自転車に乗って(3)

2023年3月22日


〖アプロ-グ〗

今回は「さいかち窪」(小平霊園内/東村山市)と黒目川(東久留米市)を確認するため愛車で出かけた。ル-トは小金井公園内を通って、花小金井駅近くを抜け、小金井街道を北へ15分進みと、新青梅街道が走っている。左折し、15分走ると、先ずは、小平霊園内北口門近くの「さいかち窪」を見る。

「さいかち窪」を水源とする黒目川沿いに木道を、自転車を引き、柳窪(柳久保)を歩く-ここは江戸時代・明治時代の景観が残る風致地区であり、報告者が、これまで、多摩地域を自転車で走って近世の歴史的遺産を見て回ったが、柳窪ほど江戸時代の空気が漂っている場所は外にない。以下、著者の現地報告です。

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さいかち窪
(小平霊園内)
出典:散歩風景◆東京近郊の散策記


 
〖柳窪の歴史〗

柳窪(柳久保)は東久留米市西端にあり、今も住居表示として使われ、柳窪1~5丁目です。下里4丁目の一部が含まれています。江戸時代は、東は下里村、南は柳窪新田と大沼新田(現大沼町/小平市)、西は入間郡大岱(おおたい/東村山市)に接し、江戸時代の文献や石造物には柳窪(柳久保)と表記されています。
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柳窪
出典:国土地理院


(近   世)

柳窪村は東久留米市域の他の村々とは異なり、江戸時代になってから開発された村で、寛文10年(1670)以来、幕府領(天領)となったことが記されています(『柳窪村村明細帳』市史7)。最も古い記録は元禄11年(1698)の『年貢割付状』市史料21)によると、石高は7石余となっています。以後、19石余(『元禄郷帳』)となり、宝永6年(1709)には田無村の74石余が付けられ82石となり、さらに新田分20石が加えられ102石余りとなります(『天保郷帳』)。

(幕   末)

下里村と同様に、安政5年(1858)から一時、熊本藩の領地となりましたが、1年ほどで再び幕府領となりました。家数は文政10年(1827)で37軒、人口は222人という記録があります(『農間渡世書上』)。幕末期、慶応2年(1866)に発生した「武州一揆」が柳窪村の地まで」及び、打ち壊しにあったため、代官配下の農兵が出て取り押さえるという事件がありました(「柳窪村打ちわし報告書」市史料105)、寺院は真言宗智山派の長福寺、鎮守は稲荷天神相社(現在の天神社)があります。

 

〖現     在〗

(さいかち窪)

「さいかち」とはマメ科の落葉高木の名前です。木材は建築、家具、器具、薪炭用として使い、皀莢(さいかち)または「そうきょう」と読みます。生薬で去痰薬(きょたん)、利尿薬として用いるほか、サポニンを多く含むため古くから洗剤として使われている。東北、関東、愛知県など東日本に分布。皀は皂とも書き、便宜上、皀を使用する。さいかち窪は小平霊園の北門近くにあり、窪地(なだらか坂)として、周りをさいかちの樹木が自然をまもっています。

(石仏群)

「さいかち窪」を水源の一つとする「黒目川」(1級河川:荒川水系/新河川の支流)を訪れます。「さいかち窪」から近くには柳窪天神社の湧水は渇水期のため確認できなった。天神社の入り口右脇には安永4年(1775)に建てられた「庚申塔」(南町2丁目5路傍)があります(無数のくぼのうち顔と下腹部などは、眼病や安産を願う民間信仰を考えることができます)。加えて「筆子の墓」は柳窪5丁目6、墓地内に安永4年(1775)に建てられた筆子の墓があります。ここにあったお堂で子供達に読み書きを教えたお坊さんを偲んで造った墓と思われます。また、「石橋供養塔」があり、明和元年(1764)造立と記しています。

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黒目川
出典:Orange


(村野家住宅)

