上海証券市場の新しい市場「科創板」について

2019年8月17日


〖プロロ-グ〗

▷「科創板」(かそうばん)とは、端的に言えば、上海にできた“ハイテク企業向け株式市場”である。本年7月22日、市場がスタ-ト、25社が上場した。当日、上海市トップの李強・党書記らが出席した。同氏は習主席の浙江省時代の部下である。すでに同市場は約150社が上場申請を済ませており、企業数はさらに増える見込み。

▷「科創板」は2018年11月5日に上海で開かれた「第一回中国国際輸入博覧会」において、習近平国家主席が基調演説のなかで初めて公表した。その運営規則は本年3月にすでに公表され、上海証券取引所のメインボ-ド(主板)と並行して運営される。開設式は6月13日に行われた。

▷同市場開設の背景には、2018年4月に「中興通訊」が米国の制裁を受けたのを機に、習指導部は主力技術の国産化を急ぐようになったと分析し、そのために有力なIT関連の中小企業の資金需要を充たすために設立された。英語では「Science and Technology Innovation Board」。

〖概   況〗

(位置づけ)

▷「科創板」の業種別企業をみると、高性能機器製造業、情報技術、新素材、新エネルギ-、省エネルギ-、バイオ医薬品などである。何れも中国にとって、戦略的に重要な新興産業、また、高成長が期待される中小企業に対して、上場機会を与えるものである。上場25社のうち、40%がIT企業、次いで、36%が産業機器、16%が素材産業、ヘルスケアが8%となっている。上場企業の有望銘柄を挙げると、半導体製造装置の「中微半導体」(上海)やリチウムイオン電池の部材を手掛ける「寧波容百新能源科術」(浙江省)などである。

▷今回の中小企業向けの株式市場は最初ではない。すでに、①深圳証券取引所の創業板(英「ChiNet」)、②北京全国中小企業株式取引システム(通称「第三板」、英語「National Eqities Exchange and Quotations<NEEQ>)、加えて、香港証券取引所のグロ-ス・エンタ-プライズ・マ-ケット(GEM、創業板)があり、国際的に開放された市場である。

(特   徴)

▷「科創板」には4つの特徴がある。分類すると、①登録制度が採用された。企業は書類を提出するだけで、3、4カ月で許可される。これは、「ChiNext」や上海、深圳のメインボ-ドで行われている中国証券監督管理委員会の個別案件の審査に3年を要するのに比べて短期である。②上場規準は、企業の規模などの一定要件を満たせば、“赤字企業でも上場”が認められており、べンチヤ-企業でも上場しやすい。③多議決権種類株式の上場が認められる。創業者が株式公開後に少数株主になっても企業の支配権を維持できることから、スタ-トアップ企業に人気がある。この方式は、本土の他の市場では認められていない。④1日の株価の値幅制限(参考1)の採用である。現在の市場(上海と深圳のメインボ-ド)では10%の値幅制限が課されているが、これに対して、「科創板」は、公開後5営業日の間は株価の変動は自由とされ、その後は上下20%の制限が適用される。この市場は米国のナスダック市場に似ている。

(参考1):株価の異常な暴騰・暴落を防ぐために、株価の1日に変動できる上下の値幅を制限するものである。

▷米中の貿易戦争の激化により中国市場ではハイテクセクタ-を中心に次世代産業関連株の軟調な推移が続いている。この中での「科創板」の成立は、“証券市場全体のテコ入れ”という思惑と、“新興産業を資本面でバックアップ”していこうという中国政府の強い意思が感じられる。

(市場展望)

▷「科創板」は始動当初、25銘柄は値上がりし、上々の滑り出しとなった。上場企業の一つである「安集微電子科技」(上海<コンピュ-タ->)は410%も上昇した。結局、全銘柄で54億米ドルの資金調達に成功した。しかし、当初の熱狂が収まった現在、投機的取引の実態や高いボラティリティ(価格変動率)に対し、懸念も生まれている。

▷深圳の「ChiNext」(チャイナネクスト)は、10年前の2009年10月30日に取引を開始した。上場第1陣の28銘柄が急騰し、あまりの過熱ぶりに一部の銘柄が一時売買を停止した。それから1年が過ぎると、相場は低迷した。2013年頃から買いが優勢となり、2015年にかけて、相場は大きく上昇した。この値動きは中国人の投資家の“熱しやすく、冷めやすい”という中国人投資家の性格を如実に表している。

