2014年05月

中国の高齢化社会の現実~葬儀事情について(2)~

                                   2014年5月23日

【人生はコスト】

・筆者が若い時によく聞いた言葉-ゆりかごから墓場まで“from  the cradle the grave„-英国の社会保障(福祉・厚生)を端的に表すスロ-ガンで、各国の社会福祉政策の指針となりました-これには、人生はコストがかかるという真意が含まれています(注1)。人間は生まれてから多くの儀式を経験します-お食い初め、お宮参り、満1歳の誕生日、七五三、入学式、成人式、結婚式などで、その都度、関係者はコストを負担することになります-終章は“お葬式„です。

・中国語・日本語には「厚葬」という言葉があり、手厚く葬るという意味です。中国の年間の自然死は1000万人前後と言われ、大阪府の人口886.3万人(12年10月Ⅰ日現在)を上回り、中国が人口大国たる所以です。日本の自然死は、中国の10分の一の114万2467人(平成20年度「厚生・労働省統計」)。

 


【中国の葬儀】

(政策の推移)

新中国成立後(1949年10月)、中国は時代のうねりの中で、国民生活は諸事万端、変わり、葬儀についても今日まで、以下の施策推移がありました(注2)。

第1期(1949年~65年):文革前

・中国は儒教の下、「全屍」(完全な遺体)に拘ってきました。「死無全屍」(亡くなった時に完全な遺体がない)は大禁忌です。1956年、毛沢東をはじめとする中国共産党の指導者はお墓を造ると、経済的損失(土地や木材を浪費)に危機感を抱きます。

・1956年4月27日、北京の共産党幹部居住区の「中南海」にある幹部専用集会所である「懐仁堂」で、毛沢東以下の共産党首脳が集まり、中央工作会議が開かれ、“古い習慣を打ち破ろう„と、火葬を提唱します(注3)。

第2期(1966年~1976年):文革期

・毛沢東は「破四旧」の政治スロ-ガンの下、伝統的な葬送儀礼は一切否定されます。葬式は宗教色を排除し、追悼会という形式で行われた。全国的に火葬を強制的に推進し、中国の火葬率が最も高くなった時期です。

第3期(1978年~現在)

・文化大革命は1976年に終了します。1980年代、政府は「改革殯儀・移風易俗」(葬送儀礼を改革し、古い習慣を変える)を出し、新たな殯葬改革が都市から農村部まで展開します。政府は全国の大都市の85%、県(地方政府と農村部)の30%の大葬改革の実行が徹底してない事を指摘し、「各地方の人民政府はこの方針に則って宣伝工作を含め努力せよ」の指導命令を出します。

・1985年2月、国務院は「殯葬管理の暫定規定について」を公布-殯葬管理の方針を積極的・段階的に火葬を推進し、土葬を改革して、封建迷信的な葬送風俗を排除、「節約的文明的」な葬式を提唱-中国の殯葬改革に関する初めての全国的な法律です。

(殯葬改革)

・古来、中国の葬法は、天葬、水葬、火葬、土葬の四つの方法があります。複数の民族や文化、土地環境が混在している中国の独特の葬法です。その中でも中国の人口の9割を占める漢民族では一般的に長い歴史の中で土葬が主流で、死を生と同じように重要視していたためです。

・土葬は資源を浪費します。また、中国の歴代の封建政治の統治階級はより鄭重に葬ることを宣揚し、葬儀を厚く行ったため、家庭が破産する事例が多くありました。党中央は「改革殯儀・移風易俗」などのスロ-ガンを下、「共産党員は喪事を簡素化し、率先して火葬を実行せよ」との通達を出し、様々な宣伝工作を行います。

・海洋葬を支援、推進します。2007年10月、広東省東莞市で事故死した出稼ぎ労働者のケ-スが初めて。2010年、上海で海洋葬が行われ、エコな埋葬法であるとの認識が広まりますが、現在、海洋散骨するのは上海市民の僅か2%です(注4)。

(周恩来元首相の思い)

