等と事情を理解せずに突然言い放つ連中が多すぎるので…次回は、故・濤川栄太氏を冒涜し続けた藤岡の言動とそのバックグラウンドが誰で、どの様に暗躍をしていたか話すのもいいかもしれません。

 
 

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