▷同市場について北京大学経済学院の呂随啓教授(金融学)は、①「科創板」の市場安定で重要なのは、・明確な取引計画、・需給情報の十分な交換、・市場の価格設定の合理性だ。これが揃えば市場で急激な変動が生じることはない。②上場企業が200社に達すれば市場資金量が再び不足し、流動性が不十分という問題が生じると分析する。

▷武漢科技大学金融証券研究所の薫登新所長は、「科創板」は陣容を拡大しようとしている。①25銘柄だけでは需給バランスを失い、爆発的な高騰が形成されやすい。②上海証券取引所と証券監督管理委員会はその対応を加速し、上場企業の数は、少なくとも100-200の規模持たせるべきだ。こうすれば、投機的な売買を自ずと終了するであろう」と指摘する。

〖エピロ-グ〗

▷中国の諸分野の人材は潜在的に豊富である。米フォレスタ-・リサ-チ社が本年6月に発表した『中国技術市場調査2019-20年』報告書によると、中国の技術製品とサ-ビスの民間・政府調達は今年4%増、来年は7%増になる見通しである。これは中国のハイテク企業に国内の大きな需要を提供する。中国の大学から毎年、約400万人の理系学生が卒業する。そのためハイテク業界には人材不足の懸念がない。米シリコンバレ-のベンチャ-企業は、中国の新規プロジェクトとの競争の激化という大きな問題を迎えることになる。

▷将来の中国経済をマクロ的にみると、第13次5カ年計画(2016-2020年)と習近平国家主席が掲げる産業高度政策「中国製造2025」を念頭に政府主導で選別した企業に資金を注入し、成長を支える。加えて、上海を本格的な国際金融市場にする中長期な構想とも関わってくる。「科創板」の新設は政策的には高く評価できる。但し、今後、米中の経済戦争の行方は、世界経済、中国経済にも大きな影響をもたらす。その動向には十分注視することが肝要である。

 (グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

<引用資料>

・梅原直樹論文「中国の金融改革:上海証取に中国版ナスダック市場開設」、IMAの眼 公益財団法人国際通貨研究所、ei2019.18

・上海証券取引所の新市場「科創板」、みずほ中国ビジネス・エクスプレス(第491号)、中国アドバイザリ-部、2019年7月26日。

・上海の新たな市場「科創板」が刺激する「想像力」、niKKO am「CHINAINSIGHT」、014号、2019年4月10日。

・「中国網日本語版」(チャイナネット)2019年7月26日。

・「中国網日本語版」(チャイナネット)2019年7月31日。

・「東洋証券」、主席エコノミスト杉野レポ-ト、2019年6月27日。

・「東方財富網」。

・「日本経済新聞」2019年7月22日。


中居屋重兵衛の商魂

2019年8月1日


〖プロロ-グ〗

▷中居屋重兵衛の生涯は42歳で幕を閉じた。晩年の2年間(1859年<安政6年6月>~1861年9月<文久元年8月>)は、横浜で“最も輝かしい時”と“最も苦渋の時”を過ごした。当時、重兵衛は黎明期の横浜で生糸貿易取引の大半を行っており、幕末の生糸貿易支え、横浜発展の礎を築いた。以下、中居屋重兵衛の横浜におけるビジネスの実態である。

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〖豪壮な店構え〗

▷中居屋の店は昼夜兼行の突貫工事で行われた。檜造りの本普請で、華麗な造園を備えていた。間口40間、奥行30間、奥行30間の2階建ての屋根は銅瓦葺きで、陽光に映え、人々はこれを見て銅御殿(あかがねごてん)と呼んでいた。粗末な店舗で取引すれば、外国人たちに侮られてしまうからという。使用人は60人を擁していた。

▷反面、多くの店舗は平屋のバッラク建ての粗末な建物であった。運上所経営(税関)を委せられていた“両替商の富豪三井でさえも粗末な建物”であった。当時の状況について、福沢諭吉が『福翁自伝』の中で、「掘立小屋みたいな家が緒方にチョイチョイできて、外国人がそこに住まって店をだいしている」と述べている(注1)。