崖上には柳窪の「村野家住宅」(願想園/東久留米市柳窪4丁目)が静寂の中で時間を刻んでいます。住宅は、天保9年(1938)建築、安政4年(1857)に増築された。落ち着いた入母屋造りの外観が周囲の屋敷林とよく調和しています。明治後期に建てられた「離れ」は、木造平屋建て入母屋造に洋風な要素を取り入れた建造物で、付書院欄間(つけしょいんらんま)の彫刻は著名な島村俊表(しゅんぴょう)の作品です。3つの蔵は江戸時代末期建築の「土蔵」・「穀蔵」、明治28年建築の「新蔵」で、漆喰仕上げの外観を持つ清澄な趣(おもむき)を木立のなかに残しています。
国登録有形文化財 村野家住宅(主屋)









村野家 主屋
出典:たまろくナビ


「薬医門」は明治14年建てられた間口2.6mの比較的規模の大きい総欅(けやき)造りの門で、屋敷地の南東部に重厚な姿を見せいています。「中雀門」は、大正期の構築で、母屋の横にある前庭と奥庭を画する切妻(きりづま)造りの門です。

 

〖古民家と屋敷林〗

柳窪には屋敷林に囲まれた江戸時代末期から明治初期の大型民間の5軒と明治中期から昭和初期の中規模の伝統的な民家が残っています。また、養蚕による生糸の輸出で栄えた時代の建物もいくつか残っている。旧集落内には土蔵が21棟建っています。白壁の土蔵20、外壁には大谷石が積まれている土蔵が1棟で、農村風景の歴史的な環境が維持されている中で、この地区の景観の重要な要素となっています。

江戸時代、大都市となった江戸においては大火が頻繁に起こった。そのため享保期(1716-1735年)以降、幕府は防火対策一つとして土蔵などの建築を奨励した。以来、土蔵の建築は農村部にも普及し、柳窪においても幕末から明治・大正期にかけて築かれた土蔵は多い。平成20年(2008)の日本女子大学住学科による調査対象群は幕末3、明治初期3、明治30年代3、大正期1、年代不詳1となっています。

この地域には鬱蒼とした欅、白樫からなる屋敷林が残っています。そのなかでひときわ欅の大木が目立つ柳窪4丁目の村野家住宅は唯一東久留米市内の残る江戸時代の茅葺民家です。同住宅は、江戸から大正期にかけて建てられた建物として、平成23年(2011)に主屋7件が国の登録有形文化財に登録された建物を総称して「顧想園」と命名されます。また、武蔵野では急激に数を減らして滅多に見られなくなったクマガソウ、キンランなどが保護されて、毎年春に花を咲かせています。

 

〖特産品小麦〗

(復  活)

柳久保の小麦は嘉永3年(1850)、に奥住又右エ門(東久留米市柳窪在住の故奥住和夫の曽祖父)が旅先より持ち帰り地域に広まったとされており、奥住家に記録が残されています。その特徴は風味豊かで在来小麦特有の持っちり感があり、お菓子やうどん作りなどに適しています。欠点としては、草丈が高いため倒れやすく、栽培に手間がかかるため、収穫量が他品種と比べ半分以下です。昭和17年(1942)に戦時中の食糧増産政策により作付けが中止された。その後、昭和60年(1985)に又右エ門の子孫がつくば市の農林省農業生物資源研究所に保存されていた種を譲り受けて播種し、昭和63年(1988)に46年ぶりに栽培を復活させた。なお、同小麦は普通の小麦より穂丈が長く太いので、家屋の屋根材としても広く利用された。当時の民家は茅葺屋根が多く、屋根材として不足する茅を補うために柳窪小麦の麦藁が使われた。

(活性化)

平成14年(2002)、野崎市長が誕生して地域の活性化・産業の振興の掛け声の中で〖柳久保小麦による町おこし〗が提言されます。翌15年(2003)の秋、市の提言を受けた農家・JA・行政三者の協力により柳久保の会が発足し、同11月から奥住さんの指導を得て栽培農家7戸・栽培面積8反(約2400坪)の柳久保小麦の栽培を始めます。平成16年6月(2004)、1200kgを収穫することができました。

