2006年02月15日

スポーツ精神3

4年に一度の冬季五輪が始まりました。
サッカーW杯も同じ4年に一度です。
スポーツ選手は、どんな種目であれ、どんなに素晴らしい選手
であっても必ずピークがありそして限界があり、最後には引退がある。
これは当たり前の理ですが、長い4年間の月日は有名選手を良くも悪くも
変えてしまいます。
私たちはつい4年前の記録を期待したり、8年前の感動を再びとか、
前回と同じまたはそれ以上の期待をしてしまいますが、トップアスリート
にとって4年間の長い年月をトップでい続けることは至難の技であると思います。

「生涯現役」という言葉がありますが、オリンピックの舞台で世界最高峰を
目指す選手にとって「生涯現役」はありえません。

18歳で出場するような若い選手には、ベテラン選手のような多くの悩みは少ないと思います。
何よりも若さと勢いで、ベテラン選手をうまわまることがあります。
時には彗星の如く現れた選手が金メダルをとることもあります。
そういった選手を見ると、とても嬉しい気分になります。
ただスポーツが好きだという一心不乱の姿が他を寄せ付けない強さに変わるのだと思います。

一方、ベテラン選手には、若い選手にはない精神的な強さと、何よりも数々の試合をこなしてきた百戦錬磨の経験があります。そして体力面での衰えをカバーするトレーニングも身に付けています。
何かトラブルがあっても、多くの経験が、環境に左右されない力となるのでしょう。
周囲の環境や、ライバルの選手に心を動かされてしまっては、その時点で自分の気持ちが負けてしまって、勝負にも負けてしまうでしょう。
技術や体力面が、若い選手と大差なければ、ベテラン選手のほうが圧倒的に強い精神力を持っているのではないでしょうか?
結局のところ、強靭な精神力を持つものがトップになると思います。

スポーツは、国民に大きな夢を与えてくれます。
それはただ優勝したから嬉しいとかではなく、そのスポーツ選手の「取り組む姿勢」が、私たちに勇気を与えてくれます。また中にはスポーツ種目の中だけではなく、その選手の「生き様」とか「選手生命」「人生」そのものに心揺らされる想いを受けることがあります。
・・・このような強い精神力を持った人になりたい!とか。
・・・私も頑張ろう!という気持ちになったり。

結果が出るのは1回勝負であったり、一瞬の出来事ですが、
そこにはその選手が今まで歩んでこられた人生が映っています。
日本選手はメダルはとれずに苦戦のようですが、
メダルの色だけではない、感動できる試合をぜひ見たいと願っています。

2006年01月01日

1年の計は元旦にあり5

2006年になりました。
あけましておめでとうございます!
本年もよろしくお願い申し上げます。
ed493ec2.JPG
これは八仙人の絵です。
日本では七福人が有名ですが、古くから中国では仙人思想があります。
七人よりも一人多いですね。でも同じように船に乗った絵がよく描かれます。

その前に、昨年の雑感を・・・。
1年前にはスマトラ沖での大地震・大津波が起こった直後での新年でした。
日本でも大地震がいつ起きてもおかしくないといわれ、
実際に2004年の中越地震の後でもあり、
災害に対する不安感や警戒感が強いなかで新年をむかえました。
その後九州や東北地方など様々な箇所でも地震がありましたね。

阪神淡路大震災から10年が過ぎ、あの日を忘れないとの思いも、
やはり年月が経つと薄れてきているように感じます。
戦後も60年が経ったということは、「戦争を知らない子供たち」が、
すっかり「大人たち」となり還暦を迎えたということです。
これはとても大きな問題だと思います。
戦争という過去を知らない世代が、日本人の大半を占めるように
なってきたのですから。
そして憲法改正への動きが加速しています。
時代が変われば法律が変わりますが、過去の大きな経験から
今の平和憲法ができたのですから、安易に「改正」を
口にすべきではないと強く願います。

現在の法律では、事件が多く、個人情報の保護やプライバシーの保護が
手厚くされるようになってきましたが、
これは益々人が人を信用しない社会をつくっています。
子供たちが安心して過ごせるまちづくりをするためには、
「防犯」に力を入れるのではなく、「人が人を信用する社会づくり」に
力を入れるべきと思います。
人が人を信用しなくなったら、どんどん人間関係は希薄になり、
うわべだけの関係になってしまいます。
凶悪な事件が起きる度に、人を信用する心が無くなってきているように感じます。
これはとても残念なことです。
小学生に防犯ブザーの使い方を教える教育は、良いとは思えません。
人を疑うことを教えるよりも、信用・信頼することを大人が見本として
伝えたいですね。

元旦は、新たな気持ちで迎える特別な日です。
過去を振り返ってばかりでは、何もはじまりませんが、
歴史からよく学び、よく反省して、これから何をすべきかを
教訓としていかなければなりません。
「ぐらぐら」っと大きな地震が来れば、はっとしてこんなことをしている場合ではないと思いますが、平穏に新年を迎えると、そんなことは忘れています。
今年は何をすべきか?今日の元旦という日に、1年の計をたてたいですね。

皆様はどんな計をたてられますでしょうか?


