江戸時代の農民の生涯(2)-家と財産-

2021年9月17日


〖プロロ-グ〗

「慶安御触書」(参照1)は、農民がぜいたくをして没落するのをふせぐために日常生活にまできびしい制限をしていた。士・農・工・商の身分制度は、幕藩体制の支配を維持し強固にするために、社会秩序を固定するためのものであった。この支配構造は260年の長きにわたって続いた。

幕藩体制を政治・経済的に支えていたのは“石高経済”であり、それを支えていたのは農民であった。先日96歳で亡くなった歴史学者色川大吉さんは民衆に光を当てた著述でも知られ、英雄や偉人、政治家らを追った歴史記述を-そんなの上澄みじゃないか-と言い放った。以下、当時の農民の<><財産>について、考えてみた。

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色川大吉さん
出典「朝日新聞デジタル

 
〖家    屋〗

(普請見舞)

江戸時代は通常、百姓が勝手に門などを造ることは許されず領主の許可が必要であった。許可なく門などを造れば村内の身分秩序に反する行動であった。家格の低い家が経済的に豊かになり、門などこしらえ、訴えられるという事例はしばしば確認できる。法令で危惧したように分家が門をこしらえ、本家と対立するということも考えられる。

このような家屋は身分を表象するものとして社会位置付いていた。この点を顕著に示すのが普請見舞(家を建築したことに対する経済援助)と家見(新築した住居を親しい人に見せる行事)であろう。文政5年(1822年)の事例を紹介すると、下小金井村の大久保家が家の建築を行った時の史料が残されている。

(家見覚書)

<米が普通>

同村の他、上小金井・梶野・貫井村などの周辺の村人も含めて53名が普請見舞として物品を贈与した。物品とは酒1~2升、縄5~20房、桶竹1把、茅2駄、茶1笊、小手縄10~20房などである。酒は祝儀には一般的なものであり、縄は農家が藁(わら)を縒り合わせて作る夜なべ仕事の代表的な物であった。

大久保家11月27日に家見を行った。「家見覚書」をみると、家見の祝儀は前月の10月から翌年の正月まで29名が米などを届けている。持ち寄った物はほとんどが米で1升から2升が普通であった。中には高価な鰹節(2人)、銭200文(1人)・酒1升(2人)するものもいた。

(財産内容)
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武蔵小金井駅
出典「Wikipedia


<17両3分>

江戸時代は平穏な時代であった。庶民の生活においても必要な家財道具は増えている。事例をみると、嘉永2年(1849年)2月27日、関野新田において百姓が没落し、家財・財産が入札にかけられた。ここで処分された物品は実に112品もあった。金額の総額は17両3分弐朱ト銭653文。「家」そのものは梶野新田の勘次郎が6両で落札した。その他は「仏段(壇)」(2朱ト銭400文)などの宗教的なものもあった。

<生活雑貨>

目立つのは生活雑貨である-「ゆとう」(湯桶)・「ほうろく」(焙烙)・「たばこぼん」(煙草盆)・「硯箱」・「火鉢」・「机」などが書き出されている。いずれも高価なものではないが、生活雑貨が充実していることがわかる。この処分の対象になった家がどのような家かは判断できないが、経済的には豊かな家であったと思われ、江戸時代の百姓はそれなりの家財道具をもっていた。

(盗   難)


<物持ち>
万延元年(1860年)9月25日、上小金井村の百姓増五郎の家に盗賊が入った。増五郎の持高は10石余なので中程度の百姓であろう。盗られものは1尺3寸で鞘は黒塗、柄は鮫黒糸巻拵(こしらえ)脇差1腰、花色木綿の女袷(あわせ)1つ、風呂敷1つであった。

