経済の指針(1)-日台経済関係の動き

2025年5月12日


〖プロロ-グ〗

著者は若い頃から「撮り鉄」、「乗り鉄」であった。特に電気機関車が大好きで、今でも武蔵野線新座トラックターミナルや中央線八王子駅などでは多くの貨物車を牽引している電気機関車(JR貨物・愛称桃太郎)を見るのを楽しみ。

最近、武蔵野線北府中駅の「東芝インフラシステムズ(株)」の線路(引き込め線)で、オレンジ色の電気機関車が数台停車していた。早々に調べて見たら、この電気機関車は台湾への輸出品であった。以下、その内容である。

 

〖台湾へ輸出〗

「東芝インフラシステムズ(株)」は(参照)、台湾銀行から台湾鉄路監理局(以下、TRA)向け気機関車68両を受注した。受注金額は予備品を含め約400億円。当社の府中事業所で製造し、2022年から順次納入する予定。今回受注したのは主要都市を結ぶ特急列車をけん引のために使用される。以下、当社のニュ-スリリースの内容である(注1)。

(1)TRAは新型電気機関車の投入は1992年以来のことである。今回の日本製の完成電気機関車(E500型)の調達は今回初めてである。当社はTRA向けに2000年の通勤列車EMU600系向け電気品納入を皮切りに700両以上の鉄道用電気品納入実績があり、2018年には新たに2020年末から営業運転が開始される予定の通勤列車520両向け主回路システム電気品も受注している。

(2)台湾高速鉄路股份公司向けにも車両電機品、変電設備、運行管理設備などを開業以来継続的に納入している。今回の受注は当社の台湾市場における豊富な実績と、日本での長年にわたる機関車の納入実績が評価されたものである。

(3)TRAは2015年に車両導入計画を発表し、10年間で1000億台湾ドル(約3600億円)をかけて約1300両の新型車両を購入する計画を進めている。当社は台湾を鉄道事業の主力市場と位置付け、ニ-ズに合った製品をタイムリ-に提供を通じ、現地交通インフラに貢献したいと考えている。

img-works-16-01


台湾鉄路電気機関車
E500
出典:「東芝

 

5009859_s









台北駅
出典:「写真AC


〖製造風景〗

JR武蔵野線北府中駅に近い東芝インフラシステムズ府中事業所は国内有数の機関車製造拠点。JR貨物の「ブル-サンダ-」という愛称持つEH200形や、「金太郎」と呼ばれるEH500形なども手掛けてきたが、2010年代半ばに一段落。2019年に決まった台湾向けE500の大量受注は蓄積されたノウハウの継承役立つと思われる。

東芝グループの生産拠点でラクビ-の強豪と知られた東芝府中工場が台湾向け電気機関車の製造で活気づいている。地元・府中市も歓迎している。その工場内を見ると、天井近くに車体ごとに持ち上げるクレ-ンがしつらえた広大な工場建屋の中鮮やかなオレンジ色をした完成車間近のE500形電気機関車が、3両が並ぶ。台湾へ2023年秋輸出された1~3号機に次いで出荷を待つ4~6号機である(注2)。なお、東芝は2023年12月20日をもって東京証券取引所プライム市場の上場が廃止された。

Toshiba_fuchu_factory_south_gate_tokyo_2009









東芝府中事業所
出典:「Wikipedia

 

〖台湾鉄路概況〗

E500型は、主に台湾の主要都市間を結ぶ特急客車列車を牽引に使用される予定である。台鉄が新型電気機関車を投入するのは、1992年に製造されたE200型以来(プッシュプル方式の「自強号」用電気機関車1000型を除く)。また、日本製の電気機関車の輸出は今回初めてである。E500型の詳しいスペック(仕様)は明かにされていないが、現在活躍している米国GE(ゼネラルエレクトリック)社製交流電気機関車E200型/E300型/E400型を参考にスペックを予想する。

