都心の喧騒の中で(1)-サンシャイン60ビル

2024年6月17日


〖プロロ-グ〗

筆者は久し振りに奥様と池袋駅に降りた。駅フォ-ムからエスカレ-タ-へ、ほぼ20年ぶりに西側から東側出口への通路を歩く。何処も彼処も人の流れが早く多い。出口から緑の街路樹が続き、気分爽快である。東口五差路を左へ曲がり、サンシャイン60ビルぐそこである。以下、サンシャンシティ・サンシャイン60ビルの完成までの動きと今回の池袋訪問の目的であるキャラクタ-の買物事情などである。
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池袋駅東口
出典:「写真AC

 
〖喧騒と昔日物語〗

(池袋駅の現状)

JR池袋駅の乗降客(1日当たり/2021年度)を見ると、総数で407489人、年間1億4873万人である。内訳を見ると、定期利用者242428人、定期外利用者165061人で、新宿駅に次ぐ第2位である。因みに新宿駅の乗降客総数は522178人、定期利用290692人、定期外利用231486人である(JR統計)。

 

-サンシャイン60ビルの完成までの動き-

(東京拘置所)

「サンンシティ」は1973年7月着工し、1978年10月5日に開業した。サンシャイン60ビル(1973年着工-1978年4月6日竣工/同10月5日グランドオープン)は当初から通行人は多かった。但し、道路両側の店は今より少なかった。「サンンシティ」ができる前は東京拘置所があった。
(事業化推進)

拘置所の移転が決まったが、東京都の財政難や移転先の用地難などから計画の進捗は滞っていた。しかし、1964年10月に開催される東京オリンピックを控え、池袋の再開発計画も俎上(そじょう)に載り、副都心計画(TKプラン)は、民間事業とした上で児童センタ-を核として事業することなり、加えて、事業推進にあたっては西武百貨店が実務の中心を担うことを決定した。1961年1月、副都心建設を目途とするデベロッパ-会社を設立し、経済界有志によって結成する。

(堤清二氏活躍)

同年10月、開発母体となる新都市開発センタ-(現:サンシャンシティ)が設立された。同社の設立にあたっては旧セゾングル-プを率いた堤清二が財界首脳や丸の内の大手企業を訪問し、出資を要請したほか、拘置所に移転運動も堤が軸となり活動を推進した。加えて、三菱地所と共に西武百貨店を中心とした西武流通グル-プ(セゾングル-プ)が最大の出資者として名を連ねた。

(建設の着工)

1973年7月、サンシャンシティの建設が着工した。しかし、直後にオイルショックに遭遇し、工費が倍増するなど紆余曲折を経て、1978年4月6日にサンシャイン60ビルが完工した。展望台のオ-プンとオフィス・テナントの入居し、約半年後の10月5日にプリンスホテルを除く全館が竣工し、グランドオ-プン(街開き)を迎えた。開業当初は池袋駅から離れて立地していることからテナント誘致に苦戦したが、サンシャイン60ビルが入居率100%超えるまで4年ほどの歳月を要した。平日は約8万人、休日は約10万人が訪れる。

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サンシャイン60ビル
出典:「写真AC

 

〖キャラクタ-商品〗

今回池袋サンシャンシティへ行くことになったのは、ドイツ・デュッセルドルフに住む孫のリクエストによるものである-その店は2階にあるONE PIECE麦わら店である(東京都豊島区東池袋3-1- サンシャンシティ専門店街アルパ2F))。同店で売るトニ-トニ・チョッパ-のキャラクタ-商品を購入するためである。店内は日本人より多い外国人観光客が子供共に来客していた。

一人のアジア系の人に尋ねると、「フィンランド・ヘルシンキ(首都)から来た」という。購入すると、目的を達成したためか、笑顔でこちらに質問に答えてくれた。筆者も目的を達成し、再び駅方向に歩く。とにかく多くの人々が行き交う。帰りに奥様と西口へ行く。