文久2年(1862年)4月5日、上小金井村の百姓九兵衛宅に盗賊に入られた。久兵衛の持ち高は10石なので上層豊民とはいえないであろう。取られた物はまとめてみると、女綿入半纏(はんてん)2点、女袷2点、女綿入羽織2点、女古綿入れ1点、男帷子(からぴら)1点、女帯1点、女小立綿入れ1点である。その他「茜木綿・晒木綿手拭地・絞り切地類」が取り混ぜて30反程と「売溜銭」(うりだめぜに/売り上げた銭のたまったもの)がおよそ1点である。

<脇 差>

この衣類の多さに驚く。これは九兵衛が「荒物小切類」の商売をしていたからである。この点からも幕末期に衣料は民衆に幅広く浸透していたといえよう。また、盗難品を売ることが可能で、衣料市場が機能していたことがいえる。また、両家とも脇差が盗難にあって興味深い。江戸時代に脇差が庶民に広く普及していたことはすでに藤木久志の指摘がある(『刀狩り』)。脇差の所持は禁じられてはいなかった。

 

〖相   続〗

(新田開発)

家の相続は当主の隠居または死亡を契機とする。東北・北陸地方では隠居慣行が形成されておらず、
死に譲りが一般的であった。誰が家を継いだのであろうか。幕府や
諸藩の法制は長男子相続を建前にしているが、その杓子定規(しゃくしじょうぎ)な厳守をおしつけていない。領主の関心はあくまで貢租の源泉である百姓の家の維持にあった。従って、農民の家の相続の在り方は各地域の慣行にゆだねていた。

開発面からみると、江戸時代では17世紀になると、開発が進捗し、耕地が増えて、百姓の家では分家するものが多くなった。18世紀には開発も一段落して、長男(長子)の単独相続が一般化したとされる。相続形態は地域よって異なり、姉家督(性別に関係なく早く生まれた者に家督を継がされる)と末子相続(分割相続)が一般的となった。小金井の村は18世紀の初めに武蔵野新田が開発され、以後、大規模開発は見られなくなり、19世紀には長子単独相続が一般化したといえる。

(財産分与)

しかし、分家の事例もあった。嘉永3年(1850年)10月、梶野新田のある家では弟の分家に対する財産分与が、父親の思いに叶わず問題になっている。「近所親類」が相談し、この上兄綱吉に不取締があったなら、夫々畑株を兄弟で分けることが示されている。この史料は兄綱吉と「本家代兼親類」為五郎が「御親父様」に出したものである。相続にあたっては本家を頂点とした親類が大きく関与していることが判明する。また、相談にあたっては「近所」も影響力を行使している。機械的に長子単独相続が行われたわけではなく、場合によっては弟へ分割も行われたのである。

(次男以下)
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東小金井駅
出典「Wikipedia


しかし、次男以下はどのような状態だったのか。天保10年(1839年)7月の「関野新田右衛門婿養子取証文」、関野新田の旦右衛門は勝右衛門という人物を婿養子に迎えている。引請証人(保証人)は等々力村(世田谷区)の市左衛門・与市。男子がいない場合娘に婿を取って継がせることは江戸時代には珍しいことではなかった。

(跡相続)

では、娘もいない場合はどのようなるのであろうか。万延元年(1860年)4月、上小金井新田の要介は6石3斗8升3合の田畑を持っていたが、老衰を迎え、相続人にもいなかった。そこで、跡相続人が決まるまで田畑を上小金井の村役人に預けるという手段を取った。

このことは要助と彼の組合惣代・親類惣代、それに要助孫婿喜太郎が村役人に誓っている。喜太郎は年貢諸役と諸付き合いを引き受けている。それならば喜太郎が跡を継げば簡単のような気もするが、組合・親類と村役人の合意が必要だったのである。このように要助のような一家の筆頭者といえども田畑、つまり家を相続させることは難しかったことを窺わせる。

 

〖エピローグ〗

(普  遍)

人間は生存するには衣・食・住が必要である。それを維持・継続するにはお金が必要である-どの時代に生きる者として、共通の話題となる。老境に入ると、終活を求められる。現在の人々も同様の問題に直面する。この問題は人間にとってエンドレスなテ-マといえる。

