2013年08月

浜離宮と築地場外市場の街角にて

2013年8月28日


【将軍様の庭】

❆JR浜松町駅から近い高速道路下を約10分歩くと、右手に掘割に囲まれた鬱蒼とした森が目に入ってくる-『浜離宮恩賜公園』(旧浜御殿)である。今から359年前の1654年(承応3年)に徳川4大将軍家綱治世下(1651〈慶安4年〉~1680〈延宝8年〉)、これまでの江戸城の出城の役割の他に鷹狩場に、家綱の弟で甲府宰相・松平綱重が海を埋め立てて「甲府浜屋敷」と呼ばれる別邸を建てた。綱重の子、綱豊(家宣)が6代将軍(1709〈宝永6年〉~1712年〈正徳2年〉)になったのを機に、将軍家の別邸となり、「浜御殿」となった。



❆その後、幾度かの造園と改修工事が行われ、11代将軍家斉時代(1787〈天明7年〉~1837年〈天保8年〉)に現在の姿の庭園が完成した。幕末時代には第15代将軍・慶喜(1867〈慶応2年〉~1868年〈慶応3年〉)は、鳥羽伏見の戦いで敗れ、1868年1月(慶応4年)、幕軍の軍艦「海陽丸」で江戸へ逃げ帰った際、「浜御殿」の“将軍お上がり場„から上陸し、江戸城に帰着している。明治維新後、皇室の離宮となり、「浜離宮」となった。その後、関東大震災や戦災によって、お茶屋など数々の建造物や樹木が損傷し、往時の面影はなくなった(注1)。



❆庭内には、1866年(慶応2年)に着工した石造洋館が1870年(明治2年)に外国人接待所「延遼館」として建てられた。同館は明治維新後、1883年(明治16年)に鹿鳴館が完成するまで迎賓館として使用された。1879年(明治12年)、当時のドイツ皇太子(フリ-ドヒ)が訪れている。また、前第18代米国大統領のユリシ-ズ・S・グラントは、同年7月4日、庭内で米国の独立記念日を期して、「中島の御茶屋」で、明治天皇が引見している。明治天皇は勅語を発し、「今日は貴国の独立の期日に当たり候よし、此日に於いて初面会を遂げ右の歓を申候は別て目出度事候」と述べられている(注2)。同大統領は「延遼館」で1カ月滞在している。



❆この公園は広大な敷地の中に海水を掘割に通し、庭内の「潮入りの池」に引き入れている-小さな島には「中島の御茶屋」があり-四方から見た光景は、最も有名な眺めである。庭内の池には多くの海魚(ボラ、セイゴ、ハゼ、ウナギ、マルタウグイ、クロダイなど)が生息している。掘割の水面にはボラ(鯔)の愛らしい稚魚達が水面下に群をなして戯れ、細かな波紋を幾重にも拡げている
(注1)「浜離宮恩賜庭園」~特別名勝及び特別史跡~公益財団法人「東京都公園協会」。
(注2)「明治天皇」(新潮社、2001年)、原文を現代文に直している(筆者)。
(参考)アメリカ合衆国の軍人、政治家。南北戦争の北軍将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。1879年6月(明治12年)には国賓として日本を訪れた。グラントはアメリカ合衆国大統領経験者で、訪日を果たした初の人物でもある。



❆8月中旬、大手門から庭内に入る。毎日35度の酷暑が続いており、参観者は極めて少なかった。正面には橙色のキバナコスモスが咲いている。観光で日本を訪れた外国人が、素晴らしい広大な庭内を散策し、束の間の“日本の美”を満喫していることが人々の会話や顔の表情から覗えた。目の前には無造作に高層ビルが林立している-これは旧汐留貨物タ-ミナルを1995年(平成7年)再開発し、跡地に建てたものである。中年のご夫婦は、「お伝え橋」の傍らで建物のない広大な庭園をみながら写真を撮ろうとしていたので、写真を撮ってあげると、微笑みを交え、イタリアのミラノから観光で来たとのこと。広大な将軍様の庭園と、目の前の現代の日本を象徴する高層ビル群との“コントラストが実に面白いと、話してくれた-最後に、イタリアからはここは東の端(ファ-イスト)ですね!ここからはイタリアはファ-ウエストですね!と。“お伝の橋の傍らで、日伊の交流は余韻を残し終えた。
景観