昼であったので、交番で周辺の中華料理の店を訪ねる。直ぐ近くに「地球飯店」のエレベーターで2階の店に入る。若い中国人女性が菜単(ランチのメニュウ)を持ってくる。開店から40年になるという。暫くすると、近くのオフィスの若い人が入って来る。筆者も若い頃を思いだす-赤坂溜池の「楼外楼飯店」(中華の名店)で、ランチをよく食べに行ったことを思い出す。

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ONE PIECE 麦わらストア
出典:「サンシャインシティ


 
〖エピロ-グ〗

池袋駅周辺は都会の喧騒のど真ん中にあり、息づいている。多くの人々の価値観は都会の価値観を形成する。また、自分の価値観を検証するために都会に出掛ける。それが池袋である。著者が買いに行ったONE PIECE麦わら帽子店(キャラクタ-商品販売)は世界中から観光客が訪れる。

同店は世界中へ“新しい価値観を発信”する。近くには、多くの同様の店からも新しい価値観を世界へ発信する。池袋は東京でも有数の発信基地となった。加えて、円安によって日本のインバウンド需要は更に拡大することは確実であり、日本中が外国人観光客で溢れている。反面、日本の消費者は物価高騰に一層の日常生活に工夫を強いられる。日本銀行の国民目線(物価対策)に立った金融政策が急がれる。
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麦わらストア
ぬいぐるみ
出典:「X ONE PIECE 麦わらストア池袋店


(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(資料):(1)「ウイキペディア」

     (2)「トニ-トニ・チョッパ-」製品のカタログなど

     (3)ヒユミント情報など

     (4)邦字紙社説など

江戸時代の謎(3)-慶安御触書の真偽

2024年6月6日


〖プロロ-グ〗

「慶安御触書」(1649年4月7日<慶安2年2月26日>/治世徳川家光)は、徳川幕府が始動してから凡そ半世紀が経った時点で、農民統制(小百姓)に対する幕府法が発表された。32条と奥書から成る。原本は発見されていない。しかし、1697年(元禄10年)、甲斐国甲府藩において発令された「百姓身持之事」(百姓身持ちの事)が、「慶安御触書」と同内容であることがわかった。

すなわち御触書は幕府法ではなく、甲府藩の藩法だったのである。当時の甲府藩主は徳川綱豊、後の六代将軍家宣である。また、甲斐国から信濃国にかけて流布していた1665年(寛文5年)を上限とする地域的な教諭書「百姓身持之事」がそもそもの原型であることが明らかになった。以下、同文書の内容・見解の推移をまとめた(注1)。

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慶安御触書
出典:「NHK for School 慶安の御触書

 

〖文書の内容〗

「慶安御触書」の中身の一部を紹介すると、以下のとおりである。

・幕府の法令怠ったり、地頭や代官のことを粗末に考えず、また、名主や組頭のことは真の親のように思って尊敬すること。

(原文「公儀御法度を怠り地頭代官之事をおろかに不存扨又名主組頭をハ真の親とおもふへき事」)

・酒や茶を買って飲まないこと、妻子も同じ(同:「酒茶を買のみ申間敷候妻子同前之事」)

・農民達は、朝と木綿のほかは着てはいけない。帯や裏地にも使ってはならない。

(同:百姓は衣類之儀布木綿より外ハ帯衣裏)

・早起きをし、朝は草を刈り、昼間は田畑を耕作し、夜は縄を綯い、俵を編むなど、それぞれの仕事を油断無く行うこと。(朝おきを致し朝草を苅晝ハ田畑耕作にかゝり晩にハ縄をないたわらをあみ何にてもそれぞれの仕事無断油断可仕事)(注2)。

・男は農耕、女房は機織りに励み、夜なべをして夫婦ともよく働くこと。たとえ美しい女房であっても、夫のことをおろそかにし、茶を飲み、寺社への参詣や遊山を好む女房とは離別すること。しかし、子供が多くあり、以前から色々世話をかけた女房であればべつである。また、容姿が醜くても、夫の所帯を大切にする女房には、親切にしてやるべきである。(同:男ハ作をかせき女房ハおはたをかせき夕なへを仕夫婦ともにかせき可申然ハみめかたちよき女房成る共夫の事をおろかに存大茶をのみ物まいり遊山すきする女房を離別すへし乍ら去子供多く有之て前廉恩をも得たる女房ならハ格別なり又みめさま悪候共夫の所帯を大切ニいたす女房をハいかにも懇可仕事)
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甲府城の石垣
出典:「写真AC