 

(人生50年)

江戸時代の平均寿命は50歳である。現代人より30年も短かった(参照2)。どちらの人生が幸福だったか?は一概に比較できない。但し、近世の農民は、現代人よりも生き生きとしていた。人間の生きるための自然環境が整っていた。最近の若者は、自分の家を購入するには80歳までの住宅ロ-ン(頭金なし)を組む必要があることを聞いた。家・財産とは何かと考えてしまう。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(引用資料)

・田中圭一著「百姓の時代」、築摩書房、2001年11月20日

・「小金井市史」-通史編-編小金井市史編さん委員会、平成31年3月29日

・大藤 修著「近世村人のライフサイクル」、日本史リブレット39、山川出版社、2017年11月30日、1版6刷

・渡辺 尚著「百姓たちの幕末維新」、草思社、2017年4月10日、第1刷発行

・「東京新聞」<コラム・筆洗>2021年9月10日

(参  照)

(1)「慶安御触書」は、慶安2年(1649年)に幕府が農民統制ために発令された幕法とされている文書であるとされてきたが、慶安2年当時の原本が見つからない事などからその存在が論議されるようになった。この原文は文政13年(1830年)に美濃岩村藩(現岐阜県恵那市岩村町)によって板行された御触書(一部分)で、百姓に対して贅沢を戒め、農業など家業に精を出すように求めた内容である。以下、一部分。

(原 文)

1公儀御法度を恐れ、地頭代官の事をおろそかに存ぜず、扨又名主組頭をば真の親とおもふべき事。

1名主組頭を仕る者、地頭代官之事を大切に存じ、年貢を能済し、公儀御法度を背かず、小百姓身もち能仕るようやうに申渡すべし、扨又手前の身上ならず、萬不作法に候へバ、小百姓に公儀御用の事申付候ても、あなどり用ひざるものに候間、身持をよく致し、不弁仕らざるやうに常々心がけ申しべき事

(口語訳)

1幕府をおそれ敬い、地頭代官の事を大切にし、さてまた、名主や組頭を真の親と思いなさい。

1名主組頭の者は、地頭代官の事を大切に思い、年貢をきちんと納入し、幕府に背かず。小百姓の生活をよくしていくようにしなさい。さてまた、自身の身の上がきちんとしておらず、すべてにおいて不作法であれば、小百姓に幕府の用務申し付けても、あなどられ命令を聞かないので、日頃からくらし方に気をつけ、困らないようにいつも心がけなさい。

(2)最近の報道によると、2019年の100歳以上高齢者が7万人を突破、そのうちが88.1%を女性が占める-日本の長寿化は女性がけん引!最高齢者は福岡市在住の田中カ子(かね)さん117歳(1904年生/明治37年生/日露戦争勃発)である。報告者の祖父が19歳の時に生まれている。

 

江戸時代の農民の生涯(1) 宗門人別帳

2021年9月5日


〖プロロ-グ〗

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江戸の農村
出典:「思い出してごらん、
あんなことあったでしょう


江戸時代・近世の人口は約3000万人と言われている。その中で85%が農民であり、以下、8%が武士、残りの7%は町人であった。幕府が「宗門人別帳」を作成した目的は(参照1)、キリシタン制圧のため、宗門改に基づいて作成された帳簿である。同時に戸籍簿としての役割も果たした。また、当時の人口動態、経済動態を調査する上で、有力な資料ともなった。

「宗門人別帳」は、農民の在所である檀那寺が管理している。農民の嫁入りや養子の為に在所を離れる場合、在所の檀那寺の帳面から抜いてもらい、移動先の檀那寺の帳面に書き加えてもらうものである。在所の名主が移動先の名主し宛てに書面で、名前、年齢などを書き入れ、当人に手渡し、移動先のお寺へ持参した。この「宗門人別帳」は、当人の生涯を保証するもので、農民にとって、極めて重要なものとなっている。