2005年12月17日

口は災いのもと2

私たちは普段、自分は悪いことはしていない。
ましてや犯罪は犯していないと思って過ごしています。
でも、それは何でもって判断しているでしょうか?
例えば生命あるものを殺したら罪であるということを知っていれば、
そのようなことは罪だと認識します。
また法律で禁じられていることを知っていれば、
そのようなことはしませんし、犯罪は犯しません。

しかし何が罪になり、何が罪でないか、
まだまだ知らないこともあります。
形には残らないことでも、自分では知らないうちに多くの罪を
つくっているかもしれません。

例えば、人のいないところなら何をしてもよいのか?
滅茶苦茶なことを口にして人を傷つけたとしても、いいのか?
それは明らかに罪になりますよね。
目に見えない行いのことですが、証拠があるとかないとかは関係ありません。
人に見つからないから良いとか、バレなければ良いとか、そういうことは関係ないです。
「誰が見ていなくても、明らかに天は見ているよ」と昔の方はよく言われました。
結局のところはひとりひとりの善の心(道徳心)があるかないかではないでしょうか?

法律にひっかからなければ良いとか、見つからなければよいとか、
そういうところから人は嘘をつくようになるのでしょうか?
口が罪をつくっていることをよく認識しないといけません。
口には四悪あると言われ、
「悪口・両舌・妄言・綺語」です。
悪口を言ったり、人によって言うことを変えたり、
嘘を言ったり、事実を曲げて大げさに誇張して言ったり、
そのようなことは自分では罪とまでは思っていないかもしれませんが、
「口は災いの元」といわれるように、口が業をつくります。
おしゃべりは気をつけないと・・・

黙々と為すというのは難しいですが、できる限り口は慎しみ、
善の言葉を口にしていきたいですね。

2005年11月24日

萬物の霊長1

あまりも、信じられない事件が続いています。
幼い小学生の子が・・・。
ニュースを見たり新聞を読むのが嫌になります。
恨みがあるのかないのか、動機が何なのか、
犯人の心境は逆立ちしても理解できませんが、平気で人が人を殺す時代。
この1年間でどれだけの残酷な事件を聞いたでしょうか?
日本の社会は、今あきらかにおかしくなっています。
綺麗な建物や豪華な店が立ち並んでいて、外国から見れば先進国であり、
一見平和な国に見えますが、実際はどうでしょうか?
平和な国と言えるでしょうか?

人間は、数えきれないほどの種類がいる動物の中でも、「萬物の霊長」といわれます。
若い世代では、こういう言葉も聞かなくなっているかもしれません。
人間は、明らかに他の動物とは違います。
それは生まれながらに持っている「先天の知恵」です。
人間は先天から授かった知恵がありますから、問題や大きな壁にぶつかった時に、
どのようにこの壁を乗り越えようか?とか、
今度同じことが起こらないように、どのように回避しようかとか、考える能力があります。
人間の先天の知恵には「良知良能」が備わっているために、他の動物とは違うことができる能力を天から与えられています。
それで「萬物の霊長」と言われますが、これは人間だけが特別な存在だから、人間は好き勝手しても良いと解釈するのは間違っています。

良知良能により、火をおこしたり、電気を発明したり、風雪をしのぐ家を建てたりして、文明を発展させてきました。
便利な社会をつくりあげたように思いますが、今は便利になりすぎて、その弊害がでてきていると思います。
24時間コンビニやスーパーがOPENしていて、便利ではありますが、
一方で、いつでも好きなときに好きなものだけ食べて、好きなときに寝る。
このような生活ぶりは、個の尊重ではなく、わがままな生活・自分勝手につながりかねない。
自分は自分。人は人。そんな個人主義に走っています。
すべてコンピューター化が進み、本来の「人間らしさ」がなくなってきました。

動物は、人間のような知恵を持っていませんから、電気を発明したり、できません。
お腹がすいたら食べ、寝たいときに寝る。
それと比べてみると、動物と変わらない生活をしている人間が増えています。

そして世の中で起きている殺人事件は、あまりにもひどい。
「自分さえよければいい」「人の痛みを感じない」そんな人が人として生きていますが、果たしてそこに「人間らしさ」は存在するでしょうか?
相手の立場になって物事を考えることができるのが人間です。