▷中居屋の庭園は岩亀楼(遊郭)と同様に横浜居留地の名物の双璧と言われた。また、二代目の広重の錦絵には、本町4丁目角、中井と記入されていた図があるように、中居屋だけが一層際立っていた。18畳二間の店の接客室の天井は、ギヤマン(硝子)張りで、水槽の中には真紅の金魚が泳いでいたという。座敷に座って居ながら、上を仰ぎながら眺められ、部屋の各襖は、渡辺崋山の高弟で、画人として名を知られていた岡本秋睴の極彩色絵が張りめぐらされていた。

〖ビジネス概況〗

(取扱商品)

▷中居屋の取扱品目は多種多様で、現在の商社と似ている。主な商品は、➀塗物、蜜柑、陶器、傘、木綿、真綿、白生絹糸、葛粉、紙、織物、人参、石炭、薬種、小麦粉、鉛、松油、煙草、呉服、太物、②荒物、浮世人形、蒔絵物、鉄張日笠、矢立、煙草入れ、金物根付など。③昆布、乾天、水油、屏風、酒中花(ヤマブキの茎の髄)、⑤唐銅器、真鍮器、甲州芋、薩摩芋、銅細工物竝銅線、⑥五か国条約書。

(商   談)

▷代表的な貿易商であるジャ-デンマゼソン商会は「阿片戦争」当時から中国貿易では最も古く、横浜の外国人居留地へ真っ先に木造二層家を建てて移ってきたので、“英一番館”といわれた。その総支配人ケセイッキが中居屋重兵衛の店へやってきて、最初の商談の際、“相手は短銃を手”にもってみせたので、重兵衛は大刀を持ってきて、畳に突き立て、にっこりと笑いながら、“この刀は日本人の魂”である。もし、万一、私に不正があった場合、あなたの短銃で私を撃ちなさい。逆の場合、私はこの刀で、あなたを切るから左様に心得てもらいたい。以後、商談はうまくいったという逸話が残っている(注2)。中居屋重兵衛の店は品揃え、店構えなど他の店と比べ優位な状況にあった。重兵衛は肝の座った男であった。

▷諸資料から推断して、横浜開港当時の生糸貿易の創始者ならびに功労者は中居屋重兵衛が第一の貿易商人であった。その理由として、①幕府出先との関係、各藩大名との取引実態など、②用意周到な規模雄大な貿易進出の下準備、③居留地出店の借地坪数、建築物の壮麗さなどである。後に貿易界の実力者原善三郎(生糸売込問屋亀屋を開業、明治の横浜財界の有力者)は、「生糸貿易の先駆者」は中屋重兵衛と評価している(注3)。

▷次に、甲州屋忠左衛門、芝屋清五郎の2名がいる。➀芝屋清五郎は横浜野毛村の豪農手塚孫右衛門の末弟で神奈川在芝生村に居住していたが、直交易差許し候という幕府の布達を聞いて、代表として、仲間を誘って外国奉行へいち早く願書を提出している。横浜に近いことから熱心な貿易先駆者であった。②甲州屋忠左衛門は山梨県東八代郡油川村の素封家(資産家)篠原忠左衛門で、郷里の豪農を誘いあって、開港前3月に貿易地所借差許しの出願をしているが、後年、甲州財閥の雄といわれた若尾逸平(甲州財閥の一人)らの先蹤をなした人である。

(生糸貿易)

▷幕府は長い間、鎖国政策をとってきたので、外国貿易は未経験であった。そのため、①厳重な布令を出し、武具、金銀、米、武鑑などを輸出禁制品とした。②反面、輸入禁制品として、阿片、武器などである。③外国商人が先ず触手を伸ばしたものは、生糸、茶、水産物などである。

▷横浜が開港し、貿易が始まったのは1859年6月(安政6年)である。その後、わずか数ヶ月の内に生糸は日本有数の輸出品になった。輸出量は開港後の4カ月間で3万5千斤に達したと言われ、各地の生糸商人はこぞって生糸を横浜に出荷した。彼らの多くは生糸とともに横浜を訪れ、みずから活発な商業活動を展開した。

