2015年09月

恩師 寺田 剛先生の思い出

2015927


【プロロ-グ】

著者は亜細亜大学在学中、寺田剛教授のゼミに入り、地方史(武蔵境・高橋家調査)の指導を受けた。授業に加え、人生の師として先生より多くの示唆を頂いた。卒業から半世紀が過ぎ、寺田先生の記憶が次第に薄れる現在、先生の教え受けた一人として、当時の先生の教育者(天職)としての素顔を、ここに取り纏めてみました。

【静かな思い】

(優しさ)

寺田先生が鬼籍(77)に入られてから、四半世紀になる。筆者も後、数年でその年になる。卒業してから48年を経った今、あの頃の思い出は、様々なことが脳裏を駆け巡り、目に浮かぶ-“先生の笑み、学生たちの笑み、そして悲しみ”。寺田先生から薫陶を受けた人達の思いは不断なく続く。

筆者が先生と最初にお会いしたのは、19654(昭和40)、亜細亜大学・教養学部の寺田ゼミ(東洋史)の授業を受講した時でした。学生は20名前後、先生は教科書として『宋代教育史概説』を使用し、各人に読ませました。残念ながら、余りにも難解であったために、数回の授業後、先生は微笑みながら「皆さん、読むのが大変なので」、授業の内容を「地方史」(武蔵境高橋家)に変更しますと。

(真摯な教え)

寺田先生の指導の下にゼミ生は一丸となって、19655月、「高橋家」の歴史(出自)の調べることになりました。先ずは、境の氏神様の杵築神社(境南町)に参拝。高橋家は30数家からなり、どんな系譜を持っているのか、どこから発展したのか、数多くの疑問と興味をもって、調査が始まりました。

先ず先生は、ゼミ生に役割分担を決めて、それぞれ、高橋家の人々を訪問。-直系から分家へ、そのまた分家への時期と家族構成など拝聴して、高橋家の歴史の綾を、徐々に解明していきました。

(自由奔放)

調査が一区切りを終えると事前通り、先生は、「今晩はコンパにしましょう」と、優しい言葉で、ゼミ生に招集をかけたのです。酒席では、授業と同様に先生とゼミ生は静かな雰囲気の中で、自由闊達な世界をつくりあげたのです。先生とゼミ生の調査は佳境に入り、先生は取り纏めに入りました。不明な点があると、担当した学生から直接聴取。しだいに高橋家の全体像が見えてきました。

その結実として、196611(昭和41)、寺田教授ゼミ研究集録第1集〖武蔵境 高橋家々請〗を発行しました。加えて、『武蔵野市史』1970(昭和453/247)の中で、境の高橋家に言及した際、〖武蔵境 高橋家々請〗の資料を引用したのです。先生は大変喜ばれておりました。

(奥様のこと)

寺田先生は面倒見の良い方でした。南大泉の自宅、転居された新座市道場の自宅に時々、ゼミ生はお邪魔することがありました。当時、ゼミ生の多くは苦学生でしたので、奥様の手料理は大変美味しく頂きました。奥様は席に座ることなく、お膳と台所の間を忙しく行き来して、歓待してくれたのです。

今でも、ふくよかな顔で、素敵な笑みを浮かべ、ゼミ生に声を掛けてくれたことが目に浮かびます。

【時は流れて】

(人生の師)

19673(昭和42)、ゼミ生は卒業し、社会人となりましたが、ゼミ生の心の中には始終、「人生の師として、寺田先生の存在」がありました。時には、寺田先生の薫陶を受けたゼミ生は、街中で会う度に、歓談の中で、互いの脳裏に映し出される50年前の光景が走馬燈ように流れました。やがて、思い出は郷愁となったのです。

現在、一部のゼミ生を除いて、20数名の方の所在は不明です。これは仕方がないことです。でも、先生は社会人になったゼミ生のことを大変に気にかけていました。しかし、残念ですが、すでに3名のゼミ生は黄泉(よみ)の世界に旅たちました。昔日の思い出は、時の重さを感じるこの頃です。

 (友は日本酒)

寺田ゼミが始まった頃、先生は50代半ばと記憶しています。先生は、体躯はがっちりとしており、のんびりと歩く姿は、学校周辺の風景と相まって、のどかなものでした-“人生の歩みは様々で、何事も思うがごとくなすべき”-先生のうしろ姿は語っていました。