米国GE社電気機関車の台鉄E200型/E300型/E400型は基本設計が同じ兄弟機。全長17m、3軸台車2個装着し、主に電動機6個駆動するF級電気機関車で、出力は2800KWである。E200型は客車に三相交流電源を供給する発電機を搭載している機関車で、40両が製造された。

台鉄は、台湾の主要都市を結んでいる国営鉄道です。日本が統治していた時代に建設された路線も多く、本線の線路幅は1967mmで、車両も日本サイズが基本となっている。日本統治時代に入線した日本製車両が残っている。また、電化区間の電気方式は東海道新幹線と同じ交流25000V60Hzとなっている。

 

〖鉄道車両輸出〗

日本メ-カ-における海外向けの鉄道車両を製造して輸出する事例は数多くあります。近年では高速列車や都市部の電車・気動車の輸出が多く見られます。高速列車では台湾新幹線(台湾高速鉄路)用700T型を日本車両製造・川崎重工業(現:川崎車両)・日立製作所が製造・輸出しました。700Tは東海道・山陽新幹線700系をべ-スとした新型車両を導入する予定です。日立製作所は、英国向け高速鉄道車両と近郊型電車を製造所としています。同社は英国に工場を建設して、現地製造しています。

日本の車両メ-カの概況は-2023年度の1位は日立製作所8561億円、2位は川崎重工業の鉄道車両売り上げは1959億円、3位以下は1000億円を下回り、日立は頭1つ抜きにでる。成長の原動力は海外。なお、売り上げ比率は車両が6割、信号システムが4割である。日立製作所の海外比率は中国中車、仏アルストム、独シ-メンスと並ぶ世界最大の一角を占める(注3)。

virgin_azuma







英国通勤列車
AZUMA
出典:「日立製作所


 
〖日台経済関係の現状〗

週刊「経団連タイムス」は「最近の台湾情勢と日台関係」の中で東亜経済人会議日本委員会は2025年3月5日、大手町経団連会館で東亜経済人会議日本委員会を開催した。日本台湾交流協会谷崎泰明理事長から、最近の台湾情勢と日台関係に関する説明を受けた(注4)。以下、その内容である。

日本との関係は全般的に良好であり、特に経済面では2024年12月、「台湾積体電路製造(TSMC)熊本第1工場」が量産を開始し、2025年には第2工場の建設見込まれる。また、2024年には台湾からの訪日観光客が過去最高の604万人を記録し、日本からの訪台人数もコロナ禍後、初めて100万人を突破した。

 

〖エピロ-グ〗

以上のような順風満帆の日台経済関係をさらなる発展に期待したい。加えて、既述の「東芝インフラシステムズ(株)」の「500E電気機関車」の台湾輸出は、台湾の鉄道網の整備と発展は、台湾経済のより一層の発展を促すことになる。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)「東芝インフラシステムズ株式会社」、2019年10月17日

(2)「東京新聞」、2019年1月22日

(3)「東洋経済」、2024年5月13日

(4)Action(活動)「週刊経団連タイムス」2025年4月10日No.3679

 

歴史散歩(6)-徳川将軍の食事について


2025年4月9日

〖プロロ-グ〗

本報告は2013年9月10日、グロ-バリゼ-ション研究所のブログに掲載された「徳川将軍の食事について」を修正し、加筆したものである。

 

〖大奥の食事〗

〖台所担当〗

JR東日本中央総武線の飯田橋駅東口を出て、目白通りを九段方向へ10分ほど歩くと、「台所町跡」の標柱が建っている。この場所は江戸時代初めから元禄の頃まで江戸城の台所衆の組屋敷があったことに由来する。役所別に見ると、台所衆、台所物と呼ばれる役人が住んでいた。武鑑を見ると「御台頭」-400石、台所町・鈴木喜左衛門と記されている。役料の高さは、職務の重要性を意味している。
town_history_photo_12