腹が立つから殺した。これでは動物と変わらないどころか、
理由もなく同じ同胞の人同士で殺し合いをすると、それは動物以下かもしれませんね。
動物でも意味なく殺し合いはしません。ましてや親子や友人同士でのトラブルも・・。
せっかく人として生まれたのだから、ジコチューではなく、
相手の立場になって物事を考える生き方をしたいですね。

2005年11月11日

木をきるな!木に気をつけましょう!!2

e13ed6f0.jpg古来より、木や石には精霊がいるといわれていますが、
皆さんは信じられるでしょうか?
普通、植物は、私たち人間や動物ような感覚も持ちませんし、霊はありません。
つまり輪廻の中には組み込まれていませんし、因果もありませんから、
木を切ったところで恨みをかうようなことは、普通ありません。

でも昔から「この木はきるな」と言われている木がありますよね。
その町にいる年配の方が、「この木は昔から守られているから、
切ったら駄目だ」とか、「この石は動かしては駄目だ」とか言われますよね。

それは明らかにその木や石に精霊が宿っているからです。
蛇も採ったり殺しては駄目だといわれますね。
霊が宿っていて、1000年とかとても長い年月をかけて精になるそうです。
人間の霊は、よく生きても100歳かそこらですから、桁が違いますね。
ですから、精になるこのような霊はとてもとても力が強いのです!!

目に見える世界では、人間が強く、簡単に自然破壊をしていますが、
目に見えない世界では、このような精霊の力のほうが圧倒的に強く、
このような木を切ったりすると、「えらい目」に会います。

動かさないように、しめ縄などで巻いてあったりするのを見かけますよね。

この写真は、奈良へ行ったときの唐招提寺の南大門前で撮った写真です。
なんと、木を動かせないので、木をよけて道が作ってあります。

昔の人はこのようにして、目に見えない霊を大切にしながら自然界と共存されてきたのですね。

現代社会は、目に見えない世界を信じなくなってきました。
そういう方々は、平気で木を切ったり、環境破壊をしていきますが、
もしもそこに精になる霊がいた場合は、「どえらい目」に合いかねないので、
気をつけましょう。
目に見える力よりも、目に見えない力のほうが、圧倒的に強いのですから・・・

2005年11月08日

奈良へ・・・3

9b221734.JPG昨日は久々の休日。奈良へ言ってまいりました。
滋賀県から京都や大阪方面はよく出かけますが、
奈良へは行くことがありません。

鑑真和上で有名な唐招提寺へ。
現在はメインの金堂が大修理中。
平成21年に完成ということで、
入っていきなり仮設の大きな建物に
すっぽり覆われていました。

唐招提寺は、入口の南大門から見る
金堂の眺めが素晴らしいはずなのですが、
それがあまりにも「無機質で仮設的」な
建物に覆われていて、見えないので、やはりがっかり。
工事中は承知のうえで行きましたので、
金堂が見れないことは分かっていたのですが、
その仮設の建物の眺めがあまりにも不似合で残念・・・。

イタリアでの建物の修理中を見たことがありますが、
外観を損ねないように、修理中の建物の絵が描かれた
シートで覆われていました。
工事中であっても、その建物のイメージを崩さないためでしょう。
今回のは、そんなことを言っていられないほどの、大掛かりなプロジェクトですが。

日本のお寺や神社は、建物の保持することに凄い力を注いでいます。
お陰で1200年以上前の建物が現存していたり、正倉院展では飛鳥時代のもの
も多く展示されていました。
唐招提寺でも、今回の大修理をはじめ、建物の説明をビデオを流してアピール
されていました。
でも本当に聞きたかったのは、鑑真の一生とか、寺の建てられた当時の話とか。
そういう説明が全くないのでちょっと残念でした。

奈良国立博物館で、正倉院展があり、多種多様のものが見られたので良かったです。
こういうものも1,200年とか1,500とか長い年月の間、保管され続けてきたと思うと、
文化を守る姿勢は素晴らしいなあと感じました。
もちろん、公園内では鹿さんたちにも会えました。続きを読む

2005年10月29日

毎日訓3

00304526.JPG佛は悩まないといわれます。
悟ったものは一切を正しく見ることができ悩まない。
迷い悩むものは衆生といわれます。

私たちは人生の中で多く迷い悩むことがありますが、
どう過ごしたところで、今日いちにちは一日。
それならば、精一杯ただ頑張って生きていきたい。

壁にぶらさげる「毎日訓」というものがあるのでご紹介します。
これは「こころの処方箋」という名前で販売されていました。
こころに効く薬は、現代医学では見当たりません。
精神安定剤・睡眠薬を飲んでも心が晴れることはありません。
「こころの処方箋」とはなかなか良いネーミングですね。