以上の経緯を経て、地域特産品を目指す地域産業振興会・柳久保小麦の会の二人三脚の活動が始まり、今では地域産業振興協議会・JA・商工会・市民の協力を得て栽培農家7戸・栽培面積8反で柳久保小麦を使用したうどんラ-メン・かりんとう・パン、・スイ-ツ、パンケ-キミックス、・お好み焼き、もんじゃ焼きなどが販売されています。

 

〖エピロ-グ〗

柳窪は、武蔵境から自転車で約8kmです。近くには人の熱気で込み合う「角上魚類」(東久留米市/柳窪2丁目8-16)から歩いて5分程に江戸時代の集落に自然に入ることができます。特に欅などに囲まれた家々があります。中でも村野家の「薬医門」は静寂・重厚で、一見、武家屋敷(家老格)のようで、近寄り難い雰囲気を持っています。集落の西側に黒目川があります。川沿いに木道が設置されており、散歩する人々を見掛けます。

既述のように古文書によると、江戸時代・化成期の文政10年(1827)、家数は37軒、人口は222人の寒村だったようです。しかし、柳窪の歴史的遺産を取り囲むように建売住宅があり、そこには車があり、家族があり、多くの人々が住んでいます。加えて、長い歴史を包み込むように欅の木があります。但し、地球温高のためか木の植生が悪くなっているようです。加えて、近くには「新青梅街道」があり、多くの車が走行しており、また、「角上魚類」には多くの車が駐車しています。柳窪を取り囲む環境は益々悪くなっています。読者の皆様一度、柳窪を訪れて見ませんか!
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角上魚類
出典:itot


(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(引用資料)

・「東久留米のあゆみ」シリ-ズ第2巻、「東久留米の江戸時代」-文化財から見た東久留米の村々-、監修 岡田芳郎発行 東久留米教育委員会、事務局 東久留米市教育委員会教育部生涯学習課文化財係、平成17年(2005)3月31日、94-100頁

・「東久留米市史」、編さん 東久留米編さん委員会、著作発行 東京都東久留米市、昭和54年3月31日、310-311頁

・「東京都文化財めぐり」、東京都教育委員会

・「ウィキペディア」-百貨事典-柳窪

・「新編武蔵風土記稿」

自転車に乗って(2)

2023年3月4日


サイクリング









手前はゼファ-、
奥はベネトン


〖プロローグ〗

筆者の青春の地の一つが、立川市である。定時制工業高校に通学している時である。今でも当時の思い出が、走馬灯のように私の心・目よぎる-同級生の顔・顔が。時には黄泉(よみ)の世界へ入ったとのニュ-スが入る。当時、休みは日曜日だけで、1週間はわき目もふらずに働きどうしであった。

立川駅北口近くにあった「中村亭」で同級生と今川焼きと少し大きめの茶碗で茶を呑み談笑するひと時は楽しみであった。大切な休日に運搬用の自転車に乗り、ストレス解消と体の鍛錬の目的で近場を走った。本格的に自転車に乗るには大学生時代からである。以下、当時の世相と運搬用自転車に乗っての貧乏サイクリング物語りである。

 

〖ベトナム戦争〗

(爆音の日々)

1957年10月(昭和32年)、著者は三鷹職業安定所(職安)の紹介で、米軍立川基地の近くの立川市富士見町2丁目の浅見商店(月給6000円)に就職した。当時、世界を取り巻く国際情勢はベトナム戦争一色(参照1)、先の見えない戦況が伝わってくる。今のウクライナ戦争と似ている。当時、立川基地には米軍戦闘機F86セイバ-、世界最大の輸送機のグロ-ブマスタ-(C-124)が駐機していた。四六時中、両機はベトナムへ、米国本土へ飛び交った。多くの戦闘員・物資を載せて!
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出典:「Wikipedia


