40代での結婚&高齢出産!(閉経後の更年期バトル編)

アメリカ在住歴26年、50歳。3年間のネットお見合い婚活を経て、40歳で国際結婚。すぐに妊娠するも8ヶ月目にして突然の死産!子宮筋腫開腹手術、妊娠糖尿病を経て、42歳でめでたく女児出産。『赤ちゃんのドレイ』時代を終え、育児は楽になったものの閉経後の更年期症状と戦う毎日。

父の火葬式準備 & ホルモン補充療法開始!

もうすぐ2017年も終わりなんて信じられませんね!なんとか年内に更新しようとスタバにクロームブックを持って参りました。今回も父の葬儀&ホルモン補充療法2本立てでいってみましょうか!葬儀関係に興味の無い方は後半からお読みください。

霊柩車に乗せられた父を涙で見送った私。もう明け方の5時半になっていた。段々と明るくなる風景を見ながら、母とタクシーで自宅に戻る。この頃やっと兄からメールが。

「メール読みました。また連絡します。」

結局一睡もしていない母だったが、いまだに涙を流さずに静かにしている。午前10時になると、兄から電話がかかる。

「俺さ〜、今日出勤したんだけど、ちょろっと同僚に昨夜父親が亡くなったって話したらみんなに『お前こんなところでなにしているんだ、早く帰れ!』っていわれちゃってさー。なんか3日でも5日でも休み取れって言われちゃったから、引き継ぎしたらそっち行くよ。」

兄が来るのなら寿司でもテイクアウトするか。昼頃寿司をピックアップした後、兄をバス停で待って、実家までの坂道を一緒に歩いた。彼は平然としている。私は聞いた。

「ばっちゃんの今後のことなんだけど。。。」

「あー、わかっているよ。俺がこの団地に引っ越すよ。俺の会社の近くに二人で住めるアパート見つけたり、引っ越ししたりなんて金ねーからさー。ばっさん一人暮らしさせて倒れられたりしたら厄介なことになるからな。」

「ばっちゃんが、遺族年金と自分の年金入れたら一月にしたら17万ちょっと入る計算になるから迷惑はかけないって言ってるよ。」

「そんなこと言ってたなー。俺も30年近く住み慣れたアパートや好きな街を離れるのはきついんだけど、しょうがねーよなー。」

そんなことを話しながら、実家に戻ると、母が言った。

「あー、おかえり。今ね、あちこちの部屋の電気が着いたり消えたりしたんだよ!」

これって父が存在を示すための心霊現象ってやつ?来てくれているんならありがたい。

それから3人でお寿司を食べた。でも兄は父の批判のような話ばかりしている。

私には優しかった父だが、兄には実は冷たかったのかもしれない。

兄が来るたびに、学歴の話や、なんで結婚しないんだと批判ばかりしてよく喧嘩になっていた。

家族で歩いていた時、父の知り合いとばったり駅で会ったら、私のことは紹介して、兄のことは無視していたこともあった。

「おまえとかりりんは反対に生まれりゃよかったな〜。おまえももっと妹みたいに野心を持て!」

と、たまに兄に嫌味を言っていた。

大学進学も考えていたが、父のコネも手伝って技術系で有名な大企業に採用されたので、機械いじりが大好きだった兄はすぐに就職し、その真面目さと勤勉さは社内でも評判で、勤続36年。高校も県立で両親には迷惑を全くかけずに、逆に親の老人詐欺の借金の犠牲になって、今も独身でコツコツ働いている。

それに比べ金食い虫の私は高校から私立で、やれ演劇活動だの、短大卒業後にアメリカの大学まで出してもらって、仕送りもしてもらい、エンターテイメントカンパニーに就職するまで長い間親の脛かじりだった。

子供の頃は父によく美術館に連れて行ってもらったり、一緒に不動産物件を見に行ったし、大人になってからは父の自営業を手伝って一緒に商売をしに地方を回ったり、アメリカやメキシコに商品の買い出しに行った。私と父は本当に気があって仲が良かったが、兄と父の間に溝があったのは、父の死後に実感した。

今後の残務整理について兄と話し合った。まずは、兄がこれから役所に行って死亡届を提出してくることになり、私は、名義変更の手続きを担当することになった。光熱費や、新聞、携帯、NHK受信料などすべて父の名義だった。死亡届を提出したら、もう父の口座から自由に現金を引き出すことは出来なくなるので、コンビニに行って最後の残金を引き出してきた。

難関は戸籍謄本がなければ携帯や銀行口座の名義も変えられないこと。戸籍謄本はいまだに父の故郷にあるので、まず死亡届が反映されるまでに2週間かかり、それから取り寄せにも日にちがかかる。火葬式には死亡届提出後に役所から発行される火葬許可証が必要だし、そのあとは埋葬許可証がないと納骨もできない。

ネットで調べていると国から葬儀補助金5万円出るとのこと。これは葬儀代の領収書をもって役所に行き、手続きの後、2ヶ月後くらいに入ってくる。

お経も無しの火葬式ではあまりにも父が可哀想なので、ネットで見つけたお坊さん便ドットコムというところから僧侶を派遣してもらうことにした。

電話をすると、まず、父の故郷の菩提寺の住職から口頭でよいので派遣僧侶依頼の許可をもらうように支持される。田舎の和尚様に叔母にお伺いを立ててもらうと、快諾してくださった。それから宗派を伝えると、すぐに火葬所近郊で臨済宗の僧侶が見つかったとのこと。読経だけで、全て含めお布施は3万五千円とのこと。

そして数時間後には派遣されるお坊さんご本人から確認の電話を頂いた。とても優しい喋り方で、礼儀正しい方だった。戒名は菩提寺の和尚様に付けていただく話をすると、俗名を半紙に書いて当日に木の位牌に貼り付けてくださるとのこと。

一方、家族葬専門葬儀社e葬儀葬式センターから派遣された葬儀屋さんは、申し訳なさそうに、

「火葬所が予約で埋まっていて、火葬式が6日後になるので、霊安室代が高くかかってしまい、火葬式と合わせて合計32万円になってしまいました。30万円を超えてしまってすみません。」

と見積もりを送ってきてくれた。

一方、色々手続きをしていくうちに両親の電気、ガス、水道代、携帯は6月から、介護保険料などが今年の2月から滞納されていることを発見!母に聞くと、

『あら、そうだったかしら?今度から口座引落としにしますって言ってくれたからそのままにしていたんだけど。。。』

まさか、母は認知症の始まりか。。。。?そういえば同じ話ばかりするようになったっけ。。。と、母を物忘れ外来に連れて行くことに決めたのであった。

さて、ここからはおまたせのホルモン補充療法、HRTについてのレポです。

主治医の先生も同意し、婦人科でホルモン補充療法を検討してもらうため、予約の電話を入れたが、来年の春まで予約はいっぱいと言われる!アメリカは医療費は高いし、予約制で、緊急時以外は何ヶ月も待たされることが多い。

あきらめかけると、受付の女性は、看護師なら2週間後に相談にのってくれるという。アメリカは医師不足で、看護師が診察することも多い。もうこの際医師でなくてもHRTさえ処方してもらえるのなら看護師でもいいか。ということで、2週間後に予約を入れた。

そしていよいよ診察の日がやってきた。診察室で待っていると、長い金髪にネイビーブルーのミニワンピを着てハイヒールパンプスを履いた、スタイル抜群のバービー人形のような看護師さんが部屋に入ってきた。

『ハロー!初めまして!今日はどうしたの?』

と、握手を求めながら笑顔で聞いてきた。物忘れが激しいので、忘れないようにスマホのメモパッドに書き込んだ更年期症状をずらずらと読み上げた。

「物忘れ、肌の乾燥、膣の乾燥、爪ボロボロ、抜け毛、手指の関節のこわばりと痛み、左腕の痛み、骨密度減少症による足首骨折、左足の指の痛み、右足のアーチの痛み、慢性疲労、鬱、ドライアイ、性欲皆無(日本人夫なら問題ないんだろうけど、アメリカ人夫は離婚問題にまで発展する可能性がある!)コレステロール値上昇。。。」

と、諸症状のリストを並べた後、私は続けた。

「えっと、毎回橋の上を運転している時、このまま川の中に飛び込んだらどうなるだろうってそんな画像が頭に浮かんで怖いんです!これって産後うつになった時も手首を切る画像が頭に浮かんで悩まされたことがあります。あと、来月から他州で結構体力使った一人でやるショーが毎日あるんですけど、こんな状態で一ヶ月半もこなせるか心配で。。。セリフもちゃんと覚えていられるのかも不安です。」

と、しゃべっているうちに涙が出てきた。

バービー看護師は優しい目で、

「まー、大変ね。主治医からのカルテを見ると、お父様がお亡くなりになられたそうだけど、それもうつに関係しているのかしら?」と聞いたので、

「いえ、この土地に5年前に引っ越してきてからずっとそんなんです。でもあれも44歳だったから環境が変わったのと同時に更年期の始まりだったのかもしれません。」と答える私。

「あなた、こんなに惨めな思いをしているべきじゃないわ。HRTを試してみましょう。乳がんや子宮がんのリスクが増えると昔は言われていたけど、あれは当時の調査のやり方がまずかっただけで、乳がんのリスクは7%増えるだけよ。半年から一年毎にちゃんと検査していれば大丈夫よ。一ヶ月試して、鬱が続くのなら、カウンセリングや抗うつ剤を考えてみてもいいしね。」

「また生理再開とか言うことはありますか?」

「いえ、それはないわ。もう閉経しているんだもの。とりあえず、乳がん検査と、前歴のある子宮筋腫の検査をしてから、結果を見て、HRTを始めましょう。」

そして触診をしてもらうと、バービー先生、私の左側の乳房にしこりと子宮頸部に筋腫を見つける。確かに胸のしこりは押すと筋肉痛のような痛みで気にはなっていた。

診察の後、乳がんと子宮の超音波診断してもらうと、乳腺の密度が高いためで、良性のしこりだった。子宮筋腫もまた育ってきているので、六ヶ月後に再検診することになった。それでも今の私にはHRTが’必要と言うことで、翌日から小指の先ほどの小さい青い錠剤を服用し始めた。エストロゲンとプロゲステロン混合の錠剤である。これを一日一錠。

2週間ほどすると数年ぶりにおりものがいくらか出た。それも2日でおさまった。乾燥しきっていた身体が潤ってきたということか?起床時に目を開けるのが辛いくらいのドライアイは、フィッシュオイルの錠剤を飲み始めたのもあってか、治まった。

そして一ヶ月もすると、手を結んで開いてがバキバキ痛まずに出来るようになったのだ!左腕の痛みも消えた。物忘れも無くなったし、日本から18時間かけて帰国した翌々日に17時間の運転を一人でしても疲れないし、体調が良い!慢性疲労で、家事さえも出来ずにカウチに倒れ込んでいた私が、すいすいと他州にロード・トリップし、毎日屋外で8回のショーをこなせているのである!毎日幸せ気分なのである。2年間悩まされていた股関節の痛みもない。

足の中指やアーチは素足だとやはりまだ痛いが、これは作りたてのオーダーメイドの中敷きを履いているときは痛まない。この中敷きと靴探しの旅も近いうちに記事にしたいと思う。

長くなりましたが、今回はこのへんで。
もし年内に更新できなかったら、皆さんどうぞ良いお年をお迎えください!


コーネンキなんてこわくない by 横森理香

私が40歳の頃からファンの横森理香さんの最新更年期本。彼女が試した更年期対策、お金に余裕があればすべてトライしてみたいくらいです!


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葬儀社選び&日本のリウマチ科と婦人科診察

閉経後の更年期症状で、忍耐力がなく、前回は父の危篤の知らせを受けたところで終わっておりますが、これからしばらくは更年期症状改善レポと親の葬儀プロセスの二本立てを記事にしていこうと思います。まあ一ヶ月半で記事を更新できたのは、今までの年一回の更新より進歩かもしれません(笑)


87歳の父が肺炎で危篤という知らせを受け、アメリカで3日間のショーをやり遂げ、飛行機を乗り継ぎ、日本に早朝到着。そのまま空港バスに乗り、さらに病院送迎バスの始発を待って、やっと入院先の病院に着いた。父の病室に入ると、点滴を受け、酸素マスクをして眠っている父がいた。電話での兄の話だと、前日に父は目を覚まし、「帰る〜!帰る〜!」と何度も何度も言っていたそうだ。外食嫌いで、いつも家で食事をしたがった父。昨日喋ることができたということは、私が来たことに気付いてくれて、目を覚ましてくれるかもしれない。

思えば7年前に脳梗塞で倒れ、8日間の昏睡状態の後、2ヶ月近くは廃人同様の状態だった父。医師にも見放され、死ぬまで施設で過ごさなければならないと宣告されるも、奇跡的に回復し、失語症は残ったが身体に麻痺も残らず、認知症にもならずに自宅から毎日大好きな図書館に通い、人ともコミュニケーションがとれた。聡明で雄弁、ウィットに富んだ父を7年前に亡くしてしまったかのような体験をしたので、あの時ほどのショックはなかった。というより、今回も奇跡が起こるのではないかと密かに期待していた。

午前10時にやっと母が病室に現れた。この夏から父が食欲がなくて、毎月一キロずつ体重が減っていったそうだ。この時点では、すでに35キロ位になってしまって、手足はガリガリにやせてしまった。前からかかりつけの医師に相談していたが、歳のせいでしょうと言われて特に何も治療はしていなかったとのこと。それでも心配なので、母が8月末に総合病院に連れて行って検査したら、その日から重度の誤嚥性肺炎という診断で即入院ということになった。本人はその日まで図書館通いで、疲れやすいという以外は別につらい症状も訴えていなかったので、心の準備もなく入院させられてしまった。とてもアクティブで、じっとしていられない父は、忙しい看護師が目を離せないということで、ベッドの柱に手をくくりつけられてしまった。そのまま一日中天井を見る入院生活が始まり、自由な足だけは、バタバタ動かして運動をしていたようだ。トイレもおむつを付けさせられて、寝たきりにさせられてしまうこと19日間。そんな状態では筋肉も弱るし、健康な人間でも気がおかしくなってしまいそうだ。声が大きいので、夜は他の患者の迷惑になるということで、安定剤を与えられ、ここ数日間は昼間ずっと眠っている状態だったという。目を覚ませば、「アイスクリームを買ってきてくれ」と母や兄に頼み続けた。しかし入院後は点滴のみで普通の食事もさせてもらえなかった。

母と積もる話をしたり、病院のカフェテリアで食事をとった。父が目を覚ますまでは帰らないつもりでいたが、もう夕方になり、一旦帰宅しようということになった。それでも、父の手を握りしめ、「じっちゃん、かりりんだよ!アメリカから帰ってきたんだよ!」と言って父が好きだった知床旅情を耳元で歌ってあげると、薄目を開き、微笑んだ!そして何か言おうと口を動かしたが、またそのまま眠ってしまった。看護師さんは、「昨夜は興奮しちゃったから安定剤あげたので、まだ薬が効いているのかもしれませんね。」と言った。

実家に戻り、2時間ほど仮眠をとる。そして夜の10時半、病院から電話がなった。父の血圧がかなり下がってきていて、今晩持つかわからないとのこと!

