「笏谷石を訪ねて」の トップページのフラッシュ画像も、2010年4月9日撮影した福井城春バージョンに変えたところなので、ここでちょっと、お堀の石垣など、福井城での笏谷石の利用についてお話したいと思います。
福井城は柴田勝家の北庄城をもとに、徳川家康の次男、結城秀康が建てたお城です。慶長6年(1601)より築城を開始し、6年かけて慶長11年(1606)に完成しました。
四層五階の天守に、足羽川に合流する吉野川を利用した百間堀など、四重、五重の堀を持つお城でしたが、現在は本丸の石垣と内堀が残るのみです。
築城当時は、柴田勝家が築城した北庄城と同じに呼ばれていましたが、三代藩主忠昌(ただまさ)は、北の庄の「北」は「敗北」に通ずるとして、福居、(のちに福井)と改められたとの話は有名ですね。
今でも福井の地名の由来となった「福の井」が天守台の所に残っています。
そして、福井城の石垣はすべて、福井市の「足羽山の笏谷石」です。
すべてが同じ石でお城の石垣、堀が造られるのは、全国的にもとても珍しいことなんですよ。
福井城の石垣の特徴は、
・すべて同じ石、足羽山の笏谷石が使われていること
・すべて小さい石で、運びやすく加工しやすい「切り石」ばかりだったことです。
そのことで、美しく、横のラインが通った
「布積み」の「切込接ぎ」という積み方ができたと言われています。
これは第1級の城(二条城や江戸城)の積み方と同じです。
現在、外側から見えているお堀の石垣の数は、25,000個ぐらいで、
お堀の水に隠れて見えない石、内側の石、天守台の石垣をあわせると、40,000個とも言われています。
築城当時は、四重、五重のお堀や、芝原用水にも笏谷石は使われていたのですから、
その数は、図りきれない膨大な数です。
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「笏谷石を訪ねて」
〜1500年の歴史と文化を再発見〜の
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福井城は柴田勝家の北庄城をもとに、徳川家康の次男、結城秀康が建てたお城です。慶長6年(1601)より築城を開始し、6年かけて慶長11年(1606)に完成しました。
四層五階の天守に、足羽川に合流する吉野川を利用した百間堀など、四重、五重の堀を持つお城でしたが、現在は本丸の石垣と内堀が残るのみです。
築城当時は、柴田勝家が築城した北庄城と同じに呼ばれていましたが、三代藩主忠昌(ただまさ)は、北の庄の「北」は「敗北」に通ずるとして、福居、(のちに福井)と改められたとの話は有名ですね。
今でも福井の地名の由来となった「福の井」が天守台の所に残っています。
そして、福井城の石垣はすべて、福井市の「足羽山の笏谷石」です。
すべてが同じ石でお城の石垣、堀が造られるのは、全国的にもとても珍しいことなんですよ。
福井城の石垣の特徴は、
・すべて同じ石、足羽山の笏谷石が使われていること
・すべて小さい石で、運びやすく加工しやすい「切り石」ばかりだったことです。
そのことで、美しく、横のラインが通った
「布積み」の「切込接ぎ」という積み方ができたと言われています。
これは第1級の城(二条城や江戸城)の積み方と同じです。
現在、外側から見えているお堀の石垣の数は、25,000個ぐらいで、
お堀の水に隠れて見えない石、内側の石、天守台の石垣をあわせると、40,000個とも言われています。
築城当時は、四重、五重のお堀や、芝原用水にも笏谷石は使われていたのですから、
その数は、図りきれない膨大な数です。
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