以下、境村と近接する小金井・梶野新田(現・梶野町)の「宗門人別帳」から当地の近世の農民の家族を調べた。

 

〖人別送状〗の事例

「人別送状」の実例-「銀次郎娘・とよ(21歳)の嫁入り」-(現・埼玉県寄居町)

▽解読分

・送り一札之の儀­/-百姓銀次郎娘・とよ弐拾壱才

・右之もの儀、坂井村伝七殿媒人を以、同村友次郎殿女房ニ差遣し処実証也、然上者当村人別相除き、其御村方宗門御帳面ニ御書始可被成候、尤銀次郎御法度宗門ニ者決無御座候、依而送り一札差出申当如件

・嘉永ニ年酉四月/牛奥大四郎知行所、武州男衾郡西古里村(現・埼玉県大里郡寄居町)名主・為一郎印より/坂井村村(現・埼玉県熊谷市)御役人の方々へ

 

▽現代語訳

・送り一札の事(戸籍を送り移します)/当村の百姓・銀次郎の娘・とよ21歳は、坂井村・伝七殿の仲人により、坂井村・友次郎殿の女房として嫁入りすることに間違いありません。然る上は当村の戸籍(宗門人別帳)から除いたので、御村方戸籍(宗門人別帳)にお書き加え下さい。もっとも銀次郎は禁制の宗派(キリシタン)では決してありません。よって送り一礼差し出すところ上記のとおりです。

嘉永ニ年酉四月/牛奥大四郎知行所 武州男衾郡西古里村(現・埼玉県大里郡寄居町)名主・為一郎印より/坂井村(現・埼玉県熊谷市)御役人の方々へ

 (出 所):古文書ネット

 

〖宗門人別帳〗(1)

 (概  況)

興味深いテ-マとして-武蔵境の先祖はどのような人々が住んでいたのであろうか。「武蔵野ふるさと歴史館だより」(6号)によると、境村の人びと-宗門人別書上帳・人別送状などより明らかにされている(武蔵野ふるさと歴史館 林 明日子氏論文)(注1)。この論文の資料源は、武蔵野市指定文化財の「秋本家文書」である。その内容を以下に紹介する。

境村は大きく分けて延宝6年(1678年)に最初の検地が行われたと境村(以下本村)と、元文元年(1736年)に開かれた境新田(以下新田)の二つの地域から成り立っている。また、「宗門人別書上帳」は、秋本家文書には文久2年(1862年)と文久3年(1863年)のもの2冊が残されているが、見比べると1年という短期間に多くの変化があり興味深い。この2年分に記載されている村人は合計688人である。家数は本村:88軒、新田は35軒、計123軒である。一家族平均5.6人であった。

<家族紹介>

村内で最も人数の多い所帯は、金五郎家で、文久3年には13人という大家族であった。子供は4人で長男・次男にそれぞれ嫁がおり、孫も4人いる。持高は合計6石73升1合であった(参照2)。村の平均高を上回っているが、これだけの人数を養うには十分であったのか。

最も持高の高かったのは新田では、組頭・平野佐七家で合計47石43升4合、3世代10人家族で、他にも質屋・穀物・荒物・酒・醤油などの商いをしていた。持高が最も低い家は妻と3人の子供を抱える本村の5人家族で1升8合である。親子5人で1日分の持ち高で生活していた。ほぼ1年分の食糧をいかに調達していたのか・・・・。

境村名主・新倉熊次郎(46歳)は文久2年(1862年)に持高は11石95升7合である。翌文久3年には(1863年)1石9斗5升7合と、10石も持高が減少している-同年に発覚した熊次郎の「貯穀積立金遣込一件」の弁済が関係しているかもしれない。同事件については『武蔵野市史続資料編十三』巻末の森安彦氏による「解説」に詳しい。