母から兄に電話を入れたが、「俺はちょっと行けねーな。」と言われた。電車で40分くらいのところに住んでいるが、前日会ったばかりだからもういいとか。。。

急いでタクシーを飛ばし、母と病院へ向かった。男性の看護師さんが、「血圧がかなり下がってきているので、(上が60で下が40であった。)今晩が持つかわからないのでお電話しました。患者さんによってはこの状態で2,3日持つ方もおられるんですが、念のためお知らせしました。」と言った。
看護師さんに脈拍計、血圧測定器などの読み方を教わって、父のベッドの前に座った。それから3時間後、脈拍も血圧もどんどん下がってきて、母に看護師さんを呼びに行ってもらった。やがて午前2:13にすべての数値が0になった。。。

午前2:15、若い男性の医師が父の脈拍や瞳孔などチェックをし、静かに告げた。

「ご臨終です。」

父が息を引き取った。。。あの運が強くて不死身の父が。。。

母の話だと、入院してから顔色も良くなり、しばらくしたらよその病院に移って食事療法をやってもらえるかもしれないといっていたのに。。。だから危篤と聞いても、まさか本当に亡くなるなんてピンとこなかったし、葬儀の準備とか考えてもいなかった。。。

しかしそれから1時間以内に葬儀社や霊安室の場所からすべてを決めなくてはならなかった。兄にメールするも返事はなし。。。看護師さんは、10分おきに「葬儀社は決められました?」とせかしてくる。

息を引き取ったばかりの父の横でスマホで葬儀社を探しまくった。ずっと裕福だった両親も70代で女詐欺師にすってんてんにされ、家も全財産も失った。兄も私も彼らを助けるために度々の送金で貯金は底をついた。私には家庭があるし、ダーリンの息子の毎月の養育費20万円があと4年残っているし、来年は大学進学で、これ以上犠牲は払えない。葬儀の予算はたったの50万円。しかし、母の生活費もあるし、30万円以内で済ませたいところであった。格安葬儀社サイトを探すと、NPO法人で24時間葬儀についての相談を受け付けるところがある。夜中の2時半でも電話するとすぐ男性が電話に出た。こちらの事情を話すと、「うーん、格安葬儀社で20万円以下のところは怪しいからやめたほうがいいですよ。」と言われた。

検索していくと、どうやら密葬と言うかたちにして、家族だけの火葬式のみで済ませる以外方法はなさそうだ。父は長男であるが、親戚も先祖代々のお墓も他県で、とても年老いた親戚達をこちらまで呼べない。

病院と提携している葬儀屋は相場より割高なので、霊安室に搬送だけお願いしますと、はっきり伝えるようにと書いてある。看護師さんは病院と提携している葬儀屋さんにお任せすると良いとは言っていた。それにしてもアメリカから着いたばかりなのに、長男は何しとる〜!と焦りながらも、検索を続け、『家族葬専門葬儀社 e葬儀葬式センター』というところを見つけた。電話をすると、市の火葬場は2箇所しかなく、予約で一杯なので、だぶん5−6日間くらいは霊安室に遺体を安置することになり、ドライアイス代などを含め一日2万5千円かかると言う。自宅が一軒家ならオーケーだが、団地の3階なので、自宅保管はできないそうだ。

そうこうしているうちに、病院提携の葬儀屋さんが病室をノックする。人の良さそうな熊さん体型でスーツ姿。汗が顔からしたたりおちていて、心のなかで『汗かきくまさん』とニックネームを付けた。ハンカチで汗をふきながら、彼は、『霊安室代は一日8000円ほどになりますが、火葬式含めた全ての代金を30万円以内で済ませるのは当社ではできかねますので、やはりインターネットで格安葬儀社をお探しになるしかないようですね』と返答した。

e葬儀葬式センターに、病院提携の葬儀社は霊安室代が一日8000円だと伝えると、それは安すぎる、ドライアイス代が含まれていないのではないかと言われた。とにかく火葬式全て含めて30万円弱で収まるとのことなので、依頼することにした。口コミも何件か読んだが特に悪いことは書いていない。ここは葬儀社派遣会社のようで、結局は地元の葬儀社を紹介してもらえて、それによって当たりハズレがあるようだ。早く病室を空けてもらいたい看護師さんであったが、綺麗に父に死に化粧をしてくれた。これも葬儀社に頼むと7万円かかるし、着替えも頼むと、さらに5万円かかるそうだ。父が今夜亡くなるなんて想像できなくて、お気に入りの服を持ってきていなかったので、結局病院の浴衣のままの旅立ちとなってしまった。

午前5時半に依頼した葬儀屋さんが到着し、婦長さんと汗かきくまさんの付き添いのもと、病院の花が沢山飾ってある祈祷室のようなところに父を運び、一人ひとり別れの挨拶をした。

死亡診断書などに署名をし、玄関前のロビーで、静かに眠る父は霊柩車に運び込まれ、婦長さん、汗かきくまさん、母と皆で見送った。婦長さんは『ご長男には連絡されたんですか?』と聞いてきたが、『はい、しましたが、ちょっと出てこられなかったようです。』と答えた。段々と遠くなる車を見送っている間、どっと涙があふれてきたが、母は涙一つ見せずに静かにしていた。この後役所、銀行、名義変更などで山ほどの書類手続きが私を待ち構えていたのである。


さあ、父の葬儀で大忙しの自分であったが、更年期症状もだからといって大人しくしていてはくれなかった。足の裏は相変わらず痛いし、起床時には関節がこわばり、両手をグーパーをしようとしてもバキバキいって第2関節も一日痛かった。こんなんでホリデーシーズンに週五日ショーができるのだろうか!?

まずは一時帰国中に地元のリウマチ科に行ってみた。60代くらいの男の先生は私の症状を聞きながら、「うーん、リューマチは50歳位から発症する女性が多いんだよね〜。話聞いてるとリウマチの可能性もかなりありえますね。でもここで検査したからって、あなた一週間しか日本にいられないし、自費診療だから、アメリカの病院で検査してもらったほうがいいですよ。」とそれだけ。これだけのカウンセリング料に2400円払った。

次に更年期外来でなかなかの評判の新宿の婦人科へ行ってみる。ネットで優しいおじいちゃん先生と書いてあるが、50歳のわたしからすると先生は50代後半か、60代前半にしか見えない。私の話を聞き終わって、「ホットフラッシュはないんですね。じゃあ関節炎に聞く漢方出しておきましょう。ツムラの18番と28番ね。あと、そのアメリカのお医者さんに処方してもらってる膣乾燥用のエストロゲン入りのクリームだけど、それも経皮吸収でホルモン補充になると思うしね。塗り続けたらどうですか?」とのアドバイス。ここはプラセンタ駐車もしてくれるみたいだし、プラセンタのメルスモン入り基礎化粧品も低下より安く販売しているらしい。口コミ通り、先生も看護師さんも診察料に関してとても良心的で、最も安く済む方法を考えてくれた。

しかし漢方薬は穏やかな分、効き目も一ヶ月から3ヶ月経たないと効果があらわれないものである。左足の中指と薬指の攣るような痛みと右側の土踏まずの痛みは収まらない。食感に一日3回まずい漢方薬をお湯に溶かして飲むのも面倒である。

日本滞在の間は父の葬儀や役所の手続きで忙しくしていたが、アメリカに帰国してから、また更年期症状がどっとおしよせた。関節や足の裏の痛み、とにかく疲れてぐったりして家事もできない。抜け毛、皮膚、膣の乾燥、物忘れ、そしてうつ症状。。。これはどうしてもホルモン補充療法を試したい!年一回の健診で主治医の内科の先生にも軽度のうつと診断される。

「先生、なんとかホルモン補充療法、HRTを処方してもらえませんかね?いろいろ調べたら、あちこちのお医者さんに行っても解消されなかった症状がHRTで一発で治ったという症例をいっぱい聞きます。」

「そうね、うつに関してはカウンセリングとか、抗うつ剤とかも処方できますけど、まずはHRTを試してみるのもいいかもしれませんね。あなたお父様が亡くなったのもだいぶ影響しているのかもしれませんよ。あたしも両親がナイジェリアにいて、いつも彼らのことが心配なの。本当に辛かったでしょうね。」いつも白衣は着ないでショッキングピンクとか、ド派手なボディコンを着ているこの女医さんはそういってハグしてくれた。

そしていよいよHRTを求めて婦人科に予約を入れたのであった!

〈次号へ続く〉

というわけで、ホルモン補充療法の効果やいかに?そして父の火葬式までのプロセスは?長くなるので今日はこの辺で失礼致します。









いよいよ来たか!閉経後の更年期トラブル!

今回は4月以来の記事更新である。妊活時代や子宮筋腫開腹手術、流産、死産後には、はっきりした目標やテーマがあり、心の叫びを記事にしたくてせっせと記事にしていた。しかし45歳くらいからのどよーんとした更年期症状や転居後の環境の変化による無気力状態からせいぜい記事も一年に一回の更新となってしまった。

しかし今回は閉経後の更年期障害にじりじりと胸を締め付けられ、身体を侵されていく(ちょっとホラー気味!?)過程の中で、それをレポートしていくことによって読者の皆様も自分だけではないと安心してもらったり、皆様からも更年期対策を教えていただいたり、参考になる情報も提供できたらと思い、こうして記事更新を決意したのである。

また、50歳と言う年齢は親の介護や死別に直面する年代でもある。私は現実から目をそむけたくて、まったく親の死後の用意など考えていなかったので、老人詐欺で全財産を失った一家がどの様に葬儀手配をし、死後の役所での手続きに追われたのかもレポートしようと思う。同じ境遇のアラフィフの方たちにも参考にして頂ければ幸いです。特に高齢出産で海外在住は日本との行き来が大変なわけで。。。

と、前置きが長くなり、一日に数個の事しかこなせない閉経後更年期老ギャル(と呼ばせてもらおう)はここまで書いた時点ですでにウルトラマンの胸のカラータイマーが鳴り始めている。だから毎回少しずつ綴って『次号へ続く』形式にしてみるしかない。そうしたら毎回達成感が少しでもプチ欝を救ってくれるかも。実は先日、主治医からマイルドな鬱だと診断され、『カウンセリングかお薬要りますか?』と聞かれた自分であった。。。

今日のテーマは更年期による関節炎と父との別れについて。

最後の生理は49歳。もう一年9ヶ月生理がないので立派に閉経である。最後の生理が終わってから10ヶ月後、私は週5日ホリデーショーで草履を履いて6週間ほどパフォーマンスをしていた。しかし毎夜帰り道に足の裏が痛むようになってきた。股関節もハイキックをした時に痛めてしまったようだ。また、歩いていてしょっちゅう躓くようになってきた。左腕もここ2年痛い。

ホリデーシーズンが終わり、冬はかなり寒い田舎の我が家に戻ったが、毎日どんよりしていてほとんど日光に当たらない生活。そして一ヶ月半後の2月、まめちゃんとチワワとジョギング中に転倒、そして左足首骨折。骨密度検査結果は骨減少症。日光にあたり、運動し、ビタミンDやカルシウムサプリを取るようにとのこと。固定ギブスブーツを2ヶ月履いて、3ヶ月後には全快した。

5月から6月にかけて日本に3週間旅行し、アメリカに帰国後は全身を使いまくる他州での演劇ワークショップに参加、ショーにも出演した。日本で参拝した神社の巫女さんと浅草の占い師さん両方に今年は厄年(例の大きな厄年とは別のもの)なので気をつけてくださいと言われる。

夏になると暑がりダーリンは家の中を冷蔵庫のようにガンガンに冷房をきかせる。私は寒がりで朝起きると、足や、手の指がこわばっていることに気がついた。足の裏が痛くて、起き上がってからしばらくびっこを引きなが歩くのだ。

7月には3週間家族でロードトリップ。ダーリンの息子の大学下見ツアーで、一日長い時は8時間ドライブして、毎日違う州の大学を見て回った。トランクもほとんどない小さい車で家族4人、後部座席には私とマメちゃんがスーツケースに押し込まれながら座っていた。今考えると足を不自然に折りたたんだような状態で何十時間ものドライブも足には良くなかったと思う。たまにヒールのないサンダルを履いていたが、その後左足の中指と薬指がいつも痙っているような痛みに襲われ、やがてそれは慢性の痛みとなった。足の裏全体も起床時だけではなく一日中痛くなってきた。

8月になっても手を結んだり開いたりがこわばっていてバキバキいう。起床時が一番ひどい。そして一日中、指も痛い。朝ベッドから起きるまで一時間かけて手足をゆっくり動かさないといけない。

8月末と9月の頭にショーがあった。身体を一杯使って広いスタジアムを走り回ったり立ったりしゃがんだりの一人芝居であった。これから5時間運転して会場に向かうという時に父が肺炎のため危篤という知らせの電話。しかし私の写真付きのポスターもパンフも配られていて、高めのギャラでスペシャルゲストとして招かれている以上、キャンセルはできない。役者は親の死に目には会えないものだと親からも言われて育ってきた。車を運転しながら涙が溢れ出た。なんとかあと4日生き延びていてくれ、と父にスピリチュアルメッセージを送り続けた。ショーは成功し、たくさんの人々に笑って楽しんで頂いた。最後のショーを終えると舞台メイクも落とさず飛行機に飛び乗り、シカゴとLAで真夜中に2回乗り継ぎ、21時間かけて早朝5時に羽田に到着。さらに羽田から空港リムジンバスに乗り、地元の駅から病院シャトルバスに乗り換え父の入院先の病院へ直行。幸い父は酸素マスクを付けてまだ息をしていた。

(次号へ続く)

すみません、胸のカラータイマーの電池切れです。次号が半年後にならないことを祈っております。でも調子のいい時また更新します。私のように若い頃から動き回るのが得意だった人間ほど更年期には怪我をしたり、昔のように飛び跳ねることができなくなるギャップで落ち込んだりでタチが悪いです(汗)今もし関節炎になっていなかったらせめて40代のうちから適度なエクササイズやストレッチはしておいてください。この状態になってからだとエクササイズも一苦労です。2週間前にせめてウオーキングくらいはと思って歩いていたら、歩いているだけで、左足首を捻挫しました。。。それでまた運動不足に逆戻りです。とほほ。仕方なく足首に負担をかけないヨガのポーズをやっています。

『なんだ、そうだったの?この不調 ー だって更年期なんだもーん』byほしばあやこ&松鳥むう
漫画入りでためになる情報も一杯で読みやすいです。
















50歳の誕生日プレゼントは足首骨折!閉経と骨密度低下。。。

またしても一年ぶりの更新となってしまった。
そしてとうとう50歳の誕生日を迎えたのである。
バースデープレゼントはなんと生まれて初めての骨折!

