カエルの卵

「蛙の卵が池からなくならないのと同様に、アイデアは決して枯渇することはない」(ドラッカー)をモットーに、大学院生の男女2人が政治や経済を中心に、哲学や法律など幅広いテーマで論じます。

ヒューリスティクス概念の整理

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前回の「肉じゃがはクリエイティブな食べ物である」で検討した「制約がある中での思考」の一つとして挙げられるのがヒューリスティック(ヒューリスティクス)である。行動経済学のある種のブームによってヒューリスティックという概念は有名になったが、その概念が独り歩きしているきらいがあるので、その概念を整理してみよう。

ヒューリスティックという概念が主に使われるのは計算機科学と心理学である。計算機科学では、アルゴリズムによっては無限の計算時間がかかって計算不可能な状態が出てくるので、その場合に近似的な仮定を置いて計算するという意味でヒューリスティックが使われる。人工知能研究において、あらゆる情報処理を行おうとするとプログラムが停止してしまうという難問は、一般にフレーム問題と呼ばれる。

後者におけるヒューリスティックも基本的には同様の概念である。真壁(2010, pp. 188-194)の整理では、人間が意思決定をする場合には、「情報の多さ」「情報の複雑さ」「情報の曖昧さ」「限られた時間」「限定的な記憶能力」などの制約があり、それを解決する為の「直感的な判断」がヒューリスティックである。こうした思考の限界は、サイモンを始めとして「限定合理性」と呼ばれる事も多い。(経済学における合理性の限界とその後の流れについては塩沢(1997:第3部)がうまく整理している。)

人間の心理や思考だけでなく、前述のアルゴリズムなども含めた広い意味でのヒューリスティック概念把握としては、齋藤(1998, pp. 80-86)コーエンの工学的見地からのヒューリスティック解釈を元にした議論が参考になる。

齋藤は、ヒューリスティックの特徴として以下の4点を挙げる。

1. ヒューリスティックは 解を保証しない。
2. あるヒューリスティックは、他のヒューリスティックと矛盾する可能性がある。
3. ヒューリスティックは問題解決における検索時間を減少させる。
4. ヒューリスティックを受け入れることは、絶対的な基準ではなく直接的な文脈に依存する。

ヒューリスティックは物事を直感的に捉える思考なので、1. 示されるように、それが間違っている可能性はある。だから自ずと、2. のように、同様の情報源から導き出された複数のヒューリスティックが全く異なる結論を示す事も十分に有りうる。(株式市場におけるアナリストの予測なんかを見ていればよく分かるだろう。)

こうしたリスクを受け入れてヒューリスティックが用いられるのは、3. のように意思決定における時間を軽減出来るという最大のメリットがあるからだ。

最後の4. が肝である。ヒューリスティックは基本的に「特殊な文脈」で役立ち、それ自体が科学的な基準に基いているわけではない。科学法則自体は、科学革命なんかで取り替えられたりする事があるかもしれないが、ヒューリスティックは、その受容の文脈や基準が変化して「使われなくなる」事があるかもしれないが、そのヒューリスティック自体は妥当であり続ける

分かりやすい例で言うと、ニュートン力学の後に、より事象の説明力が高いアインシュタインの理論に置き換えられたわけだが、ニュートンの理論自体は今でも使われている。ボウリングのピンに向かってボールを転がした時の力をアインシュタインの理論を使って説明する事も可能だが、大抵はニュートンの理論を使って近似的に説明されるわけだ。これは、ヒューリスティックの一種である。齋藤の言葉を借りれば、ニュートンの理論は、科学革命によって「科学理論」から「ヒューリスティック」の位階に位を落としたとも言えるのだ。しかし、ニュートン力学は「ヒューリスティックとしては妥当であり続ける」という意味である。

以上、簡単ではあるが幅広い分野で使われるヒューリスティック概念について整理してみた。この整理にも不十分な面は多々あるだろうが、その議論の背景を知る上では事足りるのではないかと思える。