〖真実への展開〗

(岩村藩)

「慶安御触書」は、何故幕府法だと誤解されるようになったのか。少し長くなるが、

山本英二氏の見解によると(注3)。-

①「1830年(文政13年・天保元年)に美濃国岩村藩(3万石)(参照1)が木版印刷した「慶安御触書」が原因である。昌平坂学問所・林大学頭述斎は、岩村藩主大給松平家の出身であることから、同藩の後見役を務めていた述斎は藩政改革の一環として「慶安御触書」を領内に配布させたのである。この時、百姓身持之覚書」は慶安2年2月26日の幕府法「慶安御触書」と命名された。

②この岩村藩版の御触書が、天保期以降、東日本の大名や旗本、幕府代官たちによって、続々と採用された。この要因として、天保の大飢饉や広域化する百姓一揆に直面していた幕藩領主にとって、百姓の理想像が描かれている同御触書は民衆を抑える、手段となった。

③述斎の権威と正確で迅速なに伝達できる木版印刷の利便性が相乗効果となって、御触書は瞬く間にひろまったのである。加えて、「慶安御触書」は述斎が監修する江戸幕府の正史『徳川実記』に収録された。明治時代には司法省が刊行した『徳川禁止考』にも掲載された。こうして「慶安御触書」は慶安2年に発令された幕府法令にとして錯覚されるようになった。

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美濃岩村藩の城跡
出典:「岐阜の旅ガイド

〖教科書の取扱い〗

不透明な「慶安御触書」を中学生の教科書はどの様に取り扱っているのかを見てみよう。山本英二著「慶安の触書はだされたのか」(注4)。-同氏の見解によると-

・「慶安御触書」に記述していないものは5社と過半数を超えている。しかも2社の教科書では全く登場していない。

・史料引用のある場合でも、1649年に幕府が出したと伝えている。というように判断保留のまま掲載しているのが4社、また発令年次ふれないで引用するのが1社である。1649年2月26日に幕府が発令したと明記しているのは、たった1社しかない。

・目を転じて高等学校の教科書では、1994年度の学習指導要領の導入段階においても多くの出版社が疑問点の注記を付けたり、1649年発令と明記しなくなっている。それが遂に義務教育にまで確実に浸透している。

 

〖エピローグ〗

「慶安御触書」は、「百姓身持之覚書」が原本となっている。その背景には幕府中枢の地位にあった昌平坂学問所の林大学頭述斎(現:文部大臣/東京大学総長)であり、既述のように岩村藩主大給与松平家の出身という関係から大きな動きとなった。

「慶安御触書」は、幕府の“農民の徹底的な統制”であった。この施行の背景には不断に続く農民の生産力を持続する為のものである。当然、幕府の強固な財政基盤のためでもあり、治安維持のためでもあった。
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昌平坂の学問所
出典:「Wikipedia


(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)「日本史の新常識」、文春新書(1190)、文藝春秋、「慶安御触書」は存在しない。山本英二(信州大学教授)、2018年(平成30年)12月10日、178頁-179頁。

(2)上記の「慶安御触書」は、『国立国会図書館デジタルコレクッション』所収の『徳川記事ID』。

(3)(注1)と同じ。179-180頁。

(4)山本英二著「慶安の触書はだされたのか」日本史リブレット、(株)山川出版社、2019年9月25日。2-4頁。

 

(参 照)

(1)著者八幡和郎「江戸300藩 最後の藩主」、美濃岩村藩(3万石)。光文社2004年7月20日、第7刷発行、140-141頁。

 