昨年、2016年は最初の憂鬱な2ヶ月を乗り越えた後はノリノリの年であった。数分ごとに幸せを感じる年で、仕事もパフォーマンスだけでなく、通訳、翻訳、映像の仕事とどんどん入ってきた。両親も元気で二人揃っての入院騒動もなく、無事平穏な日々を送っていたようだ。

愛犬のチワワのピグニーとユキちゃんが天国へ旅立ってから数年、もう当分ペットを飼うつもりはなかった。しかし、たまたまアニマルシェルターにマメちゃんと立ち寄った時、ダーリンが夢見ていたブルドッグを発見してしまった。ブルドッグと言ってもブルドッグソースのトレードマークのイングリッシュ・ブルドッグと違い、大型犬のアメリカンブルドッグである。マメちゃんにもここ数年ペットのおねだりをしつこいほどされ、二人共ちゃんと面倒みるのねと、まったくあてにならない約束をして飼い始めた。そしてもちろんお世話はほぼ100%私の役目である。

正直、犬好きというよりチワワ好きなのでこのアメブル、バスターの世話をするうちにどんどんユキちゃん似の短毛白チワワが飼いたくなり、8ヶ月もアニマルシェルターに申し込んだり探しまくったが、見つからず、他州で仕事を2ヶ月している時にブリーダーから白チワワを購入した。名前はミキちゃん。そんなんで久しぶりにペットとの暮らしが始まったのである。

今年に入ってからはマメちゃんとビデオヨガを毎夜したり、犬とジョギングを楽しんでいた。ある日犬の散歩をしているとどこからか動物の鳴き声のような音が聞こえた。しかしよく耳を澄ましてみると、どうやら『HELP! HELP!』という言葉が、羊の『メエーー』という鳴き声と同じ音質で聞こえてくる。鳴き声の音源をたどるとある家の植木の茂みの奥に老婦人が倒れながら助けを求めていた。一緒に散歩していたダーリンが起こそうとしても起き上がれず、その家のドアをノックするとご主人が出てきた。ご婦人は買い物に出ようとしたら段差で転倒し、一時間もの間助けを求めていたのにご主人は気が付かなかったそうだ。早速救急車を呼び、一件落着。

その翌日、また犬の散歩をしていたら、マメちゃんがいつものようにかけっこしようと言って、猛ダッシュを始めた。ミキちゃんも小型犬のくせに物凄く速い。リーシュを持っていた私も追いつこうと猛ダッシュしているうちに、足がほつれ、左足首を捻りながら転倒し、背中から着地した。そして起き上がろうにも左足が痛くてまったく体重がかけられない。後ろをバスターと散歩していたダーリンが、私が痛がっているのに、質問攻め。『どうやって転んだの?道に小石でも落ちていたの?段差があったの?』オッケー、男性が物事を分析し、解決したいのはわかりましたから、大丈夫?とか支えるとかしておくれでないかい!

なんとかダーリンに家に帰って車をここまで持ってきて私を運ぶように頼んだ。そしてダーリンは車から私を抱きかかえて居間のカウチまで運んでくれた。その夜は左足を高くして、冷やし続けた。

翌日になると足首が紫色になってゾウさんの足のように腫れあがっていた。でもまあ捻挫なら仕方ないかと思い、様子を見るつもりでいたが、ダーリンがお医者さんに行ったほうがいいよとしきりに言ったので、主治医に診てもらい、レントゲンを取るとなんと左足首を骨折していた!それでも翌日はマメちゃんのクラスで語り部をする予定になっていたので、片足で帯を締め、袴を履き、まだ松葉杖を購入していなかったので、モップを杖にして車に乗り込む。学校玄関にはキャスター付きの低学年用椅子がおいてある。許可を得て、その椅子にのり、モップの棒を船のオールにしてまるで一寸法師のように椅子を漕ぎながら教室に入場。語りは椅子に座ってギターの弾き語りを入れながら日本の昔話を落語調に英語で演じ、生徒達や先生に喜んでもらえた。

その翌日、専門医に診てもらうと、外果骨折とよばれる外くるぶしの骨折で、幸い骨はずれてはいなかったので手術をする必要はないとのこと。ギブスの働きをする重くて硬い固定ブーツを寝るときまで着用することになり、全治6週間から8週間と言われた。これを履いていれば松葉杖は要らないとおっしゃったが、左足にまったく体重をかけられないので、近所のスリフトショップで松葉杖&歩行器をマメちゃんのおもちゃや衣類と交換してもらった。いやー、不便な生活であった。入浴も一苦労。やっと湯船に浸かったと思ったら竜巻警報が来て、また時間をかけて湯船から出て、服を着て、ブーツを履いて、座りながら一段ずつ階段を降り、地下室に避難した夜もあった。

人と接していなければ落ち込んでしまうアクティブな自分がこの田舎で家族以外とはほとんどしゃべらず、さらに骨折までしてエクササイズする機会まで失ってしまうとはなんたる修行であろう!

さぞや鬱になるかと思いきや、意外にも始終ハッピーな気分でいられたのは不思議だった。あー、手が使えて、目使えて、右足も使えてありがたや〜!と感謝の気持ちでいっぱいだった。転倒したと同時に翻訳の仕事も舞い込んできたので、一ヶ月このプロジェクトで忙しく、落ち込んでいる暇はなかった。怪我から5週間後に他州でのパフォーマンスの仕事も入っていたが、ギブスブーツを袴で隠しながら語り部をしたら、好評で、来年もよろしくと言われた。

骨折後、婦人科医の健診で、骨密度を測ってもらうと、閉経後のホルモン減少による骨減少症ということで、エクササイズと、毎日カルシウムサプリ1500ミリグラム、ビタミンD750ミリグラム摂るように指示された。骨密度アップの為に筋力トレーニングもしなければ!今住んでいる地域に引っ越してからビタミンDの血中濃度がずいぶん減少したと、検査で医師から指摘された。以前は太陽のもとでパフォーマンスしていたが、冬などは今住んでいるところはあまり太陽をみることはない。春になり、やっと晴れの日も多くなってきたので、顔には日焼け止めクリームを塗り、ギブスブーツもとれたので毎日散歩をしている。

ネットでは、『君島十和子50歳で初骨折』なんてニュースもあるし、沢田亜矢子さんも50歳を超えたある日、肋骨にヒビが入ったり、足腰がギクッとして、病院に行くと測定不能なくらいの骨粗鬆症にかかっていたとか。ホルモン補充療法や、日光浴、大豆製品で回復したそうだ。

若い頃健康だと、50歳になってもそのつもりでスポーツをしたり、今までと同じ食事やライフスタイルを送ってしまいがちだ。皆さんも骨折などなさらぬように十分な栄養、睡眠をとり、適度なエクササイズをして、階段など踏み外さぬようにご注意下さいませ。(恐怖症になってしまい、前をよく見て歩くようになりました!)


『103歳になってわかったこと』 篠田桃紅

半世紀も生きてきたのに、何やってきたのかな〜と更年期も手伝ってため息をついている時はこの本を読んで心を落ち着かせます。『幸福になれるかは、この程度でちょうどいい、と思えるかどうかにある。いい事ずくめの人はいない、一生もない。』



『111歳、いつでも今から: 73歳から画家デビュー、100歳超えてニューヨークへ……笑顔のスーパーレディの絵とエッセイ』 後藤はつの




『99歳、楽しい楽しい私のシンプル「満足生活」―50歳から実践!「今」を存分に生きる箴言集』
三津田 富左子





40代最後の誕生日

なんだか色々問題が起こってばかりの2015年も終わり、新たな年に入った。
そしてもう2月。。。

去年は新宿の占い師にこう言われた。

『あらー、あなたって強い女性ですね〜。家庭に男は二人いらないんですよ。
もっと女性の面を出さないと旦那さん、息苦しくなっちゃいますよ。』

これはどの占い師にも言われる。生年月日や名前の字画などを総合して鑑定すると、男に生まれてたら強くてバリバリ成功するタイプだが、女だとその強さで幸せな家庭生活を送れないとか。。。

夫の転勤でアメリカの片田舎に小さな子供と一緒にこもりはじめてもう少しで4年!これほど人と会わない日々を送ったことがあっただろうか?子ども好きというわけではなく、家事超テキトーな主婦で、外で人と交流することによってエネルギーをもらうタイプの私にとってはものすごい修行なのであった!

『2015年は色々ブロックされて何かやろうとすると邪魔が入るでしょ?そういう年なんです。だから今年はとにかく独自のスタイルについて研究して、自分改革の年ですよ。そして来年(2016年)、再来年からもっと表に出ていくんです。
あなた、いつまでも昔のパフォーマンススタイルとかやっていたら飽きられちゃいますよ。48歳や49歳ってね、人生の分岐点なんです。私もそれまでずっとデパートの店員だったんですよ。でも占い師になろうってあなたの今の年でキャリアチェンジしたのよ。』

見た感じ50代後半だろうか、肌が輝いていて、おしゃれをして、輝く宝石を身に着けているが、それが嫌味でなくピッタリと合っている。

その鑑定を受けてから、自分のパフォーマンスに楽器を取り入れるようにした。9月には久しぶりに大きな場所で語り部をやって大好評だった。そして11月には素晴らしいアーティストのアラフィフ大先輩と交流を深めた。単身で他州に仕事に来ている時、彼女の家に3日も泊まらせてもらい、アート、文学、映画、音楽、フィットネス、仕事、結婚生活などについて明け方まで語り合った。彼女は子供はいないが、2年前に最愛のご主人を亡くされている。年越しはダーリンと、彼の息子、マメちゃんまで招待してもらい、彼女の家で新年を迎えた。彼女と知り合ったのはもう10年くらい前になるが、これほど深く話をしたのは初めてで、ワイン片手にかなりの盛り上がりようだった。


自分改革。。。

まずは肌断食を昨年の9月末から始め、お肌の調子はかなり良好である。友人に本当に何も化粧水や乳液をつけていないのかと聞かれるが、本当につけていない。空気が乾燥している時、米粒大のワセリンをちょこっと押し当てるくらいである。なのに、高い美容液や、基礎化粧品を塗っていた頃よりも肌が柔らかくて、全然乾燥しないので驚きだ。

リンスやトリートメントも一切やめたままだが、髪は艶がある。シャンプーは安物を5日に一度ほんの少量使うくらいだ。

最近の悩みは左目の瞼が重くなってきたのか、くっきり二重だったのが、左だけ奥二重になりかけてきたこと。午後になると少々マシになるが、いよいよ加齢との戦いである。

生理は去年3,4回位あったのみ。1月はホルモンバランスの崩れか、午後5時頃から7時位までの間、体の力が抜けるかのように無気力になってしまった。さらにデリケートな部分が時折、チクチクしているような不快なコンディションに気が付いた。婦人科で検査してもらったら何も異常はないが、まあ更年期症状による乾燥でしょうと言われ、女性ホルモンを補充するエストラジオール入りの軟膏を処方された。すると4ヶ月ぶりに生理があり、不快な症状は無くなった。気のせいか、クリームを塗り忘れた週は気分が落ち込みがちだが、また塗り始めると気力を取り戻していることに気が付いた。とりあえず次回の半年後の健診まで週三日小豆大を局所に塗布し続けるようにとの指示。同時に積極的に大豆製品を食べるようにして、更年期対策に取り組むようになった。

出血後、念のため超音波検診してもらったらまたしても筋腫がいくつか育っていた。画面を見ながら妊娠していた頃の思い出が蘇ってきた。当時は、あ〜、可愛い赤ちゃんがいるなーって感動していたものだったが、今ではただ筋腫の影が見えるのみ。

昨年の夏の健診で、妊娠糖尿病の後遺症からか、いよいよ糖尿病予備軍の仲間入りし、血糖値を図りながら食事療法をしている。予備軍と行ってもヘモグロビンH1C値(過去1〜2ヶ月の血糖値の平均)がアメリカでは5.7%からが予備軍とされているが、私の数値はまさにその始まりの5.7%。正常値に戻すことも今なら比較的簡単にできるらしい。しかしいったん6.4%の本物の糖尿病域になると正常に戻すのはかなり難しいとのこと。

予備軍なら血糖値上昇を緩やかにする食事法と運動を心掛けることでかなり改善される。ためしてガッテンによると、魚、野菜から食べ始めて最後にご飯を食べる順番にしただけでかなり血糖値上昇をおさえられるとのこと。砂糖不使用で、大豆粉で作ったケーキや、卵とヨーグルトと羅漢果で作ったチーズケーキもさっぱりしていて美味しい。麺類は殆ど食べず、ご飯の量を控えめにし、いつも炭水化物の量をチェックしているので、体重も減ったしお腹もへこんできた。しらたき麺のパスタや、油揚げで作るピザも美味しいし、食後血糖値は正常値で収まる。

2月1日に親子でYMCAに入会した。そして毎日通っている。マメちゃんもキッズフィットネス室でWii スポーツゲームや卓球、フィットネスバイク、トレッドミルを使いながら体を動かすのを楽しんでいるし、プールも大好きだ。私はヨガ、タバタ式エアロ、ZUMBAクラスを受けたり、フィットネスバイクに乗っている。するとどうだろう、気分が落ち込みがちで無気力になりかけていた症状がピタリと止まった。運動は鬱に効くとは聞いていたが、今まで中々重い腰を上げられなかった。しかしジム入会後はバリバリやる気が出てきて、帰りの車の中でスペイン語の語学CDを聞いたり、斎藤一人さんの成功哲学CDを聞いたりしている。

やはり身体を動かすのはいい事だ。ここ数年、本当に運動不足だった。このままずっと続けていけたらアンチエイジングになりそうだ。そしていよいよ40代最後の誕生日を迎えたのだった。


アンチエイジング本、『老けない人はやめている』著者のオーガスト・ハーゲスハイマーさんってとても53歳に見えない!お肌に塗るのは大豆油のみだそうです。


牧田式糖質オフ健康ダイエットー『これならリバウンドしない!安全に痩せられる!』
カロリーを気にせず食べていいのと、白ワインは痩せるっていうところ、気に入りました!