台所町跡(標柱)
出典:「飯田橋サンポー□

鈴木喜左衛門は「御台所」が職場である。役職は表台所頭である。定員3人のうち2人までは賄頭(仕入部署)としている。その下に表台所組頭などがいた。「表向」(おもてむき)において将軍以外に供する食事を調理し、供給するのが役目であったものと思われる。江戸城内の大奥に寄った所に「御膳所」がある。
ここは将軍の食膳を担当する部署である。配下には膳所台所組頭、膳所小間遣頭がある。下部には台所人、小間遣、6尺などの調理人や雑役夫がいた。「御膳所」は将軍1人のために台所人55人、小間遣い80人の定員である。加えて、「大奥」の広敷向けに将軍と御台様(おだいさま/将軍夫人)が食事をする「奥御膳所」があった(注1)。
MET_DP149364





江戸城大奥
出典:「Wikipedia


鈴木喜左衛門の職務への責任感について、幕末の書物で多くの逸事を数多く紹介を収めた「流芳録」によると、喜左衛門がある日、切腹を命じられた。三代将軍家光が鷹狩に行った先で出された昼食の吸い物に砂が混じっていたというのがその理由である。たまたま強風で獲物がなく、機嫌を損ねていた家光の怒りがそのことで爆発した。

ところが喜左衛門は敢然と抗議した。砂は強風のせいで家光の口や髭(ひげ)についたもので、料理人にから入った者ではない。口をすすぎ、髭を洗ってもう一度ためし、まだ、砂が混じっているようであれば、切腹でも何でもすると、事実は喜左衛門のいうとおりだった(注2)。

 

〖将軍の食事〗

TVや映画を見ると、将軍の食卓は見栄があり、如何にも美味しそう料理がお膳に上がっている。初代将軍家康は質素な食事(麦飯と豆味噌)を通したため、後継の将軍や大名もこれにならって簡素で栄養バランスの取れた食事をしている。基本は一汁一菜であった。将軍家には忌日が多く、月の大半は精進料理だったと言われる。最初に朝食を見ると、一の膳には飯、汁、刺身と酢の物などの向こう付け、煮物がのり、二の膳には吸い物と焼き物がのせられている。

焼き物は鱚(きす)と付けやきの二種。鱚は縁起が良い魚とされ、家康以来、毎日食されていた。昼食もこの二の膳つきで、朝食と同程度のもの。夕食は二の膳がつかず、ちょっとした煮物や焼き魚が加わるほか、御前酒という古酒もついた。このような将軍の生活全体の中で食卓は“質素を重んじる”べしという家康の遺訓があった。しかし、年代下がるにつれて、東照大権現(家康の神号)訓え(おしえ)は過去のものとなった。その事例を挙げてみよう。
c0187004_8583161








将軍の食事
出典:「気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録


▽歴代将軍の食卓を比較すると、十一代将軍家斉(在位50年)の食事は豪華なホテルの朝食のようであった。逆に八代将軍吉宗(在位29年1ヵ月)などは一汁一菜という実に質素なものであった(注3)、そこで12代将軍家慶(在位16年2カ月)の食卓は豊富なメニュ-(昼食)で、家慶は料理の多くは残していた筈である。

▽一の膳 汁:・蜆(しじみ)・鯒(こち)の切り身、・長芋、・紫薇(ぜんまい)/置台:寒天、栗、または慈姑(くわい)のきんとん、ぎせい豆腐、金糸昆布、焼物/お外のもの:海老/お壺、蒸し玉子など。

▽二の膳:汁:鯛の刺身/羊羹(ようかん)、玉子焼、鴨、雁など。焼き物:鱚/お外のもの:鮑(あわび)/お壺:からすみなど。

第十四代家茂(在位7年9カ月)の料理は極めて質素であった(梅干し、煮豆、焼き物などの一汁二菜が基本)、夕食でも煮物や焼魚が加わる程であった(注3)。今風に言えば、超ダイエット食で、このため家茂は政務に加えて文武に励んだから体がもつはずがなく、1866年(慶応2年)、第2次長州征伐の途上、大阪城で病に倒れた。享年21歳であった(注4)。