▷次に開港直後の情況を見ることにする。三井横浜店の手代が、1859年10月8日(安政6年)に記したものである。生糸売込商中居屋重兵衛が生糸の全輸出5割を扱う横浜最大の売込商であったことを伝えている。この店には奥州・上州・甲州など、各国の生糸商人が続々と生糸を持ち込み大変な盛況ぶりであった。

▷当時、幕府は売込商以外の商人が外国商館と取引することを禁じており、外国商館に生糸を売却できたのは幕府の許可を受けた中居屋のような売込商だけで、大量の生糸が輸出された(注4)。資料によると、1859年8月18日(安政6年)、中居屋重兵衛がはじめて前橋提糸(さげいと)をフランス商館に売り込んだという(注5)。

(生糸組合設置)

▷1864年8月(文久4年)、横浜の生糸売込業者が中居屋重兵衛・糸屋勘助、小橋屋伝右衛門・吉村屋幸兵衛・大和屋三蔵・徳右衛門を惣代として生糸荷受所を設置し取扱いを一定するため、以下の仲間議定書3カ条を制定した(注6)<生糸組合のはじめ>

(注)
(1)江戸問屋の送券を以って荷受所に入荷し年行事に継代等立合の上名宛ての者へ代金引替に相渡すべく事。

(2)議定書に違う取引を成したる者は行事等より説諭し肯ぜざる者は町役人へ肯ぜざる者は町役人へ申立説諭を受く、尚承伏せざるに於いては其旨江戸問屋へ通知し以後荷受を為さしめざる事。

(3)1ヶ年入港の荷数は6000個但し4個1駄に付き代金500両と見積もり口銭2分5厘若干両内1分を売込口銭として5厘若干両内1分を売込口銭として5厘を町会所へ2厘5毛を仲間一同へ盆暮二期に割当に其餘は荷受所諸費に宛て尚残金もらば三井へ預金とすべき事。

〖繁盛の背景〗

(スタッフ)

▷中居屋の店が充実・繁昌した背景には有能な人材を配していたことが挙げられる。開店当初60人のスタッフ(使用人)がいたが、店の営業が事業拡大するにつれて増加し商家のスタッフは99人までと定められていたので、ほぼ同数のスタッフが働いていたと思われる。重兵衛は重要なことなど指図するだけであった。重要な外国人は直接面談するだけで、めったに人に会わなかったという。

▷幹部連中のスタッフを列記すると、一番番頭重右衛門(元医者の松田玄仲)、その義弟の吉右衛門が総支配人の任に当たり、林蔵というのが役所係、人新平は唐(外国人)の文書係、人事部長役は太兵衛、貿易販売担当主任は啓三郎他2人、重兵衛の影武者の一人が大柄でかっぷくのよい善助、他に手代役スタッフ約10人強が生糸や茶の買い付けに地方に出張していた。重兵衛の店は他の商店と比べ、格段に立派で、何でも必要な品が手に入るので、外国商人は中居屋へ集まって来た。

(賞与支給)

▷中居屋は外国商人との取引が成立すると、スタッフ全員に特別賞与を出していたので、従業員の重兵衛への信頼が厚かった。このことが相乗効果を発揮して、外国商人の信頼を得て、その売込みは他の業者と比肩する相手ではなく、商売は順風満帆で推移し、たちまちのうちに“万両富限”といわれるになった。

▷加えて、大勢の客が泊まりがけで詰めかけていたので、食事時には食堂にあてられた広い座敷に20膳ずつ配膳して、合図の拍子木を打ち鳴らし、幾組に、客人、店の者と集まって箸をとって食べたと伝える。以上は中居屋の繁昌隆盛ぶりの一端をうかがう好例である(注7)。



〖エピロ-グ〗

10425aj2200025417001▷中居屋重兵衛は今風に言えば、オルランドプレイヤ-であった。残念ながら、彼は“42歳で店じまい”をしてしまった。彼の事業への行動規範は明確で、それを支えたのは先見の明があったことである。商売がスタ-トアップし、たちまち“万両富限”となった。重兵衛は豪胆で、肝が据わっていた。前言で、ケセイッキと重兵衛の対話はその象徴的である。

