2012年03月

年内にも就役が予定されるワリヤーグ空母


2012年3月27日


 海外の多くの軍事専門誌は昨年の11月、中国はロシアから「ワリヤーグ」号が艦搭載機の着陸用に必要とするアスレティングワイヤ装置を購入していないので、困難に直面している、と報じていた。だが中国国防部報道官楊宇軍(Yang Yujun)は昨年12月28日の定例記者会見時
中国の空母甲板の試験航行について、以下の如く述べている。


   前の段階で行った試験航行は、全て初期の効果を達成した。現在、計画に沿って後続の科学研究・試験を行っている。空母甲板の科学研究・試験は長期的プロセスであり、必要に基づき今後とも海洋での科学研究・試験及び訓練を行うということを強調しておく必要がある。またロシアが艦載機の機体制動用アスレティングワイヤの中国への販売を拒否したとの外国メディアの報道は、全く根拠がない。中国の空母甲板上の主要装備は、アスレティングワイヤを含め全て独自で開発したものだ。


 この発言から見ると、上述の問題は全て解決済みであると言うことになる。中国の初空母「ワリヤーグ」号は、ロシアの現役空母“クズネツォフ号”(満載排水量:58,500トン)の昇級版である。ワリヤーグ空母のトン数及び甲板長は、“クズネツォフ号”より大きい。ワリヤーグの満載排水量は、67,000トンに達する。「ワリヤーグ」号は米国空母を除き世界最大の空母である。その戦力は、アジアで首位を維持している米国空母に次ぐものである。


「ワリヤーグ」号甲板に出現した艦搭載機

3月2日付朝鮮日報は、中国が自主開発した殱-15(J-15)艦搭載機が中国の初代空母「ワリヤーグ」号の甲板上に出現したと報じた。当時「ワリヤーグ」号は、大連造船工場に停泊していた。伝えられるところではこれら写真は、中国のある軍事愛好家が2月28日に大連造船工場付近で撮影したもので、甲板上には、更に直-8Z-8)ヘリコプターに類似したモデル機が駐機していたと言う。1_0327


中国メディアは、甲板上の艦搭載機×2機は、甲板上での訓練の為のモデル機だと言う。また一説には、「ワリヤーグ」号の甲板労働者に艦搭載機の積み下ろし訓練を行う為にモデル機を設置したものだと言う。だがある軍事専門家は、甲板上での訓練は陸上でも実施出来るもので、この2機の艦載機は海上での離発着訓練用の実用戦闘機の可能性が高いと見ている。以前空軍パイロットであった北京の軍事消息筋は、若し甲板上での訓練用のモデル機と言うのであれば、鈍重なモデル機を甲板上に搬出する必要はない。これまで陸地の模擬訓練場で、艦載機の離発着訓練を行ってきたことから、今回は海面上での訓練を行うと見られる、と述べた。

 「ワリヤーグ」号が昨年の8月最初の公海に出て、今年の1月までに4回の試験航海に出ている。伝えられるところでは、今年3月に更に第5次、第6次の試験航海が予定されている。専門家は、この第5次、第6次の航海時に「ワリヤーグ」号が進水以来、初めての艦搭載機の離発着訓練を行うものと見ている。

 中国は今迄論議の的となっていたアスレティングワイヤの技術を収得済みであると言う。海外の多くの軍事専門誌は昨年の11月、中国はロシアから、「ワリヤーグ」号が艦搭載機用に必要とするアスレティングワイヤ装置を購入していないので、困難に直面していると報じていた。だが、中国国防部報道官楊宇軍(Yang Yujun)が昨年の12月定例の記者会見時の発言はこれを全く否定するものである。この発言から見ると、上述の問題は全て解決済みであると言うことになる。


J-15
戦闘機

 J-15戦闘機はロシアのSu-33艦搭載機をモデルとして自主買開発した戦闘機で、2009年には試作機を生産している。

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-8AEW

J-15戦闘機と並んでワリヤーグ号に搭乗されていたとされる-8Z-8)ヘリコプターに類似したモデル機は、ロシアの軍事情報サイト「Russian Military News」が昨年(2011年4月8日)掲載した輸送ヘリコプター「Z-8」であろうと推定される。この輸送ヘリには、レーダー探知とコントロールシステムの外部アンテナを搭載している可能性があり、ロシアから輸入した早期警戒ヘリコプター「Ka-31」をベースに開発されたものである。この早期警戒ヘリコプターZ-8AEWは、中国初の航空母艦に配備されるものと見られる。同サイトは、これはロシアにとって非常に重大なニュースだと伝え、国産の早期警戒ヘリコプターが生産できるようになったとすれば、中国は今後、ロシアから「Ka-31」を調達しなくなる可能性があると報道していた。