ベトナムに向けて滑走路の南側のフェンスの近くで機首を北側(砂川方向)に向けてエンジンをフル回転して滑走路走行し、テイクオフ(離陸)する。その際、戦闘機、輸送機は爆音と強い風が地面の小石を吹き飛ばした-私は立っていられなくなった。近くには、著者の高校時代の同級生松沢君の一家が裸電球の下で、家族5人が寒い冬は体を寄せ合い生きていた。エンジンテストの爆音が筆者の高校にも1時限目~4時限目まで続くことがよくあった。1960年(昭和35年)頃、騒音のため、教室の窓は防衛施設庁が設置した二重窓になった。

(参照1):ベトナム戦争/第二次インドシナ戦争:1960年-1975年、場所ベトナム、ラオス、カンボジア、長い戦いの末、最終的には、北ベトナムが米国を破り、勝利した。

(ヤンキ-と単車)
立川基地は米軍基地、基地を囲むようにフェンスには英語で“ここは治外法権の地”と、鉄の白い表示盤に記していた。ヤンキ-は四六時中、市内をトライアンフ(TRIUMPH/英国)やBSA(ゴ-ルドスタ-/英国)を我がもの顔で市内を、爆音を轟かせて乗りまわしていた。市民は気もせずに無視していた。この風景を脳裏に刻んだ。立川駅北口近くの緑川付近には“たちんぼ”と称する娼婦が、街角でタバコを吸いながら客待ちをしていたと聞く-当時の立川駅周辺は戦後13年が経ったが、未だ、終戦直後の風景が残っていた。

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出典:「forRide


〖大学生時代〗

(地方史)

著者は中学生の頃から地方史が好きだった(参照2)。自宅近くに宮川歯科医院があった。この家は幕末の近藤勇(1834年11月5日~1868年5月17日<天保5年10月5日~慶応4年4月25日>)の親戚筋にあたる家で、家宝の刀を武蔵野市立境南小学校の展示会で見た。著者の家から南へ約2kmの地に、近藤勇(旧姓は宮川)のお墓が龍源寺境内(三鷹市大沢6丁目3-1)の竹林の近くにある。

寺の前には江戸に通ずる「人見街道」(参照3)が通る。父は宮川久次郎、勇は後に江戸の牛込にある天然理心竜の道場主の近藤周助の養子(1849年<嘉永2年10月19日>)となった。江戸への途は人見街道を東上し、三鷹市牟礼、杉並区久我山、高井戸、大宮八幡を通り、江戸へ向かう。

(参照2):筆者は今も「武蔵市立武蔵野ふるさと歴史館」主催の古文書初級(Ⅱ)の授業(担当:米崎学芸員)を受けている。聴講生は15人-年齢は様々、察するには、其の中に80代の人が2人、大半は60代、中には40代の女性も!皆、向学心に燃えている。江戸時代の「御鷹場文書」、「人別判別帳」、「慶安お触書」などを解読する。

(参照3):府中市八幡~杉並区大宮の大宮八幡宮を結ぶ。江戸時代以前からある街道である。

(史料収集)

1963年4月(昭和38年)、亜細亜大学経済学部に入学する。以来、運搬用自転車で武蔵村山(約18.2km)の郷土館へ地方史資料収集のために約1時間半かけて出かけた。近隣の国分寺市図書館、府中市図書館、三鷹市図書館、田無市図書館、調布図書館なども訪れて多くの資料を集めた。著者の足腰が今でも強靭なのは若い頃に重たいペダルを踏んだことが寄与したと考える。

(新車購入)

筆者が自転車に本格的に乗りだしたのは1975年(昭和50年)である。当時、武蔵野市立境南小学校の正門にある田崎自転車店(現存)で、ブリジストンのサイクリング車(変速機5段)を2万5千で購入した。自転車を受取った時、嬉しくて、夜分であったが、深大寺門前まで走らせた。往復約8km。爾来、土日は必ず乗って、東西南北奔走していた。

(立川市内)