▷重兵衛の最期につては、獄死説、毒殺説などがあり、現在に至っても判然としない。歴史から抹殺されたためである。彼は幕末の黎明期の横浜で華を咲かせたが、後、文明開化の明治の御代まで7年を要した。来年は中居重兵衛の生誕200年を迎える。故郷の三原では記念行事を準備しているという。今こそ、中居屋重兵衛が生きた“混乱・混沌”の時代を学びたい。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)斎藤多喜夫著『幕末・明治の横浜』 西洋文化事始め。明石文庫、2017年3月10日、36頁。

(2)佐佐木杜太郎著『中居屋重兵衛』<開国の先覚者>新人物往来社、昭和47年11月25日、130頁。

(3)(注2)と同じ。135頁。

(4)西川武臣論文「横浜開港と<武州系><絹の道>の数量的検討」、「多摩のあゆみ」、平成元年5月15日、多摩信用金庫55号、53~65頁。

(5)「横浜歴史年表」昭和28年3月30日(上下合本)、32頁。

(6)(注5)と同じ。102頁。

(7)(注2)と同じ。148~150頁。

<参考資料>

・横浜開港資料館

・萩原進著『中居屋重兵衛』(炎の生糸商)(株)有隣堂、平成6年6月20日新版発行。

・松本健一著『真贋』(中居屋重兵衛のまぼろし)(株)新潮社、1993年5月15日。

・南原幹雄著『疾風 幕末の豪商中居屋重兵衛来り去る』 人物文庫、1998年11月。

・「人づくり風土記」全国の伝承 江戸時代、農山漁村文化協会、1987年11月24日。


豪商中居屋重兵衛の夢

2019年7月21日


〖はじめに〗

▷筆者は本年3月、群馬県の最西端にある万座温泉に行った時、中居屋重兵衛に詳しい地元の方のお話を聞く機会を得た。中居屋重兵衛は1820年(文政3年3月)、上州吾妻中居村(現群馬県吾妻郡嬬恋村三原)で生まれている。幼名武之助、通称撰之助、父は中居村の庄屋、黒岩幸右衛門(36歳)、母は川越藩の儒者杉村霞皐の娘のぶ(18歳)である。重兵衛は、横浜開港当時、生糸を扱う大店の経営者となり、横浜の外国商人と取引を始め、巨万の富(100万両)を得た。後に多くの疑惑で幕府に嫌疑をかけられたことを察知した重兵衛(42歳)は、忽然と横浜から逃亡し、その行方には諸説がある。

▷中居屋重兵衛の関連資料は極めて少ない。その背景として、➀父親の幸右衛門が江戸から持ち帰った関連資料が家の火災で焼失したこと、②中居屋重兵衛が横浜開港時に大店(営業品目:生糸など)を営業していましたが、不意に幕府の役人によって接収されたことなどが主な理由である。重兵衛の知名度の低さにもつながっている。歴史上から抹殺されてしまった重兵衛、限られた各資料から類推すると、その印象は、先見の明、信念、冷徹、豪胆、黒幕、豪商、博識などで、重兵衛栄達のエネルギ-となっています。来年は、中居屋重兵衛生誕200年を迎える。


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〖家運の衰退〗

▷古来より草津温泉への文人墨客の往来が盛んでした。室町時代の連歌師宗祇が鳥居峠を越え、中居村を通り、草津へ辿り着いた。佐久間象山(ぞうざん)もその一人で、撰之助は象山の知遇を得た。重兵衛を育んだ中居村は上州の渋川(57.6km)より信州上田(38.6km)に近く、“信州の文化・経済圏の影響”が強かった。現在も万座温泉のホテルの前には商品を搬入する上田ナンバ-の車が見られた。

▹化成時代は第11代将軍家斉の治世(在位50年:1787-1837年)である。江戸で町人文化(浮世絵、滑稽本、黄表紙、俳諧、狂歌、川柳、浄瑠璃、歌舞伎など)の華が咲いた。教育面でも江戸各所に寺子屋ができ、人々の間で読み書き算盤が普及し、街中の明るさは際立っていた。江戸から辺鄙な中居村までは町人文化の伝播は遅く、人々は極めて保守的な生活を余儀なくされた。