新田の仙之助は文久3年71歳、息子家族5人、娘二人と同居で8人の大所帯であったが、安政6年(1859年)には荏原郡新井宿村・せん(12歳)を10年間の年季奉公に召し抱えている。持ち高は合計12石9斗6升、醤油業も営んであおり、余裕ある生活であったようである。他にも村内では農閑期に質屋や酒・荒物商売、木挽職(こびき/木材を大鋸で引き切る仕事)、ざる、桶屋、鍛冶屋などが営まれていた。

<年   齢>  

村内の最高齢は本村の市之丞の母・まさで、文久3年に81歳、4世代同居で9歳の曽孫もいる。まずは、安心な老後であったように思える。同年に同じく81歳を迎えるはずだった甚蔵は文久2年中に死去、息子の音(乙)次郎が43歳で跡を継いでいる。

最年少は文久2年1歳の本村の・松五郎家の狸次郎、新田・半次郎家の伴次郎など。ほかにも「宗門人別書上帳」発行後、出産・死失などがあった場合は貼紙で修正が加えられている。

文久3年に2歳、つまり1年間に生まれた新生児は、本村・新田合わせて19人、3歳の者も26人いる。5歳以下で死失した者は6人、少ないが、多産多死と言われる当時としては、生存率は比較的高いようである。

<縁   組>

本村の三五郎46歳)の妻・なつが文久2年に死去し、慶応4年(1868年)に後妻・すえが深大寺村より嫁入りしている。不幸にも三五郎は2年後の明治3年(1870年)11月に親類の病気見舞いに出かけた折、深大寺村の用水で水死している。すえの実家に立ち寄った帰りであろうか。

「人別送状」は、他に鈴木新田・小川村・上給付・上石神井・梶野新田・関前村・牟礼村・田無村・府中八幡宿・関野新田・戸倉新田・榎戸新田・上保谷村・上保谷新田・大丸村・是政村など、周辺地域との縁組が確認でき、遠くは下谷金杉上町(現・台東区)の名も見られる。

文久3年には本村・銀之助、妻・さだ、娘・ちよ、息子・伊喜蔵は4人家族であったが、慶応3年(1867年)には伊喜蔵が病死、銀之助はすでに死亡していたか、さだは・58歳の老齢を理由に小石川小原町の一橋家屋敷内・杉浦熊蔵に引き取られた。娘・ちよは、慶応3年に小川新田に移り、離れ離れとなった。

本村・卯之助の妻・ふみは文久3年19歳だが-3歳の時に番町2丁目の松平庄九郎配下・江沢啓之方から嫁入りしている。

嘉永7年(1854年)には一橋御広敷添番・田中六右衛門の孫娘・さくが本村・文左衛門の幼女となっている。江戸近郊の境村は農村であるが、江戸の武士階級とのつながりや縁組も散見される。

 

〖宗門人別帳〗(2)

 <家族構成>

小金井に残る「宗門人別帳」から家族構成を調べると(注2)-現小金井市梶野町(中央線東小金井駅北側<江戸時代梶野新田>)の明和4年(1767)から明治2年(1869年)までの102年間の「宗門人別帳」(編纂56編 19)の中から最古と最新のものを分析すると-

総人口198名(欠損があり、確認されてるのは192名)家数は35軒である。このうち①明和4年-夫婦または夫婦と子供から成り立つ家族が10軒、②それに夫婦に両親のうちどちらかが加わった家族10軒、③両親と息子夫婦が複数存在する家族6軒、④核家族に下男・下女が加わった家族が6軒、⑤独居家族の31歳男性が1軒、⑥不明2件であった。家族の平均人数は5.11人構成されており、11名、平均年齢は30.34歳

明治2年上小金井村の「宗門人別帳」(編纂50編)を見ると、総人口263名、家数48軒、①15軒、②14軒、③12軒、④3軒、⑤4軒、⑥0軒であった。⑤は老父のみが2軒、老母のみが2軒である。平均家族人数は5.48人、平均年齢29.76歳である。