【町人の市場】

❆「浜離宮」から新大橋通り沿いに歩いて約5分-右手に「築地市場内」(東京都・中央区)の入り口があり、ここには約750店の魚介卸店、隣接する「築地場外市場」(以下、「場外」と省略)には約400店の食材・物販・飲食店かなる世界最大の『魚市場の街』である。筆者は時折「場外」へ足を運ぶ。この地に入ると、瞬時に貧相の体からエネルギ-が湧き、日頃の生活とは違った状況におちいる-思うに、狭い場所に活気溢れる店が集中し、物見遊山の人々がひしめいているせいかもしれない。



❆「場外」は、鮮魚や肉類、青果、乾物などの問屋街である。1935年(昭和10年)に開業した中央卸売市場の築地市場に合わせ、「自然派生的に発生した」(築地食のまちづくり協議会)。海産物を扱う店舗が最も多いが、漬物や珍味など加工食品の店もあり、卵焼きの店も有名。最近ではすしチェ-ン店など夜も営業する飲食店が目立ち合計約400店がある。「場外」といえば生鮮食品のイメ-ジが強いが、すし店以外にもホルモン丼の「きつねや」、中華そばの「井上」、鯨肉の串カツで知られる「鯨の登美粋」などの老舗が多い。いずれも卸売市場で働く食のプロである仲買人の日常食がル-ツ。昼間の時間帯は仲買人に交じって「ガップリ飯」を求めて観光客がこうした店を訪れる。これまでは深夜の「場外」市場は「シャッタ-通り」であり、寿司店のほかは営業する店は少なかったが、今年に入り、訪日観光客が増加し、中央卸売市場や「場外」は人気の観光スッポトとなり、「すしを目当てに来店する外国人が増えた」〈深夜営業のすし店〉(注3)。

(注3)「日本経済新聞」2013年8月1日。



❆筆者が立ち寄る店は、休憩もかねて「味の浜籐築地本店」で、暑さ凌ぎにアイスコーヒーと揚げたての鮪のメンチカツやさつま揚げなどを食べながら、笑顔が素敵な店員さんと“世間話“や「場外」の最新事情などが聞けるので、新参者の筆者としては何よりの内容である。近くのおでん材料の「佃権門跡工房店」の親切な大将とも短い会話を交わす。築地4丁目の角で外売りをしているのはウナギの「はいばら」で、ウナギをいつも2枚(2串)求める。今では珍しくなった油紙の袋に入れてくれるので嬉しい-ウナギ好きなワイフの母(92歳)には良い土産となる。晴海通りの築地4丁目の交差点から銀座方向に向かって数分、左側に業務用和食器専門店の「うりきりや屋」がある。常時5000種の商品が取り揃えている。明るい店内は広い、品物が多く、値段も手頃である。店外にはサ-ビス品が置いてあり、先日、食べやすいどんぶりを求めた。



❆東京都は築地市場を2015年度中に江東区豊洲に移転する計画であり、その後も集客を維持できるか「場外」の関係者は危機感を強めている。独自の町づくり策として、中央区と組んで「場外」内の区有地に商業施設「鮮魚マ-ケット」を14年度にも開業する予定-「商店街振興組合」の小さなチラシには~「場外」は移転しません!!

『築地場外市場憲章』の中に「築地場外市場」は-“人のまちである„-と記してあった-この願いは、お上の心を動かすことができるか、いや動かして欲しい、一人の消費者の願いでもある。



【浜離宮と築地市場のコラボ】

❆宮尾登美子の著「天璋院篤姫」~文久2年の秋、観菊の宴の慰労のため3人(家茂、和宮、天璋院)はお忍びで「浜御殿」で、半日遊ぶことになったと~記している。「浜離宮」と「築地市場」は至近距離にあり、いずれも江戸時代前半にできた最高権力者・将軍様のお庭、片や町人の日常生活に必要な食材市場であった-両者の存在は対象的である。江戸時代は「浜御殿」として、将軍様は江戸城から約1.5キロを御駕籠で訪れていたのであろう-東京ド-ムの約6倍の広さを管理していたのは「浜御殿奉行」である-庭園の手入れ、庭作、刈込、山作などを指揮していた。若年寄支配で、焼火之間詰。200表高の役職で、定員2名。御手当銀として銀7枚が支給された。奉行は庭内に屋敷を下賜された。奉行の次席として、浜御殿添奉行があり、下役として吟味奉行があり、若年寄支配で、焼火之間詰。100表5人扶持で定員2名。「浜御殿」掃除之者は浜御殿を掃除する役職で、13俵での持高の他に1人扶持と手当金3分が支給された。定員19名であった。