▹父は中居村の名主黒岩幸右衛門。財力の象徴“慶長大判の千両箱が10数個”も貯えていた。邸内には家伝の火薬製造所があるのに加え、養蚕所、薬草類などを販売していた。副業として、草津温泉の「旅館山清」の株を所有し、多角経営者ぶりを発揮し、その財力を裏付けるように鳥居川を見下ろす高台に豪壮な屋敷があった。

▷父は1824年10月(文政7年)に、1783年8月(天明3年7月)の「天明の大噴火」(死者約2万人)で、長野原にあった菩提寺曹洞禅刹常林寺が焼失し、その再建に多額の金を寄進した。また、鉱山師(やまし)の手練手管に騙され、甲州金峯山(金/水晶?)や銅鉱山の開発に莫大な資金を費やし、数年間のうちに金蔵にあった祖先伝来の千両箱はなくなった。父幸右衛門悪い夢を見ていた。その慚愧の念から書面を遺し、姿を消した。

〖江戸への途〗

▷撰之助は成人当時、5尺8寸もある頑丈な体躯だったようである。父が帰ってくるまで、経済的に破綻状態にあった黒岩家を守るため、日夜、働き続け、見事な名主役を務めた。ある日、撰之助は新しい新天地を求めて江戸に向かった。路銀は旅芝居一座の勧進元として得た金だった。この頃、母の要望により同族黒岩七右衛門の娘みやを妻に迎えた。

▷1839年(天保10年)、20歳の撰之助は江戸に安着し、縁故先の日本橋3丁目書店和泉屋善兵衛方に居候の寄食人になった。和泉屋書店は川越版『日本外史』の出版を一手に引き受けるほどの書店で、学問好きの撰之助は書籍(和漢書)に囲まれた日々を送り、和泉屋に出入りする知識人と交友を広げた。雰囲気が現在の神田神保町の古書店に似ている。

▷撰之助は学殖を深めていった。話題になったのは1856年(安政3年)に泉屋善兵衛が出版した遠田昌庵の『和蘭文典訳語筌』の初編に、中居義倚(よしのり)の名で、撰之助が序文(漢文)を書いており、文中に遠田昌庵にオランダ語を学んだことが明らかになった。学才もあった撰之助でしたが、世の中は、いずれ“商人の天下”になると、予見していた。

〖人脈の構築〗

▷撰之助は1849年(嘉永2年)、書店で約10年研鑽を重ね、30歳になった時、泉屋善兵衛の後援で、日本橋3丁目に「誠格堂」という書籍兼居宅を構え独立した。書籍の他に上州の資産家とも連絡して郷里の産物、材木、和薬、雑貨類などの商いを始めた。大江戸の目抜き通りに店を構えたことは、撰之助の商売への姿勢を窺うことできる。郷里の村名にちなんで中居屋と号し、商人名を中居屋撰之助と改めた。

▷撰之助は約10年間の修養時代に天下の高名な学者・文化人の知遇を得た人の名前を列挙すると、佐久間象山、伊藤玄朴、林鶴梁、大橋訥庵、保岡嶺南、藤森弘庵、羽倉簡堂の学者や高島秋帆、江川担庵、下曽根金三郎などの西洋砲術家や書家の生方鼎斎、中沢雪城、佐瀬得所から渡辺崋山門下の画家の福田半香、岡本秋暉などの人達で、撰之助の知性を育んだ“素晴らしいインテリ集団”であった。

〖黒船来港〗

▷撰之助が生まれた1820年(文政3年)頃から、日本周辺にはイギリス、フランス、ロシア、アメリカなどの外国艦船が日本に通商条約を求めて出没した。当然、幕府は関連情報を入手し、動静を把握していた。1846年(弘化3年)頃から撰之助は学者・知友より海外事情を知り、国防の急務と国内の政情に関心を抱き、“憂国の志”を自覚した。

▷列国の動きに対応するため、幕府、諸藩の火器(銃や大砲)のニ-ズが高まった。こうした情勢変化の中で、郷里中居村に火薬原料の粒子を砕く、水車がつくられていた。火薬は三色火薬と呼ばれ、硫黄、硝石、木炭の混合で造られている。原料の硫黄については、草津温泉の西にある白根山の自然硫黄の質がよいことを撰之助は知っていた。