自転車での立川市への訪問は頻繁であった-職場があったこと、高校があったことが挙げられる。五日市街道沿いに西へ走る。府中街道を通り過ぎ、間もなく、国分寺高校という案内板があり、左折し、しばらく走行し、右折すると同高校の正門がある。まもなく立川市若葉町を過ぎ、「立川通り」にぶつかる。左折し、10分ほど走ると、立川駅(当時は駅舎は平屋)に着く-走行距離約16.3km。

帰路は、昭島市郷地から奥多摩街道を通り、甲州街道(20号)・日野橋ロ-タリを左折し、真っ直ぐ府中方面へ10分、谷保天神を右に見て、府中市内に入り、京王線東府中駅を左折し、人見街道沿い北上すると、航空自衛隊府中基地の門前に突き当り、右折すると自然に多墓地前(現:多摩駅)方向へ出られる。しばらく走ると、既述の龍源寺(近藤勇墓所)が見える。急坂を上がる。三鷹市大沢を左折し、天文台通りを北へ2km、自宅に戻った。走行距離はほぼ33km-お疲れさま!
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龍源寺(三鷹)
出典:「みたかナビ


(提灯屋)

最近、立川駅から西へ約1km、昔の職場・浅見商店まで歩いた-今は4F建ビルとなり、リフォーム工事も請け負っているようである。1957年当時(66年前)と風景は変わらず、一瞬嬉しかったが、反面、悲しかった。なにも変っていない-当時の提灯屋と畳屋が現存していた。今では多くの街に見られなくなった業種が!この地では立派に営業しているとは!

 

〖郷里を走る〗

新潟県新発田駅前の市サ-ビスの自転車を借り、整備されていない車道を走る。但し、真昼でもほとんど人通り少なく、車も同様の状況にある。東京には多くの自転車が走行し、車種も多い。自転車が少ないのは、買物、食事を国道沿い(8号線)にあるファミリ-レストランなどへ軽自動車を走らせる。

市内には、駐車場が少ない事も原因の一つとして挙げられる。自転車の多くは中学生・高校生の通学用(県立新発田高校/父は旧制新発田中学)として使用されているようである。因みに新発田高校の駐輪場には自転車が多くあった。また、JR東日本・新発田駅(白新線/羽越線)は市内にある高校への登校に利用されている。皆、生き生きとした顔々-青春、若さいっぱいの若人であった。

 

〖エピロ-グ〗

環境は人を変える!人は環境を変える!自転車は人を変える!著者は長い間、自転車に乗って世間の片隅を見てきた-その手法は興味のある所は躊躇なく止まって見る。道が判らなくなったら、歩いている人に聞く-困っている人には躊躇なく教えてくれる人々-感謝・感謝である。

未知の世界を知る事は明日につながる-今後も寿命が続く限り自転車に乗る-そのためには自転車に乗り体を鍛える。最後に22年3月3日~23年3月3日までの著者の自転車の走行距離は810kmであった(東海道新幹線:東京駅から広島駅までの距離)。皆様の健闘を祈ります。

(グロ-バリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹

自転車に乗って

2023年2月20日


〖プロロ-グ〗

筆者は小学6年頃、武蔵境の自宅から運搬用自転車で荻窪駅南口の都電発着地点まで出て、都電に沿って、約1時間半かけて、中野坂上を下りて、成子坂下から現東京医大病院前の道を大久保駅方向へ約50メ-トル入ったところに親父の兄が住んでいる警察官舎を訪れた。叔父さんはびっくり仰天。昼飯(うどんの煮込み)を頂き、一服したところで「直ぐに家に帰りなさい」といわれ、約2時間半かけて帰宅した。筆者の長距離サイクリングの始まりである。以下、サイクリング歴と最近の状況を記した。

〖長距離走破〗

以来、著者は70年のサイクリング歴を持つ。現在。愛用する自転車は20数年前に吉祥寺の井之頭通りにあった「東京サイクリングセンタ-」製作のオ-ダ-メイドファ-ZPHER)」である。当時、21万円ほどでした。注文時、メイジャ-で肩幅、股下などを採寸し、組み立てた。

