2016年01月

女子教育に一生を捧げた福西志計子女史

2016年1月23日

〖プロロ-グ〗

福西志計子(ふくにししげこ)という名前を初めて聞かれる方が多いと思います。著者も数年前に知りました。幕末の1848年(弘化4年)に松山藩士福西伊織の一人娘として備中松山(現岡山県高梁市〈たかはし〉)に生まれます。名は繫、後年は志計とも志計子と呼ばれています。7歳の時、父と死別、母の意向で隣家の山田方谷(幕末期の儒家・陽明学者)に学びます。幕末から明治に移り、福西志計子は当地にて、自ら身を挺して女子教育に心血を注ぎ、35歳の時、同県初の女学校・順正女学校を1881年(明治14年)設立します。中等教育の実践を通し、高等教育普及の礎を築いた人です。
Fukunishi_Shigeko













〖学問の大切さ〗

(母の訓え)

・志計子は幼い頃から聡明で、しかも意志強固な子供であったことから、両親も周囲の人達の期待も大きかった。志計子は生涯の間に5度も大きな人生の試練に襲われたという。最初の試練が7歳の時に見舞われた“父の死”で、一家は途方に暮れます。母は実家の剣持家に身を寄せます。父の死に悲しむ志計子を母(福西飛天子〈ひでこ〉)は、「人の死は突然襲い、人は、この苦境を乗り越えなくてはなりません。山田方谷先生は、百姓の出身ですが、学問を修めて、松山藩の重鎮となり、藩政改革を行いました。その教えは、まず読み書きを習得し、技能を身につけることが大切で、不安な時代(幕末の動乱)を生き抜く確かな手立てです」と切々と訴え、諭します。このことが、志計子の“原体験”となり、生涯の生き方支配することになります。

(方谷の訓え)

・碩学山田方谷の学問は、朱子学から陽明学を修め、藩校有終館の学頭となります。江戸遊学時代には、当地で有名な佐藤一斎塾での先輩佐久間象山との論争や西周との対話に見られるように陽明学に拠って立ち、洋楽と対峙しました。

・志計子は母の訓えに従って、山田方谷の門をたたくことになります。入門した志計子は句読師について儒学を、その他、種々の教養を学びます。平成17年に出版された山田方谷顕彰会『入門 山田方谷』には、女性の弟子として福西志計子の名が記されています。

〖理念を以て飛翔〗

(キリスト教徒に)

・志計子は1875年(明治8年)に「岡山裁縫伝習所」に学んだ後、1876年(明治9年)から高梁小学校付属裁縫所の教員として勤めます。その後、1879年10月(明治12年)と1880年2月(明治13年)、新島襄(同志社大学創設者)らの高梁でのキリスト教の伝道を聞き、キリスト教婦人会を結成して世話人となります。ところが、これが町議会から非難され、1881年7月(明治14年)、教員の職を辞します。1882年4月(明治15年)、高梁キリスト教会が設立されると、洗礼を受け、同協会の女性の中心的な指導者として活躍します。

・教員を辞した後、同年12月、自宅で私立裁縫所を立ち上げます。その際、志計子は女学校の校名の考案を山田方谷の高弟で高梁小学校の校長していた兄弟子の吉田寛治先生に依頼した。吉田は漢籍から「順正」を提案したことで「順正女学校」と呼ばれるようになりました。このように福西女史の「順正」女学校も山田方谷の系譜につながっています。

・「女性に自由な教育」を理念にした女学校は、裁縫のほか文学科を設け、神戸などの先進校から女教師を招いて、教育の内容を充実させます。また、洋服が流行し始めると早速、上京して洋服の仕立てや洗濯の仕方を学んできて生徒に直接教えます。毛糸の編み物や造花などもいち早く教えるなど、木村静子の協力もあって、高梁での女性の地位向上、女子教育に大きく貢献します。「人の見えない所に働くものとなれ」が信条でした。

(方谷精神とキリスト教)

