2023年3月22日
〖アプロ-グ〗
▹今回は「さいかち窪」(小平霊園内/東村山市)と黒目川(東久留米市)を確認するため愛車で出かけた。ル-トは小金井公園内を通って、花小金井駅近くを抜け、小金井街道を北へ15分進みと、新青梅街道が走っている。左折し、15分走ると、先ずは、小平霊園内北口門近くの「さいかち窪」を見る。
▹「さいかち窪」を水源とする黒目川沿いに木道を、自転車を引き、柳窪(柳久保)を歩く-ここは江戸時代・明治時代の景観が残る風致地区であり、報告者が、これまで、多摩地域を自転車で走って近世の歴史的遺産を見て回ったが、柳窪ほど江戸時代の空気が漂っている場所は外にない。以下、著者の現地報告です。
さいかち窪
(小平霊園内)
出典:散歩風景◆東京近郊の散策記
▹柳窪(柳久保)は東久留米市西端にあり、今も住居表示として使われ、柳窪1~5丁目です。下里4丁目の一部が含まれています。江戸時代は、東は下里村、南は柳窪新田と大沼新田(現大沼町/小平市)、西は入間郡大岱(おおたい/東村山市)に接し、江戸時代の文献や石造物には柳窪(柳久保)と表記されています。
柳窪
出典:国土地理院
(近 世)
▹柳窪村は東久留米市域の他の村々とは異なり、江戸時代になってから開発された村で、寛文10年(1670)以来、幕府領(天領)となったことが記されています(『柳窪村村明細帳』市史7)。最も古い記録は元禄11年(1698)の『年貢割付状』市史料21)によると、石高は7石余となっています。以後、19石余(『元禄郷帳』)となり、宝永6年(1709)には田無村の74石余が付けられ82石となり、さらに新田分20石が加えられ102石余りとなります(『天保郷帳』)。
(幕 末)
▹下里村と同様に、安政5年(1858)から一時、熊本藩の領地となりましたが、1年ほどで再び幕府領となりました。家数は文政10年(1827)で37軒、人口は222人という記録があります(『農間渡世書上』)。幕末期、慶応2年(1866)に発生した「武州一揆」が柳窪村の地まで」及び、打ち壊しにあったため、代官配下の農兵が出て取り押さえるという事件がありました(「柳窪村打ちわし報告書」市史料105)、寺院は真言宗智山派の長福寺、鎮守は稲荷天神相社(現在の天神社)があります。
〖現 在〗
(さいかち窪)
▹「さいかち」とはマメ科の落葉高木の名前です。木材は建築、家具、器具、薪炭用として使い、皀莢(さいかち)または「そうきょう」と読みます。生薬で去痰薬(きょたん)、利尿薬として用いるほか、サポニンを多く含むため古くから洗剤として使われている。東北、関東、愛知県など東日本に分布。皀は皂とも書き、便宜上、皀を使用する。さいかち窪は小平霊園の北門近くにあり、窪地(なだらか坂)として、周りをさいかちの樹木が自然をまもっています。
▹「さいかち窪」を水源の一つとする「黒目川」(1級河川:荒川水系/新河川の支流)を訪れます。「さいかち窪」から近くには柳窪天神社の湧水は渇水期のため確認できなった。天神社の入り口右脇には安永4年(1775)に建てられた「庚申塔」(南町2丁目5路傍)があります(無数のくぼのうち顔と下腹部などは、眼病や安産を願う民間信仰を考えることができます)。加えて「筆子の墓」は柳窪5丁目6、墓地内に安永4年(1775)に建てられた筆子の墓があります。ここにあったお堂で子供達に読み書きを教えたお坊さんを偲んで造った墓と思われます。また、「石橋供養塔」があり、明和元年(1764)造立と記しています。
黒目川
出典:Orange
(村野家住宅)
▹崖上には柳窪の「村野家住宅」(願想園/東久留米市柳窪4丁目)が静寂の中で時間を刻んでいます。住宅は、天保9年(1938)建築、安政4年(1857)に増築された。落ち着いた入母屋造りの外観が周囲の屋敷林とよく調和しています。明治後期に建てられた「離れ」は、木造平屋建て入母屋造に洋風な要素を取り入れた建造物で、付書院欄間(つけしょいんらんま)の彫刻は著名な島村俊表(しゅんぴょう)の作品です。3つの蔵は江戸時代末期建築の「土蔵」・「穀蔵」、明治28年建築の「新蔵」で、漆喰仕上げの外観を持つ清澄な趣(おもむき)を木立のなかに残しています。
村野家 主屋
出典:たまろくナビ
▹「薬医門」は明治14年建てられた間口2.6mの比較的規模の大きい総欅(けやき)造りの門で、屋敷地の南東部に重厚な姿を見せいています。「中雀門」は、大正期の構築で、母屋の横にある前庭と奥庭を画する切妻(きりづま)造りの門です。
〖古民家と屋敷林〗
▹柳窪には屋敷林に囲まれた江戸時代末期から明治初期の大型民間の5軒と明治中期から昭和初期の中規模の伝統的な民家が残っています。また、養蚕による生糸の輸出で栄えた時代の建物もいくつか残っている。旧集落内には土蔵が21棟建っています。白壁の土蔵20、外壁には大谷石が積まれている土蔵が1棟で、農村風景の歴史的な環境が維持されている中で、この地区の景観の重要な要素となっています。