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「ワリヤーグ」号甲板上のアスレティングワイヤ

 米民間衛星会社デジタルブログは1214日、黄海を試験航海中の中国空母の写真を公開した。「ワリヤーグ」号を真上から撮影した画像として極めて重要な写真である。撮影日は128日で、公開前に専門家が画像を精査したと言う。だがこの写真からはアスレティングワイヤが確認できなかった。このことから、ワリヤーグ空母の就役時期に大きな疑問が生起していた。楊報道官の発言はこの推測を真っ向から否定するものであるが、既に「ワリヤーグ」号に同ワイヤ-が装着済みかどうかは未確認である。

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「ワリヤーグ」号空母の防空能力

 FL-3000N短距離防空ミサイル

ワリヤーグ空母の防空能力は米、国のニミッツ級空母を凌いでいる。ワリヤーグは海紅旗10ミサイル(HQ-10)×3基を装備している。海HQ-10の輸出型はFL-3000N短距離艦対空システムである。対艦ミサイルを捕捉できるFL-3000Nは24発のミサイルを保有している。ワリヤーグはHQ-10を18発保有しているだけである。その射程を延伸したことから、海上、空中及び陸地からの対艦ミサイルの一斉攻撃にも対抗出来る。HQ-10は、超音速で海上表面上を飛来する対艦ミサイルにも有効である。


1130近接防空システム

この他に「ワリヤーグ」号は1130近接防空システム×3基を保有している。中国の730型近接防空機関砲は、米軍も日米の密集陣地防空砲より優れていると認めている。1130は、730の改良版である。1分間の発射速度は1万発に達する。形成する弾幕は広大で密閉度が大であるので空母の安全性を有効に維持できる。1130近接防空システムは現在世界最強の近接防御砲である。



「ワリヤーグ」号の攻撃能力

次いで攻撃能力面では、空母の攻撃力の大小は、搭載機の数量とその質によって決定される。明らかにされた情報によれば、ワリヤーグの甲板上にはJ-15戦闘機×16機を駐機できる。この駐機数は、甲板上の飛行機の離発着時の障害を防止するためである。そうでなければ、より多くの飛行機を駐機できる。厄介なP700“グラニート”(花崗岩)対艦ミサイルNATO SSN19" Shipwreck"の搭載を取り止めたため、ワリヤーグの格納庫は、1/4増加し5,500平方メートルとなった。維持補修空間を持つようになってから、J-15戦闘機の搭載機数は22機となり、艦搭載全戦闘機数は、38機以上となった。更に米国製E-2級の他の早期警戒機(暫定的にKa-31或いはJ-8ヘリ機で代替え)×5機、Ka-28対潜ヘリ及びL-15艦搭載練習機×16機の搭載が可能である。この搭載機数は、米国のニクソン級空母の戦闘機×48機、早期警戒機×5機、ヘリ×12機、電子擾乱機×4機の配備基準に非常に近い。フランスの原子力空母「シャルル・ドゴール」(満載排水量:42,000トン)は、最大で22機の戦闘機を搭載出来る。ロシアの「クズネツォフ号空母」(満載排水量58,500トン)の最多搭載機数は22機であることから、ワリヤーグの戦力はロシア空母より遥かに強力である。


海軍試験訓練センター

下図は漢和防務評論(2010年10月号)が公表した葫芦島興城に建設した海軍試験訓練センターの衛星写真である。恐らくこの試験センターでは、既にアスレティングワイヤの設備が完成し、陸上での離発着訓練が行われていた可能性が高い。

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ウクライナによるウクライナ国籍ロシア人の逮捕と中国のニトカ技術の習得

20112月、ウクライナの主要メディアの報道は、ロシア、KDRに強烈な関心を引き起こした。ウクライナ連邦安全局がウクライナ国籍のロシア人を逮捕したからだ。その罪名は、ロシア海軍試験飛行訓練センターニトカ(NITKA)の技術資料を違法に中国に売り渡したというものである。この事案は現在もなお審理中である。報道では、ウクライナは中国にどのような技術を売却したのか、いつ売ったのか、更には設計図を売却したのかどうか、これ等は一切明らかにされていない。