炭水化物の新常識ー『ごはん好きでも必ず痩せられる!』ゆるい糖質制限のコツ満載です。

肌断食

放置していたブログのPC版を久しぶりに見たら字が薄すぎて読みづらいことに気が付いた。まだ老眼鏡のお世話にはなっていないが、(ここ数年老眼鏡使用の同世代の友人が増えてきた)光に敏感になってきたし、文字の薄さに煩わされる。夜間の運転にはめっきり弱くなった。

今年は色々変化の年でもあるし、この際思い切ってブログデザインを変更してみようと決心。マメちゃんも小学校に入学し、手がかからなくなったのでこれからはアンチエイジングを心がけアラフィフなりに輝いていけたらという希望も入ったPC版のデザインである。スマホ版は好きなピンクだから選んだ

最後のブログ記事更新は去年の暮れ。今年はまあ色々あったな〜。10年ぶりのグリーンカード更新の面接の通知をダーリンがジャンクメールと間違えて私に渡さなかったのでアポをすっぽかすという恐ろしい出だしから始まり、他州で貸している家の住人が出て行ってしまったので、3ヶ月お家賃収入がなく、やっと入ってきた住人にはあちこち直せと文句を言われ修理費にお金は飛んでいった。さらに在宅の仕事はリストラされ、税務署から2013年の家賃収入に関して申告漏れがあったと日本円にして15万円もの請求書が届く。これは賃貸物件を管理している不動産業者が用意した書類が原因であった。

今までほとんど病気をしたことのない81歳の母がスーパーの駐車場で転んで大腿骨頚部骨折、その上膝の手術もし、3ヶ月の入院。しっかり者の母が、2度目の手術後、物忘れが激しくなり、簡単な計算もできなくなったりして焦った。母の入院中は5年前に脳梗塞で倒れた85歳の父が独居老人になるので4月から6月までの間に日本とアメリカを2回も往復し、航空券代にお金が消えた。さらに父まで道端で倒れての入院、そして失踪騒動!

ダーリンからは「マメちゃんが誕生してからの6年間キミにほっとかれた、そこへ職場の部下がモーションかけてきて密かに恋心を抱いてしまった(でもなにもまだ起こっていない)」などという爆弾発言で自分の中で天地がひっくり返るほど衝撃を受け傷ついた。

そんなんで数年ぶりに新宿西口の占いの館へ向かった。

と、占いの結果を書きたいのだが、長くなるので次回のお楽しみということで。これからはちょっとずつでも記事を更新し続けいくのが目標である。

さて、アラフィフの為のスキンケア・トピックだが、基礎化粧品をまったく使用しない肌断食を始めて一ヶ月が経った。朝は水洗顔のみ、夜はぬるま湯で洗顔し何もつけずに寝る。乾燥が目立つ時だけ米粒一個大のワセリンを手のひらの上で伸ばし、乾燥部分にそっと押し当てるだけ。外出時はポイントメークのみか、SPF15程度のミネラル・ルースパウダーをはたく。アイメークはワセリンを少量つけるか、蒸しタオルでこすらず押し当てて取る(宇津木式でなくこれは自己流」か、石鹸を軽く綿棒につけてこすらずにそっと落とし、ぬるま湯洗顔。

3冊も肌断食本を買うのはどうかと思ったが、どれも読みたかったので購入。宇津木先生の本は肌の構造や基礎化粧品の害について解説されていて、彼のお弟子さんである山口麻子先生の本は女性の立場からスキンケアの具体的な方法について項目ごとにわかりやすく説明してるので参考になる。ドイツ語翻訳家の平野 卿子さんは個人的な体験談を綴っているので迷った時励みになる本である。アマゾンの本のレビューでは、多くの人の体験談が載っているので興味深い。

20代前半で『あぶない化粧品』シリーズを読んだ私は肌断食を実践した。しかし30代で直射日光を浴びながらの仕事で不安になり、基礎化粧品、日焼け止めクリームにサンブロック・ファンデーションを再開。33歳から43歳まで毎日強い太陽光線を浴びて仕事し、妊娠中でさえもシミが出来なかったのは、やはり日焼け止めクリームのおかげだとは思う。一応敏感肌用のもので、紫外線吸収剤は入っていないものだった。

しかしクレンジングに関しては今思うとこれらの本でタブーなことをずっと続けていたのだ。メーク落としのクレンジングシートで顔全体を雑にこすり、そのあと石鹸でさらにダブル洗顔、強くて温度の高いシャワーに顔をあてていた!クレンジング使用、ダブル洗顔、熱めのお湯、顔をこするというのは肌断食スキンケアで最も禁じられていることである!

肌断食3日目で2年位気になっていた頬の黒ニキビがポロリとひとりでに取れた!また、5年前くらいから白ニキビが出来るようになって皮膚科に行ったら年齢的にホルモンバランスの変化からきていると言われ、ピーリング用のレチノールクリームを処方されたが皮がむけるのが怖くなってすぐに使用中止。そのまま年だからしょうがないかと諦めていたが、肌断食を初めて2週間以内にどんどんとこれらの白ニキビが消えてきた。

毛穴も前より目立たなくなったし、美白クリームなんて塗っていないのに色が白くなってきたのだ。この夏に家の中でも毎日化粧水、美容液、下地クリームの上に日焼け止めクリームを塗っていたら毛穴は開き、初めて頬骨の上にうっすらとシミ予備軍が3つも出来始めた。それが肌断食一ヶ月後には薄くなってきたのだ。ほうれい線もいくらか薄くなってきたように見える。ダーリンにも何も言っていないのに、『なんか最近肌が綺麗だね』と言われて驚く。

一方、シャンプーを使用しない湯シャンにもトライしたが、これはベタつきに耐えられないのと、髪がぺちゃんこになるので10日間で断念。かわりに髪がベタついてきたと感じたら(だいたい5日に一回)無添加のシャンプーを使用して(こちらで石鹸シャンプーが見つからないので)洗髪。リンスもトリートメントも使わないが、以前より髪がしっとりサラサラしているのに驚く。以前洗髪回数が多かった頃は、朝シャンしても夜にはもう頭皮が臭ってきたような気がするが、洗髪回数を減らすと、逆に数日臭わなくなる。ちなみにマメちゃんはシャンプーを使ったことはないが、赤ちゃんの頃からお友達の中で一番ふさふさして綺麗な髪と言われ、よく洗髪方法を聞かれた。全く汗臭くもなく、湯船に浸かりながらの湯シャンのみである。ダーリンの父親も8歳年下の弟も若くから禿げてしまったが、48歳のダーリンは今もまだフサフサしている。秘訣はシャンプーは使わず純石鹸のみの使用である。

肌断食は合う人と合わない人がいるし、基礎化粧品に長年どっぷり頼ってきた場合はお肌のデトックスに時間がかかり、数ヶ月、長いと1,2年回復にかかるとも聞く。私は元々肌に優し目の基礎化粧品を塗り、目の周り以外はファンデーションも塗っていなかったので乾燥せずすぐに効果が現れたのだと思う。また、人によっては肌断食の好転反応だと思っていたひどい症状も実は脂漏性皮膚炎で治療が必要だったというケースもあるので注意が必要だ。

肌断食だけではなく、このところ私は食生活にも気をつけ、美肌作りのゴールデンタイムに睡眠をとっている、というかマメちゃんを寝かしつけていると自分も眠くなってしまうのだ。

次号は占いの結果と、8月からのココナッツオイル、酢玉ねぎ、低糖質ダイエットで3キロ痩せた体験について触れたいと思う。

「美肌マニア」というサイトでは、各種の化粧品の成分検索ができる。無添加を謳っている化粧品でも結構いっぱい添加物が含まれていてぎょっとする。

美肌マニア

肌断食バイブルの宇津木式スキンケア 

『「肌」の悩みがすべて消えるたった1つの方法―美肌には化粧水もクリームもいりません― 』



『肌断食ースキンケアやめました』

さすが翻訳家なので文章がなかなか面白いです。でも60代半ばで肌断食実行とは勇気があります。YOUTUBEでも彼女を見られますが、とてもその年には見えない綺麗なお肌の持ち主です。



44歳でノーメイク、ノースキンケアとは思えない美肌の山口先生。ただし、レーザーなどの美容医療は勧められているようです。基礎化粧品にお金をかけなくて浮いた分をそちらにあてるとよいみたいですね。

『化粧品に頼らない素肌美人の作り方』

40代より50代の方が楽!?

このところ50代前半のアラフィフ女子達とお食事したりホットヨガを受けている。
針でも治らなかった五十肩がホットヨガで治ったという先輩達の体験談通り、
私の腰痛も一回でだいぶ楽になった。但し、水分をたっぷりとってから行かないと
途中で頭痛がしたり、気分が悪くなるそうなので要注意。

彼女達が口を揃えて言うのは、

「50代になると吹っ切れて楽になるわよ。いい意味でオバチャンになるの。
40代は体調も不安定で意味もなくイライラして辛かった。
子供達にも人が変わったようでちょっと怖かったって言われるわ。」

そしてインタビューで松田聖子さんも

「50代になると吹っ切れて楽になります」

と言っているではないか!

横森理香さんは更年期に関する著書の中で言っている。お年頃女子は疲れやすいので
用事は一日一件にしておくこと。友人との約束は午後6時などの早めの時間から始めて
短時間で切り上げる。長くなるとお互いグッタリ疲れてしまうし、
不満をたっぷり聞かされる役に回るとそれは大変な疲労度になる。
それと、同じ姿勢を30分以上とり続けないこと。これは私もパソコンに
向かっていたり、友人とおしゃべりしているとついついやってしまって
腰痛に悩まされる事がある。

他州にいる間、アメリカ人親友L子のアパートに家賃を払って居候させてもらっている。
前回はマメちゃんの世話で大忙しだったが、今回単身で気が付いたのは、
46歳のL子の会話の内容の90%は人の批判で、他人の事でイライラしまくって
いるのである。しかも同僚と同棲している彼女がだらしないとか、
友人の旦那が甘ったれているとか,自分とは全く関係ない事でどよーんと
ネガティブになっている。

同じ話を数時間、何度も聞かされ、一緒にいると重くて息が詰まった。
いけない、私だって立派なお年頃女子、生理だって80日も来ていない身なのである!
最初は我慢して聞いていたが、このままでは自分の精神状態も危なくなると懸念し、
ある日、急に「ご、ごめん、ヨガクラスの時間だから!」と家を飛び出した。
車の中で好きな音楽を聞き、ヨガクラスを受けたらすっかり楽になった。

12月で寒いというのに、アパートは冷房がかかったままだ。。。
L子はほてりで眠れないそうだが、私は逆に足が冷たくて氷布団の中で震えていた。

翌朝、また、暗い部屋で愚痴が始まったので朝日の当たる明るいベーグル屋に
誘い出した。そこで朝食を取りながら彼女に言った。

「昨日ここでコーヒー飲みながら読んだ日本の雑誌でね、アドラー心理学を
元にした漫画が載ってたんだけね、その主人公の女性は周りのことで
すごくイライラしちゃうわけ。でもアドラーによれば自分の課題が優先で、
相手の課題と自分の課題を分離し、相手と自分の間に適切な境界線を
引くべきなんだって。確かに他人の事で一日中イライラしているって
時間がもったいないものね。相手は変えられないわけだし、
自分が変わるしかないわけ。」

L子は猫を3匹飼っていたが、夏に一匹老死した。その直後に裏庭にママ猫と
子猫5匹を見つけ、自分のアパートで里親生活を始めた。それくらい優しくて
面倒見がいいのだが、それを他人にも期待してしまい、また腹を立ててしまうのだ。
誰も引き取り手がいない!みんな冷たい!ねえ、かりりん、あなたはどう?
などと言われても猫アレルギーがあって無理なのである。

私 「人とか動物を助けるのは自分がそうしたいからするのよね。
だからと言って周りも同じようにするものとか、見返りを期待していると
がっかりすることが多いよね。」

L子「確かに。。。」

その後も彼女の育った環境や、新しい職場の話など客観的に分析して話し合った。
最後にL子は涙しながら言った。

「ありがとう。なんか心が軽くなった。あなたってセラピストみたい。ご馳走させて!」

と翌朝おごってくれたのだ。根は素直で明るいL子だ。私だって独身で一人暮らし
していた頃はいつも周りの事が気になったりしたので、L子の気持ちは理解できる。
でも家庭を持つと忙しくてそれどころではなくなった。今はマメちゃんの世話を
していないが、ホリデーショーの仕事が週5日でそれプラス夜や休日は
在宅の仕事があるし、今後のキャリアや生活、家計についての計画を立てたり、
自分や家族のことで精一杯だから、L子の他人に関する愚痴に数時間も
付き合う余裕がなかった。