先生はお酒が大好きでした。何の銘柄だとか、辛口とか、甘口とか、言わずに唯々淡々と飲まれていたようです。先生は老境に入ると、持病もあり、次第に痩せ、顔も小さくなりました。画聖横山大観は、お酒は私のエネルギ-源と毎食、ご飯の代わりに、日本酒を嗜んでいましたことは有名な話です。寺田先生も食事の際、ほとんど米飯はとらず、美味しそうに酒を飲み干していました。

【教育者として】

(天  職)

恩師寺田先生の語り口は楽しい事、悲しいことも、「人を諭す」ように、ゆっくりとした口調で、ゼミ生に話しておりました。人を諭すのは教育者の原点のように思えますが・・・。教師は天職(vocation)と言われた時代もあり、先生の存在は常に崇められていたのです。

(実践の大切さ)

今の教育では天職という言葉は死語となりました。先生と学生との関係はイコールパトナ-ということでしょうか。筆者はその関係について、否定するものはありません。但し、先生と学生との間には子弟という不文律があったはずです。

教育者としての寺田先生、また、人生の師として、先生自身が実践していたように思えます。寺田ゼミは和やかな雰囲気の中で、ゼミ生は互いに研鑽を積んだのです。このような教育環境は現在、欠落しているように考えます。永い間、先生から薫陶を受けた一人として、ここに、恩師寺田剛先生に深謝を申し上げたい。

                                        (グロ-バリゼ―ション研究所)所長 五十嵐正樹

【寺田剛教授略歴】

・東京大学文学部卒、満州建国大学教授、亜細亜大学教授などを歴任。東洋史全般、特に宋代の教育史に通じる。平成2年、77歳没。

【主な著作】

・『大橋訥庵先生伝』(おおはし・とつあん)()、至文堂1936年、彗文社2006年。

・『宋代教育史概説』(1965)

・〚在台湾孔子廟碑文集成〛(中日併記)10(1983)

()幕末期の尊攘派・運動家。諱は正順、字は周道、通称順減、訥庵、曲洲、承天。長沼流兵学者清水赤城の子。江戸に生まれ佐藤一斎の門に学び、26歳で自ら思誠塾を開く。「闢邪小言」で陽明学と洋学を痛烈に駁し、「隣疝臆議」で幕府の対外策を批判し一世を風靡した。将軍継嗣門問題では一橋慶喜擁立を主張。攘夷運動を推進し、安藤信正の襲撃計画を企てたが、坂下門外の変の直前に捕えられる。幽閉中に病気となり、宇都宮藩に預けられたが病没(18161862)


 

現代トイレ考

2015914

【トイレ文化】

(言葉の妙)

・筆者は高齢者、頻尿気味、トイレ様にはいつもお世話になる。トイレは英語の外来語なので何のイメ-ジも湧かない。日本語では、トイレは「不浄」ということから、臭いものには蓋をする-その呼び名や表記には全く解せないものが多い。

・トイレの呼び名は、奇妙きてれつである-▽はばかり、▽ご不浄、▽お手水(おちょうず)、▽遠方(目の届かぬ遠い所へ行って、用を足す)、▽便所、▽手水場、▽雪隠、▽厠、▽閉所、▽高野(高野山の僧侶は髪を剃ることから、髪を落とす、転じて紙を落とす、ということで、トイレのことを「こうや」と呼んでいた。禅宗の寺では、トイレの所在場所の方角によって、東にある雪隠を「東司」、西は「西浄」、南は「厠」、北は「後架」と呼んでいます。このように日本語は、文化を生みだす華といえます。          

【生活の中で】

(長屋生活)

・人間様の生理現象は、我慢するわけにはいかない。自宅のトイレで、用を足し、爽快な気分で、戦場の会社や学校へ出かけて行く。これはごく当たりの日常生活です-約150年前の江戸時代の人々の日常生活に置き換えてみると、当時の江戸の町民の生活拠点(単位)は長屋、ほぼ10世帯に2つの共同トイレ(男女共用)があり、個々の狭い部屋(二部屋)にはトイレはなかった。実際、長屋のトイレを江東区の「深川江戸資料館」にて、当地のボランティアの方から説明を受け、長屋の実生活が分かった。