❆築地は地名のとおり海を埋め立てて新たに築いた土地である。1657年(明暦3年)、明暦の大火後の復興計画で、隅田川河口部にあたるこの一帯が開発され武家地となった。横山町辺にあった本願寺も同火災で被災して築地に移ってきた。本願寺の再建にあたっては佃の門徒たちが海を埋めて土地を築いたと伝えられている。本願寺南側の町屋は1664年(寛文4年)、日本橋魚河岸の魚問屋たちが願い出て開いたことから、魚河岸のあった小田原町に対して南小田原町と名付けた。この頃、すでに築地と魚河岸の交流があった。築地の埋め立て工事が難儀したおり、浪間を流れてきた御神体を祀ったところ浪が静まり工事が捗った-という由来をもつ「波除稲荷神社」は1659年(万治2年)に建立され、以来、築地一円の氏神となった。



❆「浜離宮」(浜御殿)と「築地市場」を遡ると1654年(承応3年)、1657年(明暦3年)で、双方とも3年の違いで端を発している。それから約360年、この地は、江戸の中心街の一部であり、現在も同様に東京の下町として市民の生活の場であり、憩いの場でもある。近くには汐留のビジネス街として新たな発展を遂げている。多くの日本人、外国人は静の「浜離宮」、動の「築地市場」を訪れて、対象的な日本人の歴史、文化を学んでいる。この二つの貴重な観光資源は“不即不離„の関係にあり、また、コラボの関係でもある-築地市場の移転問題は論外である。

~街角シリ-ズ(その5)~

(グロ-バリゼ-ション研究所)代表 五十嵐正樹

中国系企業の中米ニカラグアの運河計画

2013年8月16日


【運河計画の概要】

①ニカラグアとは

中央アメリカに位置するニカラグアは(地図参照)、北西にホンジュラス、南にコスタリカと国境を接し、東はカリブ海、南西は太平洋に接する。首都はマナグア(185万人)である。ニカラグアは狭義の中央アメリカで最も面積(九州と北海道を合わせた広さ)が広い国で、人口は587万人である(2011年/世界銀行)。

nicaraguaMAP②事業費400億ドル

ニカラグア議会は本年6月13日、中国系・香港企業「HKニカラグア運河開発投資(HKND)」へ運河の計画立案、資金調達、建設、運営を認めることを決定-50年間の運河の建設・運営期間、加えて50年の延長も可能という。一部報道によると、「HKND」の設立は2012年8月に香港で設立した直後、ニカラグア政府と「協力備忘録」を締結したという(注1)。

運河の全長は290キロ前後(パナマ運河の全長は約80キロ)、南部のニカラグア湖を通ること以外、具体的なル-トは決まっていない。総事業費は400億ドル(約3兆9900億円)と見積られ、2011年のニカラグアの国内総生産(GDP)の4倍以上である。また、「HKND」はボリビアの元ラパス市長、世界銀行のコンサルタントなど迎え入れている。

(注1)「EpochTimes.JP」。

③資金調達と工期

「HKND」の王靖薫事長(社長)は-「運河建設は来年末から始まり、工期は6年以内である(注2)。複数の海運会社がこのプロジェクトに対し明確な賛意を示している」と、述べている。資金調達については-「HKND」のチ-フ・プロジェクト・アドバイザ-のビル・ワイルド氏は6月16日、「王氏は運河建設事業の初期工程に出資する。その後は国際的な出資を募るつもりであると」語っている(注2)。しかし、6年で完工するのであろうか。この規模のプロジェクトであれば、10~15年を要するのが常識的な見方である。また、施工する際、ニカラグアには両岸(太平洋・カリブ海)を接続する高速道路がないのも問題である

④経済効果

この新しい運河計画に対して、すでに疑問視をする見方が出ている。400億米ドル(約3兆9900億円)ともされる巨額の建設費とその捻出方法、新運河の最終ル-トの選定などが未定であるためである。事業計画の中には、鉄道、2カ所の港湾、国際空港や原油パイプラインの建設も含まれているという。

このプロジェクトの効果として、ニカラグア政府は4万人の雇用が生まれ、国民の所得は倍増すると、アピ-ルをしている。中米で最貧国の一つであるニカラグアにとって、新運河は経済を飛躍させる事業と、オルテガ大統領は位置づけている。

(注2)「FSBI」2013年7月18日。

(参考)「HKND」(HK Nicaragua Canal Development Investment Co.Ltd.)