・1976年1月8日、周恩来元総理(1898~1976年)は亡くなる-生前に「人が死後に骨を残すことにどんな意味があるのだ。土に撒いて肥料にしてもよいし、海や川に撒いて魚の餌にしても良い」と。どちらが先に死んでも共に骨を遺さないことを鄧頴超夫人と約束。その死から10日が過ぎた1月18日夜8時過ぎ、鄧頴超夫人は北京近郊の空港から、党中央の散骨許可を受けた周恩来の遺骨が抱かれ、暗い冬の夜空に周恩来の骨は消えました(注5)。

 


【日中葬法の違い】

・中国と日本は、仏教や儒教を信じている。人が死ねば、生きている者が様々な儀式を催し、死者に別れを告げる-この点は中国と日本は共通ですが、中国と日本の葬式の方法や理念には多くの違いがある(注6)-①中国では、昔は寺院や廟で死者の済度する法事が行われたが、現在は火葬場脇の「殯儀館」の斎場で行われます。日本では宗教の違いで、寺院、神社、教会、火葬場の斎場などを選択する。②葬式の形式や中身が違います。日本では葬式に参列する人の服装は、通例として男女を問わず、黒の礼服か黒の上下のス-ツを着ます。中国では参列者に特別な決まりはない。棺が安置されている霊堂の中は、中国では一般的には、造花の花輪や様々な生け花が並べられる。日本では白か黄色の菊の花を飾ります。

・日中両国には、感情を表す方法にも大きな違いがあります。全体的には、日本人は中国人と比べて、抑制的で、感情を外に出さない。葬式の最中に、死者の家族が激しく慟哭することはあまり見られません。出席者の多くは、冷静、厳粛です。

・中国人は明らかに素直で、不慮の死の報せを聞くと、遭難者の家族は、声をあげて泣き、意識が朦朧となり、時には地面に卒倒することもあります。死者への遺族の悲しみと孝行の心を示すために、中国南方の一部地方では、金を払って泣き女や泣き男を雇う習慣があります。葬儀が終わると、中国も日本も、亡くなった人の遺骨を入れた骨壺を直接、埋葬するか、あるいは骨壺を一定の公共場所に一時期、保管して日を選んで埋葬します。北京では1958年にできた「八宝山革命公墓」には火葬場があり、多くの市民は、なだらかな丘の上に建つ納骨堂「老山骨灰堂」に故人の写真をはめ込んだ木箱に遺骨を納め、安置します。

 


【葬儀社の株式上場】

(人気は上々)

・高齢者人口が2億を超える中国では、人間の「死」は実りのあるビジネスであるという。中でも葬儀社のトップ企業の「福寿園国際集団」の成功はこれまでにない。上海に拠点をおく創業20年目の同集団は、6カ所の霊園を持つ中国最大の葬祭・霊園運営サ-ビス会社である。同企業が2013年12月、香港証券取引所で新規株式公開(IPO)しますが、その人気は投資家たちが驚くほどでした。市場からの調達額は21億5000万㌦(約2193億円)に上りました。福寿園は中国政府から煙たがれているようで、人口過密な都市部の貴重な土地を所有しているためだという(注7)。

(投資家の見方)

・福寿園が投資家から注目されるのは、主に中国の葬儀業は暴利業種に当たると、市場参加者が受け止めているためです。特に墓地の価格は生きた人間が住む土地の価格よりも潜在的に上昇余地が高いと考えられ、これに伴って、葬儀サ-ビスの需要が増えています。火葬の平均費用は2008年の6265元(4320円)~2012年1万79元(16万4287円)に上っています。福寿園グル―プの業績は、営業収入は12年には4.8億元、純利益は1.38億元です。

日本には福寿園のような葬儀会社があります。2001年9月3日に東証、大証1部に上場した「公益社」(大阪)です。同会社は持株会社の「燦ホ-ルディング」の中核会社で、2014年3月期の決算は売上高180億円、当期純利益は9億5300万円です。矢野経済研究所の調査によると、葬儀ビジネスの市場規模は2010年以降、拡大を続け、2016年か2017年の市場規模は2兆円に達すると推測する。日本には約6500社がひしめく葬儀業界は、市場の約4割のシェアを公益社が持っています。