▹江戸時代、大都市となった江戸においては大火が頻繁に起こった。そのため享保期(1716-1735年)以降、幕府は防火対策一つとして土蔵などの建築を奨励した。以来、土蔵の建築は農村部にも普及し、柳窪においても幕末から明治・大正期にかけて築かれた土蔵は多い。平成20年(2008)の日本女子大学住学科による調査対象群は幕末3、明治初期3、明治30年代3、大正期1、年代不詳1となっています。
▹この地域には鬱蒼とした欅、白樫からなる屋敷林が残っています。そのなかでひときわ欅の大木が目立つ柳窪4丁目の村野家住宅は唯一東久留米市内の残る江戸時代の茅葺民家です。同住宅は、江戸から大正期にかけて建てられた建物として、平成23年(2011)に主屋7件が国の登録有形文化財に登録された建物を総称して「顧想園」と命名されます。また、武蔵野では急激に数を減らして滅多に見られなくなったクマガソウ、キンランなどが保護されて、毎年春に花を咲かせています。
(復 活)
▹柳久保の小麦は嘉永3年(1850)、に奥住又右エ門(東久留米市柳窪在住の故奥住和夫の曽祖父)が旅先より持ち帰り地域に広まったとされており、奥住家に記録が残されています。その特徴は風味豊かで在来小麦特有の持っちり感があり、お菓子やうどん作りなどに適しています。欠点としては、草丈が高いため倒れやすく、栽培に手間がかかるため、収穫量が他品種と比べ半分以下です。昭和17年(1942)に戦時中の食糧増産政策により作付けが中止された。その後、昭和60年(1985)に又右エ門の子孫がつくば市の農林省農業生物資源研究所に保存されていた種を譲り受けて播種し、昭和63年(1988)に46年ぶりに栽培を復活させた。なお、同小麦は普通の小麦より穂丈が長く太いので、家屋の屋根材としても広く利用された。当時の民家は茅葺屋根が多く、屋根材として不足する茅を補うために柳窪小麦の麦藁が使われた。
(活性化)
▹平成14年(2002)、野崎市長が誕生して地域の活性化・産業の振興の掛け声の中で〖柳久保小麦による町おこし〗が提言されます。翌15年(2003)の秋、市の提言を受けた農家・JA・行政三者の協力により柳久保の会が発足し、同11月から奥住さんの指導を得て栽培農家7戸・栽培面積8反(約2400坪)の柳久保小麦の栽培を始めます。平成16年6月(2004)、1200kgを収穫することができました。
▹以上の経緯を経て、地域特産品を目指す地域産業振興会・柳久保小麦の会の二人三脚の活動が始まり、今では地域産業振興協議会・JA・商工会・市民の協力を得て栽培農家7戸・栽培面積8反で柳久保小麦を使用したうどんラ-メン・かりんとう・パン、・スイ-ツ、パンケ-キミックス、・お好み焼き、もんじゃ焼きなどが販売されています。
〖エピロ-グ〗
▹柳窪は、武蔵境から自転車で約8kmです。近くには人の熱気で込み合う「角上魚類」(東久留米市/柳窪2丁目8-16)から歩いて5分程に江戸時代の集落に自然に入ることができます。特に欅などに囲まれた家々があります。中でも村野家の「薬医門」は静寂・重厚で、一見、武家屋敷(家老格)のようで、近寄り難い雰囲気を持っています。集落の西側に黒目川があります。川沿いに木道が設置されており、散歩する人々を見掛けます。
▹既述のように古文書によると、江戸時代・化成期の文政10年(1827)、家数は37軒、人口は222人の寒村だったようです。しかし、柳窪の歴史的遺産を取り囲むように建売住宅があり、そこには車があり、家族があり、多くの人々が住んでいます。加えて、長い歴史を包み込むように欅の木があります。但し、地球温高のためか木の植生が悪くなっているようです。加えて、近くには「新青梅街道」があり、多くの車が走行しており、また、「角上魚類」には多くの車が駐車しています。柳窪を取り囲む環境は益々悪くなっています。読者の皆様一度、柳窪を訪れて見ませんか!
角上魚類
出典:itot
(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹
(引用資料)
・「東久留米のあゆみ」シリ-ズ第2巻、「東久留米の江戸時代」-文化財から見た東久留米の村々-、監修 岡田芳郎発行 東久留米教育委員会、事務局 東久留米市教育委員会教育部生涯学習課文化財係、平成17年(2005)3月31日、94-100頁
・「東久留米市史」、編さん 東久留米編さん委員会、著作発行 東京都東久留米市、昭和54年3月31日、310-311頁
・「東京都文化財めぐり」、東京都教育委員会
・「ウィキペディア」-百貨事典-柳窪
・「新編武蔵風土記稿」