第十五代慶喜公の朝ご飯は、一人で黙々と食べていたわけではない。周りには、側室、女中、小姓がいた。将軍の食事は同じものを10人ほど作った。御毒見役がいて、そのうちの一つを適当に取り上げて食べていた。慶喜の朝の食事は質素だった(一汁五菜)。
Tokugawa_Yoshinobu_as_Shogun













徳川慶喜
出典:「Wikipedia


▽一の膳:味噌汁と豆腐を薄く切ったもの、それに置台には蒲鉾や昆布や胡桃(くるみ)などを寒天で寄せたもの。

▽二の膳:ほうぼう(かながしら)という魚の焼き物と海苔で巻いた卵焼き、お新香。一方、豚好きから“豚一殿と渾名がある慶喜公、昼食の献立は、白飯、鴨の吸い物、豚のやわらか煮(煮豚)、玉子焼き、瓜の粕漬、栗きんとん、玉子豆腐、鯛の切り身の醤油付け焼き。

当時、江戸市民は豚を獣といって食べなかった。猪は薬と称して、食べていたらしいいが、豚はどの様にして入手していたのか。薩摩汁というのは豚汁のことで、薩摩藩邸では皆、食べていた。斎昭(慶喜の実父)は薩摩の島津斉彬と仲がよかったので、このル-トから豚を入手していた可能性がある。加えて、入手ル-トが明らかな肉もある。1967年(慶応3年)の春、大阪城の晩餐会の前に、英国公使のパ-クスから慶喜公に豚肉が献上されたのである(注5)、なお、食事時間については、朝食は午前8時(5つ時)、昼食は正午、夕食は点灯頃(ひともし頃/日が落ちる時)

 

〖滋養と寿命〗

江戸時代は265年(1603年<慶長8年>-1868年<慶応4年>)続いた。この長期政権を支えたのは強固な官僚主義による幕藩体制であった。主に初代家康、二代秀忠、三代家光がその礎を築いたと言われる。作家海音寺潮五郎は「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれに及ばなかったが半部は自分で決めた。家光は全て重臣まかせであった」と評している。

初代家康は「長命こそ勝ち残りの源である」と、常々、こう語っていた家康の長寿を支えていたのは、“麦飯と豆味噌”であった。食生活に気を配り、晩年まで健康であった。三河の地方豪族、松平の嫡子として生まれた家康は幼い頃から麦飯を主食にして育ち、生涯、その習慣を変える事はなかった。

「御善所」の責任者である善所台所頭は多くのスタッフを使い、江戸城に住む将軍を頂点とする人々の生命を守る重要な役目を果たした。新鮮な魚は当時、日本橋あった魚市場から入れていた。

そこで、全将軍(15代)の平均寿命を見ると49歳、50歳にならないで亡くなったのは3代将軍家光(48歳)、4代家綱(40歳)、7代家継(8歳)、13代家定(35歳)、14代家茂(48歳)の5人、長寿は15代慶喜(77歳)を筆頭に、初代家康(75歳)、11代家斉(69歳)、5代綱吉(64歳)の順であった。

歴代将軍のうち、家斉、家慶、慶喜の食卓は他の将軍と比べて贅沢していた。特に家斉(いえなり)は在位50年という信じられないほどの長期政権であった。そのつけは水野忠成(ただあきら)の指導のもとで幕政は綱紀が乱れた。もっとも奢侈淫逸(しゃしいんいつ)風を将軍家斉が率先して行っていたので、下々にその風が蔓延するのを防ぎようがなかった。