 


【所  見】

・葬祭は文化です-広大な中国には90%を占める漢民族の他に55の少数民族が生活し、死生観、宗教など葬法も民族の固有のものです。人間はこの世に生まれ、この世で死ぬ、厳然とした事実です。葬祭は人生最後の儀式です。

・中国の人口は13億5100万人(2012年現在)、うち14.8%に2億人が高齢者人口で、潜在的な死亡予備軍ともいえます。この現状は葬儀ビジネスが成長産業であるという理由です-福寿園は株式上場前(IPO)、「中国の死亡者数は世界最多であり、従って、葬祭サ-ビス産業にとって、最大の消費者層が存在する」と説明しています。同園によると、中国の葬祭サ-ビス産業は2017年までに165億㌦規模に達すると予測しています。

・人の死をビジネスにするのは不謹慎極まりないということになりますが、今や「成長産業」の一つである葬儀ビジネスは投資家の対象になっています。この欲の皮の突っ張った投資家達は、儲けの対象であれば、何でも投資するのが常識です。既述のように日本にも一部上場の企業があり、市場シェは大きく、葬儀ビジネスのリ-ディングカンパニ-ですので、日本の葬儀文化に大きな影響を及ぼすことになります。

・中国の政治課題の一つが“貧富の格差„です。葬儀ビジネスは市場化により、企業本位のコスト設定になっています。2003年以来、葬儀埋葬・お墓業界は「中国の10大大儲け業界」に名を連ねており、そのぼろ儲けの度合いは最高で2000%に達し、不動産業を遥かに上回る。某メディアの統計によると、2008年~2011年にかけて、上海のお墓の価格は167%上昇し、北京では毎月2~3割の上昇が続いているという。この状況に上海のネットユ-ザ-は、“このままでは、死ぬに死ねない„と自身のブログで嘆いています(注8)。中国の人々はこれから自身の最後の儀式のコストをどのように解決するのでしょうか!

(注)

(1)社会保障制度の充実を形容する言葉で、第二次世界大戦後に英国労働党の掲げたスロ-ガンで、これが日本を含めた各国の社会福祉政策の指針となりました。

(2)周知論文「中国の殯葬改革と殯葬の市場化」、2011年、龍谷大学社会学部紀要編集委38、23~36頁。

(3)「「知道中国692回」(樋泉克夫教授のコラム)2011年12月31日。

(4)「Record China」2012年6日。

(5)(2)に同じ。

(6)「人民中国」2007年3月。光明日報記者の陳志江報告。

(7)「Newweek(日本語版)、2014年3月18日。

(8)「中国網日本語版(チャイナネット)」201241日。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

野川の自然とICUの素敵な学び舎

2014年5月2日

【終戦時の思いで】

(戦争の傷痕)

・筆者が終戦を迎えたのは4歳の時でした。当時、米軍の本土への爆撃が酷くなり、自宅から周辺6kmの地点には多くの「中島飛行機」の軍需関連工場-①中島飛行機武蔵製作所(現在の武蔵野中央公園)、②中島飛行機三鷹研究所(現在の国際基督教大学)がありました。昭和20年2月17日朝、多数の戦闘機が飛来し、午前10時15分頃、同三鷹研究所は艦載機の襲来を受け、爆弾は発動機試作工場近くの防空壕に落下したため、避難していた工員4人が亡くなりました。同4月7日から米軍戦闘機のP51ムスタングも飛来するようになり、敵機の去った後、“工場のスレ-トの屋根が穴だらけ„になりました(注1)。
International_Christian_University_in_1950s