以上検討してみると、江戸時代後期の典型的な家族は、夫婦を中心に子供・両親で構成される核家族であったことがわかる。奉公人が同居している場合は確認できるが、少数である。村の平均年齢は30歳前後とかなり若い。

 

〖エピローグ〗

速水氏は、旧美濃国八郡西条村(現在は岐阜県安八郡輪之内町)の安永2年(1773年)から明治2年(1869年)に至る97年間の「宗門人別帳」を分析した(注3)。「宗門人別帳」の」表題にも「美濃国安八郡楡俣村之内西条村」と書かれている。内容を紹介すると、通常の記載内容のほかに、世帯の持高、所持する家畜の種類、出稼ぎ中家族員の名前、年齢、奉公先の出稼期間、結婚などが記載されている。

農民の「宗門人別帳」は生涯の身分保証になった。当該村の治安維持・安定にとって、不可欠なものである。また、幕藩体制の維持のためにも重要であり、江戸時代が約260年続いた背景の一つでもある。「宗門人別帳」を重要であることを明らかにした。速水 融氏(はやみとおる/歴史人口学/日本経済史を専攻/文化賞勲章受賞)の功績は大きい。
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速水 融
出典:「好書好日


(グロ-バリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)「武蔵野ふるさと歴史館だより」(第6号)、12~15頁

(2)「小金井市史 通史編」、小金井市史編さん委員会、小金井市269~270頁

(3)速水 融著「江戸の農民生活史」、NHKブック555、日本放送出版協会、40-43頁

(参  照)

(1)江戸時代、キリスト制圧のため、宗門改に基づいて作成された帳簿。同時に戸籍簿としての役割を果たした。人別帳は戸籍簿であり。宗門改の結果を記した帳簿であり、本来は別々のものであった。人別帳にはその構成員の宗門を書き込んだので-帳となった。

(2)1石=150kg180リットル=米俵2.5俵 ですね。 ちなみに、大名領国の国力を石高で表しますが、戦国、大名がどのくらいの兵を動員できたかというと、 平均して 250/1万石 といわれます。 すなわち、100万石の大名なら最低でも25000人を動員できた ということです。

(資 料)

・森 安彦著「古文書が語る近世村人の一生」、(株)平凡社、1994年8月25日、初版

・田中圭著「百姓の江戸時代」、筑摩書房。2000年11月20日

・「中野区民生活史」(第1巻)、昭和57年9月30日          

江戸時代の農村の事件

2021年8月15日


〖プロロ-グ〗

・武蔵境駅南口の近くに「観音院」がある(既報「観音院の梵鐘」2021年6月24日)。本堂があり、向かって左側の通用門の近くに古びた石仏が20体ある。その中の一体がいかにも幸せそうに笑みを見せている。その外の4体は頬杖し、微笑ましい。多くは無表情である-まさに喜怒哀楽の世界である。中には享保3年(1718年)年と判読できるものもある-当時、八代将軍吉宗は、江戸市民の華美な衣服を禁じている。また、琉球使と引見している。この石仏は、言わば、現武蔵境住民の祖先に当たる-武州多摩郡境村・境新田である。

・江戸時代の農村の事件に関する資料が意外と少ないことが分かる。『武蔵野市史』(続資料編)の中を見ると、「村の事件」としての項目がある。内容を見ると-享保11年(1726年)7月14日~文久元年(1861年)12月3日までの132年間に22件を数える。その事件の内容については。興味を抱かせるものもある。但し、殺人のような凶悪犯罪は見当たらない。以下、「武蔵野市史」から抜粋した事件の内容である。