・当時、長屋のトイレの扉は半分だけ、下半分が隠れるようになっていた。現代人は、そんな構造物で落ち着いて用が足せるのかと思う人が多いはずで、トイレを“私だけ”の唯一の場所として考える。江戸は静かな街で、時は静かに流れる中で、人々は生活していた。午後になると、物売りの声が街中に響き渡る。江戸の人々は大らかで、何の疑いもなく、いつも自然体で生活していた。

・江戸時代前期、河岸端や下水の上に小屋を作って雪隠(せっちん)とした。排泄物はそのまま流れていく構造である。このような雪隠は町触(まちぶれ<法令>)によって禁止されていた。

・江戸時代の盛り場にも“貸し雪隠”が設けられていた。最初は5文ほどのお金をとっていたが、下肥(しもごえ)の買い取り価格が高騰すると、無料で提供するところもあった。諸大名は下肥の買い取り価格が高騰すると、大名はこれに目をつけて、農民に大名屋敷の雪隠の掃除をさせるかわりに、農民に下肥を与えるのを入札制にして財政の足しにしていた。

【トイレの歩み】

(明治~昭和)

・幕末から明治時代に入り、世の中は文明開化の波が多くの場に押し寄せ、人々は戸惑う毎日でした。ガス灯が初めて照明器具として光を灯したのは、1874(明治4)に大阪市造幣局の付近に設置され、薄暮から人々の生活に、憩いの場として、光を当てたのです。

・トイレは不浄の場として、時代は変わっても人々の意識は変わることはなかったのです。明治、大正、昭和と和式の便器(陶器製)を使用し、先端の丸みを帯びた突起部分は金隠し(きんかくし)とよばれ、マイナ-で、ネ-ミングの可笑しさを感じます。

・下肥の処理は戦後も長い間続きましたが、次第に減少します。終戦後、日本を占領した米軍兵士により持ち込まれたサラダ菜の生食の習慣のため、回虫など寄生虫感染防止という衛生上の理由が生じたことに加え、化学肥料の普及などから利用価値が低下し、高度経済成長期には取引は行われなくなった。これにより、下水道の整備や浄化槽の設置が本格化し、水洗トイレの発展につながったのです。

(発展期)

1960年代の高度経済成長期に入り、住宅公団の洋式トイレの導入で、一般家庭では、広く水洗の衛生陶器が利用されことで全国の水洗化率は、1963年から1973年の10年間で、9.2%から31.4%にまで一気に上昇。特に東京都では30.9%から67.8%へと大幅に増えたことで、3分の2以上の住宅で水洗になった。

20世紀に入り、洋式便器と男性用小便器が登場。英軍、米軍などの欧米諸国を中心としたGHQが日本を占領していた頃に劇的に日本各地に広まります。1977年には洋式便器の販売が和式便器の販売台数を超え、スイスやアメリカにあったビデ付の便器を東陶機器(TOTO)が取り入れ、拡張機能を加えた「温水器洗浄便座」として、1980年にウォュレットのブランド名で販売されます。

【意識の変革へ】

(商品開発)

1978年夏、TOTOは消費者を対象にトイレのイメ-ジに関する調査を行います。その結果は、「紙を使わないで済むトイレ」や「臭わないトイレ」を望む声が多かったのです。「消費者は、快適な空間をトイレに求めている」、TOTOの商品開発部は本格的な洗浄便座の開発を決定。膨大なデ-タの収集から実験による試行錯誤が続きました。

・ウォュレットの登場は、日本のトイレ文化を大きく変えました。人々のトイレへの意識変革が芽生えることで、トイレのマイナ-な部分は次第に払拭されるようになります。TOTOはウォュレットを拡販するために、午後7時のゴ―ルデンタイムに“おしりだって、洗ってほしい”というコピ―とともに、タレントを起用したウォュレットのテレビCMが放映されました。ウォュレットという名称は、「これからは(お尻を)洗う時代です。洗いましょう」と呼びかける「レッツ・ウォシュ」を逆さまにしたものであったとされます。