・幕末から明治初期に洗礼を受けたキリスト教徒になった人達には、戊辰戦争の敗戦によって志しを得なかった佐幕藩(松山藩主板倉勝静/十五代将軍徳川慶喜の老中)の士族が多かった。福西志計子も木村静もそうであった。また、彼らが入信しやすかったのは、日本の武士道とピュ-リタンの精神との間に親近感があったからだといわれています。

・加えて、新渡戸稲造の『武士道』の中で、新約聖書と陽明学の体系は極めて類似していると指摘しており、植村正久は「武士道に継木されたキリスト教」と表現しています。このような見方に倣うならば、山田方谷門下で学んだ福西志計子の場合には「方谷精神に継木されたキリスト教」といえます。

〖志計子の人間像〗

(有為の人)

・福西志計子はキリスト教の信徒となったため、周囲から強い偏見と迫害にさらされた中で身を挺し、女子教育を推進します。その際、多くの人々に支えられ、その人達に大いなる愛を注ぎます。福西女史は男よりも男らしく、なんともいえない威厳をもち、人を畏服させたと言われていますが、人の魂を魅惑し、ひきつける不思議なカリマスを備えた人です。

・福西女史を支えた人は数多くいたが、とりわけ強い絆を結んだのは木村静(同志/裁縫所教員)、河合久(同志/教え子)、留岡幸助(日本の社会福祉の先駆者/高梁教会)、山室軍平(日本救世軍の創始者)、伊吹岩五郎(順正女学校の後継者)です。

(気高い人)

・1894(明治27年)「新築趣意書」を作り、校舎建設資金の寄付金の募集活動にとりかかります。福西女史は夜を日に継いでの鬼人を泣かしめるほどの奮闘に周囲の人脅かせたが、しかし、過労がたたって福西女史は1896年(明治29年)の夏頃には体調を崩し、糖尿病は酷くなり、肺患を併発します。1897年(明治30年)には次第には衰弱していった。

・伊吹岩五郎は毎日病床を訪れ、福西女史もこれを心待ちするようになります。病床で伊吹は聖書をひもとき、福西女史も一緒に讃美歌を歌うのが大きな喜びでした。ある時、伊吹は詩編の23篇を大書して病室に貼ってやると、福西女史はとても喜んで、これを大声を出して繰り返し、読んだといいます。

・志計子は、病魔は神が与えてくれた恵みで、これによって、祈りが思うままになったと感謝している。ここに女史の信仰の神髄がみられます。1898年8月(明治31年)、福西志計子は亡くなります(満50歳)。

・同年11月伊吹五郎は第6代校長となっている。河合久先生(前神戸女学院教員/順正女学校第1回卒業生)と協力して、順正女学校の重職を担って発展させ、中興の祖となり、1929年(昭和4年)に辞任します。以後、紆余曲折を経て、現在、「岡山県立高梁高等学校」となっています。

・福西女史が昇天した後、伊吹は留岡の勧めで『信仰美談』を書いたが、その中には「細川ガラシア」、「丹後ノブ」に合わせて福西女史など3人の信仰生活が述べられています。福西女史の信仰はそれだけ気高く美しいものであった。
〖エピロ-グ〗

・幕末に生まれ、明治時代に入り、日本の女子教育に奔走した津田梅子(津田塾大学の創設者)、広岡朝子(日本女子大学の創設者)のように中央に活動拠点を持ち、その活動は注目され、後世に名を残した人々です。

・反面、福西志計子女史は、岡山県中西部に位置する高梁市にて、一生、自らの身を捧げて中等教育の実践を通し、高等教育普及の礎を築いた人で、敬虔なキリスト教徒でした。多くの人々は、同女史の生き方に共鳴することでしょう。その感動は、自分の将来への一助になるかもしれません。

地方人物史(岡山県)

               (グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(資  料)      