何しろルームメイトで一緒に暮らしているのに、別行動していても仕事帰りに
長電話してきて、L子自身も笑いながら,

「なんだか私がマメちゃんになっちゃったみたいね、ママ聞いて、ママ構って
って感じで!」

と認めていた。毎日自己啓発本で読んだ内容を彼女に聞かせていたら、彼女は
この一ヶ月半で他人に関する愚痴をまったく話さなくなったし、
もとの明るくて楽しいL子に戻った。それにしてもホルモンバランスの大変化で
揺れ動く40代後半女子の同居生活は興味深いものがあった。。。
この年代の女性達のシェアハウスのリアリティー番組があったら
すごい事になりそうである(笑)

仕事で他州にきてから一ヶ月半が経った。マメちゃんは相変わらずママなしで
元気にやっているようである。サンクスギビングの週に5日ほど私に会いにきたが、
あっけらかんとしていて、別れ際も「じゃあクリスマスにね!」
と笑顔で手を降っていた。あ、あのトイレにも行かせてもらえないくらいの
奴隷生活は一体なんだったの。。。?まあ、たっぷり構ってあげたから
愛されているという自信がついて、今のサッパリマメちゃんが
出来上がったのかもしれない。

今までマメちゃんの通うダンス教室の場所さえも知らなかったダーリンは
最初はレオタードやダンスシューズの置き場所を電話で聞いてきていたが、
先週末はダンスの発表会に参加させるくらいまで成長した。今学期は久しぶりに
授業も受け持っているので、副学長、教授、父親業と一人三役こなしていて、
よくやっていると感心する。これが私がいると、マメちゃんの事は私に
任せっきりになるし、マメちゃんも私にはたっぷり甘えてしまう。
私も自分を見つめ直すことができたし、今回の私の単身出稼ぎ(?)は
3人にとっていい学びの機会であった。









アラフィフ自分探しの旅

今年もこの季節がやってきた。去年まではマメちゃんを連れて、他州に
ホリデーショーの仕事で2ヶ月滞在し、最後はダーリンと義父母と合流して
年越しというパターンであった。ところが今年はマメちゃんを夫のもとにおいて
一人でこちらに来ている。

マメちゃんの幼稚園の先生によると、秋から(アメリカなので)日本で言う
年長さんなったばかりのマメちゃんの学力はすでに小1の終わりのレベルだそうで、
飛び級をさせようか迷ったとのこと。なので2ヶ月幼稚園を休んでも
全く問題ないと言われた。しかし夫は自分が面倒を見ると言い張るので、
私はそれならお言葉に甘えてと、ひとりで18時間運転し、他州に到着してから
はや2週間が経とうとしている。サンクスギビングの週と、クリスマスには
マメちゃんは夫とこちらに来るので、3週間に一度は会えるのだ。

5歳になるまで本当に手のかかる子だった。一歳半からそれはワイルドで、寝ない、
食べない、一日中エネルギッシュ、イヤイヤ、イタズラし放題。。。

3歳半までマメちゃんはどんなに頑張っても午前一時まで寝付けず、夜中
一時間ごとに夜泣きで起こされ、おむつを替えても替えても一時間で漏れてしまい、
ベッドはおしっこの湖。6時起床、そして昼寝なし。。。
真夏に遊園地3つかけもちしてくたびれさせようとしても効果がなかった。

夫は忙しくて面倒を見ないし、とにかくママっ子だったマメちゃん。
そんな彼女が私無しで厳しい夫とどうやって2ヶ月も生活するのだろうか。
きっと私を恋しがって途中でギブアップするだろう。夫もギブアップするだろう。
毎日ママとスカイプで話したがるだろう。

などと想像していたのに、別れてから一週間たっても電話なし。
夫は携帯メールでマメちゃんを寝かしつけているからしゃべれないとか、
私としゃべると興奮して寝付きが悪くなるからまた今度などと、スカイプはおろか、
電話トークもなしだ。それまでは私が寝かしつけで苦労していても一向に
お構い無しでその時間にわざわざ夕食とったりしていた夫なのに。

それで週末にやっとスカイプできたら、マメちゃんのお気に入りテレビが
流れていて、ママと話すよりもそちらに釘付けになっているマメちゃん。。。

ということでマメちゃんは毎日楽しく暮らしているようであるし、夫も大学の
副学長という任務で多忙なスケジュールのわりに、週2日ダンス教室にも連れて行き、
夜の大学でのイベントや、講義にもマメちゃん同伴、最近では『ミスター・マム』
というニックネームまでつけられているそうである。本人曰く、
冷徹にリストラすることで恐れられているので、優しいパパのイメージになって
いいのだとか。

私といえばここ2週間、独身時代に戻ったような錯覚に陥っている。
30代の頃のようにジムなんかも通い始めてしまったし、自己啓発本やCDなども
どっさり注文。そうなのだ、あの頃ってジム、外食、占い、自己啓発に
燃えていたな〜。さすがに結婚してからは占いはやらなくなったけど。

先日50歳の友人とランチしている時、彼女は暗い顔をしてつぶやいた。

「娘が大学行き始めて送り迎えがなくなったでしょ。(車社会のアメリカなので
高校卒業まで送り迎えあり)なんかそれで私の役目が終わったみたいな気分なの。
仕事もしていないし、これからどうしようかなって。。。
夫も海外出張で2ヶ月位家を空けることが多いし、娘は来年から遠い街の大学に
行き始めるから、私、ひとり暮らしみたいになっちゃう。」

スラリとして超美人のハーフであるお嬢さんは、ついこの間までマメちゃんくらいの
年だったような気がする。かわいいお洋服を着て「ハムノスケなのだ〜。」
なんて言っていたっけ。

さらに彼女は続けた。

「娘はママっ子だと思っていたのに、今頃になって、実は私が週1、2日の
パートの仕事している間パパと一緒にいた時のほうがとっても楽しくて、
私よりパパとの思い出のほうが多いなんていうのよ。。。」

そう言われてみれば、私も小さい頃の母との記憶があまり無い。小学校4年位まで
専業主婦で、お料理上手、洋服も手作り、面倒見が良くて、優しい母だった。
それなのになぜか私が小学校高学年になるまであまり彼女との思い出はない。
確かその頃私はレイジーのファンでコンサートに連れて行ってくれて、
肩車してくれたことくらいは覚えている。でも母の姿が大きく記憶に登場するのは
高校生くらいから始まっていて、小さい頃はたまに父親に美術館に連れて行って
もらったり、空き地ゴルフや、不動産物件を見に連れて行ってもらった
思い出のほうが多い。父親は仕事人間で、子供の話を聞くより、
新聞や本ばかり読んでいた。
だからきっとたまに一緒に出かけたのが嬉しかったのかもしれない。

マメちゃんはどんなに私が奴隷生活をしても覚えていてくれないのか。。。
そういえば私も、専業主婦の時より、パートで働き始めた母を
かっこいいなあと子供心に思っていたものだ。

ここらで自分探しの旅を始めようと思った。。。


「斎藤一人 自分さがしの旅」

前世療法なんかでそんな昔まで遡る必要はなく、今世で十分。『過去は変えられないけど未来は変えられるのではなく、過去を変えなければ未来は変わらない』というくだりが印象的だった。恥ずかしい思い出や辛い思い出は笑い話に変えて消化。そうすれば現在の自分も変わり、未来も変わるし、欠点は宝になる。



「親のこと、私のことをノートに綴る 47歳からのエンディングデザイン」

47歳とはまさに自分の年!ということで購入。なんでもキラキラ輝いて見えるバブルの絶頂期を経験した我々は、自分のカッコイイ親達がまさか病気になったり、老いたり、死に直面するなんて想像もできなかった。だが、気がつけば自分たちも50近くになり、両親の病気、介護そして死を避けて通れなくなった。両親と自分のエンディングプロデュースを今から始めようではないか。


住めば都 (マメちゃん5歳)

またしても年明けにブログを更新しようとしているうちにもう五月に突入。。。
あっという間のこの4ヶ月だったが、とても実りのあるスタートであった。
なんて、去年の一月のブログでもそう書いたっけ。
でも結局うつ気分でその後どどどーっと落ち込んでいったので、今から思えば
あれはただ表面だけポジティブになろうとしていただけだったのかもしれない。

とにかく、去年の夏からどんどん元気になっていって、今年に入ってからは
数分ごとに『あ〜、なんて幸せなんだろう、ありがたや〜、ありがたや〜』
と唱えてる、ちょっと危ない人(?)になっている。
そうすると引き寄せの法則でさらにいい事が起こって幸せになっていくのである。

去年の夏、徹底的に落ち込んでそこから行動を起こし、4歳のマメちゃんを後ろにのせ、
自力で片道20時間運転して、他州にナレーターの仕事をしに行った。
それ以来この土地に閉じ込められているという閉塞感がなくなり、
やりたい事が見つかったと前回のブログで書いた。

忘れかけていた正負の法則を思い出し、何事もあわてず受け入れようという姿勢になった。

ホリデーシーズンも毎日、健康管理に気をつけながら仕事をしているうちに
あっという間に終わった。
ダーリンの家族と共にNYで年越しして、正月にラガーディア空港から飛行機に
乗ったものの。。。悪天候のため機内で4時間待機。。。
結局ゲートまで戻され、長蛇の列に並んで翌日の便を予約、その後手荷物を受け取り、
夜の11時半ごろから空港ロビーで寝泊りするはめになった。

夜中の空港ってこんなに寒いものだとは知らなかった。
しかしまったく気にせずご機嫌のマメちゃん。
夕方5時に空港に到着したのに、飛行機が飛び立ったのは翌日の昼近くだった。
さらに直行便もキャンセルされたため、かなり遠回りして、2時間半で着くはずの
場所に二日かけて帰ってきた。それから今度は車でこれまた雪のため
ノロノロ運転で25時間もかけて家族3人で自宅に戻った。

その夜からダーリンは熱を出し、一月から三月にかけて風邪を引いてばかりいた。
マメちゃんはやっぱり丈夫で、ぴんぴんしていたし、私も風邪を引いても、
症状がかなり軽く済むので助かった。やはりマルチビタミンの他に
アシドフィルス菌とビタミンCのサプリを摂っているからかもしれない。

1月と2月は雪だけでなく、あまりの寒さに休園の日が五日間もあったので、
マメちゃんと一緒にお菓子作りに没頭。また、家計簿のつけ方を変え、
食費をおさえることにしたので、クックパッドで工夫をこらしたレシピにした結果、
ありあわせの食材で安く、しかし豪華な食卓になり、ダーリンも大喜びしていた。
今までこの副学長邸を自分の家だと感じたことはなく、ほったらかしにしていたが、
今年に入ってから、どんどん生理整頓を始めた。するとだんだんと愛着がわいてきて、
さらに掃除をするようになった。

さて、自炊や掃除も充実してきたし、ここらでタレントエージェンシー
(芸能プロダクション)探しを始めるかと決心した。実は去年の夏に検索して、
口コミを読み、ここから車で2時間半ちょっとの都会にある一番大きな
エージェンシーに目をつけていた。でも応募書類をオンラインで送ろうとしても
エラーメッセージが出てきてしまい、そのまま10月から仕事で他州に
行ったきりだった。

今年に入って、そろそろ重い腰をあげようかと、今回はダーリンのPCで応募したら
すんなり届いたようだ。

一週間経っても返事がこなかったので、まあダメだったんだなと思い、
それもいいかと気にしていなかった。そのかわり他州の大きなエージェントから
ブッキングの電話が数回あり、無理してでも行こうか悩んだが、やめといた。
今年からこの土地で頑張ろうと決心したのだ。辛抱、辛抱。
でも同じ写真使っているのに、あんなに仕事が欲しくてギラギラしていた時は
全然電話がこなかったのになんで2、3年経ってから電話があるのか不思議だった。
これって運気が上昇し始めたのだろうか?

そして2週間後、こちらの州のエージェントから遂に連絡があった。

『書類審査に合格しましたので2次審査に当社までお越しください。
日時は2月26日、午後3時15分。』 

エージェントのオフィスまで車で2時間45分。。。当日大雪だったらどうしよう。
そしてさらに

『自己紹介、コマーシャル用のモノローグ、コメデイックなモノローグ、
ドラマチックなモノローグ、計4つ用意してきてください。』

との指示。モノローグは一人で1,2分演じる独白。私の場合はアジア人で
アクセントもあるし、セリフなしの広告(こちらでは中年でも一般ピープルっぽい
タイプがモデルとしてよく使われる)モデルやセリフなしの
コマーシャルショットしかチャンスがないと思っていた。どうせダメなら長時間運転して
いっても時間とガソリンの無駄。
だからメールでその旨を書こうかと思った。
しかし逃げていてもいけないかと思い、台本探しを始めた。
フルタイムの役者生活を始める前はオーディション用のモノローグ探しや、
コーチまでつけて一生懸命練習していたっけ。
なんか20年前に戻った気分だった。

やはり土壇場にならないとやる気が出ない性分で、とうとうオーディションの
前日まで練習ができなかった。本来ならセリフ覚えを完璧にしてから
練習するべきなのに!