 

【王靖氏のプロフィ-ル】

①式典の模様

6月14日に首都マナグアで行われた式典にはオルテガ大統領が出席し、「これは私達が何世紀にもわたって待っていた歴史的な時間です述べた。その模様について-王靖氏が経営する「北京信威通信技術」のウエブサイトによると-その場で王氏は、「かってない挑戦に、われわれは自信をもって前進する。人類の進歩を奏でるラッパの音に手を取り合おう」と明言している。その発表の場には、ブラジル、スイス、カナダ、クウェ-ト、サウジアラビアなどの投資家が賓客として出席している。

②時価総額約29.5億ドル

中国人投資家の王靖氏(40歳)は、中国通信会社「北京信威通信技術」(1995年設立)の会長であり、筆頭株主で、その持株は11億ドル(1100億円)に相当する。当局への届け出によると、王氏の持ち株比率は5月29日時点で37%である。同社は非上場だが、昨年9月に証券取引所がまとめた国有企業による株取引の記録を基に算出すると、時価総額は29億5000万ドルである。

同社のウエブサイトによると、5~10年後の目標について、「世界の3大通信会社の一角となることだ」と-王氏は述べている。王氏の事業はインフラ、鉱業、航空業、通信業に及び、また、35カ国で、20社以上の経営権を握っていると言われている。

③電話ネットワ-クの敷設契約

同社は2012年、ニカラグアで最大3億ドル規模の電話ネットワ-ク敷設契約に調印している。

 

【運河の問題点】

①組織構造の不明

「HKND」の組織構造や経営陣の陣容がほとんど知られていないのが懸念材料である

②問題点

・「HKND」は運河建設事業を請け負った経験がない。

中国とニカラグアとの間に国交がない(ニカラグアは台湾と国交がある)

事業がコスタリカとの国境紛争に関わる可能性がある注3)。

(注3)「SankeiBiz」」2013年717日。

③王靖氏の反論

・世界中から能力のある建設会社を募集しており、建設ル-トも国境紛争(コスタリカ)が絶えないサン・ファリ川を通らない。

・建設費の調達交渉は順調である。開通後の収益性について、「パナマ運河」は拡張後も十分とはいえない。通航能力を補う」と自信を見せている。

 

【所  見】

①諸問題の山積

・中米ニカラグア政権は香港・中国系企業「HKND」に全面依拠した「新運河計画」には多くの問題を抱えている-まず、「HKND」自身の実態が不明な点(組織/資金など)が多いのに加え、極めてリスクの高い“運河„を施工しなければならないことである。このため施工を危ぶむ見解があり、この懸念を払拭できないのが現状である。

②中国政府と密接な関係

中国政府との関係につて、同氏が経営する「北京信威通信技術」のウエブサイトには、中国政府との関係を強調する写真が掲載され、また、習近平国家出席、李克強首相、張徳江全人代常務委員長や王岐山・中国共産党中央規律検査委員会書記らのトップ政治家が同社を訪れている点である-いずれ中国政府が資金提供などで事業に関わるとの見方も根強い。

③パナマ運河の優位性

パナマ運河の拡張計画は総事業費52億5000万ドルをかけて2007年9月に着工し、2015年中に竣工を予定-新たに第3レ-ンを設け、完成後は現在の2倍の約6億トン(船舶トン数換算)の航行を見込んでいる。インフラ整備が整ったパナマ運河の優位性は揺るがず、ニカラグアが進める新運河計画の先行きは不透明である