(1)倉田和四生著『福西志計子と順正女学校』山田方谷・留岡幸助・伊吹五郎との交友―吉備人出  
  版、2006年12月16日。

(2)野島透著『山田方谷の夢』、明徳出版社、2011年12月1日。

(3)林田明大著『財務の教科書』、「財政の強人」山田方谷の原動力株式会社三五館2006年10月1日。

(4)高梁市ホ-ムぺ-ジ。

(5)拙稿『街中の人々の生活』、「山田方谷について」、2015年11月、34頁。

(6)ウイキペディア

向島の街角にて

2016111日

〖大川の向島〗

(歴史を偲ぶ)

・浅草側から大川(隅田川)に架かる言問橋を渡ると向島である。天を衝く「東京スカイツリ-」(2012年/5月開業)が目の前に見え、誰もが強い威圧感を覚える。向島は将軍様の治世の頃、向島周辺(吾妻橋)から下流は大川端と言われ、風光明媚な地としてつとに有名で、真夏の花火は町人の心が高ぶった。交通の便の良い大川左岸には「水戸藩下屋敷」があり、おそらく水戸藩の年貢米や各種の物資などを所領地から運び所蔵したものと思われる。当時、総じて多くの藩の下屋敷は、ご府内から一番遠く離れた郊外にあった。

・水戸藩下屋敷は、現在は「隅田公園」に変わった。関東大震災後に向島須崎から遷座した「牛嶋神社」があり、本所地域の総鎮守である。ここには「牛嶋撫牛(なで牛)(1825年/文化8年11月建立)があり、参拝者は病んでいる患部を牛の同じ場所を撫でると病は治癒すると、江戸時代時代から参拝者は絶えなかった、今でも治癒祈願のための参拝者が多い。昭和の作家で牛嶋小学校に在籍していた堀辰夫も自伝的作品『幼年時代』の中で、「私はそのどこかメランコッリクな眼ざしをした牛が大変好きだった」と記している。


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・東京スカイツリ-の創業により静かで、素朴な向島は“静動混在の街”に変わった。浅草と向島をつなぐ言問橋
(1928年/昭和3年完工)は、今や世界の観光地となった賑やかな浅草(台東区)と向島(言問通り)を結ぶ。言問橋の由来は在原業平の詠んだ、「名にしおはば いざ言問はむ 都鳥わが思ふ人ありなしやと」(伊勢物語)からきている-都鳥よ、「都」と名前がつくお前に問おう私が思いを寄せるあの人は、まだ都にいるだろうかと、切ない心情を吐露している。この言問は、現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」のことで、言問橋近辺には地名としてはあったわけではない。
(検番通り)
・言問橋を渡り最初の角を左に曲がると、そこは「検番通り」である。ほぼ大川の上流方向に沿っている。狭い道の沿道には高い建物がなく静寂な世界が筆者を迎える。しばらく歩くと、「三囲神社」(みめぐり)の鳥居が目に入る。1693年(元楽6)、旱魃の時、俳人其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊() ふた地や田を見めくりの神ならば」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。このことから同神社の名は広まり、松坂の豪商・三井氏が江戸に進出する際、その守護神として崇めた。加えて、三囲神社が三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったこと、三囲神社の“囲”の文字に三井の井が入っているため、「三井を守る」と考えられたため、越後屋の本支店に分霊を奉祀したという。


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(
花  街)

・三囲神社から5分ほど歩くと、道路の左側の建物に「向嶋墨堤組合」(検番)の看板が掛けられている。検番とは料亭からの芸妓の依頼に対して、置屋(芸者)に連絡して取り次ぐ仕事をしている。いわば芸者の斡旋業である。昭和20年代には向島では料亭・料理屋150軒、芸者約600名の規模であったが、諸般の事情(バブル崩壊/官官接待批判など)により政財界の花柳界への利用が減少してしまった。現在では規模は縮小し、芸者は110人、料亭17軒、置屋は50軒ほどである。向島・花柳界は、一時は繁栄を極めたが、今では世の中の時勢に沿った生き方を模索しているようだ。向島は、今でもひっそりとした静寂な地で、世の中の悩ましさや煩わしさは別の世界の事と感ずるが・・・・・。