参考文献
齋藤了文(1998)『〈ものづくり〉と複雑系――アポロ13号はなぜ帰還できたか』講談社

塩沢由典(1997)『複雑系経済学入門』生産性出版

真壁昭夫(2010)『行動経済学入門』ダイアモンド社

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肉じゃがはクリエイティブな食べ物である

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柔軟な発想によって新しい物事を生み出すという意味での「創造」を起こす上で「制約が重要だ」という説が多くある。(例えば「制限」が創造性を高める理由を参照。勿論、真逆の説を唱える研究者もいる事に注意したい。)一口に制約と言っても「時間制約」「金銭制約」「空間制約」「情報制約」など幅広く、制約があるからこそヒューリスティックのような直感による発想や、既存の知識に囚われない柔軟な発想が可能だというような話だ。(俳句なんてのはその典型である。)

この中でも本稿では「情報的制約」に注目するが、そのヒントとして伊東俊太郎の『文明の誕生』を用いる。伊東は文明の発展を人類革命、農業革命、都市革命、精神革命、科学革命の5段階に分け、そのうちの都市革命に論点を絞って考察をしているが、そこで注視されているのが「遊牧民による情報の伝播」である。文明が発達する時に遊牧民が移住先に伝える情報や文化が、文明の発達に大きな影響を与えるというのが伊東のロジックで、その伝播には大きく分けて2種類(直接伝播と間接伝播)ある。

直接伝播とは、ある文化(注1)の具体的内容を説明する事で、その文化を知らない人に伝える事である。一方で間接伝播(刺激伝播とも言う)とは、直接に文化要素がそのまま伝えられるのではなく、「具体的内容をともなわない観念だけ」が伝わる事である(伊東, 1988: 100-104)。

伊東は、この両者の違いを「文字」で説明している。実際に文字を書いてみせたり、文字が書かれた何かを見せたりして説明し、その文字が普及していくのが「直接伝播」である。しかし、その実例は何も無いが、「言語を視覚的に保存する方法がある」という観念だけを伝え、それを知った人(元の文字を見た事は無い人)が独自に新しい文字を作り出すのが「間接伝播」である。伊東は、エジプト文明を形成する幾つかの要素がメソポタミア文明の間接伝播によって出来たという可能性について言及している。

実際に「文字」を見た上で新しい文字を作ったり、その文字を改良したりするのではなく、文字を見た事が無い状態で「観念」だけを知って、あの象形文字を作ったとすれば、それは極めて創造的であると言えるだろう(注2)。

文明の誕生レベルでの「創造」についての例以外で、「情報的制約(ここでは観念のみの知識)」による創造は何があるだろうか。筆者が一つ思いついた例は「肉じゃが」である。

明治初頭の日本海軍で脚気が流行した際、英国から帰国した高木兼寛(後の東京慈恵会医科大学創設者)は、その原因を食事に求め、海軍の食事を洋風にする事が検討され、メニューが研究された。その頃、東郷平八郎は英国留学時代に食べたビーフシチューの味が忘れられず、断片的な情報(具材・デミグラスソース等の概念のみ)だけを元に料理長に再現するように求めたわけだ。その料理長は、情報や材料に制限がある中、たいそう苦労して再現に勤しんだであろう。特にデミグラスソースの観念の再現の為に醤油や砂糖を使い、出来たのが肉じゃがであったわけだ。(話の詳細は肉じゃが誕生秘話で。)これは作り話であるという説もあるが、もし事実だとすれば、極めてクリエイティブではないかと思えるのだ。

今の時代のように、簡単に文章・画像・動画などが情報通信で行き交ったり、或いは直接海を渡って伝わったりするのが当たり前の時代には、こうした間接伝播は起こりにくいものと思われる。しかし、逆に言えば、直接伝播が簡単な時代であるが故に、間接伝播による創造の可能性が損なわれている側面もあるかもしれない。最近(特に戦後以後)でこうした間接伝播による例を残念ながら思いつかなかったが、もし何かそのような例があれば、是非ご教授いただきたい。