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

当世ウナギ事情

2013年8月7日

【日本人とウナギ文化】

・本年夏の「土用の丑の日」は、7月22日(1の丑の日)と8月3日(2の丑の日)である。夏バテ解消のため、懐具合をみて、少々無理をしてでも好きなウナギを食べるのが、多くの日本人の心情である。だが、ウナギの値段は毎年大幅な値上がりをしており、3年前と比べて約2倍となった。何時まで日本人のウナギを食べたい思いは続けられるのか-この日本人のウナギ好きの代償として-資源の枯渇と価格の高騰を招いてしまった。極度の不良が続く「ニホンウナギ」を、自然保護団体IUCN(国際自然保護連合)が、目下、絶滅危惧種「レッドリスト」にするか否かについて検討中である。

・日本人のウナギ文化の兆しは、今から約1200年前、歌人大友家持が万葉集・巻16の中で-「石麻呂に 吾物申す 夏痩せに よしと云う物ぞ うなぎ取り召せ」と詠んでいる。家持が、夏痩せした部下、石麻呂(吉田連老)に「ウナギを食べるといいですよ」とアドバイスしている。当時の食べ方は、筒状にぶつ切りしたウナギの真ん中に串を通して火で炙(あぶる)り、荒塩やたまり醤油、山椒味噌などをつけて食べるというものであった。この形状が蒲の穂に似ていることから「蒲焼」と呼ばれるようになったのだと、幕末に書かれた江戸の百科事典、『守貞護稿』は記している。また、焼いたウナギの色が樺の皮に似ていることから「樺焼」と呼ばれたという説もある。

・ウナ丼のはじまりは、堺町(現在の日本橋付近)の芝居小屋の金主(スポンサ-)であった大久保今助が、大好物の蒲焼を出前してもらう際に、すぐに冷えてしまわないようにと、飯の間にウナギを挟むようにして保温の工夫をしたことがきっかけだったという説がある(注1)。その後、ウナギの蒲焼きは、「江戸の食べ物の四天王」(そば、寿司、天ぷら、ウナギ)の一角となる。付記すると、江戸中期に活躍した漢学者・平賀源内は知り合いのウナギ屋を繁盛させるため「土用の丑の日」のキャッチコピ-を考案して以降、夏の風物詩になったとされる。

・江戸も末期となると、ウナギは市民権を得ている。徳川幕府最後の将軍である慶喜はウナギを好んだ。慶応4年1月8日、官軍の大軍に包囲された大阪城を脱出し、開陽丸で江戸に帰った慶喜は、帰るとすぐに、長い間の上方暮らしで身体の油も抜けたことから、ウナギの蒲焼きを求め、平らげた、との逸話も残されている。江戸の人間にとって、ウナギの蒲焼きは郷里の味となっていたのである(注2)。

(注1)三田村著・稲垣史生編「江戸生活事典」青蛙房刊、203頁。

(注2)「うなぎの話-江戸時代の動きを中心に-」第15回 寺子屋講演会、平成18年 7月21日、於:喜楽屋。



【蒲焼と庶民】

・ウナギといえば、「蒲焼」である。文献上で「かばやき」が初めて登場するのは、応永6年(1399年)に出された「鈴鹿家記」で、神前料理に関するものである。

江戸時代中頃から庶民はウナギを食べており、決して特権階級の食べ物ではなかった。ウナギの「蒲焼」は、もともと屋台に近い店から始まった庶民の食べ物で、京都では延宝時代頃(1673年~81年)に蒲焼の行商人に関する文献があり、江戸では享保の末頃(1735年)になって、ようやく絵に登場する。屋台のウナギなら1串16文(約320円)<参考>で食べられたが、「まずくて仕方のないものであった(辻焼)」と(注3)。

・この新しい食べ物がこれほど普及したのは、よほど江戸庶民の好みであった。『江戸前 大蒲焼』という資料の番付資料によると、東西の大関から前頭まで221軒のウナギ店が並んでいる。最後には「此外東西数多く御座候得共猶校台(校正)の上再板仕候」(このほか、東西に数多くござそうらえども、なお校合のうえ再板つかまつりそうろう)-まだ沢山の店があるから、改めて調査して次の版を出版すると書いてある。この番付は珍しく幕末の嘉永五壬子年五月吉日(1852年)に出版されたものであると記してある。

当時の江戸は面積、人口とも世界一の大都会になっていたが、その範囲は大まかにいって、山手線の中と隅田川の東、本所と深川辺りまでで、今の東京都23区の6分の1ほどの面積しかなかった。

