資源枯渇が見えてきた中国の金生産

2020年9月12日


1395943_s








金塊
出典「写真AC


〖プロローグ〗

中国人の金選好はつとに有名です-金は換金性の高い商品です。多くの人々は、国難に遭遇しても、金は財産であり、お守りでした。中国は1949年10月1日に新中国が成立し、社会主義制度の下で、人々は、新たな生活が始まります。しかし、長い内戦で、多くの生産設備が破壊されたため、経済は疲弊していた。当時の産金量を見ると、わずか4.5トンでした。

 

〖生産の推移〗

中国経済は第一次5カ年計画(1953年~1957年)が始まり、徐々に生産活動は回復し、同計画は所期の成果を収めます。それから25年後、鄧小平体制下で、1978年12月、「第11期3中全会」が開催され、「改革・開放体制」が始まります。翌年、鄧小平氏の指示で、深圳市を核とする「経済特区」が推進されます-爾来、本年で40年が経過し、当時3万人の人口が、現在、1500万の大都市に発展します。

中国の金産業は、ゆるかな“経済効率を重視”する政策を導入し、中国の産金量は次第に実績を上げます-1995年の産金量は100トン、2003年には200トン、2007年には産金量が世界一の南アフリカを抜き、世界一の産金国となります。それ以来、2008年292トン(341トン)、2010年351トン(454トン)、2012年411トン(609トン)、2014年452トン(824トン)、2016年454トン(622トン)、2017年426トン(1089トン)、2018年401トン(1151トン)、2019年380トン(1002トン)でした-()内の数字は金消費量。

 

〖生産の減少〗

(背  景)

中国黄金協会2020年1月21日に発表した統計デ-タによると-2019年の産金量は前年比20.89トン少ない380トンでした。同協会によると、減少している要因として-①自然保護区の鉱業権の取り消し、②作業時に出る危険性なシアン化合物の管理、③“鉱物資源の枯渇”の影響で、河南省、福建省、新疆維吾爾(ウイグル)自治区などの重点生産地域で、産金量が減少します。

生産量は減少しますが、ここ数年の中国の金産業は供給側の構造改革は不断なく続きました。「規模・速度追求型」から品質・効率重視型へと転換”します。産業の集積度が高まり、重点的金産業集団(グル-プ)の金鉱石生産量が全国に占める割合2.45ポイント上昇します(注1)。

(影  響)

統計によると、2019年の金輸入量は120.19トンで、前年比6.57%増加します。中国黄金協会はこの動きについて「国内の金鉱山の生産量が大幅に減少して、“金精練用の原料の供給不足”が表面化したことで、輸入量が増加し、輸入原料は、今や中国の“金生産を補完する重要な存在”となった(注2)。

 

〖2020年上期〗

(落ち込み)

中国黄金協会が7月28日に発表した2020年の上期の金生産量は前年比5.87%減の170トン、金の消費量は同38.25%減の323トンに落ち込んだ。その要因として、①新型コロナウイルスの感染拡大、②金価格上昇の影響を受けたためです。但し、第2四半期だけで見ると、金の生産量は前年同期比5.81%増加し、金の消費量の下落幅は同22%減にとどまります。国内の感染状況は落ち着き、一連の消費促進策の効果が出始めます。

(消費量)

2020年9月10日上期の金消費量は323.29トンです。内訳を見ると、アクセサリ-が前年同期比42.06減の207.87トン、金地金と金貨が同32.12%減の76.98トン、工業とその他が同25.16%減の38.44トンでした。まだ、全体として消費状況は思わしくありません。金地金(現物)と金貨の評価は高かったため、第2四半期の売り上げは微減にとどまりました。


(オンライン)

金価格の高騰により、一部の投資家が利益を確定するための売りに出したことで、買い取り業務が増加し、上半期の金の買い取り量は前年比162.88%増加します。新型コロナウイルスの感染が落ち着き、買い取り業務の増加に加え、金のオンライイン取引業務が本格化します(注3)。

001e4fe17cf90b32c66f07







中国の金販売店
の風景
出典「人民中国


 

〖生産減少問題〗

(減少基調)