毎日訓

晴れても

曇っても

がんばっても

なまけても

いちにちは一日。

きょうを精一杯生きてみる

まずそれから。

2005年10月27日

イエスは復活する5

d9e51e40.JPGキリスト様の絵を描いてみました。

キリスト教では、イエスが復活すると信じられています。
イエスが亡くなられて3日後に、亡くなられたはずの肉体が
なくなっていたという話は有名です。

三天後に復活すると言われて、世界中では今か今かと
待っておられる方も多いようですが、三天というのはお釈迦様が
言われた末法の世の時代のことであり、まさに私たちが生きている
現代を指します。
亡くなった人間は復活するはずがないと、一般常識では思っていますが、
それは目に見える肉体だけのことです。
肉体は生まれては死に、死体となっては消えて亡くなります。
これを肉体の「一生」と呼んでいるわけです。
しかし霊性は不生不滅であり、滅びることはありません。
真である霊性のことがわかると、「復活する」ということも、
真実味のある話とうけとめることができると思います。

2005年10月11日

全身全霊4

今日はテレビのバラエティー番組で、
「霊魂と死についてまじめに語ろうスペシャル」というのがありました。
番組最後の部分しか見れなかったのですが、
最後に科学者などがでてきて、霊魂はあるともないともいえないとか、
科学では証明できないと言われていました。

ゲスト出演の美輪明宏さんも言われていましたが、
今の日本の教育は、目に見えない部分をすべてそぎ落としまっっています。
そのために、
「目に見えるものしか信じない」
「科学的に証明できる世界がすべてである」と
このような狭い視野でしか物事を考えられない人間を育ててしまっています。

目に見えないものを信じるところに、善悪の判断基準があります。
そうでないと、人の目に見えないところなら何をしてもよいという
考えが育ってしまいます。
「悪いことをしても、見つかれなければ良い」
「嘘をついても、バレなければよいとか」
つまり「今さえ良ければ良い」という短絡的な考えになってしまいます。

番組の最後では「人間の脳が発達したために、霊魂の存在を考えるようになった。」
と解釈されていました。
この考えは「今さえ良ければよい」ではなくて、
「未来のために今を頑張る」という考えです。
霊魂の存在を信じる人ほど、今がよければ・・・ではなく、未来の為に今何をすべきか?を深く考えられるのではないかあと思いました。

霊魂というのは、目に見えない世界のことを言うのですから、
どれだけ時代が進み、科学が発達したところで、目に見える科学の世界ではいつまでたっても解明されることは無いと思います。
目に見えない世界のことを、目に見える世界のものさしで、
判断しようということ自体が不可能なことですね。

先日、プロ野球の巨人新監督に原さんが就任することになり記者会見がありました。
原新監督は、「優勝という目標に向かって全身全霊、全知全能をかけて戦い抜きたい」
といわれました。
この「全身全霊」という言葉になるほど!と共感を覚えました。
私たち人間は目に見える肉体の部分「全身」を、プロの世界でいくら鍛えても、それは仮のものであり、限界があります。
しかし「全霊」というと、目に見えない部分のことですから、それは限りなくひろく、無限です。
「全身全霊」の言葉通り、目に見える全身と目に見えない全霊から人間は成り立っています。
目に見える肉体しか信じない風潮が増えている現在の社会のなかで、
「全身全霊、全知全能をかける」と言われた原監督は、素晴らしい発言をされたなあと感心しています。

2005年09月27日

賢を見ては斉しかんらんことを思い・・・4

子曰く、賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては内に省みる

賢というのは賢い人のことだと思いますが、これは単に学校の成績が良いという人ではないと思います。
人間的に賢い人。といっても、つかみどころがないので難しいですが、素晴らしい人のことを「あの人はできた人だ」などという表現がよく使われるのではないでしょうか。

このような素晴らしい人を見ては、同じようになろうと思い、反対に不賢(つまらない人)をみては、自分もそうならないように反省する。

素晴らしい人を見て、自分も「ああなりたいなあ」と思うのはよくあることです。
これは比較的たやすいことだと思います。
その反対の場合はどうでしょうか?
不賢な人がいたときには、その人に対して様々な感情を抱き何か言いたくもなりますが、それでは自分が反省することはありませんよね。

これは、分かりやすい言葉で「人のフリみて我がフリ直せ」ということだと思います。人の行いを見たときに、自分を省みる、反省をするのは難しいですね。

2005年09月15日

犬の前世3

犬が仏様にお辞儀?