江戸時代の謎(2)-大久保長安の波乱の人生

2024年5月22日


〖プロロ-グ〗

大久保石見守長安(おおくぼ/いわのかみ/ながやす/ちょうあん)/土屋長安(つちやながやす)は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将(1545年(天文14年)-1613年6月13日(慶長18年4月25日)。1582年4月(天文10年3月)甲斐武田氏が滅亡した後、徳川家康の家臣となった。徳川家康のもとで吏領として活躍した。これまでに金鉱山(甲斐黒川金山)の開発などで実績を上げた。
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徳川家康
出典:「Wikipedia


徳川時代265年年間の繁栄の基盤をつくりあげた人物との評価がある。しかし、その過程で、多くの不正が行われたことが、大久保長安死後、徳川家康によって明らかにされた。その罪科は、一族郎党にまで及んで死罪となった。以下、大久保長安の波乱に満ちた生涯を記した。なお、長安の事績の一つとして、八王子の街づくりに功績を挙げた。

甲斐黒川金山





黒川金山
出典:「文化遺産オンライン

〖生    涯〗

(出  生)

大久保長安(以下長安と略称)は、1545年(天文14年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安の祖父は春日大社で奉仕する金春流・猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったというが、出生地は不明である。

(武田家臣時代)

<金鉱山開発>

父の信安猿楽師匠として甲斐国に流れた。頭脳明晰だった長安は武士にとりたてられ、蔵前衆という税務、経済、鉱山経営の実務につく。次第に頭角をあらわし、重用されるようになった。譜代家老土屋昌続の与力に任じられた。この時、姓も大倉から土屋に改めている。長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国にある黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。

<信玄没後>

武田信玄没後はその子、勝頼に仕えた。1575年(天正3年)、長篠の戦いでは、兄新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。1582年(天正10年)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって、武田氏は滅亡(天目山/甲州市大和町)した。しかし、一説によると、武田勝頼から疎んじられていたとも言われる。
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天目山
(武田勝頼の終焉の地(甲州市大和町))
出典:「気ままなピークハンターズの山旅


(徳川家臣時代)

<重臣との関係>

甲斐武田家が滅んだ後、長安は徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康が甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安が建設したが、この際、家康がその館を見て長安の作事能力を見抜き仕官を許したという。一説によれば、家康の近臣で旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分が信玄に認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを“売り込んで”家康に仕えるようになったともいわれる。また、三河譜代の重臣大久保忠世(後に小田原藩主)の嫡子忠隣(ただちか)の庇護を受け、大久保姓に改称する。

暫くして、蔵前衆として活躍し、1589年(天正17年)、1590年(天正18年)の5カ国総検地には伊奈忠次(江戸初期の代官頭/現:愛知西尾市生まれ)と共に農政改革に手腕をふるっていたが、このとき小人頭の知行に関しても古府中(甲府)を中心にほぼ三里以内に集合させ、領国の中心部に集中させていく政策を実施した。この甲斐で伊奈忠次、大久保長安によって実施された施策は、徳川権力の集中強化を企画する近世的な知行割の歴史的前提をなすものと言ってよい(注1)。

1590年(天正18年)の小田原征伐後、家康は関東に入府する。この時、長安は青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正らと共に奉行(代官頭)に任じられ、家康が関東に入った後、土地台帳のなどの作成を行なった。長安が行なった検地は石見検地と呼ばれ、自作農の保護にもあてるというものであった。

<八王子所領>

1591年(天正19年)に家康から武蔵国八王子(後に横山)に8000石の所領を与えられた。但し、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられたという。長安は八王子宿(現:東京都八王子市)に陣屋(小門陣屋/おかど/現在の小門町)を置き、八王子十八人代官を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた-石見(いわみ)土手と呼ばれている。

長安はまた、家康に対して武蔵の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。1599年(慶長4年)には同心を増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。

<関ヶ原の戦い>

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが始まり、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役(ほろ)を勤めている。戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山、生野銀山(兵庫県朝来)などの全て徳川氏の直轄領になる。加えて、長安は1609年9月に大和代官、同10月に石見銀山見分役、11月に佐渡金山接収役となった。
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佐渡金山
出典:「写真AC


