2013年11月19日

【お雇い外国人と異端者】

・1868年(慶応4年/明治元年)に幕末から明治の御代(みよ)となります-政府は、国策の柱として「殖産興業」に注力し、その一環として、多岐にわたる欧米の先進技術を導入するために外国人を雇います(お雇い外国人)。

・1868年から1889年(明治22年)までに日本の公的機関・私的機関・個人が採用した外国籍の人は2690人です。その内訳をみると、イギリス人1127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人です-当時、先進国であった欧米諸国の優秀の人々の技術集団(鉄道/建築/医師/軍人/医師など)です(注1)

このような優秀な欧米人の他に“異端„というか“風変わり„な人がいました。その名を「快楽亭ブラック」(以下ブラックと略称)で、本名をヘンリ-・ジェイムズ・ブラック(1858年〈安政5年〉)~(1923年<大正9年>)で、オ-ストラリア・アデレイドで生まれています(注2)。

・日本初の英字新聞・週刊『ジャパン・ヘラルド』の主筆として日本に滞在していた父、後に日本のジャ-ナリズム史上で忘れてはならない重要な人物の一人となりますジョン・レディ・ブラック(John Reddie Black)の後を追って、当時6歳の「ブラック」は1865年11月8日(慶応元年9月20日)母とともに来日する。

・父は後に『日新真実誌』という新聞を発行して新政府の政策を盛んに批判したため、同紙は廃刊措置となります。日本に失望し、単身で上海に渡ってしまいます。1879年(明治12年)に再び横浜へ戻ってきますが、これは入院加療のためでした。『ヤング・ジャパン』を執筆中、1880年6月11日(明治13年)に、脳溢血で他界してしまいます。

 


【芸人の道へ】

・日本に残ることを決めたブラックは18歳となります、1876年(明治9年)に奇術師三代目柳川一斎の一座に雇われて西洋奇術を披露し、同年7月には浅草西鳥越の芳川亭と日本橋南茅場町の宮松亭で西洋手品をハ-ル・ブラックの名で興行した記録が残っています。その後、2~3年、米国のシアトルで母と共に生活していたようです。1878年(明治11年)再度来日し、翌年講釈師二代目松林伯圓に誘われて横浜馬車道の宮竹亭で時局演説をしています。この年に正式な伯圓の弟子となり、英人ブラックを名乗っていました。永井荷風が、この頃のことを「むかし市中の寄席に英人ブラックの講談が毎夜聴衆をよろこばしたことがあった」(「仮寝の夢」)と書いています。講談師ブラックが東京のユニ-クなアトラクションになっていたのです(注3)。

・当時、芸人は政府の許可なしでは寄席に上がることができず、このため講釈師三代目の伊藤燕凌の仲介で外務省と掛けあい、1880年(明治13年)に許しをえた後、本格的に寄席に出るようになりますが、親戚や知人の猛反発にあい、一時は廃業して英語塾を開きましたが、再び演芸の道に戻り、1884年(明治17年)には三遊亭圓朝・三代目、三遊亭圓生らの三遊派に入り、「ジャンヌ・ダルク伝」など、西洋小説の翻訳物の噺をして、落語家として名をあげます。

・創作の噺も行い「岩出銀行血汐の手形」という指紋を使った犯人捜査の噺は大人気を博し、本にもなります。1896年(明治29年)、日本初とされる催眠術の公開実験をし、後に催眠術や奇術を高座で行い、多芸多才な芸人として活躍します。日本初のレコ-ド録音をしており、「快楽亭ブラック」は“ヘンな外国人„ともいえる人物でした。

 


【落語家として】

・1891年(明治24年)3月より快楽亭ブッラクを名乗り、2年後には日本人の木村アカと結婚し、日本国籍を取得し、本名を石井貌刺屈(フラック)と改めます。その後ブラックは八面六臂の活動が始まります。西洋の小説を翻訳した短編小説や、それをもとにした噺を手始めに、やがて自作の噺を創作するように迄になり、べらんめえ調をあやつる青い眼の噺家として人気を博します。

・1903年(明治36年)に英国グラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバ-クが来日すると、ブラックは積極的に親しい芸人を誘って落語や浪曲を録音円盤に録音、これが日本初のレコ-ド録音となります(注2)。音室は不鮮明でありましたが、四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓遊、三代目柳家小さんなど明治の名人たちの貴重な生の声が残されます。

・1887年(明治20年)2月、ブラックは「容易独修英和会話編」(国立国会図書館蔵)を出している。全体は単語編と会話編に大別され、会話編は25課に分かれる。

このように「快楽亭ブラック」日本の英語教育にも貢献している-Shall we go in train

(鉄道馬車デ行キマショウカ)。

 


【人生に終止符】

・1907年(明治40年)、人気が凋落し、落語見立で「東前頭四枚目」に落ちる。1908年(明治41年)9月23日、亜砒酸で自殺未遂騒動を起こします。関東大震災の衝撃覚めやらない1923年(大正12年9月19日、白金三光町)の自宅にて満64歳で人生を終えます。明治の落語界で真打にまでなった外人噺家「快楽亭ブラック」-文明開化のエンタ-ティナ-といっても過言ではないでしょう。当時、いまのように多くの娯楽があった時代ではありませんでした。そんな世の中で異彩を放ったブラックの芸は日本人に癒しを与えました。

・異国の地で、こんなに変転極まりない人生を送った人もいないでしょう。否、異国の地だからできたかもしれません。今は横浜の港の見える公園の近くにある「外国人墓地」にある父のお墓の隣に親子ともども静かに眠っています。なお先日、命日に当たる919日、「外国人墓地」にて「快楽亭ブラック」の90回忌が開かれ、関係者ら25人が花を手向け、外国人タレントの“先駆者„をしのんだ(注4)。

                   (グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注1)ユネスコ東アジア文化研究センタ-編『資料御雇外国人』
(小学館、1975年)。

注2)「朝日日本歴史人物事典」。

(注3)佐々木みよこ・盛岡ハインツ著 快楽亭ブラックの「ニッポン」、PHP研究所、1986106日。

注4)「東京新聞」2013年924日。