今日は、こんな世界のニュースがありました。
「犬がお辞儀をする!」というニュースです。
これだけなら、「へえー」が一個くらいですが、
なんとしっかりと仏様にしっかりとお辞儀すると。
そして、ニュースの見出しが「前世が和尚?」と書いてありました。

どういうことでしょうか?
犬の前世が分かったのかなあと思い記事を読んでみると、
そこのお寺の和尚さんのコメントから、書かれたようです。

この寺の和尚は、「30匹の珍島犬のうち一番賢いハマに簡単な訓練をしたところ、お辞儀ができるようになった」とし、「前世で仏様と縁があるのではないかと思う」と語った。
朝鮮日報2005年09月15日16時12分

というニュースでしたが、
せっかくなので、おじぎしている写真が見られたらいいのにと思いました。
この短い文章の記事だけでは、どんな犬なのかも分かりませんね。
どこかに写真の記事はないかな?

2005年09月07日

無功徳3

達磨大師:「無功徳」この一言に、とても惹かれる。

悟りを得た人(聖人)は、無駄な長々とした話をされない。
常に真理を話し、間違った人の考えには、端的な言葉で返答される。
禅宗の問答には、こういったやりとりの話が多くあります。

達磨大師は、インドから今の中国へ道を伝えにやってきました。
達磨大師は、後に禅宗の開祖と言われています。

その頃、中国では梁の武帝の時代、彼は仏教を厚く保護していました。
武帝は多額の布施をし、仏教保護政策によりお寺を建立したり、仏教の研究に努めたと言われています。
インドからはるばる偉い僧(菩提達磨)が来られたということで、梁の武帝は、面会する。
そこで武帝は、今までの自分の仏教への貢献を「私の功徳はどのくらいあるだろうか」と達磨大師へ聞かれた。
そこで、達磨大師は一言「無功徳」と言って
少林寺へ立ち去ったという話です。

一言だけ応えて、すぐに少林寺に立ち去ったどうか?そこまでは分かりませんが、
この「無功徳」という言葉は、有名な言葉となり言い伝えられています。

つまり、武帝がどれだけたくさんのお寺を建て、お経をあげて仏教を研究しても、自分のしてきたことを「どれだけしたか?」と聞いたことで、「見返り」を求めているわけですよね。
せっかくの多くの行為も、こんなにしたんだから功徳があるだろうという心ですれば、功徳が全くない=無功徳と言われたのですね。
「どれくらいあるか?」という問いに対して、「功徳が全くない」とは、
あまりにも短く、的確な答えであり、現代においても惹きつけるものがあります。

その後、達磨大師は、「面壁九年」という言葉もあるように、少林寺で九年間壁に向かって座禅し続けたと言われています。
それで手も足もでなくなって、手足のない「だるまさん」のモデルになったそうです。
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2005年08月28日

目に見えないこころの教育が最重要課題3

今日は、KBS京都のテレビ番組「どうする京都21」というのがあり、
「戦後60年日本の教育は間違っていたか?義務教育のあり方を徹底検証」という特番をしていました。
番組内で、視聴者の意見を募集されていましたので、昨日に引き続き日本の教育に対する私の雑感を書きました。

成績の良い子=頭の良い子ではありません。テストの点数が良いだけ。
知恵のある子=賢い子であります。

一律に成績の良い子を育てようとする今の教育方針は違うのでは?
たとえ成績が良くても、気に入らないことがあれば怒る・キレルそのような人間を育て、はたして「教育」と言えるのでしょうか?
●教育とは、人間を育てること。
●社会に出て生き抜く力をつけることである。
これは、今の教育の最も抜けている点【盲点】ではないでしょうか。
目に見えない部分の教育が、欠落しています。
これは道徳教育であります。目に見える点数ばかりを求める親にも責任がありますが、教育は目に見える部分だけではないですよね。
例えば、
●掃除がとてもじょうずな子
●動物の世話がじょうずな子
●料理ができる子。
こういった子供たちは、今まであまり見むきされませんでしたが、これからの社会においては、貴重な存在になるかもしれません。

目に見える結果だけを求める教育では、社長や上司の目に届かないところでは、さぼります。
目に見えない教育が行き届いた子供たちは、目に見えないところでも努力します。

評価が目に見えなくてもいいではないでしょうか。
先生のために教育があるのではない。先生や学校に評価が返ってこなくても良い。子供たちが、将来健全な道を歩むことができれば、その時に始めて評価が見えてくると思います。
有名大学に進学できても、それは受験に合格した一瞬の評価です。長い人生の中で、多くの困難挫折が必ずやってきます。進学という一瞬のための教育をやめ、長い人生を歩む力をつけることをしていかないと、日本丸を漕いでいく力はなくなると思います。続きを読む