・向島の人に聞いた話だが、向島の中学校を卒業した女子中学生が、芸者になりたいと向島の花街関係者に相談したところ、18歳以上ではないと、断れたという。仕方なく東京中の花街関係者に相談したが、結果は同じであった。人伝えに八王子の花街に身を置くことになった。“くるみさん”が18歳になったら指名して下さいと-筆者は向島の人に頼まれた。向島の人の優しさと、あっけぴろげな気質を知る。

・偶然にも、この“くるみさん”を紹介する番組が昨年11月17日、NHK総合【首都圏ネットワ-ク】~八王子芸者・17歳の“期待の新星”が放送された(12月2日夜10時からBSプレミアムで放送された)-“くるみさん”は(17歳)は、2014年に中学を卒業したという。子供のころから日本舞踊を習い、中学校3年の時に踊りの先生に勧められて八王子芸者を見学したという。母・陽子さんは、「知らない世界なので、アドバイスもできない。しかし娘は芸者になりたいと泣いて訴えた」と、振り返る。期待の星・見習い芸者“くるみ”さんのお座敷デビュ-は、今春の予定という。地元の客も八王子の伝統を受け継ぐ17歳に期待を寄せている。

〖橋のたもとで〗

・起点となる「検番通り」の左角にある「下町割烹・上総屋(かずさや)」さんは1928年(昭和3年)創業である。東京大空襲時(1945年3月10日)、浅草と向島は火の海となったが、お店は奇跡的に焼け残り、今日まで営業している。筆者も時々訪れ、お客の多くが注文する新鮮なマグロブツ定食(600円)を注文する-マグロのブツ、魚のツミレ(団子)、少々の煮物、味噌汁などがついている。主人は、客が入ってくると、威勢のいい掛け声で “いっらっしゃやい”と-著者が若い時に商店街の魚屋のおやじさんの声を思い出した。客筋もいろいろだが、現役のサラリ-マン、顔の皺が目立つ仲の良いご夫婦は、顔を合わせ、先ず、生ビールを飲む。苦労の多かった時代を乗り越えたことが仕草に滲み出る。白鬚橋の近くに住むという。筆者も満足げに店の引き戸開け、少し上り坂を言問橋に向けて歩き出す。橋の手前の公衆トイレで用を済ませ、出たところ、北島三郎に似た人がベンチに座って考え深げにタバコを吸っている。著書が話かけると、それから約45分、自分の半生記を面々と話し始めた。演歌歌手志望で、大阪から東京まで苦難を重ねた。しかし、芸能界のル-ルと裏事情がいやなり、足を洗ったという。今では北千住に住み小さなマンションを持ち、静かに暮らしているという。残念なのは親不孝(お袋)したことですと、しんみりと話してくれた。「今の話をここで忘れてください」と、静かに自転車で立ち去って行った―イナセナ人の言葉が印象に残った。

著者は「言問橋」の橋の上で、米国人の家族と言葉を交わした。「10時間のトランジットで東京スカイツリ-に行って、帰るところです、橋の上は春風が心地よく、実に爽快な気分だ!再び、素敵な日本に来ます」と笑顔で著者に話してくれた。平和の大切さを噛みしめながら一緒に言問橋を渡った。後ろを振り返ると、東京スカイツリ-の威容が目に入る。向島はやはり変わった・・・・。橋の袂にある東京大空襲で多くの方が亡くなった慰霊碑の前で一礼し、帰路についた。

                                        (グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹


(資 料)

・「改訂すみだの文化財」(平成22年度版)

・「新版江戸名所図会下巻」昭和50年1月10日初版発行、角川書店。

・ 墨田区役所/すみだ郷土文化資料館の配布資料など。

・ ウイキペディア。

 