2019年現在、中国の産金量380トン・消費量1002トントンは、依然として、13年連続世界一です。しかし、1949年の産金量4.5トン以来、2016年の生産量454トンをピ-クに生産量は年々逓減し、2019年380トンと比べると、16.3%減(74トン)と大幅な減少となりました。

(需給バランス)

これを裏付けるように2019年の金の輸入量は前年比6.57%増の120.19トンでした。既述のように、「国内の金鉱山の生産量が大幅に減少して、“金精練の原料の供給不足”になったため、輸入量が増加し、輸入原料は、今や中国の“金生産を補完する重要な存在”となります。

2018年の入り、中国の金産業界は「走出去」策(海外進出)を加速させます。統計によると、重点黄金企業グル-プの海外鉱山の産金量は23.4トンでした。黄金企業の海外展開は、すでに新しい政策を展開(含むM&A)します(注4)

 

〖エピロ-グ〗

最近、国際金取引所では産金量がピ-クに達したとする「ピ-ク・ゴ-ルド」説、話題を呼んでいます。2019年は通年で金価格が2割上昇に転じます。本来は産金量が増える要因になりますが、2019年は11年ぶりに減少に転じます。“生産コストの増加”、“鉱床の減少”、“投資の減速”が響いたのです。短期的な相場を動かす材料にならないが、将来的には金の需給インバランスが酷くなり、価格に影響を与える可能性もあります(注5)。

中国の産金量は2016年をピ-クを境に、以後、産金量は漸次に減少基調に転じます。中国当局は海外に目を向け、「走出去」政策を展開をします。現在、金確保のために“何でありの状況”下にあります。明らかに中国の産金量は減少に転じました。しかし、中国の産金量・消費量は、2019年現在、13年連続世界一です。総じて、世界の産金大国の生産量も減少基調で推移しています。やはり、「ピ-ク・ゴ-ルド」説は信頼できる見方かもしれません。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)「人民網日本語版」2020年1月

(2)(注1)と同じ

(3)「CNS」(China News Service)2020年8月1日

(4)「新華社w」2019年2月3日

(5)「日本経済新聞」(電子版)、2020年3月10日

中国企業の香港証券市場への回帰

2020年9月6日


〖プロロ-グ〗

最近の米中関係は経済面に止まらず、軍事面でも先鋭化しています。国際金融面においてもNY証券市場に上場している「瑞幸咖啡」(ラッキン・コ-ヒ)の不正会計事件をきっかけに、米国の投資家は中国企業に対する不信感を深めています。5月20日、米国上院は、“中国企業を念頭”に置いた外国企業の上場規制化法案を可決します。このため、NY証券市場に上場している中国企業251社(時価総額約1兆7100億ドル<約183兆円>)のうち、中国企業31社がリスクヘッジ(上場廃止)のため香港証券取引所に重複上場を果たします。以下、最近の中国企業の動きを見ることにします。

2824119_s







ニューヨーク
証券取引所

出典「写真AC


〖概    況〗

 (推   移)

2020年7月14日、中国報道機関が米国株式市場に上場する251社(参照1)の中国企業に巨大なリスクををもたらすニュースが報道されます。中国証券監督委員会(証監会)と中国財政省(部)が米国の上場企業の監査法人を監督する公開会社会計監督監査委員会(PCAOB)と2013年に結んだ「覚書」を、トランプ政権が一方的に破棄する方針だとロイタ-通信が伝えたのです(注1)。

その内容は-①米国上院は5月20日、米国に上場する外国企業がPCAOBの監督基準3年間連続で満たせなかった場合、上場を廃止すると定めた「外国企業説明責任法」を全会一致で可決したのです。②同法が下院の採決とトランプ大統領の署名を経て、成立し、さらに上述の覚書が破棄された場合、米国市場からの中国企業の締め出しがいよいよ現実味を帯びる-というものです。

(対  応)

米国証券取引所に上場している中国企業は現在251社あり、時価総額は約1兆7100億ドル(約183兆円)に上ります。そのうち、31社が香港証券取引所に重複上場(回帰)を果たします。この動きにより香港市場の時価総額を5570億ドル(約60兆円)押し上げる可能性があると、米国の金融会社(ジェフリ-ズ)が6月14日発表します(注2)。