甘える2

体罰が、「良いこと」か「悪いこと」か?
もちろんこれは、誰が言っても、「悪いこと」である。
しかし、厳しくすることは必要であると思います。

体罰という結果だけをとらえて議論してしまえば、これは明らかに「悪いこと」です。
しかし、今の日本の教育・指導の現場において必要なものは何か?
よく考えてみる必要があるのでは?と、ある野球部のニュースを見ながら思いました。

約束を守らなかったり、道徳に反することをしたら、「廊下にたってなさい!」と、
これは以前は(古い人間かもしれない・・・)よくありました。
廊下に立ちながら、先生の言われることは本当なのか!?と考えたり、
悪いことをしたと分かっていながら、いたずらにした場合などは、立ちながら反省したり。
万が一、先生が不条理に間違って怒ってしまったとしても、生徒は「今度は見てろよ!」と悔しさを体験しながら、その悔しさをバネに大きな成長をとげると思います。
その一つの経験が、大人になった時には大きな経験として残っているはずです。

しかし、今の教育はあまりも、過保護といいますか、親バカといいますか、
子供がかわいいからと、子供を叱ってくれた先生に、親が文句をいう時代です。
これには大きな???を感じます。
自分の子供に、厳しくしてもらって、「ありがとうございます」「もっと。叱ってやって下さい」というのが、本来の親のセリフではないでしょうか?
親も先生も、地域の人も、まだ精神的に未成熟な子供たちに対して、甘やかすばかりで真剣に教育する人が少ないのではないでしょうか?
先生がいじめたわけではなく、教育の一環で行っていることに、子供や親・マスコミが取り上げて批判してしまえば、大事な日本の教育が益々、卓上だけの教育となり、体を張った生きた教育がなくなるのでは?と、不安を感じてしまいます。

決して体罰を肯定しているのではありません。ただ、誠心誠意で、心の教育をする熱血先生が消えていけば、親も言わない教育を誰がしていくのでしょうか?
道徳に反することをしたとき、また甘やかしてばかりの子供には、大きな心の成長を測るために、厳しくする必要があると思います。
続きを読む

2005年08月26日

出処進退

経済界だけではなく、戦後の日本人に大きな道しるべを与えられた、松下幸之助氏の、「続・道を開く」より掲載します。
聖人の言葉とは違いますが、的を得た理は、道理に通じるものがあると思います。
時代は変わっても、古今を通じて道理は不変ですね。

道を開く

出処進退(しゅっしょしんたい)

日本古来の武士道については、いろいろと解釈もあろうけれど、これはつまり要するに、人間の出処進退の真ずいを教えたものであると思う。
やってはならんときには、やってはならん、
して、やらねばならんときには、断固としてやる−これがつまり武士道というものなのである。

お互いにわが身がかわいいから、自分の利害損失について敏感であるのはあたりまえではあるけれど、しかし、わが身の利害得失のみで是非善悪を論じ、出処進退を決するならば、これは動物と大して変わりのないことになる。
いつもそうであれとは言わないけれど、やらねばならんときには、一身の利害を第二にして、一つの強い使命感のもとに、断固としてやる。
また、やってはいけないときには、たとえ面目がつぶれても、き然としてやらない。
それができるところに人間としての一つの尊さがあるのである。
利害、面目を超越して、常に真実に立ち、真実に直面して事を進めていくという心がまえが大事なのである。
お互いに弱い人間ではあるけれど、折にふれてこういう反省も加えてみたい。

以上、「続・道を開く」より引用させていただきました。
もうすぐ9・11選挙がありますが、議員(元議員)さん方は、まずは何よりも自分の椅子を確保することに必死となっていますよね。
自分の利害ばかりを考えていれば、結局は自分を苦しめます。
自分を守るために、是非善悪を口にして出処進退を決めるものではないと言われています。。

公の心で人民に尽くす心で行政が進めば、自然と国民もついていくでしょう。
このまま独裁政治への道を許してしまったら、日本丸の舵取りは、大きく歪むでしょう。
自分の利害は片隅において、真実を隠さず、直面して道を歩んで行きたいですね。

2005年08月23日

金剛輪寺に行ってきました3

昨日は、珍しく少し観光へ入ってきました。
観光といっても、東近江市のすぐ隣、秦荘町にある金剛輪寺です。
湖東三山の一つとしてよく知られ、シーズンになると県外からも来られる大勢の観光客で賑わいます。
金剛輪寺

どこの観光地でもよくあることですが、県外や地方など遠方からは、大勢が観光バスに乗ってまで来られます。
「一度行ってみたい」と思うのでしょう。

しかし地元の方は、案外行ったことがなかったりします。
「いつでも行けるし」と思うのでしょう。
実際、私もこんな近くに住んでいながら初めて行きました。

ここの寺は、歴史が古く聖武天皇の祈祷寺として行基が、741年に開かれたということです。710年(なんと)綺麗な平城京の時代ですね。
行基によってつくられた仏像があるといわれるのは、全国のなかでも各地にあるようです。各地を行脚されたのですね。