中国の金政策の移り変わり

2016年1月4日

〖プロロ-グ〗

・新中国成立(1949/10)から今年で中国は67年を迎えます。中国の金政策(中国:黄金政策)は国家機密であるため、1978年の第11期3中全会(自由化政策始動)まで、29年間、金の取り扱いに関する施策は、基本政策以外はほとんど不明でした。ここでは、その移り変わりを、推測を含め、以下に取り纏めました。

Ⅰ〖金の計画管理〗(1949/10~82/)

・中国の金政策は毛沢東が天安門の楼上から新中国成立宣言(1949/10)をした時から始まります。当初は、中国人民銀行(中央銀行)の「計画管理」が基本政策です。人民銀行が金の流通に対し、厳格な計画管理体制を実行し、統一的に買い付け、販売し、価格を決定し、民間での流通を厳禁しました(統一管理・統 一買付・統一分配)

◎1949年の金生産(鉱山供給)は、僅か4.5トンでしたが、2014年現在約460トン。

Ⅱ〖金の市場管理〗(1982/9~)

・1978年12月、第11期3中全会を起点に中国の経済政策は、これまでの「計画管理経済」から「改革・開放経済」へ転換し、政策の効率性を重視した市場管理へ転換します。同様に金の施策も以下のように自由化路線へスタンスを変えます。

◎1982年9月:中国の市民が期待に応えた「金装飾品」が1961年以来、解禁され、中国の金市場開放の第一歩を踏み出す(金市場解禁)

◎1982年9月:人民銀行の金保有量1276万オンス(394トン)と、初の公表(情報公開)

◎1986年1月:第7次5カ年計画(1986~90年)が始動し、139の有力金鉱開発のため、米国、カナダと技術協力(外国技術の導入)    

◎1988年7月:国務院秘書長白美清「中国は世界の新たな産金大国を目指す」と。

◎1992年2月:鄧小平「南巡講和」(一層の改革促進)。

◎1992年10月:第14回共産党大会で、「社会主義市場経済」を宣言-中国経済は高度経済成長路線を歩み、国民の所得増大で、金需要急増。産金システム改革が不可欠となります。

◎2001年8月:金装飾品、金精鉱、金塊及び金銀製品価格の自由化(自由化)

◎2001年12月:中国WTO加盟。

Ⅲ〖金の自由化プログラム〗(2001年12月~)

・2001年12月、中国はWTO加盟したことを受けて、金の自由化プログラムが始動します。2002年10月には「上海金取引所」の開設はその第一歩です。ただ金の完全自由化には、人民元建ての金価格が国際価格とリンク(連動)することが不可欠であり、人民元の対外交換性の完全自由化が大前提となります。そのため中国における金の完全自由化は、時間を要します。

・中国の金の完全自由化が達成されると、金需要は飛躍的に増加する可能性があります。その理由は二つあります。第一の理由は、中国の国民は金選好の強い国であること。第二理由は、90年代にインドが金の自由化を段階的に実施した際、金需要は数年間で200トンから800トンへと急増した前例があるからです。800トンとは世界の総需要の20%にあたりますから、市場に与えるインパクトは大きいといえます。

◎2002年10月:「上海黄金交易所」(上海金取引所)上海に創設された中国初の金取引所引所。従  来、中国では、金取引は中国人民銀行によって厳しく統制され、中国人民が投資目的で金を保有することは厳禁でした。

◎2011年11月:金装飾品の小売り管理改革案が正式に実行、金製品小売業務許可証管理制度が廃止され、審査・許可制度になります。

◎2011年12月:金産業への一段の外資導入(一層の金市場の開放)

◎2014年9月:「上海黄金交易所」、外国人による金取引開始(国際板)。取引は人民元建て。

           中国の金シリ-ズ()~中国の金政策の移り変わり。

                                      (グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(資  料)

・五十嵐正樹拙稿「中国の金政策の変遷過程と現状における諸問題」、アジア政経学会「アジア研究」、VOL.3(1996~1997)No.p、1~30頁。

・ワ-ルド ゴ-ルド カウンシル資料(WGC)

・日本経済新聞。

・「Gold Park」、三菱マテリアル()

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