 若しも筆者の判断が正しければ、中国が最も入手を希望していたものは、ニトカの陸上のアスレティングワイヤ、甲板下変速機技術である。遼寧省胡蘆島に建設した中国版ニトカ海軍試験飛行員訓練センターのスキージャンプ台は、ニトカのそれと完全に一致する。このことから、中国が当時から入手していた可能性が高い。何故長さが全て60メートルで、底部の広さが30メートル、ジャンプ台の最高位の幅が20メートルなのか?ジャンプ台の支柱数すら、何故38個なのか? ここから得られる回答は、中国人はニトカを熟知していたことだ。

 このことが20112月にウクライナ連邦安全局が中国スパイを逮捕した事件の背景であろう。

 ニトカの最も核心的技術は、当然のことながら降着補助装置である。これには、アスレティングワイヤ(阻止縄)、甲板下変速機、コンピュータ制御センター、阻止綱鋼材が含まれている。最後の鋼材はその質が最も重要で,その強度要求は厳格である。中国はこれら鍵となる技術資料を入手していた可能性が高い。問題なのは鋼材の材質である。現在同類の特殊鋼材を生産出来る国家は、米国とロシアだけであると見られていたことから、中国がこの問題を解決していたのであれば、その技術力の高さを再評価しなければならない。


「ワリヤーグ」号の就役時期と
後続空母の建造

 中国の人民代表大会代表、海軍副司令官徐洪猛(Xu Hongmeng)は、「現在空母の試験航海は極めて順調で、艦搭載機の試験もこの試験航海の中に含まれている。本空母は、今年の就役が見込まれている。このことは中国空母が甲板試験終了次第、いつでも就役が可能となることを示している。このことが最も権威ある説明であると述べた。更に、徐向前(Xu Xianquan)元帥の息子である全国人民代表徐小岩(Xu Xiaoyan)中将(総装備部科学技術委員会前副主任)は、中国には1隻の空母があれば十分なのかとの問いに対しては、「絶対に足りない」、3乃至4隻は必要だ。更に三大艦隊にどのように空母を配置するのかとの質問に対し、徐小岩は各艦隊が自己の空母艦隊を持つべきだ、と述べていることから、後続の空母の建造開始は予想以上に早いことが見込まれる。また「ワリヤーグ」号空母が原子力動力の搭載をも考慮した設計になっていると言われることから、電磁カタパルトの採用も視野に入れた原子力空母の建造にも関心が持たれる。 

中国軍事問題研究家 田中三郎

日本を飛び出した日本人たち (2) :鈴江言一

2012年3月26日

 戦前の日本で、中国の市井にドップリと漬かりながら中国の政治と社会とヒトの行く末に思いを致していた日本人を挙げろといわれれば五七五七七調で、つじちょうか・たちばなしらき・きたいっき・なかえうしきち・すずえげんいち(辻聴花・橘樸・北一輝・中江丑吉・鈴江言一)と5人を挙げたい。もちろん彼らの思想信条には違いがあり、それぞれに納得できる点もできない点もある。だが、5人それぞれの生き方には頭が下がる。

 鈴江は1894(明治24)年に島根県に生まれる。衆議院議の父親の事業が倒産したことで、一家の生活はどん底に。車夫をしながら明治大学に通うが、1919年には北京に。以後、北京での生活が続く。鈴江と深く関わりあった人物を挙げてみると、石田英一郎、渡邊政之輔、佐野学、鍋山貞親、尾崎秀美、アグネス・スメドレー、風間丈吉など――まさにコミンテルン人脈だ。時に鈴江は、「コミンテルン上海極東局・秦貞一」「コミンテルン使者・劉」を名乗って日本にやって来ては日本共産党の幹部と秘密裏に接触していたというから、「鈴江の擬装」の見事さと、彼の活動の裏側が浮かび上がってくるだろう。つまり鈴江は日本人でありながら中国共産党の一員として、中国革命に挺身していたのである。

 死の床で鈴江は、「私の私行だけが分かっていて、其他の事が分かっていないのは面白いな。」と語っていたとのことだが、半ば「其他の事が分かっていな」がら、鈴江の人物を見込み、北京における経済上の援助を与えていたのが当時の外務省親米派の重鎮で後に首相を務めた吉田茂であり、鈴江と同郷で島根出身の「北京領事館巡査石橋丑雄」だった。