金剛輪寺には、聖観世音菩薩像が行基の作とされ本堂に安置されていますが、こういったものは案の定といいますか、扉の中で見ることはできませんでした。

長い参道を歩いていくと、その道の両脇には数え切れない圧倒的な数のお地蔵さんが並べられていて驚きました。

仏教には「不殺生」の教えがありますが、ここの境内には精進料理の食べられるところがあります。
菜食者(ベジタリアン)の私としては是非一度行ってみたいなあと思いながらも、時間がなく参拝して手入れされた庭園を見て、帰ってきました。

蓮の池がある庭園には、たくさんのお猿さんたちが山から来ていました。修練する動物たちはお経を聴きに降りてくると言われます。
写真が撮れなくて残念でしたが、顔を見ると皆逃げていきました。

金剛輪寺 周辺図
滋賀県愛知郡秦荘町松尾寺

2005年08月19日

剣をさやに収めなさい。2

「剣(つるぎ)をさやに収めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
(マタイによる福音書)

イエスを逮捕しにやってきた兵士をペテロが斬りつけたことに対し、語られた言葉だそうです。

ここで、簡単にペテロについて・・・
ペテロはイエスの12人の弟子(12使徒)の中でも第一弟子であり、
イエスより天国の鍵を預かりました。
なので彼の銅像などには、鍵を持っている姿が多いようです。

ペテロ


ペテロはイエスが逮捕された時、3度イエスを裏切りますが、イエスの死後は
キリスト教団の基礎を築くことに力を尽くしました。
今年の4月はローマ法王ヨハネパウロ2世の葬儀をされたカトリック総本山の
サンピエトロ寺院は、ペテロが皇帝ネロの迫害を受けてローマで殉教しましたが、その墓の上に後に建立されたのが始まりだそうです。(凄い歴史ですね)





サンピエトロ大聖堂


イエスは、自らが逮捕されるときでも、弟子には「剣をさやに収めなさい」と言われたのですね。
「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」と言われていますが、
今の時代は、勝ち組と負け組みで線引きされる2分割の時代になりました。
言い換えれば、弱肉強食の時代。弱いものは強いものに巻かれろと言わんばかりの、
生き残りをかけたサバイバルな社会ですよね。
また政治の世界でも「刺客」という戦法?が出てきています。
「目には目を」「剣には剣を」そんな感じではないでしょうか?

これではいつまでたっても、争いは続くばかりです。
いつまでも「剣」を使った争いをしていれば、「剣で滅びる」ことになることを
イエスは明言されています。
世界全体の平和で例えるなら、話が大きくなりますが、「核」による平和はなく、核を使えば「核で滅びる」ということもあてはまると思います。

さやに収めることは、簡単なようで難しいですね。
目の前に敵がいても剣をさやに収めることができるでしょうか?
まずは、許すことからはじまるのではないでしょうか。

2005年05月31日

天下に道あれば

「天下に道あれば、早馬をしりぞけてもって糞す。
天下に道無ければ、戎馬(じゅうば)郊に生ず。」


馬のことが書かれていることは分かりますが、
言葉が難しいので、ちょっと意味が分かりませんね。

現代語風に書くと、
「天下に道がおこなわれているときは、平和であり足の速い馬は追いやられて畑を耕すのに使われる。
天下に道がおこなわれていないときは、軍馬が都市周辺に増える。」
とこんな感じの意味のようです。

宇宙万物創生の本源が道です。
天下に道がおこなわれているとき、人々は「足るを知る」。
足るを知れば、天下は平和です。
平和であれば、足の速い馬であっても、畑を耕すのに使われています。
しかし天下に道がおこなわれなくなると、人々は利を求め名を争ってしまいます。軍馬が増えてしまいます。

同じ馬という動物でも、道がおこなわれているかどうかで、
使われ方が変わってしまうということですね。


何か物事を判断するときに、陰か陽かというものさしで計ります。
善か悪かという判断基準も、陰陽で成り立っています。
何か事の判断をする時に、陰なのか?陽なのか?二つに一つという選択肢になります。

時代は変わっても、人がおこなうべき「人道」というのは変わらないはずです。古今を通じて、善悪の判断基準というのは不変のはずですが、近年になり社会は乱れ、善悪の判断基準が変わってしまいました。

人として当たり前にしてはいけないことが、毎日のように平気で行われています。平気で行われるということは、悪いと思っていなかったということです。多くの事件がありますが、事件を起こす以前に、善悪の基準が間違って認識されているのではないでしょうか?
これは、善(+)なのか?悪(-)なのか?
道に従い、陰陽の正しいものさしで判断できれば、間違うことはありません。
「天下に道あれば・・・」という日本国になって欲しいですね。