当日、マメちゃんをプリスクールに送り出してから車で2時間45分かけて
エージェンシーまでたどり着いた。車の中では好きな音楽を聴いたり、
セリフの練習をしていたのでそれほど長く感じなかった。

引っ越してきてから最初の一年はこんな見知らぬ都会を運転するのが恐くて、
そのど真ん中にあるエージェンシーにたどり着くのも、どこに駐車したら
いいのだろうかとか、不安があった。でも去年の長時間の運転を経験したおかげで、
もう恐いものなしだった。

早めにつき、ヴィーガン・カフェでメイクの直しと、セリフのおさらい。
そして時間より少し早めにエージェンシーのビルに到着。

17階建てのペントハウスにエージェンシーはあった。屋上テラスもあり、
見晴らしのよい清潔感あふれるオフィス。そこではたくさんのスタッフが
働いていて、こんな大きなエージェンシーはNYでも訪れたことがなかった。
もちろんハリウッドやNYのスター達をあつかっているエージェンシーは別として、
たいていのエージェンシーなんて、一人で、役者の写真が溢れかえっている
狭い事務所できりもりしているか、多くても2,3人くらいのスタッフだ。

待合室では二人のアメリカ人女性が待機していた。
一人はいかにもモデルか女優というルックスのきれいな黒人女性。
もうひとりは30代くらいのごく普通の白人。 
受付で用紙をもらい記入をし始めると、モデルチックな黒人女性が呼ばれて
部屋に入っていった。

用紙に記入もし終えたし、白人女性に話しかけてみる。この女性は舞台を
経験してきて、映像や写真はあまり経験がないとのこと。

そうこうしているうちにモデルチックな黒人女性が部屋から出てきて、
二人のエージェントらしき女性が「サンキュー」と黒人女性に手を振り、
白人女性の名前を呼んだ。

15分位して白人女性が部屋から出てきた。そしてエージェントらしき女性が

「アクティングのレッスンをとりたいのならこの人がお勧めよ。」

と廊下に置いてあったチラシを渡していた。

今度は私が名前を呼ばれた。そして部屋に通される。
そこにはビデオカメラが設置してあった。

エージェントの女性の一人が、

「カメラに向かって自己紹介、それから用意してきた3つのモノローグを
演じてください。順番はどれからやるかはあなた次第。」
 
と言ったので、とっさに質問した。

「モノローグは一つにつき、何分オーケーですか?一分ですか?」

「別にきっちり一分でなくてもいいわよ。2分くらいまでなら大丈夫。」

と言われたので、早速カメラに向かって自己紹介を始めた。

エージェントの二人は「あらまあ」とか「へえ、すごいわね!」とか感心しながら
聞いていた。べつにたいしたバックグラウンドでもないんだけどなあ。。。

そしてクッキーコマーシャルのモノローグ。次にコメディックなモノローグ。
エージェントは笑い転げていた。そして最後にお涙ちょうだいの悲劇のモノローグ。
始めると同時にスイッチがオンになったかのように私の目から涙が流れ出た。
エージェントは真剣な顔をして見入っていた。

涙を拭きながら「これでおしまいです。」とエージェントに言った。

するとエージェントは、

「すごいわ!あなたの事気に入った!悲劇も喜劇も両方得意ってなかなか珍しいのよ。
コマーシャル用の演技も自然で良かったわ。早速だけど、専属契約を結びたいわ。
あなた小さいお子さんがいるそうだけど、スケジュールはどんな感じなの?」

「昼間はデイケアに預けていますが、夜は前もってわかっていれば
夫かベビーシッターに面倒を見てもらえるかと思います。」

「それはよかった。あなた広告モデルやコマーシャルだけじゃもったいないわ。
その演技力ならテレビや映画にも売り込みたいわ。でもオーディションは
急に入るし、ここから車か列車で5時間くらいの場所に行かなきゃならないの。
日本語ナレーターもできるのね、うちは外国語ナレーションの部門もあるのよ。
なるべくあなたの負担を少なくするために、映像のオーディションは自分の
iphonカメラでビデオ撮影して、ナレーターのデモテープもiphoneで
録音してキャスティングに送ればいいわ。ナレーター部門のキムに紹介するわね、
あと、社長にも会ってもらうわ。」

もうひとりのエージェントが言った。

「あなた、今までフリーランスでエージェントにもつかず、よくここまで
キャリアを確立できたわね。すごいわ。」

え?全然たいしたことないんだけど。。。きょとんとする私。
まあ、大都市のエージェンシーではないから重宝されるんだろうけど、
今までやってきたことは無駄ではなかったんだ。

部屋をでて、まずはナレーター部門のキムさんに挨拶。そして2階で
ファッションモデルの撮影中の女社長にご挨拶。

1970年代半ばにこのエージェンシーを設立したと言うから、
年齢は60代のはずなんだろうけど、50代前半にしかみえない女社長。

「この子、かりりん。舞台の経験豊富だからすごい演技力だし、
XXXXカンパニーで11年もフルタイムの役者をやってきたんですよ。」

エージェントJさんがそう紹介すると、女社長は商品のチェックでも
するかのようにニヤリとして私の頭のてっぺんから足の先までじっくり眺めた。
そして手を差し出し、私達は握手を交わした。

「じゃあ後日専属タレントとしての契約書を送るからサインして送り返してね。
それから新しいタレントのオリエンテーションにも参加してもらいます。」

そういわれ、他の役者達が座っている待合室を後にした。

こんなに気持ち良くオーディションが出来たのは何年ぶりだろうか?つくづく思った、
逃げないでよかった。過去にもオーディションから逃げなかったおかげで
人生ががらりと変わった経験がある。

私がフルタイムの役者として10年以上も働くきっかけとなったオーディションは
31歳の時だった。マンハッタンで明け方まで働いて帰ってきて、ふっと目にした
全米オーディション広告。今から4時間後にタイムズスクエアでオーディション。
眠いしやめとこうかと思ったがなんとなく行ってみる気になった。
5役あるうちのひとつはパントマイムの役。これならアジア人で、訛りがあったって
大丈夫かも。楽譜はいらないな。動きだけだけだろうから。

数時間仮眠してアパートを出ようととドアの前に立ったとき、なんとなく
楽譜を持っていったほうがいい予感がした。自分の部屋に戻り、
楽譜をカバンに入れて会場へと出発。
会場は何百人というアメリカ人の役者であふれかえっていた。かなり長い時間
待たされたあと、係員の人が大きな声でアナウンス。

「これはシンガー用のオーディションです。楽譜を持ってこなかった人は
帰ってください。」

ざわめきがおこり、しぶしぶ会場を出ていく役者達。
あー、楽譜を持ってきてよかった。

そんなんで、数時間後、キャスティングディレクター達がずらりと並ぶ部屋に
通され、歌のオーディション。一分以下の制限のなかで、マイム力、歌唱力、
演技力を見せられる曲を選んだ。意表をついて小柄のアジア人がグラマーブロンド娘の
嘆きの唄を歌ったのでキャスティング側は大受け。キャスティングディレクターから

『明日、2次の演技審査にこられる?』

と聞かれた!やったー、一時審査合格!

翌日はモノローグの演技審査、そしてまた別の歌唱審査。
今度は1938年の古いミュージカルのアップテンポのナンバーを歌った。
それから身体のサイズを測った。サイズを測るというのはかなり見込みがあるということだ!

他の役者達から

「あのカンパニーはすごい競争率だから運よく合格したとしても空き待ちで
半年から2年経ってやっと電話もらえるかもしれないって感じだから、
期待しない方がいいわよ」

と言われた。でもなんと4日後に採用の電話をもらったのだ。
そして別の土地に引っ越して、ダーリンと出会い、マメちゃんも生まれた。
だからあの時オーディションから逃げていたら、楽譜を用意していなかったら、
ダーリンとも出会っていなかったし、マメちゃんも生まれていなかったのだ。
人生はすべて直感、決断、そしてタイミングの組み合わせかもしれない。

話は現在に戻り、今年2月末にオーディションを受けた翌日、エージェントから
メールで正式に専属タレント契約書が送られてきた。それからは毎日エージェントからの
指示を受けて、新しく履歴書作り、ビデオオーデイションの練習、売り込み用写真の
撮影、映画、テレビ俳優組合再加入の手続き(ここ十数年シアター専門だったので、
映像の組合は休会届けを出していた。)オリエンテーション、名刺作り、
ウェブサイト作りなどで、もうマメちゃんが保育園に通っている間は
ずっと作業に追われている。そうなのだ、フルタイムのライブステージパフォーマーを
十数年やってきて、すっかり忘れていたが、フリーランス役者は毎日が準備。
キャストされるまでの準備も仕事のひとつなのである。

とにかくエージェンシーのスタッフは全員礼儀正しく、優しく、質問のメールを
送ればすぐに返事がきて丁寧すぎるくらい説明をしてくれる。
そして最高の褒め言葉で、私に自信を与えてくれる。
新人タレントオリエンテーションでは、業界豆知識、撮影所でのマナー、
メイクの仕方、お肌の手入れの方法などまで女社長とスタイリストが
無料で3時間たっぷり講義してくれた。専属タレントになって
一週間も経たないうちに看護師トレーニングビデオの仕事が来て、
看護師の役を演じた。映像の俳優組合と提携している仕事だったので、
食事や、休憩時間、ギャラなど、条件がよくてありがたかった。

こんなお宝エージェントがこの土地に隠れていたとは!失業して住み慣れた土地を
離れなければならなかったけど、それには意味があったんだ!
エンターテイメントカンパニーよ、あの時ショーをクローズしてくれて、
クビにしてくれてありがとう!と、今初めて心の底から叫ぶことができる。

もうアメリカでもこの世界は23年見てきたし、だいたいこの業界がどんなものかは
わかっている。若くもないし、アジア人でハリウッド進出するような美女とは
程遠いので、テレビや映画は狙っていない。私はごく普通の一般アジア人の役で
トレーニングビデオ役者、企業パンフの中年モデル、コマーシャルの端役など
できれば大いに満足である。60歳の日系アメリカ人の役者仲間はそれでいろいろ仕事を
して楽しい生活を送っている。もっとも彼はものすごく努力家で、暇さえあれば
演技のワークショップに通い、フルタイムのセールスの仕事の合間に、
しょっちゅう車で片道4時間かけてオーデイションに通っている。

また、映像やプリントだけではなく、ライブパフォーマンスも好きなので、
このところ大学のアジアの歴史の授業にゲストとして2回ほど招かれ、
ストーリーテリングを披露した。マメちゃんのプリスクールでは日本の紙芝居セット
(あの伝統的な、木製で自転車の後ろにのっているタイプ)持参で、桃太郎を
英語で読んだ。ひとり9役、まさに吹き替えのライブステージ版のようで、
やりがいがあった。その後、子供達は興奮して、午後からの保育園の授業で、先生にずっと
『マメちゃんママの紙芝居』の話をしていたそうである。保育園の先生は、

「みんな興奮している中で、一人だけ冷めていたのはマメちゃんなんですよ。(笑)
マメちゃんのママすごいねっていったら、『ああ、ママね、パフォーマーだから
いつもあんな感じなのよ。』ですって!ねえ、うちの園にも来てもらえないかしら?」

と頼まれた。

マメちゃんの5歳のお誕生会は我が家で開き、私は自分をエンターテイナーとして
雇った(笑)こちらのバースデーパーティーは、子供広場や施設を予約して、
かぶりものキャラクターやディズニープリンセスそっくりさんをよんだり、
派手なものが多い。しかし、近所のクラスメイト達を招いたので、
(親御さんたちも入れたら30人)雪になる可能性も考慮に入れ、徒歩でもOKな
我が家に決定。

衣裳部屋をチェックし、ハロウィンで去年使ったラガディ・アン人形の格好を
することに決めた。バースデーケーキは2段になっていて、お城と
3人のディズニープリンセス人形付きの豪華版。

すっかり、コスチュームとメイクばっちりでキャラになりきってゲストを我が家に
向かえ入れ、(もちろんBGMは童謡メドレー!)ピザやスナックを食べながら
歓談してもらい、司会を始めた。

まず、私のキーボード演奏でマメちゃんにソロで歌を披露させ、その後は子供達にも
「幸せなら手をたたこう」の英語版を歌わせる。
それからマメちゃんに関するクイズ大会(景品付き)。
そしてアメリカ版福笑いや、目隠ししてお菓子入りのクス球を割るピニャータなどの
ゲーム大会。女の子はお城、男の子は消防車の形をしたクス球。
ゲーム大会の後はバースデーソングと共にバースデーケーキのろうそく吹き消し。
最後はプレゼント公開。親御さんたちからは「うちの子の誕生会に雇いたいわ!」
と言われた。

海外からの留学生を招いてのパーティー、ボランテイアに参加した大学生達のパーティー、
学科別の教授達のミーティングなど、この4ヶ月の間に7回くらい我が家を
会場として提供した。毎回準備に追われたが、それも苦にならなかった。

この土地に引っ越してきて、初めてママ友もできた。デパートの子供広場で知り合ったのだが、
2歳の男の子を持つ35歳のイラン人女性で、エリート大学で生体工学の修士号を
取得後、成績優秀だったので研究室に残るように教授から頼まれたが、妊娠中に
旦那さんがこの州に転勤したためやむなく断念。出産後は人口甘味料製造会社の研究室に
フルタイムで働いていたが、またしても旦那さんの転勤で退職。

その彼女がパートの仕事を探しているというので、ダーリンに紹介して、大学の非常勤講師の
ポジションの面接のアポを取りつけた。彼女の経歴や人柄は素晴らしいと、
早速夏から採用のオファーが来た。でもやはり子育てとの両立は難しいということで、泣く泣く断り、
かわりに小学校から高校までの代用教員を始めた。
これなら自分の都合のいい時にオンラインで予約を入れるか、
朝、電話で依頼があったとき、行きたくないなら断ればいいのだ。
彼女の旦那さんの仕事はとても忙しいし、託児所も空き待ち
ということで、フルタイムの仕事に就くのは難しいそうだ。

2歳児にふりまわされてげっそりしている彼女に、『あと1,2年で楽になるわよ』
とアドバイスできるようになったことが嬉しい。白人がほとんどのこの町で、
お互い外国人として共感がもて、マメちゃんと、彼女のお宅によくお邪魔している。
マメちゃんはすっかりお姉さんになって、辛抱強くワイルドな2歳児の男の子の
相手をしてあげている。