▷1850年(嘉永3年)頃から撰之助は、江川坦庵、佐久間象山の教えを受け、西洋砲術にも通じ、銃砲や火薬の重要性を知った。また、火薬を改良製造するため、日本橋の自邸内(清風閣)に試験実験室や清風閣と称した書斎をつくった。大量に製造することは問題があるので、1854年(安政元年)、信州飯沼の松田玄仲の所に大規模な製造所を設置した。この地は松代藩の領地内であったことから佐久間象山の影響があったと思われる。

▷1853年(嘉永6年)6月、ぺリ-艦隊が浦賀に到着した時、地元の漁師は“伊豆大島が動いた”と錯覚した。また、「泰平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん/蒸気船)たった四杯で夜も眠れず」という狂歌がはやり、日本中が“驚天動地”の状態であった。当時の瓦版をみると、「長サ三十八間 巾十五間 帆柱三本、石火矢六挺 大筒十八挺 煙出一丈八尺 水車丸サ 四間半 人数三百六十人乗」など黒船の詳細なデ-タが記載されていた。

▷1855年5月(安政2年)、中居撰之助は多年研鑽の家伝火薬秘法をさらに独自の製法を記した秘伝書『集要砲薬新書』を上梓し、水戸家、松代、上田藩の両真田家、老中、各諸大名に献じ、国防上の貢献をした。高島秋帆が激賞の序を書いた。このため中居撰之助は、一躍天下の諸大名に、その学識・技量を知られるようになり、火薬の依頼が殺到した。

▷撰之助の商人道は、火薬製造という国家的見地に立って推進された。それは1850年(嘉永3年)に出版して頒布した『子供教草』(おしえぐさ)にうかがうことができる。この本は商人を志す青少年のため教訓書として“商人道”のバイブルとして読まれた。商人である前に人間であれということから「六勿の法」(りくふつ/6つのしてはならないこと)を説いている。

〖情報収集〗

▷中居撰之助の優れた点は、常に研ぎ澄まされた視点で、内外情勢の変化の予兆を察知し、素早く対応し、自らの立ち位置を決めている。このため、情報収集には心血を注いでいました。火薬の製造販売のために幕閣の有力者に近づいたことが、1859年(安政6年)の彼の日記『昇平目録』に記述している。幕末の逸材と知られる幕府の高官(水野筑後守忠徳<ただのり>・岩瀬肥後守忠震<ただなり>・村瀬淡路守範正<のりまさ>)の役宅や私邸を訪問している。

▷撰之助は当時のレベル超えた学識をもっていた。幕閣重臣に接触する一方、火薬の取引よって各藩の物産方役人とも接触して情報を収集している。また、オランダ語の師友を通じて、海外情報を入手していました。幕末末期の日本のグロ-バル化の進展の中で、1859年4月以降、撰之助は中居屋重兵衛と改名した。

〖横浜へ移住〗

▷撰之助は1858年(安政5年)12月末、日本橋3丁目から芝金杉片町の元“金座役人”が建てた立派な家に移転する。海に面した家に転宅したことは、横浜移住の準備とみられ、横浜進出の布石をうったと考えられる。1859年1月(安政6年)、金杉片町に本拠を置いて貿易商としての準備に取り掛かる。同年に幕府が地の利に恵まれた横浜を開港場に決めたことは、彼の先見の明が的中した。

▷1859年4月26日(安政6年)、中居屋撰之助の名義で、神奈川貿易許可願いを提出する。同5月22日、移住商人の店舗がバラック建ての多い中で、横浜居留地本町4丁目の角、豪壮な店を開店した。外国貿易を行うために間口30間、奥行き30間、2階づくりで、60余人の定員を擁したと言われている。新し建物は通称“銅御殿”(あかがねごてん)と呼ばれていたが、当時、銅瓦はご法度、神奈川奉行から5日間の閉店・謹慎と土瓦に替えるように申し渡されていたが、重兵衛は無視した。

〖激動期の中で〗

▷1858年前後(安政5年)の日本は激動期でした。①将軍継嗣問題、②安政大獄、③桜田門外の変などの歴史の転換点の中で、近代日本の最初の貿易商人として頭角を現わした重兵衛は、横浜で生糸を輸出品として外国商館に売り込む仕事に専念した。しかし、生糸を過剰に輸出したという罪に問われた。