(参考)貨幣・1両=6400文、銀=1匁、1文=20円。

・ウナギ料理法には東西の違いがある。関西は腹開きで、蒸さずに付け焼きする。関東は背開きにし、白焼きにしてから付け焼きにするのが普通である。江戸で腹開きをしなかったのは、切腹を連想する武士に嫌われたからだという説がある。当時江戸には300件以上のウナギ屋あったといわれる-350年続いていた江戸の名店、糀(麹)町の「丹波屋」は2003年頃に廃業してしまった。当時から営業している都内の有名なウナギ屋は浅草(駒形橋)の「前川」と、神田明神下の「神田川」となった(注4)。

そこで、川柳から当時のウナギ屋の繁忙ぶりや庶民のウナギへの思いをみることにする(注5)。

‣土用の丑のろのろされぬ蒲焼屋

‣呼べどこず口に土用の鰻ぎ飯(ウナギや多忙)

‣太平になまくび(ウナギ生首)を積む蒲焼や/まな板へ首塚をつくかばやきや 

‣囲い女は鰻一串猫の椀(妾。食い残しを)/浮世はさまざま鰻団子漬(注4)

(ウナギは精がつくことを、江戸人は経験上知っていた。)

(注3)「注1」と同じ。

(注4)石川英輔「大江戸番付事情」講談社文庫、2004年10月15日、28頁~36頁。

(注5)渡辺信一郎著「江戸川柳飲食事典」(株)東京堂出版、1996年9月

5日、83頁~87頁。



【資源としてのウナギ】

・今から約150年の幕末(江戸時代後期)、神田川でも隅田川でもウナギは獲れたし、深川や築地辺りの淡水に海水が混じった汽水で育ったうなぎは特に美味しかった。安いウナギは千葉、茨城産があったそうだが、本当に品質が違ったのかどうかは分からない。その後、約100年間は、ウナギは安定的に国民に供給された。昭和20年代末に筆者が住む東京・郊外にある「野川」で、“かいぼり„を行い、天然ウナギ(腹が黄色)が、獲れたことを思い出す。

・うなぎの養殖は明治13年(1884年)に深川で服部倉次郎が試みたのが始まりとされる。その後、養殖に必要な「シラス・餌・水」の立地条件がよい静岡に移った-これが浜名湖地区の大規模養鰻のはしりとなった。しかし、養殖とはいっても、産卵からの養殖ではなく、海から川に遡上するシラスウナギを大量に捕獲し、それを育てる形のものである。シラスウナギは「白いダイヤ」とも呼ばれ、高値で取り引きされている。現在、日本では年間15万トン以上のウナギが消費されているが、そのほとんどが養殖物で、天然物はわずか1%にも満たないともいわれている。また国内産も2万トン程度と少なく、現在の主流は中国もの(年間10万トン)、次いで、台湾もの(年間4万トン)となっている。

0807表








・ウナギは太平洋のグアム島に近いマリアナ諸島周辺だけが産卵地で、極めて限定的に回遊する。稚魚が海流に乗って台湾、中国、日本など東アジア諸国に向かい、河川を遡上して成長すると見られる。ウナギの稚魚であるシラスウナギの国内の漁獲量は、1963年には年間232トン獲れていたが、年々少なくなり今年はついに5.2トンと過去最低になった。国内の取引価格も高騰し、今年は1キロ248万円と5年前の3倍以上に跳ねあがってしまった。シラウスウナギは1匹(0.2g)500円ということになる。銀価格以上、金価格未満といった水準となった。この大幅なウナギ資源の減少の主因として、以下の点が考えられる。

‣シラスウナギ、および成魚の乱獲。

‣河口堰やダムの建設、護岸のコンクリ-ト化など。河川環境の変化。

‣エルニ-ニョ現象といった海洋環境の変化。

・シラスウナギの減少を受けて日本商社が1990年代に目を付けたのは、ニホンウナギとは種類を異なるヨ-ロッパウナギの稚魚である。中国での養殖を経て、日本へ輸出するル-トが確立され、日本人は安くウナギを口にすることが可能になった。しかし、2007年のワシントン条約の締結国会議で参加各国は減少著しいヨ-ロッパウナギを条約の規制対象にした。他にも要因があるが、日本人の「ウナギ好き」がヨ-ロッパウナギをこうした状況に追い込んでしまった。加えて、現在、日本人の「魔の手」はマダカスカル、フィリピン、インドネシアなどにも及んでいる-本年春の「土用の丑」に合わせ、ある大手ス-パ-の食品売り場に見慣れない商品が登場した。東南アジアに生息する「ビカ-ラ種」と呼ばれるウナギを原料にした蒲焼製品である。資源枯渇が懸念され、高騰しているニホンウナギのピンチヒッタ-として、ウナギ市場の縮小に歯止めをかける切り札として期待されている(表参照)。