というわけで、この土地に引っ越してきて悶々と涙しながら暮らしていた
あの一年は吹っ飛んでしまった今日この頃なのである。

それにはもちろんマメちゃんが5歳になって手がかからなくなったということも
大きい。とにかく1歳半から4歳になるまでワイルドな子だったので、
今では毎日感謝の気持ちで一杯だ。あの状態から、よくぞこんなに
素直でいい子に育ってくれた。一時間ごとに起こされ、ミルクくれー、
暗闇で絵本を読めーとか、何をしても収まらない夜泣きの日々。。。

4歳くらいまで自由にトイレや2階にも行かせてもらえなかった。
(引越しや旅行続きで不安だったのかもしれない)睡眠不足と奴隷生活で思考能力も低下、
さらに失業、流産、父の病気、環境の変化などなど、つらい数年だった。。。

だからこそ今、幸せを何倍も大きく感じることができるのだ。

先輩ママさん達が、、子供が5歳になったらまた自分の時間ができるわよと
アドバイスをくれていた意味が今わかった。

今までは、好きなことを仕事にすると趣味ではなくなるので、だんだん義務になって
本当に芝居や音楽が好きなのかわからなくなっていた。音楽鑑賞、観劇など
すべて勉強のためだったが、最近は、好きな音楽やミュージカルのCDを
マメちゃんと聴くのが趣味だし、バッグは好みのブランドもみつかった。
おしゃれやメイクも楽しくなった。
好きなものをみつけ、好きなものに囲まれて生活する。。。
これは長年忘れていたことだ。

頭も久しぶりに冴えてきたし、これからまた本来のかりりんに戻りたいと思う。

さて、40代ブログとしては欠かせない美容健康ネタであるが、去年の10月から
基礎化粧品をがらりと変えた事についてレポートしたいと思う。

今住んでいる土地は冬は寒くて、とても乾燥する。脂性肌のダーリンまで初めて
乾燥のため湿疹ができ、皮膚科に行ったほどだった。だから37歳から
ずっと使用してきた基礎化粧品ではお肌が乾燥して硬く、ガビガビで、
湿疹やちりめん皺が出来てきた。
もちろん47歳という数回目のお肌の曲がり角にも突入している。

だから藁にもすがる思いで、あのニベアガッテン塗りを試してみた。

もう半年以上、ニベアガッテン塗りを続けているが、肌は柔らかくなり、
なんとかシワも食い止めているようだ。ニベアを塗る前に化粧水も試してみたが、
私には化粧水なしの方が乾燥しないようである。実際番組では水分補給してから
保湿クリームで蓋をすることと、専門家が言っていたらしいが、どんどんブレて、
ニベアをそのまま塗るという情報になってしまったようだ。
でも私には合っているのでそれが一番。手で温めてから伸ばすようにしている。
友人はスクワランオイルをニベアの中に数滴たらして伸ばしているとか。




夜はホホバ油でメイクを落とし、蒸しタオルで優しく顔を拭い、
Kiss My Face olive oil bar の固形石鹸を泡立て、
洗顔後にニベアを塗るのみ。ホホバ油と普通の固形石鹸の組み合わせは
なんとなくベタベタした感じで洗顔後のすっきり感がない。でも普通の洗顔料を使用したやり方では
お肌が乾燥して、粉をふき、ちりめん皺が出てきてしまうのだ。。。







それから、日焼け止めクリームも変えた。これも40代美容ブログで見つけた
乾燥しない日焼け止めクリーム特集の記事で見つけたものだ。私は結構日焼け止めクリームで
肌が荒れてしまうほうだが、この二つの日焼け止めは今のところ問題ない。
乾燥しないといってもやはり夕方になると多少は乾燥してくる。他のサンスクリーンよりは
刺激が少なく、乾燥しない。


LA ROCHE-POSAY MELT-IN BB CREAM SPF50をネットで注文。
化粧下地・日焼け止め乳液のBBクリームである。
肌色なので、ファンデは必要ない。ただし、目の周りは避けて、別のクリームファンデを使用している。




色なしの日なら、KISS MY FACE face + neck face factor SPF 50の
ウオータープルーフタイプを塗っている。これはアメリカのアマゾンの口コミで、
乾燥しないし、日焼け止め効果抜群という感想を読んで購入した。香料、ナノ粒子、防腐剤のパラベン
は不使用だが、ちょっとラベンダーチックな匂いがきついかもしれない。以前まで、私には合わなかった
紫外線吸収剤のAvobenzoneが3%入っているが、今回何も肌荒れをおこさなかった。
同じシリーズでAvobenzoneなしのものもあるようだ。




乾燥しやすい目の下はクリニークの下地クリーム。
CLINIQUE moisture surge intense skin fortifying hydratorを塗っている。

鼻のかみすぎで鼻周辺が白く皮がむけてしまった時、ワセリンでは効果なかったが、
このクリニークのクリームは効果があった。



目の周りはクリニークのリキッドファンデーション。
CLINIQUE repairwear laser focus SPF15入り。



そしてUVカットのサングラスかメガネで目の周りを紫外線から守る。

目の下のクマ隠しは
REVLON AGE DEFYING with DNA ADVANTAGE CONCEALER
(コンシーラーだけど乾燥しないで結構1日ベタベタするくらいなので
上からパウダーをはたく)

HARD CANDY Glamoflauge (アメリカのネット上美容ランキングで上位だった。
$6と安いけどカバー力あり。TATOO隠しにもよいとか。ペンシルタイプとセットで
売っていたので併用。)

NYX Above & Beyond Full Coverage Concealer (エージェントの女社長さん推薦。
写真撮影の時などに効果的でカバー力あり。ただすこし乾燥するかも。)

*注意 これらのスキンケアは、オイリー肌の人には不向き。、また、これから夏になるので、
全て実行するとニキビが出てきてしまう可能性あり。

若々しくしようと水色、ピンク、パープルなどのパール系シャドウにしがちだったが、
逆にブラウン系で、落ち着いたメークにしたら若く見られるようになった。

ダイエットや運動をしていないのに体重が減った。ふと考えてみたら納豆を
毎日食べ初めて一週間がたっていた。ジーンズはゆるくなって落ちてくるが、
ブラのカップは大きくなったので買い替えた。

生理は2ヶ月近く来ていない。。。でも体調はとってもいいので気にしていない。
もうすぐ婦人科健診なので、聞いてみるつもり。

40代後半になったら何事にも開き直りの精神で行くのが
ハッピーに過ごす秘訣なのかもしれない。



ワクワクする仕事み〜つけた!

すっかり更新を怠っていたまま今年も終わりに近ずいてしまった。

ある出来事をきっかけに、7月から私の中で明らかに何かが変わったということを
記録に残して、今年最後の日記として締めくくりたいと思う。

楽しいはずの日本旅行中に落ち込むということは初めてで、これはかなり
まずいのではないかと感じながらもアメリカに戻ってきたのは6月末。

それから独立記念日をはさんだ一週間はダーリンの家族と共にワシントンDCに
集まってお祝いをした。一ヶ月ぶりに再会したダーリンまで、幸せとはなんだろうと
考え込んでいて夫婦共に無気力になっていた。

独立記念日の花火を見終え、翌日とうもろこし畑の広がるアメリカの片田舎に
戻ってきた。久しぶりに見る副学長邸は以前にも増して大きく見えた。
こんなだだっぴろい庭と屋敷に住んでいたんだっけ。。。

翌日マメちゃんを公園で遊ばせている最中、急に胸が詰まるような感覚に襲われた。
ブランコで遊んでいるマメちゃんに、

「ママ、ちょっと胸が重いの、車に戻っていい?」

と尋ね、二人で車に乗り込んだ。

80年代のジャーニーのヒット曲をかけると、まるで薬のように少し症状が
軽くなってきたが、家に着くと、床に倒れこんでわーわーと泣いた。
ダーリンは2階で息子とスカイプで話していた。
きょとんとするマメちゃんと、iphoneでカラオケをかけ、二人で歌い始めると
涙は止まり、なんとか落ち着いた。

また、別の日は、買い物にお隣の州に向かって運転中、大きな河にかかる鉄橋を
わたっている時に、その河に車ごと飛び込んでいくような映像が頭に浮かんで
恐くなった。この土地に引っ越してきてから一年ちょっと、うつ症状は
改善されるどころか、悪化しているかのように思えた。

このままではいけない。旅行ばかりして現実逃避してきた一年。しかし気が付けば、
家計は火の車。黒人女性に一方的に車を衝突され、向こうのウソが通り、
$1000も修理費を払うことになった。さらに、健康診断に行っただけで
日本円にすると10万円以上の請求書がきて唖然とした。ダーリンの大学の
医療保険はカバーがイマイチなようで、ただ、医師と軽く自分のバックグラウンドを
話して、普通の血液検査をしただけだけだというのに
そんな大金を支払うはめになるとは!

それからダーリンの皮膚科の健診でやれ$300、マメちゃんの健診で$200、
ダーリンの息子の医療費$4000とか、なにかしら毎月請求がきて
どんどんお金が消えていくのだった。なんか、年収大幅アップしたというのに、
逆にどんどん貧乏になっていくような気がした。。。

社交的だった自分が、友達もできず、話し相手は4歳児オンリー。

これからの人生の目的もわからなくなり、無気力になっていく毎日。。。

そこで以前「お見合い道」のfee_drageeさんがお勧めしていた本で村上和雄著の
「遺伝子オンで生きる」という本を本棚から取り出した。
この本はずっと前に日本からオーダーしたものの、マメちゃんを産んでからの
奴隷生活で読む暇もなく、そのまま本棚で眠っていた。

さらにポール・マッケンナの「7日間で自分を変えよう」という本も毎朝読み始めた。

新月のお祈りも9つ書いた翌日、他州のナレーション録音スタジオから電話が
数年ぶりにかかってきた。

このスタジオでは数年前に英語でCD用ナレーションの仕事を何回かしたことが
あったが、今回初めてIT会社の研修ソフトの日本語版を制作することになったという。
クライアントは男性ナレーターを募集中ということで、誰か知らないかと聞かれた。

ここで友人の男の子を推薦すればそこでおしまいだったのだが、私の経歴を
ずらっと書いていろいろ売り込んだ。日本では声優・ナレーター養成所を卒業し、
コマーシャルや朗読などの経験を積んできたこと。アメリカでも新人の子を
スカウトして特訓し、ナレーターの仕事をさせ、自分が演出、編集を
したことなど。。。そう、自己啓発本を読んだ後だったので、
いきなりポジテイブで売り込みモードとなっていたのだ。

現在は別の州に暮らしているが、いつでも録音のためなら、スタジオに
飛んでいけるし、スカイプでの演出もできることもつけたした。

数日後、そのスタジオのディレクターJ氏からメールをもらい、その企画の
キャステイング、電話での演出を頼まれた。やったー!この田舎に住んでいながら
電話で仕事ができる。

翌日から、思いついた知り合いの候補者の男性達に電話をかけ、彼らの
ナレーションのデモテープをクライアントに送った。そしてそのうちの二人が選ばれ、
録音に参加することになった。

ダーリンにマメちゃんを公園につれてもらっている間、電話で録音に参加。
読み間違いを訂正したり、イントネーションの指示などを出した。

それから数日後に再びセッションがあった。しかし私はだんだん現地に行って
スタジオで録音に立ち会いたくなってきた。その旨をスタジオディレクターに話すと、
そんな遠くからわざわざ来てもらわなくても電話ですむことだし、
旅費もカバーできないから必要ないとの返事。

それでも押しかけ女房のごとく、マメちゃんを後部座席に乗せ、
車で片道20時間の旅に出かける決心をした。一人でアメリカの見知らぬ土地を
20時間も運転、、、しかも4歳児と二人きりで。

途中で釘でも踏んでタイヤがパンクしたらどうしよう、大きなトラックに
意地悪されたらどうしよう。。。数日間悩んだけれど、「遺伝子オンで生きる」
の中で言われている通り、本当に情熱を傾けていることには不思議な力が働き、
夢が叶うということを頭の中に描いた。きっと行った先でいいことがある!

悩んでいる時は悶々としているが、いざ決意を固めるとなんと気持ちがいいことか。
人生って悩んでいる時間の方が長いのかもしれない。

行くと決意したあと、ディレクターに連絡しても返事が返ってこなくなった。
え、いっちゃまずいのかしら?それとも誰か他に演出を見つけたのかも?
次々と不安が襲うが、行って見なければわからない。

とにかく月曜日の夜に電話でセッションをやることになっているので、その時までに
現地に着かなければいけない。土曜日の午後1時にマメちゃんと共に家を出発。

午後4時に20分ほどのトイレと食事休憩でファーストフードレストランにストップ。
マメちゃんにキッズミールを食べさせ、ガソリンを入れ、再び運転。
今夜いけるところまで行かないと、月曜のセッションに間に合わない。

ようやく夜11時頃に、ある州で一泊することに決め、子供広場のあるマクXXルドで
マメちゃんを遊ばせながら、iphoneで格安ホテルを探す。もちろん口コミを全部読み、
安全で評判の良いホテルを見つける。

それにしてもマメちゃんはまだ4歳だけれど、長時間の車での旅に慣れているので
楽だ。ipadでスペイン語や英語の語彙の勉強やゲーム、カラオケをしたりして
ずっとご機嫌。そのうち童謡CDを聴いているうちに2時間くらいお昼寝。
お腹は空かない子だし、トイレも長時間行かなくても平気で、
私のほうがよっぽどトイレが近い。

3歳半まで本当に手がかかる子だったが、今はその分楽させてもらっている。
例の2歳近くの頃の悪夢のフライトで、ミルクゲロ直撃や一時間毎にオムツが
パンパンになって私の膝にもれたり、あちこち歩き回り、泣き喚いていた
あの頃がウソのようである。

午前12時近くにホテルにチェックインして、大喜びのホテル好きマメちゃん。
興奮してなかなか寝付けなかったようで、長時間の運転で疲れている
私にはこたえた。ハンドルを通して伝わる車の振動がまだ手に残っていて
少しビリビリしていた。

翌朝ホテルの無料朝食をマメちゃんととり、チェックアウトをして、
再び高速道路へ。

夕方セルフサービスのシーフード専門レストランで夕食をとり、
また夜11時近くまで運転し続ける。あと2時間で目的地に到着だったが、
途中のホテルでもう一泊することに決めた。
翌日の録音は夕方7時からなので余裕である。

そして月曜日のランチタイムに、とうとう目的地に到着。この達成感は
なんともいえないものがあった。

ジャパレスでランチをしたあと、親友L子のコンドへ行く。

スタジオディレクターに今夜のセッションは電話でなく、直接スタジオにいって
参加してもいいかとメッセージを送ったが2時間経っても返事がこない。。。
やっぱり迷惑なのだろうか???こんな長時間かけてたどり着いたのに
やっぱり受け入れてもらえないのか。。。?