 吉田や石橋と鈴江の関係を『鈴江言一伝』では、「その吉田も石橋も知らん顔して、鈴江のことを『人物は確かで』とか『思想穏健』とかいっている。あるいは外務省の青年官吏諸公すら、鈴江の書いたものを読んで百も承知の上で、面白いやらせて見せろ、ということであったかもしれない」と記し、改めて「人はこのような話を浪花節的といって嫌うかも知れない。ことに、戦争中、中国人に向かって一所懸命日本文化を再認識せよ、認識不足を改めよと叫んだ『愛国者』や、戦後はまたどうしても、世界中をきっちりと帝国主義の側と人民の側とに色分けせずにはおれぬ『正義の士』にとっては、右のような話(鈴江と吉田、石橋、それに「青年官吏諸公」との関係)は歴史の流れと何の関係もないつまらない些事であろう。ところが筆者たちにはこのような話が『人間』の機微を衝いているようでまことに楽しいのである。」と微笑ましく捉え、「鈴江のことばを借りれば、歴史に『講談味のない』のはまったくつまらない」と閉じている。
 北京生活もだいぶ板について来た1923(大正十二)年頃から、京劇小屋に日参し、自ら京胡を手に稽古に励み、京劇にのめり込み、戯狂(しばいくるい)への路を歩みだした。

同じ北京住まいとして鈴江を物心両面から支えたのが、中江兆民遺児の丑吉だ。中江丑吉が遺した中国古代思想に関する膨大な遺稿整理を、鈴江は死の間際まで気にかけていたという。日本敗戦に先立つことちょうど5ヶ月。1945315日死去。北京の日本人墓地の中江の傍らに、5月に建碑。「鈴江言一碑」の5文字を揮毫したのは、毛沢東も鄭重に遇したほどの20世紀中国を代表する画家の斉白石だった。ここからも、鈴江の北京生活が浮かんでくる。彼の地での日々は、さぞかし愉快だったに相違ない。代表的な著作に『孫文伝』『中国解放闘争史』(後に『中国無産階級運動史』と改題)『中国革命の階級対立』。 

 燕都・北京を舞台に「講談味」に溢れた人生を送った鈴江を深く記憶に留めておきたい。

★『鈴江言一伝』(衛藤瀋吉・許淑真 東京大学出版会 1984年)

愛知大学現代中国学部教授 樋泉 克夫

歴史上の人物に接して

2012年3月26日


・昨年10月頃、筆者は賑わう麻布十番街を通り抜け急な坂道を上りつめた所にある佐賀藩・鍋島家の菩提寺・賢崇寺(けんそうじ)に眠る辰巳栄一氏の墓に詣で、花を手向けた。というのは、同氏が偕行社会長に在任中(197578)にお会いする機会があり、多くの示唆に富む話をしていただき、今でもその教訓は私の仕事に生かされており、そのお礼をするため墓前に罷り出たのである。

辰巳栄一氏は佐賀出身の旧軍の超エリート(中将)<1895-1988>で、戦後まもない宰相吉田茂が重用した二人のうちの一人で「影の参謀」と言われ、片や白洲次郎<1902-1985>で「経済の密使」として、吉田内閣を影で支えていた。白洲次郎はいうまでもないが、辰巳栄一氏を歴史の表舞台に登場させたのは、産経新聞が2010年に長期連載した「歴史に消えた参謀」(特別記者湯浅博)である。その後、1冊の本として上梓(2011730)された。

・辰巳栄一氏について、田久保忠衛氏と辰巳は武官補佐官として2度の戦前のロンドン大使館に勤務し、駐英大使だった吉田、更に白洲次郎と人間的に深い結びつきができていた。感情的に陸軍嫌いであった吉田と冷静な国際情報分析を重んじた辰巳は、日独伊三国同盟に反対する。とりわけドイツ信奉者ともいうべき同盟推進派は圧倒的だった参謀本部に屈しなかった辰巳の姿勢を著者(湯浅博)は同情的に活写していると評している「産経新聞」(2011731日付)。また、櫻井よしこ氏も「英米との協調路線を重視、ドイツ派の前で孤軍奮闘する辰巳の姿に、私は祖国の生き残りの道を必死に模索する、広い視野を持った愛国者の姿を見る」と評している「桜井よしこホ-ムペイジ」(201184)