〈写真引用元:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6〉
・このP51ムスタングは周辺地域の民家にも飛来しました時、防空頭巾をかぶり、お袋に連れられ、近くの知人宅を訪れた帰りに、急降下した米軍戦闘機がけたたましいエンジン音と共に機銃掃射が始まり、自宅から50メ-トル程の民家の屋根を直撃し、瓦を、畳を貫通して地中に入りました。お袋は私の手をしっかり握りしめ、急いで、自宅にあった防空壕に入りました。終戦近くなると、空襲警報が鳴り響く回数が多くなり、その都度、同壕へ、止むと自宅に戻りました。飽食時代と違って、毎日の食べ物にこと欠いた時代でしたので、「生活ごみ」はほとんどなく、わずかに残ったゴミは自宅の庭に穴を掘り、捨てておりました。優しいお袋もすでに鬼籍に入り、最近、17回忌を済ませたばかりです-大正生まれの人で、愚痴も少なく、敗戦による食糧難であった時も煮物をしながら美空ひばりの歌を口ずさんでいました-男の子5人の生育に身を粉にして働く日々でした。

ICU(国際基督教大学)から自転車で10分ほどの武蔵野市境4丁目(現在の境南町4丁目)に住んでいました。終戦時は大変な食糧難で、どの家庭も子沢山だったので、親は食糧調達に奔走し、時には川越の在の農家からサツマイモと持参した大切な着物と交換、夕方近くには帰宅し、早々にサツマイモを蒸かし、夕餉の主食として、ちゃぶ台の上に湯気のたったサツマイモが乗った時、兄弟5人の手が間髪を入れず一斉に伸び、たちまちなくなりました。屈託のない笑顔の子供たちは下校後、夕方までは親は夕飯を作っていたので、子守をさせられ、近くの広場ではチャンバラごっこなどで1日を過ごしました。食事も貧食であったので、四六時中、空腹が頭の中を支配していました。楽しみの一つが遠足で、近くの井の頭公園へ出かけました。当時の写真を見ると、親父の軍服を直した上着とズボン、水筒を掛けていました。

・昭和25年~26年頃、時々、自宅の前には男の兄弟が多く、3男の中学生のお兄さんが、その弟と私達3人で空腹を満たすため廃墟と化した同三鷹研究所の発動機試作工場の天井近くにある“雀の巣„を取りに行きました-お兄さんは一気に剥き出しの鉄骨を登り詰め、スレ-トの屋根に乗ったところ、スレ-トが突然割れ、お兄さんはコンクリ-トの床に落ちました。顔面蒼白で、右手首から出血し、“白い骨„が露出したことを鮮烈に覚えています。幸い、心配性の次男のお兄さんが我々を探しに来てくれましたので、早々に弟を、自転車で武蔵野日赤(昭和24年開設)に連れていき一命を取り留めました。

(野川での魚釣り)

・当時の野川(注2)は緩やかに蛇行し、今と違って水流は早く、水量も多く、水は澄んでいました。野川の魚釣りは昭和27~28年頃と思います。時折、自宅前の長男のお兄さんが魚釣りが好きだったので、近くのゴミ貯めから魚の餌になるミミズをとり、万端整えてから、ICUの校内を横切り、今の『泰山荘』の中の鬱蒼とした森の中を抜け、ジメジメした坂を下ると、直径50メ-トル程の〚中島の池〛があり、真ん中に小さな丸い島がありました。この池でも魚釣りをしました。すぐ近くの南側には野川が流れており、鮒(マブナ/銀ぶな)、タナゴ(赤く・青い)、ハヤ(ウグイ)、ヤマベ(オイカワ)などが釣れました。
人見街道野川御狩野橋














〈写真引用元:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%B7%9D_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD)〉
・野川の北側には国分寺崖線があり、「ハケ」と呼ばれる崖の斜面一帯には豊富な清水が湧き出ており、狭い田圃の中を1メ-トル程の浅い小川が流れ、野川に注いでいました。清水は年間の水温が安定しており、冬の水温は暖かく、夏は冷たいので、小ブナ(銀ブナ)、泥鰌などがいました。冬場には、こんもりとした水草の下に小魚が隠れておりましたので、片足でドンドンと土を踏むと、驚いた魚は慌てふためいている様は実に面白く、魚にはいい迷惑であったかもしれません。