そして夕方5時にやっとディレクターから連絡。

「金曜日にはまだあんな遠くの州から電話でセッションしていたきみが、
今日はこちらの州に来ているなんて驚いたよ!ごめんね、このところ家族が
故郷から遊びに来ていてあちこち連れ回っていて連絡できなかった。
スタジオに来て直接録音に立ち会ってくれるなんて嬉しいよ!
じゃあ7時に待っているよ。」

なあんだ、そういうことだったのか。やっぱり来て正解だった。

マメちゃんをおなじみのファミリーデイケアのTさんに預け、スタジオへと向かった。

私が数年前にこの世界にスカウトして特訓した男の子はすでにスタジオ入りしていた。
経験は浅いが、マイクを通すと惚れ惚れするような美しい声質の持ち主である。
まだ彼のレベルでは言いにくいIT専門用語がぎっしりと詰まっている台本で、
録音は難航したが、なんとかその日の分は収録できた。
合計20時間分録音しなければいけないので、まだ一週間ちょっとは
かかる予定だった。

そして脇役が必要ということになり、ディレクターが、

「そうだ、キミがせっかく来ているんだからキミにやってもらおう。
キミならひとり何役も出来るよね。」

ということで、私の3種類の声も録音することに!これだけでも来た価値があった。

さらに数日後、デイレクターから連絡があり、

「また別のプロジェクトが入ってきたよ!クライアントは男性ナレーターが
いいといってるんだけど、ボクとしてはキミにお願いしたい。
これからさらに2週間かかるけど滞在を延長できるかな?
主役のナレーターで20時間分の録音だ。」

と、主役ナレーターのオファー!

しかし、8月8日にダーリンがバケーションでこちらに遊びに来て、
その週末には家族全員で車で帰る予定になっていた。。。
この仕事を引き受けると、帰りは8月の3週目になってしまう。。。
恐る恐るダーリンに尋ねてみたが、iphoneのフェイスタイムで画面に映る
ダーリンの顔は硬直して恐かった。

「6月は3週間日本に行って、7月に帰ってきたと思ったらまた8月家を空けるの?」


「でも去年からナレーターの仕事が一番ワクワクすることだって
思っていたところにこんなチャンスが訪れたんだよ。絶対逃したくないの。」

「わかったよ。じゃあボクだけ飛行機で帰れって事だね。」

ここのところダーリンは暗くて、機嫌が悪い日が続いていた。

「これが最初で最後だから。。。約束する。。。」
 
と懇願すると、

「わかった。」

としぶしぶ承諾した彼であった。

ダーリンのことは気がかりだが、今回は絶対にひけない自分であった。

私が演出担当のプロジェクトが終わって、今度は主役のナレーターを担当する
別のプロジェクトが始まった。一回のスタジオセッションは二時間半、
とにかくつっかえないでノンストップで読めるところまで読むように努力した。
寝不足や空腹だと口の中が乾いてその音をマイクがひろってしまう。
一見のどに良さそうなお茶ものどが乾燥する。お水も飲みすぎると
今度はゲップがでそうになってしまう。高感度なマイクを使っているので、
とにかく注意しながら、口とマイクの距離も、姿勢もずっと一定に保ち、
台本を読み続けていく。

昔は紙の台本だったので、前もって漢字にカナをふったり、句読点を
読みやすいように打っておいたものだったが、近年ではスタジオ側が用意した
ipadを使用し、台本も翻訳者が締め切りぎりぎりに送ってくるので、
初見の台本をその場で朗読することになる。

どうやら風邪の引きはじめのようで、薬、自然療法、サプリなど、
できることは片っ端からして、それ以上進行しないように食い止めた。

せっかくこの州に戻ってきているのに、友人にも連絡せず、毎日スタジオ、託児所、
家の行き来だけで、とにかく声をセーブした。

この一年ちょっと、旅ばかりして観光地もたくさん訪れたが、それよりもこうして
毎日緊張しながらこの仕事をしているほうがずっとずっと楽しかった。
これこそ私がワクワクする仕事であった。

考えてみれば、小さい頃からテープレコーダーで一人遊びしていた自分。
漫画を一人何役も声を使い分けたり、物まねして録音を楽しんだ。
小学校4年の時初めてビデオレコーダーが我が家に登場した際は、
エースをねらえ!を録画し、セリフを書き写し、クラスメイト数人を家に招いて
それぞれに役を与えた。オリジナルの音量は消し、自分達の声で読みながら
声優ごっこをしたものだった。ちなみに私はお蝶夫人を演じた。

高校生の時には声優養成所に通って卒業時の発表会では「ど根性カエル」の
ぴょん吉の役を与えられた。セミプライベートレッスンで、
NHKのラジオドラマの元演出家について、文学作品の朗読の特訓も受けた。

今まで妊娠、出産に関してなんでも予言的中のスピリチュアルフレンドの
Sさんからは、2年前に、

「かりりんちゃんは癒しの声を持っているので、これからは
それを使ったお仕事を考えてみるといいですね。」

と言われた。これは私のショーを観に来たタレントエージェントにも言われた。
普通の話し声はなんてことないのだけれど、録音した声は、親友や親が聞いても、
絶対私ではないと言って信じてもらえない。

さて、今回の滞在中、日本人で死産経験者、43歳のママ友が、マメちゃんを
何日かお泊りに招待してくれた。彼女曰く、長い夏休み、マメちゃんが
いてくれたほうがお嬢さんと一緒に遊ばせとけばいいので楽だそうである。
私もそのうちの2日は泊まらせてもらったが、私がいると寝つきが悪く、
数年ぶりの夜泣きまで再発するというハプニング!でも私がいないと、
いい子にしてすぐ寝付くし、朝までぐっすり寝てくれるとのこと。。。
やはり私に甘えているのだ。

そのママ友は、5歳のお嬢さんを2歳の時からバレエ、音楽、体操、お絵かき、
水泳などありとあらゆる習い事をさせてきた。現在はアメリカの公文にも
通わせている。ある日、私が仕事を終えてマメちゃんを引き取りに来たら、
目を丸くしながら、

「マメちゃん、まだ4歳で、習い事もさせていないのに、なんですらすら本が
読めるんですか?うちの子は結構前から公文やモンテッソーリに通わせているのに、
まだ英単語の文字一つ一つを声に出してつなげながらやっと意味を理解できる
レベルなんですよ。マメちゃんたらこの子の宿題、あっという間に終わらせて
しまいましたよ。」

と驚いていた。でも彼女のお嬢さんはマメちゃんと違ってバレエやお絵かきが
上手だし、たまたまマメちゃんはリーディングが得意だったというだけだ。
私は怠慢ママで、知育などに力を入れずマメちゃんをほったらかしてきたけれど、
独学でよく学んでくれたものだ。これはきっとダーリンの遺伝子のおかげであろう。
なにしろダーリンの息子はまだ13歳なのに、この州で最もレベルの高い大学の
哲学中級クラスを受けていて、成績はAである。

録音も最終段階に近ずき、スタジオのディレクターと話し合い、今後の
売り込み作戦で、私のいろいろな種類の朗読デモテープも作成した。
昔話、観光ガイド、研修ビデオなどなど。。。

やっと最終録音を終了した翌日、マメちゃんを後部座席のチャイルドシートに
座らせ、田舎の副学長邸へ向けて出発。州を二つこえたあたりで渋滞にひっかかり、
その日、膀胱炎にでもかかったかのようにトイレが近かった私は、トイレに
行きたくてどうしようもなくなった。。。こんなに苦しいのは妊娠以来である。
そんな私の様子を見ながら、4歳児のマメちゃんは冷静に言った。

「ママ、大丈夫よ、妖精のことを想像してごらんなさい。そうすれば
トイレのことを忘れるから。頭に浮かべた妖精は何色の衣装を着ていると思う?
黄色?緑色?」

「き、黄色!」

と冷や汗を流しながらなんとか持ちこたえてガソリンスタンドを見つけて
トイレにかけこんだ。途中2泊ほどして、二日後の深夜に帰宅した。

その翌日は大学の新入生の歓迎パーティーを我が家で開く事になっていた。
疲れが残っていたが、朝から掃除をしまくった。

そのパーティーで新入生を引率している数学教授の女性が準備のため、
早めに我が家にやってきた。今までなら、あ〜、彼女もこの町にいる
典型的な白人で、クリスチャン、子供5人でこの町で生まれ育ち、
他州では暮らしたことがない人なんだろうな、と想定して
特に話しかけもしなかっただろう。
しかし、この夏の体験で私は元の社交的な人間に戻っていた。
彼女の経歴をたずねてみると。。。

「ポートランド出身で、その後も都会に引っ越して9年前にこの町にやってきたの。
でも最初は町にも人々にもなじめなくて落ち込んだわ。ボランティアやったり
とにかく友達を作ろうとしたの。でも年月かかったわ。
鬱で、一日中パジャマ着て家から出ず、泣き続けた日々もあったわ。」

予想していない返答だった。

「よかったら今度ランチでもしない?」

と誘われ、メールアドレスを交換した。

そんなことから、彼女と毎週火曜日、おしゃれなレストランで
ランチするようになった。お互いドレスアップして、
おいしいオーガニックレストランや、美しい川辺の風景を楽しめる
レストランで会い、その後、いろいろなアンティーク小物のお店を案内してくれた。

4歳児との会話ではなく、大人の会話ができるなんて!
音楽、本、映画、美容、人生などの話ができることを、
これほどありがたいと思ったことは久しぶりである。

そして週末は、家族3人で2時間半かけて大きな都市までプチ旅行を
楽しむようになった。そこで、ある週末に日本祭りをやっていて、
パフォーマー仲間から話だけは聞いていた、評判の大道芸人の男性が
ショーをやっていた。ショーの後、彼に話しかけると、
私のウェブサイトのURLを教えるように言われる。そうなのだ、3年も前から
作るように先輩から言われていたのに、ずっとそのままになっていた。。。

その翌日、知り合いの男の子にウェブサイト作りを依頼した。

サイト作りのため、自分の経歴、昔の写真、劇評など屋根裏部屋の箱を
ひっかきまわして探しまくった。

自分の歴史。。。集めてみると、そうか、こんなこともやっていたんだっけと
久しぶりに自分の過去を振り返る。毎日頭のなかは自分のイメージで一杯だ。
そうなると、私はただ単にダーリンの妻という存在で、自分の名前も
忘れかけていたところだったが、パフォーマーかりりんなんだと洗脳されてくる。

田舎にはいるけど、車に乗り込めば、どこの州でも一人で行ける。
電話で仕事もできるし、サイトさえあれば、どこへでも売り込むことができる。
私は別にとうもろこし畑の中の刑務所に閉じ込められているわけではなかったんだ。

この夏の経験を通して、自分でどこへでも行けるということがわかった今、
もう息苦しいという閉塞感を感じなくなった。

9月からはとうとうマメちゃんを週二日、バレエ、タップ、体操の
コンビネーションクラスに通わせるようになった。
このダンススクールは、月に何度もショッピングモール、老人ホーム、
カーニバルなどで発表会の機会があり、マメちゃんも人前で踊ることができるし、
私とダーリンも休日どこかにいく目的ができた。

ダーリンのために数日かけて、ネットで口コミを読みまくり主治医を
探してあげたら、まるでセラピストのように聞き上手で、アカデミックな職業の
患者をよく理解している医師が見つかった。サプリを処方してくれたり、
すっかり長年悩みだった足の痛みとか、背中のできものとかまで処置してもらい、
すっかり穏やかでハッピーなダーリンに戻った。近くに頼れる主治医をみつけたこと、
血液検査で健康そのものという結果を得て、それだけでも
気分が明るくなったようだ。

彼の仕事も順調で、これこそやりたかった仕事だと益々意欲を燃やしている。

あっという間に10月末になり、ホリデーショーの仕事で他州に戻ってきた。
今回はその仕事の他にエンターテイメントカンパニーから単発で英語と日本語の
ナレーターの仕事が入ってきた。やっぱり魂がウキウキする仕事だ。

年末までここで仕事をした後、年越しはダーリンの家族と共にニューヨークで
年越しをする。

ここ数ヶ月、仏教に興味を持ち、休日はアメリカ人向けに東洋哲学を教えている
クラスや、瞑想クラスを受けたり、お寺で菜食ランチなどを頂いたりしている。
偶然にも友人に誘われて通い始めたこのお寺は健太郎のお葬式を上げてくれた
お寺であった。

去年仕事で元いた州に戻ってきた時はもう感動しまくりで、やっぱりこの土地で
なければダメだ!とか騒いでいた私だが、今回、州の境界線を越えた時、
まったく落ち着いている自分がいた。

一年ぶりに屋外で1日8回のショーは身体が少々きつかったが、1日で慣れた。
こうして週五日働いてみると、フルタイムのステイタスにしがみついていた
数年前を思い出す。。。失業してからはなんとかして戻れないかともがいていた
時期もあった。最近カンパニーの状況もかわって、さりげなく、
また戻る気があるか打診されたが、もはや興味がなかった。

フリーランスとしてたまに来て仕事をしたいとは思うが、これを週五日、
年がら年中やるにはお年頃の自分にはもう限界が来ていると思う。
というか、その段階は卒業して、また新しい形で次のステップに進むべきなのだ。
何しろあと3年ちょっとで50歳の大台に乗る!

次はまたいつ更新できるかわかりませんが、
読者の皆様、どうぞ良いお年をお迎えください!








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