(先駆け)

中国の情報技術(IT)の有力集団アリババ(阿里巴巴)(1999年創業-本社浙江省杭州)はNY証券取引所に上場しています。同社は2019年11月、香港で重複上場を果たし、IPO(新規株式公開)によって、1012億香港ドル(約1兆4168億円/1香港ドル=約14円)を調達しています。資金調達額で過去最大の大型案件となります。これまで最大であったバドワイザ-・ブリュ-イング・カンパニ-APACの451億香港ドル/2019年9月)の2.2倍です。

2019年に香港証券取引所でIPOを実施した全企業の資金調達額総額3129億香港ドルの約3分の1の規模です。2020年6月、米国ナスダック市場(NASDAQ)上場の中国ポ-タルサイト運営大手(Webサイト)の網易(ネットイ-ス)と、中国インタ-ネット通販大手の京東集団(JD.com)が、香港証券取引所に上場します。それぞれ243億香港ドルと301億香港ドルを調達します。

これら2社の株式上場による資金調達額の合計は、544億香港ドルに上った。2020年第1四半期(1~3月)の香港証券取引所でのIPO調達総額の3.7倍に当たります(注3)。以下、2019年1月~2020年7月の香港市場でのIPOによる資金調達額上位10社です<国名/上場日/資金調達総額(香港ドル)>

 

順  位

1阿里巴巴(アリババ)集団<中国/2019年11月/1012億ドル>

2バドワイザ-・ブリュ-イング・カンパニ-APAC<香港/2019年9月/451億ドル>⒊京東集
3京東(JD.COM)<中国/2020年6月/301億ドル>

4網易(ネットイ-ス)<中国/2020年6月/243億ドル>

5ESR(Cayman Ltd<香港/2019年11月/141億ドル>

6申万宏源集団-H株(参照2)<中国/2019年4月/91億ドル>

7翰森製薬集団<中国/2019年6月/90億ドル>

8滔搏国際ホ-ルディングス<中国/2019年10月/90億ドル>

9中国飛鶴<中国/2019年11月/67億ドル>

10貴州銀行-H株<中国/2019年12月/55億ドル>

(出 所)「香港証券取引所公表資料よりジェトロ作成」

 

〖香港市場の行方〗

(関係者の見方)

米中関係の現状は悪化の一途を辿り、留まることを知らない。また、“香港の中国化”は、「香港国家安全法」<国安法/2020年6月30日施行>により明確化し、加えて、林鄭月娥行政長官の「香港は三権分立ではない」との発言(2020年9月1日)により、ますますその様相を反映するものになった。

このような中で、香港証券取引市場の行方について、同所のCEO李小加(チャ-ルズ・リ-)はブル-ムバ-グ主催のバ-チャルイベント(6月22日~24日)で、「現在、多くの大型IPO案件を抱えており、2020年は香港証券取引所にとって重要な年になる」と宣言。今後の香港のIPO市場が活況を呈する見通しを明らかにした。

その上で、米国での中国企業を念頭においた規制強化ついて、「香港証券市場は、規制を順守せず、問題を抱えて上場廃止となるような企業は望んでいない」。米国側が、単に中国ということだけで市場からの退出を迫ることがないことを信じている」と見解を示した上で、「質の高い企業は歓迎する」と強調した(注3)。

(中国企業の動き)

米国政府は米国会計基準を満たさずに米国市場に上場している中国企業を上場廃止すると警告しているが、中国企業によるNY証券取引所へのIPOは後を絶たない。企業側の上場廃止を巡るリスク管理を容易にしているが、金融テクノロジ-企業は中国本土や香港よりも米国に上場する方が規制上の負担は軽いとみている。リフィニティブのデ-タによると中国企業が本年に入り米国市場へのIPOで調達した資金は52億3000万ドル。前年同期の24億6000万ドルの2倍超となっています(注4)。

 