将軍家斉の側室(そくしつ/めかけ)は40人におよび、子女は16腹に28人の男、27の女と計55人うち13人しか成育しなかった。大奥の豪奢(ごうしゃ)は目に余るものであったと言ってよい。家斉は極めて稀な“精力絶倫“の将軍であった。その要因の一つは多くの滋養ある食べ物が食卓にのせられていたことが、その源泉であり、長生きの秘訣であった(注6)。それにひきかえ14代将軍の食事は極めて貧食であったことから蒲柳(ほりゅう/やせている)の質であった。二人の将軍の生き様は対照的であった。

 

〖エピロ-グ〗

現代は飽食の時代です。国民は思いのままに海の幸、山の幸、外国の幸を躊躇なく食す。江戸時代の町民も海の幸、山の幸を食べた。しかし、今の人のように何でもかんでもたべる口汚さはなかった。もちろん食品は限られていた。将軍の“米は美濃米”である。これは御春屋(おつきや)でしらげた上、御番建ての上に、御番立の上に大きな黒塗の盆をおいて、これに入れ、日々4、5人で一粒撰りで、少しでも欠損(かけ)のあるのはのけ、粒を揃えて御膳所送りました。御広敷番頭(御家人/お毒見役)は御膳所に赴いて入念に食事を看た。将軍は権力の最上位にいるが、食事だけは自由にならない立場にあった(注7)。

昭和の時代は家庭で食事をとるのが当たり前でした。しかし、時代が下がるにつれて、庶民の食事は価値観の変化から多様化するようになり、食事の簡素化は広がった。その象徴的な食物の一つがハンバーガーである。一食当たりのカロリ-は高く、健康志向も強い現代人にとって決して良いものではない。しかも、その影響は40代中頃からの成人病を誘発する。筆者は80代中頃となったが、若い時の暴飲暴食がたたって、今でも毎月、医者の検査がまっている。
31775435_s









ハンバーガー
出典:「写真AC


(グロ-バリゼ-ション研究所)所長  五十嵐正樹

(注)

(1)大口勇次郎著「消費者としての江戸城」:将軍御膳の魚料理(研究)、御茶ノ水史学、お茶ノ水女子大学、2001年10月

(2)「日本経済新聞」2012年6月8日

(3)徳川慶朝著「徳川慶喜家の食卓」文春文庫、文藝春秋、2008年6月10日

(4)杉浦日向子著「1日江戸人」、1998年、小学館

(5)(注4)と同じ

(6)北島正元著「徳川将軍伝」、秋田書店、平成元年(1989年)12月15日、323頁

(7)石井良助著「将軍の生活」、明石選書、2013年2月15日、103頁

歴史散歩(5)-江戸時代の市谷・牛込

2025年3月26日

〖プロロ-グ〗

筆者は25年3月12日、JR中央・総武線市谷駅に下車(駅は千代田区)する。新宿区内にあり、市谷「市ヶ谷」とも書く。「市ヶ谷」という表記は江戸時代から明治中頃までに多く使われていたが、明治末期以降は「市谷」が多くなった。市ヶ谷駅は甲武鉄道の駅として1895年(明治28年)に営業を始めた。同鉄道は1889年(明治22年)開通(新宿駅-立川駅)している。市谷駅から北に向かって歩くと急坂にあり、上がり切った所には江戸時代に幕府下級役人が住む町として発展し、役職名(納戸町/鷹匠町/御細工町払方町)が地名となった。
gsi20250327163626812





新宿区地図
市谷と飯田橋の地図
出典:「国土地理院


同3月23日、飯田橋駅で下車して神楽坂をゆっくりと上がる。この地域も歴史は古く、向かって両側には多くの商店が立ち並ぶ。暗い左右の路地には料亭の佇まいがあり、夕方の客を待つ。赤坂通りをわずかに上り、左折すると目の前は急坂となる。上がりきるとお寺(光照寺)が左手にあり、境内には旧跡が立ち並ぶ。この地域付近も高層ビルはなく、平屋と樹々が多く、静寂な雰囲気が漂う町である。以下、両地区の歴史を紐解き、現状にいたる背景などを記した。