・このコマシ-ャルに視聴者から「今は食事の時間だ。飯を食っている時に便所の宣伝とは何だ!」などとクレ―ムが入り、おしりという言葉を使用したことなどについても批判されたようですが、しかし、批判も含めて大きな話題を呼んだのです。
(家庭へ普及)
・ウォュレットが一般家庭用に発売されたのは1980年、その後、ビデ機能や消臭機能、リモンコンを追加して、発売から19年後の1998年には累計販売台数1000万台を突破し、20157月現在、4000万台を突破した(15/9/1TOTO発表)。内訳は非公表ですが、このうち9割以上が国内向けとみられ、一般家庭の普及率は約8割となった。

・ウォュレットの一般家庭向けは急速に浸透した時期は、19801998年は丁度バブル景気の時期と重なり、国民のお財布が潤っていた時期です。発売時期がバブル崩壊後の大不況時であったら、現在ほど普及していなかったかもしれません。

【謳歌する解放感】

(女性重視)

・ウォュレットの登場で、人々の意識大きく変わりました。最近、公共施設への多大な投資の一つが高速道路のパ-キングエリヤ(PA)の充実です。その事例として、「中日本高速道路」自慢の静岡市の新東名高速道路・清水パ―キングエリア(PA)のトイレは、連日多くの利用客で込み合っています。トイレの外壁はガラス、中は白を基調とした壁材が用いられ、鏡台はピンク色などから明るく開放的です。このトイレを設計するに当たり、「使う人、清掃する人の声を聞き、専門家の提言を取り入れ、あらゆる部分を変えたという」。女性重視、快適・綺麗にとのコンセプトで、つくりあげたという。

・政府は94日、快適なトイレを増やすために内閣官房が本年度初めて募集した日本トイレ大賞に、①高尾山の山頂(標高599メ-トル)付近に都が設置した大見晴園地トイレ(参考)。②女性複合商業施設「渋谷ピカリエ ShiQs」を運営する東急百貨店など28件を選んでいる。都内表彰式で、有村治子女性活躍担当相は「トイレは日常を豊かにする上で避けては通れない課題の一つです」と述べ、関係各位にエ-ルを送っている。

(参考)山岳トイレでは全国的に珍しい2階建てにし、狭い敷地内に男女計63個の便器を設置-女性は47室あり、男女の比率は37

(成長戦略)

・トイレは政府の施策で成長戦略(訪日外国人向けで魅力発信や国際標準取得)、地方創生(公共トイレの改善)、防災(避難所のトイレの改善)、国際貢献、教育環境の改善など様々な面で取り上げるようになっている。設備やメンテナンスで「日本に学べ」という動きも起きている。今やトレの存在は世の人々に貢献している。

(おもてなし)

・成田空港の第2タ-ミナルビルの本館と別館の間に今年できた広い通路に「日本のトイレ文化・技術力を世界に発信する」と銘打ったトイレがある。ギャリ-TOTO。男女それぞれ4か所ある広い個室には節水、除菌、汚れ防止の付いた最新のトイレや洗面台、赤ちゃん用のイスが設置されている。その前で多くの外国人が立ち寄り、記念写真をとると成田国際空港会社の細谷桂子マネジャ-は語る。

【終わりに】

・トイレは人間様にとって、昔から、用を足すまでは忍耐。トイレに関わると蔑(さげす)まれる雰囲気もありました。しかし、近年、それが変わってきた。「トイレをみると、お店や地域、その社会が分かる。トイレはバロメ-ターなんです」と。トイレプラナーで日本トイレ協会の理事も務める白倉花子さんは指摘する。

・トイレは長い歴史の中で不浄の場として、自宅や事務所、公共施設などで片隅に追いやられ、厄介扱いされてきました。時代は流れ、トイレはステイタスシンボルとして、重要な施設となりました。トイレは“負の存在から富の存在”となったのです。

                                        (グロ-バリゼ―ション研究所所長 五十嵐正樹)

(資 料)

・邦字各紙

・山本博文著「大江戸事典」集英社、2010929日。

・林美一著「江戸の24時間」河出書房新社、1989129日。

・石川英輔著「大江戸生活事情」、講談社文庫、1997115日。

・石川英輔著「大江戸リサイクル事情」、講談社文庫、19971015日。

TOTO資料など。

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