〖エピロ-グ〗

今後、貿易摩擦や香港問題などを巡る米中間の緊張の高まりが、本格的に資本市場にまで広がることが考えられる。そうなれば、香港での上場を目指す中国企業はさらに増えるだろう。中国企業の資金調達機能としての香港の役割は短期的に変わることはなく、むしろ強化されることになろう。香港証券市場にとっては当面、追い風が吹き続けることになりそうだ(ジェトロ見解)。

米中経済関係の摩擦は当面続くことになる。中国企業のNY証券取引所への上場は相変わらず増えている。反面、中国企業の香港回帰は増えている。この動きは、中国政府の香港の本土化とも符合することになる。NY市場に上場する中国企業にとって示唆的であり、魅力的である。今後、米国政府の対中国企業への圧力は増幅することが考えることから、すでに香港への中国企業の重複上場は規定の路線になっている。
2798632_s







香港
高層ビル群
出典「写真AC


(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)「財新」2020年7月21日

(2)「ジェフリーズ」調査レポ-ト、米国金融会社、2020年6月14日

(3)「中国企業の香港での重複上場相次ぐ」JETRO(日本貿易振興機構)-地域分析レポ-ト、2020年7月20日

(4)「朝日新聞」2020年8月14日

 

(参 照)

(1)2019年2月現在、NY証券取引所、ナスダック市場(NASDAQ/世界最大の新興市場(ベンチャ-)向け株式市場に上場する中国企業は156社である。

(2)H株:香港証券取引所に上場されている中国企業のうち、本土に登記がされているとともに資本の出所も本土となっている企業の株式の総称の事をいいます。

日本人のカレ-物語

2020年8月23日


〖プロロ-グ〗

およそ60年前、著者が未だ20歳前後、7人家族の昼食で最も好きだったのはカレ-でした。若かったお袋は美空ひばりの“東京をキッド”を歌いながら水で溶かしたメリケン粉を大鍋のカレ-スプ-の中に入れ、増量していました。たんぱく源の豚肉は高いため、マグロのフレ-クを常用。簡単で、満足感いっぱいのカレ-ライスは、食べ盛りの5人の兄弟がちょっぴり幸福感を味うひと時でした。時より、“向こう三軒両隣”(隣組)からも心地よいカレ-の臭いが我が家に漂い始めると、家族の顔、顔に笑みがこぼれました。

家から15分歩くと、カレ-粉を製造する工場があり、その前を通ると、少しきつめのカレ-粉の臭いが漂ってきました(参照1)。家族の主役は「団塊の世代」、多くの日本人が戦後10年、ようやく復興の兆しが見え始め、高度成長の前夜だったのです。当時の「経済白書」(1956年・昭和31年)は-“もはや戦後ではない”(1955年のGNPが戦前の水準を超えたという意味です)が、そのまま流行語となりました。国民食となったカレ-ライスは、明治初年から今日まで150余年の歴史があります。以下、日本人の国民食となったカレ-ライスの歴史を紐解きます。

 

〖歴史を遡る〗

【幕  末】

1853年6月3日(嘉永6年)、米国東インド艦隊司令官ぺリ-が率いる軍艦4隻(うち蒸気船2隻)が浦賀に来航します。幕府は1859年(安政6年)、前年の神奈川、長崎、函館に次いで横浜を開港。1860年(万延元年)、福沢諭吉は、英語の辞書『増訂華英通語』を出版します。その中に『Curry コルリ』とあります。

1863年(文久3年)、幕府の文久遣欧使節一行(総勢38名、正使竹内保徳<下野守>、福沢諭吉など)は、船上で初めて、インド人が食べていた「カレ-」と出会います。開港を機に、友好国の商人たちが横浜に居を構え始め、使用人や出入りの日本人を通して、「カレ-」は、他の西洋料理とともに日本人に伝わったのです。

 

【明治時代】

<最初の人>

1871年(明治4年)、日本で最初の物理学者となる会津藩出身の山川健次郎(参照2)は斗南藩を再興した後、1871年(明治4年)、米国留学のため「ジャパン号」の船上で、ライスカレーを食べたいう記述が回想録にあります。カレ-ライスを選んだのは唯一米を使った料理であったからで、カレ-は残します-日本人として、初めてカレ-ライスを食べた人です。