 22264488_s






JR市ヶ谷駅
出典:「写真AC



28320363_s








JR飯田橋駅
出典:「写真AC


Ⅰ市谷地域(東 部)

資料によると(注1)、現市谷付近の主な町を紹介する-市谷/市谷船河原町/市谷田町1丁目/市谷田町2丁目/市谷田町3丁目/市谷砂土原町/市谷鷹匠町/市谷長延寺町/市谷左内町/市谷八幡町/市谷本村町/市谷加賀町1丁目~/市谷加賀町2丁目/市谷甲良町/市谷柳町/市谷薬王寺町/市谷仲之町/住吉町/片町/市谷台町/富久町などである。

区域の東部にあり、市谷という名称については「鶴丘八幡宮古文書」で、鎌倉時代末の1312年(正和元年)「武蔵国金曾木彦三郎並市谷孫四郎等所領」が将軍家より鎌倉鶴岡八幡宮に寄進されているということが記されており、市谷氏は牛込と同様に、地名をとったと考えられことから、市谷という地名は鎌倉以前まで遡る可能性がある。

〖市谷船河原町〗

牛込見附と市谷見附間に面した場所に位置する江戸時代には武家地と、市谷船河町がった。江戸城の拡張に伴い、築土明神の氏子で以前は同明神の旧地ある平川御門内に住んでいた。江戸城の拡張に伴い、同明神が牛込御門内に遷座すると町も同門内に代地を与えられて移った。しかし、同地もまた御用地となったため、船河原橋の近くに大地を与えようとしたが、住人達は市谷田町3丁目に隣接する当地を望み、これを与えられたという。

〖市谷田町1丁目〗

豊島郡市谷領布新田と称する場所に、1620年(元和6年)頃から百姓屋を立てていた。同9年、外堀造成の御用地として召し上げられたため、左内坂下に小屋場を設けて仮住まいをしていた。外堀完成後、旧地が堀になってしまったので、旧地近くの堀端に町屋取り立てを願いだしたが、既に武家屋敷となったために願いは却下された。替地として佐渡殿原(現市谷砂土原町周辺)、赤坂門前の2か所を提案された。しかし、両所とも馴れ住んだ場所から離れたいたので、佐渡殿原の土を引き鳴らして武家地を仕立てることを願い出、堀端通り田地にこの佐渡殿原や浄瑠璃坂下、逢坂辺りの土を落として埋め立てた。1626年(寛永3年)埋立てができた。

〖市谷鷹匠町〗

江戸時代は武家地で、1871年6月(明治4年)、武家地と付近の開墾地を合わせて市谷鷹匠町として成立した。町名は江戸時代に鷹匠組屋敷があったことに由来している。町域の南部、市谷長延寺谷町との間の坂を暗闇坂という。草木が生い茂り薄暗いかったことによる。後にゴミを捨てたため芥坂(ごみ)とも呼ばれた。また長延寺坂とも呼ばれている。

〖納戸町〗

江戸時代初期は天龍寺境内地であったが、天龍寺の土地および四谷へ移転後は武家地となり、町地は牛込御納戸町市谷平山町があった。幕府の衣服や調度を管理する役人が住んでいた。
8ff087b501c2075d16c









現在の納戸町
出典:「江戸町巡り


〖市谷左内町〗

江戸時代には武家地、寺地、町屋は市谷左内坂町と市谷上寺町があった。

〖市谷本村町〗

江戸時代には尾張藩徳川家上屋敷が大部分を占め、町屋は市谷本村町、市谷本村町、市谷田町4丁目があった。現在「防衛省」がある。

〖市谷加賀町〗

江戸時代には武家地であった。江戸時代初期、金沢藩前田光高夫人の清素院は水戸藩主徳川頼房の娘で三代将軍の徳川家光の養女となり、加賀藩主前田光高に嫁ぎ、1656年(明暦2年)に30歳で逝去した。しかし、家臣らは引き続き屋敷に住み、清泰院殿屋敷は、加賀屋敷などと称されていた。