これまでの最長サイクリングは60歳頃、3日が連続して240km走った。コ-ス-は自宅から調布経由で多摩川を向かって左岸を狛江へ。右岸を二子玉川まで、橋を渡り左岸を出て、川を離れ、田園調布を通り、右岸には川崎市が見える。キヤノンの高層ビルを左手に見える。暫く行くと、箱根駅伝で有名な六郷橋を渡り、川崎市内に入る。川崎大師、石油プラントが林立する異様な臭気を吸い川崎市工業地帯を通り抜ける。

行き止まりの川崎市の管理埠頭まで武蔵境から約40km、往復80km、3日間続けて240km走破した。「ゼファ-(ZPHER)」は長時間乗っても疲れない。人間工学的に造られた。先日、武蔵野市立境南小学校校門(卒業時正門)の前にある田崎自転車店でオ-バ-ホ-ルした(機械のメンテナンス)。早速、67年前に旋盤工として働いていた当時の杉並区堀之内2丁目付近まで走行した(片道約15km)。

 

〖走行行程〗

(井之頭通り)
2023年2月12日、午前10時頃出発、三鷹駅前を通り、玉川上水に沿って万助橋を渡り、井之頭文化園前を通り、右折して坂を下り、公園の池を東に向かい、京王井の頭線の井の頭公園駅手前の坂を上がると、井之頭通りにぶつかり、右折し、東に向かって走る。近くに「東京サイクリングセンタ-」のあった前を通り、直ぐ杉並区松庵の表記が確認できる。さらに東へ向かう。自転車は実に滑らかに走る。前輪・後輪にたっぷりグリスを入れたせいかもしれない。主軸も一回り大きなベアリングが入っている。

著者はグ-グルマップを使用しない。不明点があると、昔の記憶と歩いている人に道を尋ねる。やがて、左に高井戸警察署が見える。右側を見ると、府中市が起点の「人見街道」が井之頭通りと交差する。環状8号線(環8)の高架下をくぐる。暫くすると、西永福に入り、左折し東へ向かう。真正面に「高千穂商科大学」が見え、急坂を下りると、善福川にぶつかり、橋を渡って、川沿いにそって東に向かう。5分程走ると、大宮神社の前に着く。大きな鳥居をくぐり本殿まで約200メ-トル歩き、本殿の前で“健康維持を祈願”する。多くの善男善女が訪れる。近くにある「杉並区歴史博物館」の古き門を潜り抜けると、本館がみえ、入場料100円払い約30分見学する。
杉並区大宮八幡宮








大宮八幡宮
出典:「大宮八幡宮

杉並区郷土博物館






郷土博物館
出典:「杉並区


(町工場)

善福寺川を東に向かうこと約5分環状7号線に突き当たる。左折し、坂を上がると、右手に立正佼成会本部の円形の建物が見える。さらに東に行くと右手に豪壮な「佼成病院」が見える-この左手前あたりに67年前に著者が旋盤工として働いた町工場「久保製作所」があった。今は高層のマンションが建っていた。中学校を卒業して16歳で世間に放り出された心境は特に酷いものでなかった。5人兄弟の長男として、一心にお袋(1920年生まれ<大正9年>)を支援するためである。
佼成病院




佼成病院
出典:「佼成病院


町工場で、8時から5時まで油の沁みついた作業服を着て約半年間無我夢中で仕事をした。経営者は60歳前後で、いつも無精髯で、少し白いものが混じり、歳の割には老けて見えた。家族4人の全員参加の街工場であった。しかし、不器用な筆者は半年で辞めた。今では、当時の町工場がある風景はなくなり、高層のマンションが立ち並ぶ風景となった。“ふと自分を立ち戻る環境”は、ここには今はなくなった。

(堀之内)

環七を高円寺方向に走ると堀之内(参照)となり、多くの人々が寺町となった妙法寺(日蓮宗/やくよけ祖師本山)に老若男女の人達が山門くぐり本堂の前でお祈りをしている。考えると、67年前にはこのような雰囲気がなかった。お寺の門前には環7はなく、欅(けやき)の林の中を通り、本堂の屋代があり、筆者も通勤・退勤の折には時々参拝していた。
堀之内妙法寺