その後、山川健次郎は1875年(明治8年)、イェ-ル大学(1701年創設)で博士号取得し、帰国します。やがて、東京帝国大学(東京大学の前身)の総長を2回登用(1901年6月<明治34年>・48歳/1913年5月・<大正2年>60歳)されます。少年の頃、会津藩の白虎隊の一員として“悲劇の人”が“主役の人”になったのです。健次郎の妹捨松は、後に大山巌(薩摩/元帥)の妻となり、旧友津田梅子と女子教育を支援したのです(参照2)。
Kenjiro_Yamakawa_2











山川健次郎
出典:「Wikipedia


 

<料理書>

1872年(明治5年)、カレ-の作り方を紹介した料理書『西洋料理通』(仮名垣魯文)、『西洋料理指南』(敬学堂主人)が発刊されます。ぺリ-浦賀来航以来、日本の鎖国体制は事実上崩壊、横浜周辺に多くの欧米人が住居を構えます-次第に、「洋食」は、日本人に伝えられました。

 

<命  名>

1876年(明治9年)、クラ-ク博士(少年よ大志を抱け!)による全寮制の「札幌農学校」(北海道大学の前身)が開校し、1日おきにライスカレ-がでました。一説にはライスカレ-の命名はクラ-ク博士ともいわれますが、1873年(明治6年)、陸軍幼年生徒隊の食事にライスカレ-が登場していますから、クラ-ク博士ということではありません。

 

<婦人雑誌>

1893年(明治26年)、『婦人雑誌』に、“即席カレ-ライス”の作り方が紹介されます。この頃にライスカレ-に「即席」という発想があったのは驚きます。鰹節のだし、醤油などをカレ-ライスに使おうというアイデアも、日本人ならではと言えるでしょう。明治30年代になると、カレ-ライスはチャプヤ(外国人船員相手の店)の定番メニューがカレ-ライスでした。しだいに日本人も訪れるようになります。

 

<今村弥>

明治時代のカレ-粉の主力商品は英国のC&B社のものです。価格については不明ですが、相当の金額だったようです。1903年(明治36年)、国産品カレ-粉を作ったのは大阪の薬種問屋「今村弥」でした。スパイスは漢方薬など東洋医学の薬品として使われるものが多いので、カレ-粉の材料も揃っていたのです。因みに「ハウス食品」も薬種問屋です。「今村弥」のカレ-粉のキャッチフレ-ズは-(洋風どんぶりがうちでも作れまっせ!)、カレ-を洋風どんぶりと呼んでいました。

 

<食道楽>

1903年、村井弦斎(明治・大正時代のジャ-ナリスト)の料理小説『食道楽』が報知新聞に掲載されます。その後、単行本になり、ベストセラ-となった小説です。この中で印度風カレ-の作り方が紹介されます。この頃、日本郵船欧州航路の一等船室の食堂で、カレ-ライスに“福神漬”が添えられます。

因みに「酒悦」の福神漬けの誕生は1886年(明治19年)です。今でも、福神漬けの“ちょっぴり感”はカレ-との風味を和ませるものです。1910年(明治43年)、大阪・難波新地に、西洋料理店「自由軒」が開業します-1940年(昭和15年)、織田作之助が『夫婦善哉』で、同店が(混ぜカレ-または名物カレ-)を紹介して有名になります。

 

【大正時代】

<ハウス食品>

時代は維新の混乱と近代国家づくりに苦悩する明治時代は、明治大帝の崩御(1912年7月30日)により、終焉を迎えます。時代は大正デモクラシ-の時代に入り、活発な民間活力が豊かなアイディアを生み出します。1913年11月11日(大正2年)、日本を代表する有力メ-カ-の一つである「ハウス食品」の前身の薬種科学原料店「浦上商品」が大阪市松屋町筋に創業します。

創業者は徳島の士族浦上靖介(せいすけ)は10歳の時、当時すでに大阪で、薬種問屋店を営んでいた兄を頼って、単身大阪へ出ます。船場の薬種問屋で働き、商売の基礎を学んだのです。創業日は、現在も「ハウス食品」の創立記念日となっており、同社は本年で創業107年を迎えます。

 