〖市谷甲良町〗

江戸時代は御洗手組大縄地など武家地が多く占めた。町名は現在の市谷柳町に市谷甲良屋敷と呼ばれる町屋があった。

〖市谷柳町〗

江戸時代は武家地、寺町、町屋は市谷柳町、牛込川田久保町、市谷甲良屋敷、市谷清内屋敷があった。

〖富久町〗

江戸時代には市谷自證院門前、市谷坂下薬王門前、市谷三軒屋敷、市谷修行寺門前があった。

Ⅱ牛込地域(東 部)

飯田橋駅から坂を上がる左右には牛込地域である。近世には区域の北東部一帯を指す。中世には、これより広い地域であったと考えられる。古代、陸上交通・軍事活動を支援するために牧で牛馬を飼育しており、官牧(諸国牧)、勅使牧(御牧)、近都牧、私牧があった。武蔵国には信濃、上野、甲斐とともに、牛馬生産の拠点であり、中世における武士団の勃興の基礎となっていたと推測される。

「延喜式」によると、武蔵国には檜前馬牧、神埼牛、石川牧、由比牧、小川牧、秩父牧があったとされ、神埼牛牧を牛込のあたりとする説がある。江戸時代以降は江戸の市街地の拡大に伴って大半地が武家地、寺社地、町地域となった。後に早稲田村、中里村などに分かれ、江戸後期には耕作地はほぼ皆無となった。

〖神楽坂〗

神楽坂はJR中央線・総武線の飯田橋駅西口から牛込台地に上がる坂で、坂下から大久保通りまでは江戸時代から神楽坂という名称で呼ばれていた。以下、神楽坂という名称の由来には諸説がある。

1市谷八幡の祭礼に神輿が牛込御門前の端の上に止まり、神楽を奏したので名がついた(江戸砂子)。

2若宮町の若宮八幡の神楽が、この坂まで聞こえたので名付いた(江戸鹿子)。

3神楽坂2丁目4番地に高田八幡神社(現在の穴八幡宮)の御旅所(祭礼時の分祭所)があり、同神社の祭礼はそこで神楽を奏したので名付いた(大日本地名辞書)

〖神楽坂1丁目〗

牛込御門に近い外堀端沿いも地域で、江戸時代には武家地と、牛込牡丹屋敷4鑓という拝領町屋があった。

〖神楽坂3丁目〗

江戸時代には武家地であった。神楽坂より南の地は、享保年間(17167-35)以後は二丁目と同様の変遷をしたが、明治維新後は西部が華族松平邸となった。

〖揚 場 町〗

江戸時代の初めは武家地であったが、外掘端の通り(現外堀通り)に町屋ができ、牛込揚場町と改称された。

〖牛込御箪笥町〗

地主である御具足奉行組同心、御弓矢鑓奉行組同心の拝領町屋敷で、武器総称を「御箪笥」と唱えることから町名に用いたされる。1713年(正徳3年)町奉行支配となる(町方書上)。牛込肴町との境の坂は袖摺坂という。1868年(慶応4年)、町名「御」の字を削除するよう申し渡しがあり、牛込箪笥町となる。

〖袋   町〗

江戸時代には光照寺と武家地があり、町屋は牛込袋町と牛込光照寺門前があった。また、牛込袋町があり、豊島郡野方領牛込村内にあったが、その後、町屋になった。肴町の横町で袋道であるため、袋と名付けた。また、町内には藁店と呼ばれる場所があった。

〖細工町〗

江戸時代初期天龍寺境内であったが、天龍寺の土地および類焼による四谷への移転は武家地となり、町地は牛込御細工町があった。御細工とは、江戸城内建物・道具などの修理・製作調整を行う江戸幕府の役所名である。