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観音院
出典:「武蔵境散歩道


〖事   件〗

1 宝暦4年4月6日(1754年) 八兵衛嫁誘拐につき詫(わび)一札

        「申し入れ置き一札の事」

拙者(私)の儀(事)、先だって、理不尽に付き貴殿の娵(嫁)を誘い出し隠し置き、其の分が露顕し、そのままにしておけないので、お願いのお差紙(代官所からの召喚状)を頂くために、松庵村太右衛門殿・同村与右衛門殿・平助殿・源五右衛門殿右の衆、御役所様迄、お出かけ下された。この度の義は何分にも拙者理不尽に致したので、仰せ聞き候上は、一言も申し開きはしない。

以来、相慎(つつしみ)右の躰(からだ)の不埒(ふらち)仕り間敷候、おそよの義は早速お引き取り下され、これより、右出入の為の路銀・雑用代として金子(きんす)5両拙者より差し出し、熟談仕り候上は、此の義に付き何にても申し分少々これ無し、なお、また右の女に付き怪敷義も御座候は、何時なりとも拙者の方へお懸りベくなり候、これにより一札申し置き処、件の如(くだんのごとし)。

宝暦4年戌(いぬ)4月6日

     吉祥寺村庄之助印

          関前村八兵衛殿

          組頭中

          名主中

右の通り拙者共に取り扱い申し候処(所)、何分にてお済忝けあり候、然る上以来、共に何の申し分け少なくも無し、御座候、以上。

      松庵村     太右衛門印

      吉祥寺村扱人 与右衛門印

      同        平  助印

      同        源右衛門印

 

1 天明3年12月(1783年) 囚人護送につき木銭請取証文 

「差上げ申す木銭請取証文の事」

・ 51文  木銭代(木賃)

・ 148文  白米代

・〆 203文 

右は御代官様のため御用、囚人1人差し備え当たり宿泊候に付き、書面の通り木銭(注1/きせん・きちん)、石代お払い受け取り候、尤も止宿(宿泊)は過分の事、後日のため、木銭の証文の件ごとし。

天明3年卯年12月  内藤新宿

                 御宿  善次郎印

                 問屋  畔蔵

              上保谷村

              関前新田  差添人中

(注):江戸時代、宿駅で客の持参した食料を煮炊きする薪代(木銭/木賃宿<きちんやど>)だけを受け取って宿泊させた。最も古い形式の旅宿。食事つきの旅籠(はたご)に対していう。

 

1 文化3年4月25日(1820年) 勘右衛門乱行につき差し出し一札

             「差出し申す一礼の事」  

関前村組頭勘右衛門は如何したであろうか、同所百姓の所へ鋸(のこぎり)を持ってきて理不尽に狼狽をしたのに付き、その旨、御名主へ申し立て所、村方お名主中御改めも無駄が多いので、御代官様まで駆け込み訴えをすると右又兵衛へ罷り出でた所、折から田無村の権右衛門殿に居合わせ、一足先に帰村するので、その意を任せ、又兵衛立ち返り、村方において扱い人立ち入り、双方共にしかと相ただすし意見差し加え、尤も格別の旨も無い、勘右衛門方より又兵衛方へこれまでの義(事)は沙汰におよばず、以来、きっと相慎みの一書認め(しため)、双方共にこの一件をお願いし、なお、役人・五人組まで扱い人一同連印し差し出し申し候、後の為に証しによって、件の如し

 文化3年寅4月25日        当村願人 又兵衛印

                   同所 相手勘右衛門印

                  同所 組合吉右衛門印

                  同村 同市右衛門印

                  同所 組頭伝七印

                  同所 扱人磯右衛門印

                  田無村扱人権右衛門印  

                  同所扱人 久米右儀印

           御名主  忠左衛門殿

 

1 文政12年2月27日(1829年) 無宿清次郎 逮捕の上召し連れにつき訴書

「恐れながら書付以て奉り申し上げ候」

武州多摩郡関前村百姓市左衛門が病気なので代わりに倅六之助・村役人惣代名主忠左衛門奉り申し上げ候、市左衛門の儀、家は8人暮らしで、農業を営んでいる。昨26日夜同人、その外の共は寝ており、六之助は用事があり、隣家へ罷り出で同夜四つ時(午後10時)過ぎ、立ち返った。