【昭和時代】

<中村屋>

1927年(昭和2年)、パン、食品の製造販売メ-カ-中村屋は、レストランのカレ-でも著名です-「純印度式カレ-」のメニュ-が誕生したのが、1927年(昭和2年)でしす。当時、中村屋創業者相馬愛蔵・黒光夫妻は、イギリス政府から懸賞金をかけられていました。インド革命の志士ボ-ス(夫妻の長女と結婚)を匿ったためです。

中村屋のカレ-のレシピはこのボ-スによるものでした。日本に亡命したボ-スは、当時の日本のカレ-を見る度に、インドのカレ-とは違うと嘆き、本格的な美味しいインドカレ-を相馬夫妻に説きます。当時、町のカレ-屋さんが10~12銭だったのに対して、80銭と超高級!それでも大変な人気でした。

 

<名花堂>

カレ-パンは1927年(昭和2年)、東京下町のパン屋さん「名花堂」(現:カトレア洋菓子店/江東区森下1丁目)が実用新案登録して世に出たものです。当初は「洋食パン」の名でしたが、いつとはなしに“カレ-パン”と呼ばれるようになり、現在に至っています。そばにカレ-を合わせたカレ-南蛮のアイデアも秀逸ですが、パンの中にカレ-を入れるというアイディアも日本人以外は誰も思いつかなったようで、これも日本人のオリジナルです。1928年(昭和3年)、東京銀座「資生堂パ-ラ-」でも高級カレ-カレ-とご飯が別々に盛られ、各種薬味付きが登場し、大人気となります。
fc2blog_2018112717003811e









カトレア洋菓子店
(旧:名花堂)
出典:「カレー細胞

 

<ルウカレ->

1961年(昭和36年)、「全日本カレ-工業協同組合」設立されます。この頃、日本の高度経済成長が始まります。1963年(昭和38年)、日本のカレ-産業の一角をなす「ハウス食品」が、マイルドな辛さで子供と一緒に食べられる「バ-モンドカレ-」(ルウカレ-)が発売されます。これまでの“大人独占のカレ-”から“家族全員”が食べれるカレ-へと変身します。“カレ-民主主義”の始まります。その反動とも思われる大人のカレ-「ジャワカレ-」(辛味)が1968年(昭和43年)に同社から発売されます。

 

〖カレ-と県民性〗

(ランキング

日本人の国民食となったカレ-、カレ-ルウの場合(年間支出金額)、全国の市町村でみると(2012年度)、1位は鳥取市1409円、2位熊本市1364円、3位鹿児島市1216円です-全国平均で1120円です。全国的に人気の程がうかがえます。次にカレ-ハウス(カレ-専門店)の登録件数を見ると、タウンぺ-ジデ-タべ-スに登録されている職業分類「カレ-ハウス」は、ここ10年、増減を繰り返しているものの、2004年(平成16年)の2737件から2013年(平成25年)2978件と、約8.09%の増加となっています。

 

(店舗数)

カレ-人気のカツカレ-やス-プカレ-はもちろん、全国各地にその地方の特色を生かした、ご当地カレ-のバリエ-ションや人気もどんどん広がっていったことが、うかがえます。10万人当たりの都道府県別の登録件数ではどうでしょうか-1位石川県(628件)、2位北海道(496件)、3位東京都(367件)です。石川県といえば、金沢市のご当地カレ-「金沢カレ-」が有名です。濃厚なルウ、ソ-スがかったカツ、付き合わせのキャベツが載っています。反面、登録件数が少ないのは、福島県(0.87件/47位)、新潟県(1.02件/46位)、茨城県(1.・09件45位)です。

 

〖海外展開〗

(CoCo壱番屋)

大手カレ-チェ-ンの「カレ-ハウスCoCo壱番屋」は、積極的に海外出店し、成功を収めています。「ジャパニ-ズカレ-」は、多くの可能性を求めてグローバル化を推進しています。同社が初めて海外に出店したのは1994年(平成6年)のハワイです。以降、本格的な海外展開が始まります。2004年に中国・上海に出店したのを皮切りに、アジア地域では9か所の国・地域に進出し、146店舗を展開しています(2017年8月現在)。