<諸奉行を経験>

1601年(慶長6年)春、徳川四奉行補佐にて甲斐奉行、同8月石見奉行、9月には美濃代官に任じられ、これらすべて兼任の形で家康から任命されている。異例の昇任と言ってもよく、家康が長安の“経理の才能”を高く評価していたことが伺える。

1603年(慶長8年)2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙人され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。同7月佐渡奉行、同12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任ぜられ、併せて年寄(後の老中)に列ら”れた。

<普請奉行>

1605年(慶長10年)に長安を普請奉行として、“武蔵御嶽神社”の本社を普請している。1606年(慶長11年)2月には伊豆奉行に任ぜられたことで、長安は“家康から全国の金銀山の統轄、関東における交通網の整備、一里塚建設などの一切まかされていた。現在も知られる“里程標”、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である。

<政略結婚>

このように長安の権勢は大きなものとなった。その事例として、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名などの人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の“150万石”の実質的な支配を任されていたと言われている。

<八王子町立て>

1590年(天正18年8月)、家康は関東入国に従って関東に移った大久保長安は武蔵国多摩郡八王子町を拠点に代官頭として地方行政に携わる。当時の八王子町は新たに造られた宿であった。周辺から落武者や野武士などが数多く集住し、騒動に至るようなことがあったので、大久保長安は小門宿(おかど)に町の中に番屋を作り、牢獄を設け法に従わない違法な行為を戒め、さらに彼(長安)は命令を受けて関東の代官を八王子付近に居住させ指揮下においた。

<長安陣屋>

小門宿に設けられた大久保長安陣屋は、三方に土塁を築き敷地は約6200平方メ-トル(2200坪)で広大な面積を有していた。八王子の町立てについては、1696年(元禄年間)に作成された八王子横山十五宿絵図によって平面的に理解することができる。それによると、町建ては町の中央に東西に走る甲州街道を通し、その街道沿いの横山宿・八日市場・八幡宿・八木宿には宿場機能を有した伝馬役を負担する百姓屋敷を設け、百姓屋敷の裏手に大久保長安配下の代官の屋敷を配置した(注2)。
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甲州街道
出典:「八王子経済新聞


<石見土手>

一方、大久保長安は八王子町建設にあたって町の西側を流れる南浅川の水が町内に流れ込むのを防ぐため、八王子周辺の由井領、小宮領、火の領などの村々に課役を命じ、隣接する千人町から本郷村に至る約1.6キロに「石見堤」、「石見土手」と称されていた長い土手を築いた。

<千人同心>

大久保長安は、後に「八王子千人同心」と呼称される徳川下級家臣団の成立に関わることによって八王子町に隣接する地域にその軍事組織の中核を配し、八王子町という支配の拠点づく軍事的側面から一定の役割を果たした。

その状況を見ていくと、徳川氏の関東入国後間もない1591年(天正19年正月19日)、大久保十兵衛(長安)から八王子千人頭の前身である「九人衆」に対して知行割、出仕する場合・扶持米などについて書状を出し指示している。その後、大久保長安は武蔵国多摩郡府中辺りに八王子千人同心給の手作り分として1000石を与えている。

<街道整備>

加えて、大久保長安は江戸幕府の交通制度の確立や整備に重要役割を果たしていたが、大久保長安が関わったとされる甲州街道と青梅街道の開設状況を武蔵国の開設に尽力した。

 

〖諸行の報い〗

(発   覚)

武田氏の遺臣から徳川家康に抜擢され、江戸幕府の代官として権勢を振るった長安は1612年7月頃(慶長17年)より中風を患い、駿府で亡くなった。遺体を甲斐に葬るために急遽葬儀の準備をしていたが、家康より近年の代官所の勘定が滞っていることを理由に中止が命じられた。同5月6日、家康は長安配下の勘定・手代を呼び出し、調査をしたところ、過分な私曲(私欲)を行ったことが発覚した。これに対して怒った家康は諸国にある長安の財貨を調査することを命じ、同19日には長安配下の手代を大名に預けている(参 照)。

(処   断)