・辰巳栄一氏は筆者が勤務する事務所に時々来ら、その際お目にかかった。当時、辰巳氏は80歳前後で、偕行社の会長をしていた。筆者は30代半ばで、中国経済を専門にしていた。辰巳氏は訪問時、事前の連絡もなしで、ドアーを開けると、開口一番“いやいやご無沙汰でした”と、入って来られた。いつものようにグレーのつまみ帽子と腕に抱えた茶色のカバン、高価なネクタイと背広を着て、古びたソファーに座られた。辰巳氏は旧軍人を彷彿させるように眼光鋭く、口元は真一文字に結び、小柄ながら立派な福耳であった。まず、お茶を飲みながら、「五十嵐君、最近の中国情勢はどうですか。」と聞かれ、日本の政治情勢や世相についても質問された。筆者は失礼のないように質問に答えたが、言葉が聞き取れないと、手を耳にあてて、しかっり聞いておられた。時折頷き、特にコメントはなく、聞き上手な人であった。また、はっきり覚えていたことがある。ある日、毛筆で書かれた吉田茂の直書(巻紙)を見せてくれたことがある。内容について説明してくれたが、憶えていない。

・今から考えると、筆者は辰巳氏については不勉強であったがために、同氏が旧軍のエリートであり、吉田茂のアドバイザ-であった程度の認識しか持ち合わせていなかった。よもや日本の命運を左右する立場に戦前、戦後を通じてあったことを知ったのは「歴史に消えた参謀」を読んでからである。残念でならないのは、往時の同氏の考え方などを聞くことができなかったことだ。しかし、“影の参謀”に徹していたことから話を聞くことは所詮無理なことであったにちがいない。

 最後に同著によると日米開戦時、ロンドンの日本大使館の駐英武官、辰巳栄一少将は約8カ月、英国当局に軟禁されていた。その間、同氏は、現地紙「タイムズ」などを読み下し、必死でBBC放送を聞き分けていたと・・。この時代に情報将官のたぐい稀なる英語力と、グロ-バルな分析力にはただ驚くばかりあると、記している。 ()

<グロ-バリゼ-ション研究所代表 五十嵐正樹>

日本を飛び出した日本人たち(1):河原操子

                                                                                               2012年3月16日

「明治三十三年の夏、長野県の県立高等女学校に職を奉ぜし時のことなりき。宿痾漸く癒えて、身は再び自然の健康を楽しみ得るに至ると共に、厚き氷の下に暫く閉じ込められし我が宿志、即ち清国の女子教育に従事したしとの希望は、暖き春の光に浴せし草木のごとく萠えそめぬ」。かくて河原操子は運命の糸に引かれるように上海を経てカラチンへ。その先に待っていたのはニューヨークだった。

 明治教育界の重鎮である下田歌子の知遇をえた操子は、横浜の華僑子弟が学ぶ大同学校を経て上海へ向かった。「純然たる女子教育の目的を以って設立せられ、東洋人の手で経営」される清国最初の女学校である上海務本女学堂へ奉職する。その折の操子の異文化体験の1つは、「休憩時間には、我は率先して運動場に出で、生徒をしてなるべく活発に運動せしむる様に努めた」が、「多年の因襲の結果としての」纏足から「思うままに運動する能わざるは気の毒なりき」。よろよろと歩かざるをえない上海務本女学堂の女子生徒らは、「されば大なる我が足、といいても普通なるが、彼等には羨望の目標となりしもおかしかりき」。

 やがて「明治三十六年十一月ニ十二日、空は隈なく晴れて、塵ばかりの雲もなきに、かしま立ちする心も勇みぬ」と上海を離れる。塘古、北京を経て最終目的地カラチンへ。

 「カラチンはいずこ、北京の東北にあり。途中の旅に九日ばかり要すべしと。(中略)長城以北の宿りは天幕にもやあらん、あるいは馬賊の難あらんも測られじなど、問えば問うほど気づかわしさの増す答のみにて、かよわき女の身には恐ろしくさえなりたり」。だが「恐ろしいといい不安に感じて躊躇するは、無事太平の世に於いての事、今わが故国は、二千数百年來未だ曽てなき重大の時期に臨み、まことに国家興亡の秋なりと聞」かばこそ、固い決意を秘め、操子は旅立つ。