1店舗ごとにデザインを変え、現地のニ-ズにあった空間作りを心掛けて、日本の店舗とは異なる雰囲気を醸し出しています。運営会社は資本業務提携している「ハウス食品」との合弁法人がほとんです。2020年8月3日、カレ-の本場インド北部のグルグラムの複合施設サイバー・パプ内にインド1号店を開店しました。

 

〖中国の見方〗

最近の中国の報道によりますと、-たった150年の歴史を持つ日本カレ-がインドより人気のわけは?-を掲載します。その要旨は-①日本のカレ-の歴史は、わずか150年-その中で、日本は、カレ-の工業化製造ラインを急速に発展させ、今や世界第2位のカレ-消費国になり、毎年93億食分が消費されている。②日本で生産されたカレ-粉やカレ-ル-は世界の食品市場を席捲し、売り上げ世界-を達成しただけでなく、インドカレ-よりも人気がある。③北海道のス-プカレ-は、東南アジアが源流。真っ白い降り続ける雪と氷の大地でひとしきり遊んだ後、お腹がすき、冷えた体で炬燵に潜りこんで、熱々のス-プカレ-を食べるのは、この上もない幸せなひとときだ-と結んでいます。

 

〖海軍カレ-〗

(切っ掛け)

明治初期の頃、海軍の病死数で最大と原因となっていたのは脚気(かっけ)でした。海軍軍医高木兼寛は-長期洋上任務の艦内において“白米中心”の栄養バランスが偏った食事が原因と考え、英国海軍の兵食を参考にして糧食の改善を試みましたところ、脚気が激減した。その兵食の一つにカレ-シチュ-があり、ご飯と合うようにアレンジされたものが、カレ-ライスであったと言われています。

 

(罹患率)

スパイス(生薬)を多量に使うカレ-は、寒さ暑さへの適応力、新陳代謝の促進などの健康効果が期待でます。脚気の主因はビタミンB1不足で、玄米(米ぬか)に多く含まれています。1878年(明治11年)の記録に海軍の総兵力4528名中、脚気罹患者は1458名(32.79%)、死亡者は32名で、深刻な状態だったのです。また、現在も海上自衛隊では、“毎週金曜日”は、カレ-ライスを食べる習慣になっています。同じ曜日に同じメニュ-を食べることで、長い海上勤務中に曜日感覚をなくすための方策でした。

 

 

〖エピローグ〗

新型コロナウイルス、熱中症の猛威下、国民は巣籠(すごもり)の中で、日々暮らしています。外食もできず、自宅で、毎食変化に乏しいものになっています。このようの環境に刺激を与えるのは、カレ-ライスです。著者も時折、昼食にカレ-ライスを連れ合いに所望します。時代の変化や価値観の変化にもかからわず、カレ-ライスはいつも我々の“身近な存在”です。国民食としてのステイタスは今後も変わりません。

(グローバリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(引用資料)

・『ハウス食品』(株)~商品情報・「カレ-日本史」-今回、報告を書くにあたっては、多くの部分で、同社の報告を引用させて頂きました

・「アジアの注目企業100」~CoCo壱番屋の海外進出 日本のカレ-文化を世界へ

・JB PRESS 食の研究所

「北京週報」2020年8月11日

・星亮一著「山川健次郎」伝 ~白虎隊士から帝大総長へ~ (株)平凡社、2003年10月2日

・ウイキペディア

 

(参   照)

(1)昭和30年(1955年)当時、今のJR中央線東小金井駅近くに「テ-オ-カレ-工場」があり、その前を通ると、ちょっぴりきつめのカレ-の臭いが漂ってきました。当時、同社の小さな缶のカ-レ-粉をお袋が使用していました。

(2)山川健次郎(1854年9月<嘉永7年7月>~1931年6月<昭和6年>)、会津藩出身で白虎隊兵士として明治新政府軍と戦う。日本最初の物理学者、教育者、男爵です。東京帝国大学総長、九州帝国大学総長、京都帝国大学総長、私立明治専門学校総長(現:九州工業大学)などを歴任します。

プロフィール

igarashi_gri

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