長安の子、嫡男・藤十郎、次男外記、三男青山成国、四男雲十郎、五男内膳、他2名の合計7人は1613年(慶長18年)7月9日、切腹となり、大久保長安家は断絶した。

爾来、長安の財貨は厳しく改められた。諸国より金銀は凡そ5000貫目余、茶道具一式を始めとする金製・銀製各一種類の各種道具も多数没収された。駿府の蔵に収められた。また、連座して成国(三男)を養子とした老中青山成重が8月、石川康長が長安と共謀して知行を隠匿したとして10月に改易された。他に『慶長見聞録』には同5月に堺奉行米津親勝が流罪となったのは長安と結託して私曲を行ったためと言われる。

(反   論)

以上の様に大久保長安に対して大事に対応しているが、彼の死後、「不正蓄財の隠匿」とは、いわゆる「自分の腹を肥やす」との意味ばかりではなく、長安の場合はむしろ、幕府初期の代官は長安にしろ、伊奈忠次にしろ、広大な幕領をしたため彼などの配下には多くの代官や下代を抱えており、彼などを駆使して支配にあたっていたのである。

事例として、伊奈忠次の配下には少なくとも150人位のいたことが判明している(佐渡や石見の在地にいる地役人は除く)。従って彼らの存在は広域支配に欠かせない存在であった。“彼らの給与”は幕府が支払われない。また、幕府は初期では支配する幕領の年貢は代官頭や代官請負制であったため、一定額年貢米や金銀を幕府に納入すればよかった。このため、それ以外の年貢または金銀の一部は代官頭や代官の給与であり、収入となっていた。これは上記のように配下の代官や下代らの給与や扶持に宛てたのであり、決して、「不正蓄財隠匿」とばかりはいえない。むしろ当時においては至極当然ことであった(注3)。

 

〖エピロ-グ〗

大久保長安は戦国時代・徳川幕府初期の希代の財政、金融、治安などを司る武士であった。故に徳川家康は長安を重用した。特にその背景には全国統一には多くの金銀は必要であったがため、武田信玄の黒川金山の開発に熱心で、同開発の専門家である大久保長安を重用し、実績を上げた。長安を惜しげなく重要ポストにつけ、家康の期待に長安は応えた。

家康の長安への過分な重用が、長安を狂わせた。私生活では多くの女性を身の回りに置いた。一族郎党達は権勢を振るった。その付けは長安が死亡した後、津波の様に押し寄せ、長安ファミリ-は厳しく処断された。また、長安の息子はいずれも優秀のため何れ家康にとっても将来、驚異になるため事前に芽を取り除いたとも言われる。なお、多摩に住む者(著者)一人として、八王子の街づくりに長安は大きな成果を挙げたことに感謝する。現在の八王子の人口は59万8500人(2020/平成32年)にもおよぶ。
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武田信玄
出典:「Wikipedia


(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)「多摩のあゆみ-特集」大久保長安没後400年-第151号、2013.85-6p

(2)(1)と同じ。15-17p

(3)「多摩のあゆみ-特集」(151号)-大久保長安没後400年-。大久保石見長安の研究について-村上直論文、4-13p/大久保長安死去前後の状況-「不正蓄財隠匿説」の評価をめぐって-和泉清司、34-35p

 

(参   照)

・「佐渡風土記」によると、1604年(慶長9年)に佐渡に渡った時には紀州で造った豪華な船2艘を仕立て、130人の従者を従えて、そのうち30人が女性であった。しかも山師・田中宗徳の娘おはなを妾として連れ帰ったともいう。川上隆志著「江戸の金山奉行・大久保長安の謎」、現代書館、第一版第一刷発行、2012年3月1日、33p

・同様に家康は長安の息子達に長安の財貨の勘定を命じたが、同5月17日に「若輩故の能力不足で役目を果たせないと」との回答があった。これに対して、家康は、命令が遂行できなければ迷惑は各所に広がるので、長安が支配した佐渡金山、石見銀山は無論のところ、関東に千石の知行も与えられないとして、彼らを勘当している。なお、『中臣祐範記』によると、長安の嫡男大久保藤十郎は関ヶ原の戦い後に、奈良奉行を務めた。

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