注1:ここでは、伊東による文化の定義、「自然にあるものではなく、ある人間集団に共通する一定のパターンにしたがって「人工のくわえられたもの」」(伊東, 1988: 95)をそのまま使う。

注2:伊東によると、メソポタミア文明はエジプト文明に影響を与えているものの、文字についてはその類似性は全く無い事を指摘している。

参考文献
伊東俊太郎(1988)『文明の誕生』講談社学術文庫

凡海郷(おゝしあまのさと)「肉じゃが誕生秘話」


水野孝彦ニッポン(2007)「食材風土記 安芸津のジャガイモ(広島県東広島市)」『日経レストラン』Vol. 392, pp. 142-144
 
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情報発信者の責任は「規範」に過ぎない

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ちきりん氏( @InsideCHIKIRIN )の発言、イケダハヤト氏( @IHayato )のエントリーから始まり、「情報についての責任は発信者にあるか受信者にあるか」というテーマが話題になっている。

「影響力があるんだから発言に責任を持ってください」(iHayato.news)

影響力がなくても発言に責任はあるでしょ(Parsleyの「添え物は添え物らしく」)

情報の受信責任と発信責任(Film Goes with Net)

イケダハヤト氏(iHayato.news)は、法令に違反するとか特殊な例を除いて基本的には情報の取捨選択の責任は受信者にあると言っている。ちきりん氏も基本的に同様の考え方である事がツイートの引用から分かる。

それに対してParsley氏は、書き手(特に仕事で書いている人)は発言に責任を持つべき(持てない人は書くな)というような事を述べている。

杉本穂高氏(Film Goes with Net)も書き手として責任を持つ必要がある事は認めつつも、発信者責任だけを求めたり、受信者責任だけを求めたりするアンバランスに疑問を呈している。


筆者としては、どれも本質的にはどれも同じ事を言っていると考える。その違いは「規範」についてどう捉えているかというだけの違いではないか。

Parsley氏や杉本氏が言うように、仕事で文章を書くなら、確かに「責任」を持って質の高い、若しくは信憑性の高い情報を提供する方が一般に読者の信頼を得られると考えられ、営業上望ましいというのは当然だ。しかし、だからと言って「責任を持って発言しなければならない(義務)」というわけではなく、「責任を持って発言した方が長い目で見れば自己の利益になるよ」というくらいの話(つまり規範(法規範以外の規範を指す))でしかない。これは、いじめの正当性と道徳教育でも書いたことだ。

だから、無責任な発言(デマとか)ばかりをしていたら、当然、読者が離れていくわけで、市場から淘汰されていくだけの話だ。普段のちきりん氏やイケダ氏の発言を見る限り、「情報の取捨選択の責任は受信者にある」という言説には、単にこうした市場の特性が意図されているだけで、別に「発信者が無責任良い」と言っているわけではないだろう。せいぜい、「無責任でも良い」というくらいの話だ。

と考えれば、どの方も「責任を持った発言」が「規範」である事は十分に理解しており、それを敢えて言うか言わないかくらいの話ではないか。


しかし、確かに敢えてデマ等を飛ばして炎上マーケティングをするような書き手も存在する。しかし、だからと言って「無責任な発言をしないでください」と批判するだけでは何も生まない。「発信に責任を持たなくて良い」という発言をしているからと言って、その人が本当に無責任に発言をしているとは限らないのだ。(責任を持って「責任を持たなくて良い」と言っている可能性もある。

少なくとも批判するなら、「無責任な発言をするな」ではなく、「◯◯という理由で発言に根拠が足りない」とか「△△という理由でその発言は事実ではない」という風に根拠のある批判をすべきだろう。発信者に責任を求めるのに、批判者(発信者の一人)は無責任で良いというのは筋が通らない。


とは言え、無責任な発言者は市場から退出して欲しいというParsley氏の意見は筆者も同感であるし、「発信者は責任を持つべき」という規範にも大いに同意出来る。但し、その規範を人に強要すべきかどうかはまた別問題である。

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