〖二十騎町〗

江戸初期には天龍寺境内で、天竜寺移転後は武家地となり、先手与力二組や屋敷となった。その一組が十人(騎馬)のところから俗に牛込二十騎と呼ばれた。

〖南山伏町・北山伏町〗

江戸時代は武家地で、西の市谷山伏町から東方にかけての一帯は俗に牛込山伏町と呼んでいた。江戸初期には山伏修験者が多く住んでいるため、1723年(享保8年)火災に遭い他に移って武家地になった後も牛込山伏町と呼んだという。

 

Ⅲ牛込の風情

田中優子氏(法政大学前総長)は語っている。「大江戸残照トリップ」(15)ー神楽坂ーの中で「牛込といえば太田南畝」(なんぽ/別名:蜀山人)である。平賀源内が見出した文学の天才だ。パロディ-文学である狂詩と狂歌で、蔦屋重三郎の時代を活性化した重臣である。以下、同氏が牛込の歴史について語っている(注2)。
761ff4e6aec2976b9d51d92c5a4e22c3_1



田中優子氏
出典:「東京新聞デジタル


牛込には幕臣の衣服や調度を管理する役人が住む御納戸町、馬具や武具などの職人が暮らす御細工町、武器を司る役人が暮らす御箪笥町、中でも域内の護衛をする御先手組の集住する御先手大縄地と御徒方の暮らす御徒組大縄には下級武士の小さな家がぎっしりと並んでいた。

少し歩くと、最高裁判所長官の公邸がある。江戸時代の旗本で、東(あずま)錦絵の開発を支えた大久保甚四郎の屋敷だったところである。黄土色の長い塀が今でも江戸時代のようである。

神楽坂にでると、毘沙門天善国寺がある。麹町からこの地に移ってきたのは蔦屋重三郎が処罰され、喜多川歌麿が大首絵を描き始めた1792年(寛政4年)である。それ以来、神楽坂は門前町として賑わい始め、明治になってさらに繁盛した。石畳の路地を入ると、江戸・明治を歩いている気分になる。
28210922_s







善国寺
出典:「写真AC

同氏はさらに太田南畝(別名蜀山人)の住まいがあったのは牛込中御徒町(現在:新宿中町37番地)のあたり。有名な手作り肉まんの専門店がある。店の前には南畝の業績などを説明したパネルがある。また、有名な辞世の句がある「今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん」と。近くには光照寺内(浄土宗)に庄内藩の支藩である松山藩酒井家代々の墓がある。また、南畝の同い年の狂歌仲間であった便々館湖鯉鮒(便々かんこりふ)の墓がある。
fukuro_kosho2s





光照寺
出典:「猫の足あと


〖エピロ-グ〗

市谷・牛込地域は、江戸時代は下級武士の家々が立ち並んでいた。爾来、160年余りの時間が過ぎた。現在、市谷・神楽坂は高級住宅街となり、家々には高級外車が見え隠れする。前述のように江戸時代中頃、太田南畝(なんぽ/別名蜀山人/狂詩・狂歌の専門家)が住んでいた牛込中御徒町(現在の新宿区中町37番地)、今は有名な手作り肉まんの専門店が営業している。近くを歩いた親子ずれに太田南畝について聞くと、分からないと言う返事。また、「宮城道雄記念館」(1894-1956年)<筝曲17絃の開発者で有名>/1894<明治27年>-1956年<昭和31年>)がある。
1302855263_photo










FULL ON THE HILL
出典:「市ヶ谷経済新聞


(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)「新修新宿区町名誌」、新宿区三栄町、(財)新宿生涯学習財団、平成22年3月31日

(2)「東京新聞」2025年3月16日

 

(資 料)

・新宿区地図(新宿区区政情報課)作成

・「市谷」「神楽坂」(一般財団法人新宿観光振興協会)

・ウィキペディア

月別アーカイブ
プロフィール

igarashi_gri

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