▷1860年(万延元年)、重兵衛は横浜の貿易商人への不当取締について、幕府奉行所へ抗議し、上申書を提出した。外国商人とのトラブルの仲介役などの世話したことで、“浜の門跡様”の綽名があった。因みに上州の生糸は海外で評判が高く、ロンドンの生糸市場では堤げ糸を「まえばし」と呼んでいた。

▷1860年(万延元年)、重兵衛は井伊大老暗殺のため、水戸浪士関鉄之助、薩摩浪士有村次左衛門など及び同志も上方挙兵のために短銃(ピストル)20挺を密かに提供したといわれる。同3月3日、大老は桜田門外登城の駕籠の中で、短銃の弾丸貫通銃創に傷つき、水戸浪士などの手に討たれた(46歳)。同日夕べ、重兵衛の娘たか初節句の祝宴中、井伊大老の死を告げる密書が江戸より到来、重兵衛は“快哉”(かいさい)を叫んだと言われている。

▷1861年5月(文久元年)、念願の湊川楠公墓に詣でる。横浜に帰着早々、大変事が待っていた。情報通の中居屋は、日頃から奉行所を内偵していたが、事情が一変していました。それは、①貿易事業関係の武器大量取引の嫌疑、②井伊大老の遭難事件に関わる水戸浪士との連繋や短銃の件などで、有力な証拠をもって、近く幕吏が来宅することが判明し、豪胆な重兵衛は動揺したと言われる。

▷重兵衛は幹部(大番頭重右衛門など)を緊急に集めて密談した。①機密書類の焼却、②取引関係では英国六番館のフィンドレ-・リチャードソンに相談してとりはからうよう一切を任せる。③家族も連座制を問われるので、妻そのを離縁し、三歳になる愛娘は親友の佐瀬得所に頼み、向後一切、中居屋の縁故者であることを口外してはならぬと堅く言い渡した。

▷重兵衛は急迫する動きの中で、豪壮な店を見る余裕もなく、小舟に乗りこみ横浜を脱出し、海路房州方面へ向かったという。下総には和泉屋の親戚村越清兵衛など土地の有力者がいた。その後、房州から牧野善兵衛と名乗り、江戸へ潜入している。関連資料の湮滅(いんめつ)によって委細は不明であるが、芝あたりの隠れ家に潜伏し、麻疹(はしか)に罹り、1861年(文久元年8月2日)、亡くなったと伝えられる。横浜出店2年後である(享年42歳)。

〖あとがき〗

▷中居屋重兵衛に影響を与えた人物として、佐久間象山(1811年3月<文化8年2月>~1864年8月<元治元年7月>)がいる。象山は江戸末期の学者-兵学者、朱子学者、思想家である。西欧の科学技術の摂取による国力の充実を持論とし、先見の明があった。重兵衛が若い頃、知遇を得たのを機に重兵衛は“江戸を意識し、世界を視ていた”と思われる。
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▷中居屋重兵衛は、士魂商才ぶりを発揮して、短期間に100万両の巨万の富を得たと言われている。その背景として、①人の掌握術、②情報入手術、③経営の術、④機を見る術などの要因が集積されたものと思われる。歴史にはif(もし)はないけれど、重兵衛が生きていたならば、商社のような組織立ち上げる力は十分持っていたと言える。ぺリ-来航を機に日本のグロ-バル化は到来していた。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

〈引用資料>

・萩原進著『中居屋重兵衛』<炎の生糸商>(株)有隣堂、平成6年6月20日、新版発行。

・佐佐木杜太郎著『中居屋重兵衛』<開国の先覚者>新人物往来社、昭和47年11月25日。

・松本健一著『真贋』(中居屋重兵衛のまぼろし)(株)新潮社、1993年5月15日。

・南原幹雄著 『疾風 幕末の豪商中居屋重兵衛来り去る』 人物文庫、1998年11月。

・「人づくり風土記」、全国の伝承 江戸時代、農山漁村文化協会、1987年11月24日。

・森田健司著『江戸の瓦版』、洋泉社、2017年7月19日、70頁。

・評論〈ぐんまの人物誌〉中居屋重兵衛、黒岩幸一。


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