燈火を消したが、物音がしたので、様子を窺っていたところ、盗賊が押し入り、金子(きんす)を“差し出せ”と親市左衛門へ言った。盗賊は3人で、表口より、逃げ出した。追々近隣の者共に追いかけたが、2人は逃げ去り行方が分からない。1人を取り押さえ縄をかけ、尋ねたところ、無宿清二郎というものであった。金子を借りたいと3人で申し合わせ押し入ったと。外2人の名前等は不問、家の中を調べたが、紛失の品・怪我致しものはなかった、これにより右縄をかけ召し連れお訴え申し上げます。

              武州多摩郡関前村百姓市左衛門に付き代

              倅六之助

   文政12年丑2月27日

                                   村役人惣代名主忠左衛門

平岩右膳様  

        御役所(御代官)

田無村扱人権右衛門印  

                  同所扱人 久米右儀印

                  御名主  忠左衛門殿

 

1 文政12年2月晦日(みそか)清次郎入牢に付き赦免願書

 (端書/はしがき)

    「西久保村源勝寺御支配様へ御慈悲願い」

「恐れながら書付奉り願い上候」

武州多摩郡西久保村一向宗源照寺 御支配様へ御慈悲願い恐れながら書付奉り願い上候、元飯田町出生清次郎と申す者、同郡関前村より御差出に相成り、入牢仰せ付候、趣き承知仕り奉り恐れ入り候、然る処、右清次郎義は当村年寄り平蔵方に罷り在り候者にて兼ねて智人にて候処。

平日、悪事致し候義は勿論怪しき風聞も承り申さず、その上、病身の者にて嘆げかわしく奉りあり候間、何卒、格別の義を以て、御吟味相済候上は身分御引渡しに相成り候様仰せ付ける度、何卒、格別の哀れみを以ってこの上御慈悲以てお沙汰幾重にも奉り願い上候。

      武州多摩郡西久保村一向宗源照寺

文政12年丑年2月大晦日 平岩右膳様 

                                               御役所

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源照寺
出典:「猫の足あと


〖エピロ-グ〗

江戸時代の犯科帳をみると、江戸市中の犯罪が多発していることが分かる。その背景の一つに江戸には100万人(一時浪人が溢れていた)が住んでいた。生きることは人々の間に多くの利害得失(摩擦)が生まれ、犯罪を誘発した。

観音院には境村・境新田(古くは出雲新田)の開発者であった保谷三右衛門(下田)の追善供養にために建立された「観音院の来迎阿弥陀如来像」(武蔵野市指定有形文化財)がある。天和2年(1682年)に出雲新田(境新田・境村)を開発した。

境村・境新田に居住していたのは農民であった。生活上に起因するトラブルは多くあったが、大事に至らず済んだ。そこには村方三役(名主・組頭・百姓代)の連携により犯罪を未然に防いだことが要因として挙げられる。

観音院の古い墓石の多くが境村・境新田の農民であった-多くの墓誌を見ると、元禄時代の後期のものが多い。現在もその子孫が住んでおり、脈々と家が受け継がれている-報告者は近くにある「武蔵野市立境南小学校」の第2回生(昭和29年度卒業/1954年)である-多くの級友達の先祖は、既述の開発者である。

   (グロ-バリゼ-ション研究所)所長  五十嵐正樹

(引用資料)

(1)「武蔵野市史」、資料編 武蔵野市、平成5年3月発行

(2)「日本史年表」 編集東京学芸大学・日本史研究史、東京堂出版、昭和50年6月10日

(参考資料)

(1)渡辺尚志著「百姓の力」-江戸時代から見える日本、柏書房、2008年5月25日

(2)樋口秀雄著「続・江戸の犯科帳」(株)人物往来社、昭和38年5月20日

(3)大石慎三郎著「江戸時代」中央公論社、中公新書476、1977年8月25日

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