日露関係は極度に緊迫の度を加える。カラチンでは日露双方の熾烈な諜報工作や後方撹乱戦が展開されていた。もちろん操子もまた日本側工作の後方支援に努めたが、その一方で内蒙古カラチン王府の教育顧問として王妃の助力の下に内蒙古最初の女子教育機関である毓正女学堂の経営に当った。第一期生は「王妹及び後宮の侍女と、王府付近に居住せる官吏の子女とにて、二十四名という数に達したり」。ある週の教科をみると、日文、算術、日語、唱歌、体操、図画、家政、編物を著者が、習字、漢文、蒙文、歴史、修身、地理などを漢族や蒙古族教師が担当している。「やまとなでしこ」として育てようとする操子の目標を、「先生、どうぞ蒙古の人になって下さい」と希求する王妃が心温かく全面的に支える。

 ある2年生は作文の時間に、「ワタクシハ、ハルガタイヘンスキデス。ナゼスキデスカ。イロイロノハナガキレイニサイテヲリマスカラ、ワタシハスキデス」と綴った。

「明治三十九年一月」、名残惜しくもカラチンを去る日、「三人のカラチン少女は、境をこえて旅すること初めてなり」と、日本留学を目指す3人の少女を伴い帰国。その後、内モンゴルは漢族に蹂躙され、モンゴル文化を育んだ草原は無惨にも消え去り現在に到る。であればこそ、操子が孜孜営々と務めた教育の精華をカラチンの地に求めることはできない。

 やがて操子は横浜正金銀行ニューヨーク副支店長の一宮氏と結婚。「敵地に等しい蒙古に、重任を負いて単身入込たる心身の苦闘」を周囲に一切感じさせることなく、一宮夫人として働く傍ら、「新進の国を識りたいと熱望している研究者、学者等」の日本理解に努めた。コロンビア大学で学んだある知日派米人は「称えても称えたりない」と、操子を讃える。

★『カラチン王妃と私』(河原操子 芙蓉書房 昭和44年)《樋泉克夫 記》

「愛知大学現代中国学部教授 樋泉克夫」


ベルリンの森鴎外記念館を訪れて



20123月12日


・2003年秋、仕事でベルリンに行った。市内散策の折、ベルリンのブランデンブルグ門の近くにあるホテルから徒歩で森鴎外記念館を訪れ、大柄なドイツ人女性の流暢な日本語で説明を受ける。同館は森鴎外がベルリン留学中(13カ月)に下宿をしていた所で、現在、森鴎外記念館(198410月開館)となっており、ベルリン・フンボルト大学( 1810年創立)の所属学術的機関でもある。

ところで、筆者は同会館でふと考えたことがある。それは、現在では日本からドイツへは航空機で約11時間から12時間で行けるが、当時、森鴎外が訪独した時には、どの程度の時間を要したのかという点である。

・森鴎外は1884(明治17/22)6月、ドイツ陸軍の衛生学研究の目的で陸軍省からドイツ留学を命じられる。同824日横浜港から出国し、インド洋、スエズ運河を経て、107日にフランスのマルセイユ港に着き、同月11日に首都ベルリンに入る。帰国時は、188875日、ベルリンを出発し、ロンドン、パリに立ち寄り、729日マルセイユ港を後に、同98日横浜港に着いている。このように日本から欧州へは約2カ月を要する“遠隔の地”であり、日本は欧州からはファーイースト(極東)であった。

 当時、後進国であった日本は、明治初年から多くの若い優秀な人達が先進国である欧米諸国へ実情視察や留学に出かけている。明治の有力政治家である岩倉具視の率いる使節団は欧米の事情を掌握するため、1871(明治4)11月に横浜を出発し、太平洋を渡り、米国のワシントンを訪れる。その後、大西洋を経由し、ヨーロッパ諸国を歴訪。帰途は、スエズ運河を経て、アジア諸国を訪れ、出発から110カ月後の1873(明治6)913日に横浜港に帰着している。その後、明治の“若いエリート達の息吹”は、日本のグローバル化を推進し、近代化に大きな役割を果たしている。森鴎外も帰朝後、小説家、評論家、翻訳家、劇作家、陸軍軍医総監として、明治・大正期に活躍し、日本の礎となった。                                

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代表 五十嵐正樹

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