堀之内妙法寺
祖師堂
出典:「堀之内妙法寺


結局、67年前にあった2つの宗教法人は現在も顕在し、発展を続けている。一時休憩した後、ぺダルに力が入る。メ-タを見ると、時速25kmであった。やがて「蚕糸試験所」跡を見ながら環7と青梅街道が交わる高円寺陸橋の地点を左折し、南阿佐ヶ谷、荻窪方向へ約15分走行する。

(参 照)

・「堀之内」は江戸から近く、町民の参詣場所として名高い。落語の(堀之内)は、古典落語の演目の一つ。ひとりの粗忽もの、自分の粗忽(あわてもの)を直したくて、おかみさんに相談すると、お祖師さまに願掛けをすれば良いと勧められる。そこで、出かけたのは江戸から近い堀之内のお祖本山「妙法寺」である。この粗忽(あわてもの)を主人公とした小咄(こばなし)をいくつもつなげて一つにしたオムニバス形式の落語であるため、噺家によって最後までやらずに途中で下げる(終わる)。

・主人公の慌て者の熊五郎は道中道を間違えたり、自分がどこに行くのかを尋ねたりする。落ち着こうと他人の家に勝手に上がたり、あれこれ騒ぎ起こしながらようやく堀之内にたどり着く。賽銭箱に小銭を投げようとして財布ごと投げ込んだり、風呂敷の弁当を出そうとすると、おかみさんの腰巻に弁当包み、弁当のつもりが枕と、正にハチャメチャ。腹を立てながら帰宅して、かかあを鳴りつけるが、そこは隣の家だった。4代目三遊亭円遊、10代目桂文治、8代目橘家円蔵などが得意とする演目であった。

荻窪駅南口の前を通る。昔、都電の発着点があった。著者も数回、新宿淀橋前まで乗車したことがある。やがて、都電は廃止され、1962年(昭和37年)に地下鉄丸の内線が取って代わった。著者は同線を利用して、長い間、赤坂見附まで通勤していた。夏になると、駅も車両も冷房設備がなく、夏季期間はタオルが必需品であった。

(イソップ・メダカ店)

西荻窪駅手前荻窪よりに「イソップ」というお世辞にも綺麗な店(淡水魚店)とは言えない-多くの水槽の中には淡水魚が生き生きとして、こちらを見ている。著者は当店を訪れた際には数種類のメダカを購入していたが、そのうちには銀鮒、熊本産の大和しまドジョウ/いとモロッコなど)を買うようになった。ドジョウの種類13ある-時々、業者から時々前述のしまドジョウやいとモロッコがとれたという電話が入る。2日間かけてイソップ店に送ってくるという。著者が購入する時には1匹300から350円する-淡水魚は小さくて可愛い。

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出典:「ワイルド☆スターズ10-2ブログ

〖エピロ-グ〗

回は67年前の職場跡を見たくて自転車で武蔵境から片道15kmの距離を走行した。至極当然、67年前の職場はなく、高層のマンションになっていた。歳月は-人/もの/環境/風景を変えてしまう-当然と言えば当然である。日本は高度経済成長を果たした結果、バルブの時代が到来、日本人は大変高い月謝を払った。今や10年程のデフレが続く。2月19日付「日本経済新聞」によると、日本のGDPは世界第3位であるが、ドイツが猛追しているという。そのうち、インドにも!

自転車は歩き、車と違い、手軽に物見遊山できるという利点がある。加えて、体を鍛錬できるという効用もある。ツ-リング用の自転車なら無理する事はなく、1日30~50km走行できると思う。著者も今年8月には82歳を迎える。今のところ、著しく体力が落ちたという感じはない。できれば、90歳まで自転車で物見遊山をしたい。体力維持には自転車が最高である。

(グロ-バリゼ-ン研究所)所長 五十嵐正樹

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