・清水の水源地の周りは綺麗に整備された小石が一面広がっておりました。水温が安定していることから江戸時代末期の天保年間に上方からワサビを移植し、土着の農家が、栽培していたといいます。砂利を手で掘ると、甲の部分が黒く、足は赤く、透きとうっている沢蟹がいましたので、野川での釣果が上がらない時は、沢山獲り、夕餉のおかずにしました。

・当時、今の「自然観察園・自然観察センタ-」の中に、土地っ子(地元の大沢の子供)が「爆弾の池」と呼んでいた直径10メ-トル程の丸い池が2つあり、米軍が投下した1トン爆弾の跡でした。冬になると、池に水がなくなりましたので、筆者は時々、裸足で池の中に入り、小さな穴を見つけ、手を入れて獲ると、泥鰌が“キッキッ„と高い声を上げ、泣いているようでした。

・先日、井の頭公園の池の「かいぼり」が話題になりました。野川でのかいぼりも実に楽しいものでした。5~6人で川に入り、上流と下流を堰き止め、中の水を抜くと、逃げ場を失った魚が、右往左往したところでとりました。フナ、ナマズ、ヤ、ヤマベがとれ、用意したバケツに収穫物を入れました。時にはよく肥えた天然うなぎ(腹が黄色)が、獲れたこともありました。収穫物は均等に分けて、各々自宅に持ち帰りました。



【平和の大切を知る】

(ICUの青春)

・筆者の幼い頃の思い出は“戦争と食糧難„につきます。戦争により日本人はすべてを失いました。当時、向こう三軒両隣というという流行り言葉がありました-どの家庭も煮炊きをする際、味噌、醤油などがなくなった時、台所の窓越しから隣に大きな声で「味噌がなくなったので、貸してよ!」-互いの共存意識が芽生え、双方の存在感・連帯感が高まったのです。

・最近、時折、ICUのカフェテリアでコ-ヒーを飲みながらのんびりと、流れる時間を過ごしております。近くには多くの学生さんが弾んだ声で談笑する姿は頼もしい。キャンパスは後楽園ド-ムの13倍の広さであるという。学校全体には多くの木々が植生しており、4月中旬から桜の木が見事に咲きました。特に有名なのはICU正門から教会の手前までの道路(滑走路跡)の左右の桜は毎年見事な花を咲かせます。最近ではケヤキの若葉が実に美しい。でもちょっと気がかりのなのは、昔と比べると木々に生気がなく、疲れが目立ちます。

ICUの教育環境は素晴らしい。この地が60数年前は軍事産業の拠点であったことは信じられません-平和故に、今はICUの学び舎と変わり、多くの優秀な人材を輩出している。

・目を転じると、野川も大きく変わった。昔は猫の額ほどの水田があり、その中には多くの水生物が生息している。4~6月頃、トノサマガエルのオスが水田に集まり、夜間、両頬にある鳴嚢を風船のように膨らませ、わが世の春とばかりに男性合唱団のようにフォルテで、終日ラブコ-ル送る-生きる喜びを謳歌するように、“そこには自然の豊かさ„がありました。

・今は祭日になると、多くの家族ずれが水量は減りましたが、小学生が野川に入り、小さな網で、水生動物を獲ったり、湧き水も減りましたが、近くでは草の上にシートを引き、家族団欒で食事をとっている情景は実に微笑ましいです-60数年前の国民生活は戦争一色、敗戦により国民生活は苦難の極みでした-国民は忍耐と寛容さを求められ、学んだのです-そして60数年後の今があります。

(注1)高柳昌久論文「中島飛行機三鷹研究所~その疎開と終焉~」、国際基督教大学、アジア文化研究所紀要 『アジア文化研究』34号、「中島飛行機三鷹研究所」~その建設まで~」の続編。

(注2)野川の水源地は日立製作所中央研究所内(東京都国分寺市)です-1級河川で、延長20.5km、河口・合流点は多摩川(東京都世田谷区)。

(グローバリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹


 

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