2005年05月15日

知行合一

知行合一

この言葉は、陽明学の祖と言われる王陽明が唱えられました。
「知っていて行う」「知っていることと、行いが一致している」ということです。

物事はすべて、善か悪かという判断で、成り立っています。
まずは、何が善いことで、何が悪いことなのか、知ることが大切です。
しかしどんなに素晴らしく善い事を知っていても、「行い」が伴っていなければ、ただ知っているだけです
知っていて行わないのは、未だ知らないことと同じであるということでしょう。

知っているだけではなく、「行う」という行動が大切であると、言われたのですね。
「知行合一」この言葉の意味をよく考えてみると、「知ること」よりも「行い」に重点がおかれているように感じますが、ただ「行う」だけでは、意味をなさないと思います。

やはり何が善で、何が悪なのかをよく「知ること」が必要です。
そうでないと、知っているから行ったのだ!といわれても、善悪の判断基準が間違っていれば、いくら行っていても、その行いは悪い行いになってしまいます。

善悪の判断基準って何でしょうか?
時代は変わっても、人が行うべき人道というのは変わらないはずです。古今を通じて、善悪の判断基準というのは不変のはずです。
しかし現在の多くの事件が多発している社会を見てみますと、
どうも基準が変わってきているように感じます。
人として当たり前にしてはいけないことが、毎日のように平気で行われています。多くの事件がありますが、そもそも事件を起こす以前に、善悪の基準が間違って認識されているのではないでしょうか?

今の日本では、目を疑うような、耳を疑うような事件が増えています。
その事件が少しの過ちであったとしても、善悪の判断基準があれば「悪いとは知りながらつい・・・」とか、「悪いことをしたと反省しています」とか、そういう言葉がでてくるはずです。人間誰にでも過ちはあることですし、完璧な人はそういないはずです。ただ、何か事件が起きてしまったときに、このようなコメントがあれば、善悪の判断基準はあったということが分かります。

しかしながら、耳を疑うような事件というのは、
誰が見てもあきらかに悪いことをしておきながら、「別に悪いと思っていない」とか、「○○だからした」といい訳をしたり、このようなコメントが出てくることです。悪いことをしておきながら、平気でいるということが信じられないことです。こういった場合は、悪いことを「行う」以前の問題であり、善悪の判断基準が社会通念上から全く逸脱しています。

はっきりとした線引きが目に見えない事ではありますが、
善悪の判断基準の教育が必要だと思います。
こういった教育は、本来家庭で培っていくことだと思いますが、核家族が増え親の価値観も多様化し、親の判断基準が間違っている場合もあるのではないでしょうか?
おじいちゃんおばあちゃんの判断基準がしっかりしている家庭は良いですが、今や家族だけではこの問題は解決しないと思います。
最近は「注意するおじさん」が町からいなくなったといわれます。
ほんのひと昔まえまでは、知らないおじさんであっても、「〜したら駄目だよ!」と、注意されたものです。それが今では、正しく注意しても、反対に逆ギレされて注意した方が刺されたら困るからと、注意できない世の中に変わってしまいました。
地域社会や学校だけでなく日本の国あげて、このような教育をしていくべきではないでしょうか?
このままでは、人として行ってはならない行為が増え続け、それが当たり前の社会になっていくような気がします。そして善悪の判断基準がどんどん下がっていくと思います。
まずは、身近なところから、できることから、「知ること」そして「行う」ことができればいいですね。

2005年05月01日

性あい近きなり

子曰く、性相い近きなり 習い相い遠きなり

性とは、昨日の「天の命ずるをこれ性という」と同じ性のことでしょう。
性とは、人間の生まれ持った性であり、先天的なものです。

孔子が「性相い近きなり」といわれたのは、生まれ持った先天的なものの差はあまりない(近い)とのことです。

「習い相い遠きなり」といわれるのは、生まれた後に習った後天的なものの差は大きい(遠い)とのことです。

確かに、同じ時代に同じような地域に生まれている時点で、
先天的な差は少ないかもしれません。
しかし、人間は先天的な差があることも事実です。
生まれ持った性格も、「性」のひとつですが、
百人いれば百通りの考え・性格があるように、
生まれ持った「性」はなかなか改めることができません。

それでも孔子は、後天的に習うことのほうが、差は大きいといわれています。
たとえ、先天的な差があっても、後天的に学び習うことで、これを上回るほど大きな力があるということでしょう。
「性格だから」とか、「生まれつきだから」とか言っていないで、
学びを通して、大きく変えることができれば良いですね。
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