その一方で、三重大学の勝川俊夫氏はこうした流れに対して、「食べるだけ食べて、資源が枯渇したら、別の地域から輸入すればよいというのは無責任だ」と批判している。



【ウナギ資源の保護と成育】

・日本全国で親ウナギの漁獲量が、1970年代から急激に減少し、60年代と比べて、今は9割も減少している。環境省は2013年2月、ニホンウナギを絶滅危惧種「レッドリスト」に指定した。価格高騰で街の専門店は減り、産地では「ウナギ食文化の灯を絶やすな」と資源保護策が本格化してきた。「このままウナギがなくなれば、店はみんな閉めなければいけなくなる」東京・日本橋の老舗「大江戸」の涌井恭行社長は語っている。都内のウナギ専門店でつくる「東京鰻蒲焼商組合」によると、加盟店はこの20年で約160店から95店に減った。原因は「4年前に比べて3倍」(同組合の三田俊介理事長)という仕入れの値の高騰である(注6)。そこで、「ウナギ資源の保護」について-行政機関の取り組みをみる。

・「愛知県、南さつま市など」

‣「下りウナギ」の保護

愛知県の内水面漁協は産卵のため海へ下る「下りウナギ」の漁獲を自粛し、漁獲した場合は再放流する。ポスタ-を作成して、釣具店などに配布し、游魚業関係者にも呼びかける。

‣シラスウナギの保護

川を上がる「シラスウナギ」を保護するため、養鰻関係団体などの協力のもと、県は再捕許可可能期間を2012年12月16日~2013年4月30日までとして採捕開始を遅らせるとともに、1月から4月までの毎月5日を採捕休止日とし、採捕日数を19日間縮減する。

‣ウナギの放流

養鰻関係団体と河川漁協は、三河湾、県内河川へウナギを放流して、生息数の増加を図る。

・「下筑後川漁業協力同組合」

‣本年4月15日、久留米市や佐賀県みやき町の筑後川でウナギを放流。同組合は1997年から毎年、筑後川の自然保護を目的にウナギやエビ、フナなどの稚魚の放流を続けている。全国的にシラスウナギの漁獲量が減少し、今年の放流は約6千匹で昨年の半分、稚魚は現在、体長25センチ、1年後に約倍になる。同組合の塚本辰巳増殖委員長は「筑後川の自然を守るため、今後も定期に放流を続ける」と。

・「鹿児島県は全国一の養殖地」

‣全国シェアの4割を占める。シラスウナギの不漁で値段が高騰し、養鰻業者の経営を直撃。ウナギ専門店では消費者離れが進むなど廃業や業種転換に追い込まれる店も多い。同県は昨年10月、養鰻業者や内水面漁協、稚魚採捕団体と、「県ウナギ資源増殖対策協議会」を立ち上げ、標識放流や川を下る成魚の実態調査を行うことを確認。絶滅危惧種指定を契機に、一層取り組みを強化する必要がある(注7)。



【所  見】

当面の施策としては、ウナギ資源の保護が最重要課題である。一方、養殖ウナギの卵をふ化させて成魚にする“完全養殖„も早く実用化しなくてはならない。

また、資源保護に向け、東アジア全体で協力することも必要となる-中国、台湾との3者協議が12年度に始まった。どこで捕獲され飼育されたのか、将来的に管理する制度導入などを目指す方針であり、3者の連携強化が重要である。

日本では、ウナギの次はマグロといわれている-このような日本人の爆食は中国人だけの専売特許ではない。今後、日本人は、ウナギ資源に限らず、その他の生物資源に対しても資源の保護の観点から視野を広げることを喚起したい。

(注6)「産経新聞」2013年7月21日。

(注7)「南日本新聞」2013年2月5日。

 (グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹









 


 


 


 

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