2016年02月

ドイツ人から尊敬されるDr.肥沼信次の生涯

2016年2月26日

〖プロロ-グ〗

・著者はDr.肥沼信次のことを知ったのは、2016年2月10日付「東京新聞」での2記事が最初である。同月14日で行われた講演会(主催<Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会>於:八王子労政会館)に参加し、同氏の賞賛すべき生涯を知ることになった。

・人にはいろいろな生き方があるが、Dr.肥沼信次(八王子市出身)ほど波乱万丈の人生を送った人は稀有である。1937年(昭和12年)ベルリン大学放射線研究室(現フンボルト大学)に入り、世界最先端の放射線技術を学び、将来、嘱望をされていた。しかし、運命のいたずらか1939年9月、ドイツ軍はポ-ランドへ侵攻し、第二次世界大戦は勃発した。この戦火は肥沼信次の前途を暗示していた。ドイツ人以上に正確なドイツ語を話し、ベルリン大学研究者、同大学正教授資格取得者、臨床医として優秀であったが故に戦後のドイツにとって不可欠な人となった。

・ドイツ国内のいたる所では、終戦の混乱が酷くなりポ-ランド国境のヴリーツェン(Wriezenも、ポ-ランドから帰還した一部ドイツ難民(全体で約400万人)の劣悪な生活環境(収用所など)は、伝染病を誘発した。肥沼はソ連軍の要請で、「伝染病医療センタ―」の初代所長となり、伝染病(チフス/コレラ)の疾病対策に尽力する。だが、自身も罹患(りかん)し、1946年3月8日、37歳で不帰の人となった。今から70年前の出来事である。最近、八王子市民からDr.肥沼信次の誠実で、真摯な医療活動を通じて、ドイツ人への人間愛を称賛する声が高まっている。

〖来歴・事績〗

・肥沼信次(こえぬまのぶつぐ/1908年10月9日<明治41年>―1946年3月8日<昭和21>)。1908年(明治41年)、東京八王子市中町に、開業医肥沼梅三郎の次男として生まれる。1921年(大正10年)旧制東京府立第二中学学校(現都立立川高等学校)に入学する。1928年(昭和3年)日本医科大学入学、1934年(昭和9年)同大学を卒業後、東京帝国大学医学部放射線医学教室にて研究活動に従事する。

・1937年(昭和12年)春、国費留学生として横浜からドイツへ向かう。同年ベルリン大学医学部放射線研究室に入り、実験と研究に没頭する。1942年(昭和17年)、ベルリン大学医学部で東洋人として、初の正教授資格を取得する。

・1945年当初(昭和20年)、第二次世界大戦後のドイツで、主に発疹チフスの撲滅に努めたが、既述のように自らも発症し死去。死の直前、看護師に「桜が見たい」と言い残す。後に実弟の肥沼栄治氏からヴリ-ツェンに日本から桜の木が贈られた。Dr.肥沼信次は1994年(平成6年)、ヴリ-ツェン市名誉市民。2000年7月(平成12年)、市庁前の公園に日本医科大学の同窓生と肥沼医師の出身地である八王子市の募金活動の善意によって、大理石でつくられた顕彰碑が建立された。

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(『〜みんなの知らない八王子の偉人〜肥沼信次』
発行:八王子ボランティアネットワーク Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会)

〖戦争の悲惨と人間愛〗

(転 機)

・1945年3月頃、ベルリンは連日、連合軍の空襲を受け、ソ連軍の侵攻が近いとみられていた。在ベルリン日本大使館は、在独邦人約300人をドイツ南部(チェコスロバキア経由で日本へ帰国させる)へと集団避難させることを決定する。しかし、避難当日、肥沼信次は大使館に現れなかった。誰にも告げずに反対方向のソ連の占領地に近いポ-ランドの国境の街、エバースバルへ向かった。

・帰国命令にもかかわらず、肥沼がなぜドイツにとどまったのは、シュナイダ―夫人の存在なしでは考えられない。彼の人生の中で女性と生活を共にしたのは、金髪の美しいシュナイダ―夫人だけである。夫人は肥沼に献身的に尽くした。彼は夫人については一切話していない。彼とシュナイダ―夫人のことは、家政婦だったエンゲルさんだけが知っていた。

(孤軍奮闘の日々)

・当時、肥沼医師は35歳、シュナイダ―夫人32歳。夫人は軍人だった夫を亡くし、5歳になる一人娘のクルステルを育てており、肥沼は夫人の境遇に同情を寄せる。夫人は妹の住むエバ-スバルに疎開すると聞いて、医師として、何かできると同行する。実際、当地から約25キロ南にヴリ-ツェンという町では、シラミの媒介による発疹チフスが流行していた。同疾病は、今でも国際監視伝染病の一つで、第一次世界大戦の欧州で数百万の人が亡くなっている。

・ヴリ-ツェンに駐留するロシア軍は市内にあった戦車隊訓練学校の跡地を利用して、「伝染病医療センタ―」をつくり、伝染病に罹った人を隔離した。初代所長には医師肥沼が就任する。しかし、医師、看護婦、薬不足などから肥沼は孤軍奮闘する(医師一人/看護婦7人/調理師3人)。同センタ―には、ベットも少なく、薬不足のため、肥沼医師は終戦直後の交通手段が劣悪の時に、ベルリン、バルト海沿岸の遠くまで治療器具や薬の調達をした。時には街中や近郊の村にも往診した。吐瀉物、排便による悪臭の中、連日連夜、チフス、コレラなどの疾病対策に尽力した。これにより、多くのドイツ人が、肥沼の治療によって命を救われた。

(終 焉)

・治療にあたって半年後、肥沼はチフスを発症する。肥沼は自室に閉じこもり、看護婦たちに患者の治療を指示し、自らチフスに罹ったことを言わなかった。肥沼はチフスの治療薬や注射を自分自身で使用することを拒否し、「薬は他の人に使ってくれ!」と看護婦たちを励ます。1946年3月8日肥沼博士は、シュナイダ―夫人、家政婦エンゲル、病院の看護婦に看取られ、自宅で亡くなる。遺体は粗末な棺に納められ、冷たい小雨の降る中、市民に囲まれ自宅からフリ-ト広場の墓地にシュナイダ―夫人が建てたお墓に埋葬された。
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(『〜みんなの知らない八王子の偉人〜肥沼信次』発行:八王子ボランティアネットワーク Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会)
・墓石には、ギリシャ神話の医師アスクレピオスの杖が刻まれ、「私利私欲を捨て、伝染病撲滅のため行動し、命を落とした」と記されている。数日後、残されたシュナイダ―夫人は娘のクリステルの手を引き、人知れずヴリ-ツェンの街を去ったという。当時、肥沼の下で看護婦として働き、今でも同氏に書いてもらった看護婦の証明書を大事に保管しているヨハンナ・フィ-ルドラ-さん(2005年当時75歳)は「いつも病人にやさしく接し、懸命に治療に取り組んでいた」と同氏の思い出を語っている。

(使命感と望郷)

・肥沼は亡くなる前日、1946年3月7日、症状は悪化の道を辿る。丁度その日は、家政婦のエンゲルさんの16歳の誕生日であった。肥沼は額の汗を拭き取ってくれるエンゲルさんに、「誕生日おめでとう、誕生日祝いをやれずにごめんね」と弱々しい声で語ったそうです。そして、ひとこと、「桜が見たい」とつぶやいた。肥沼が話したことと言えば、「日本の自然はとても素晴らしい。富士山は美しい山で、特に桜は大変に綺麗だ。桜の花を見せてあげたい」。日本から1万キロも離れた異国の地で死を前にして望郷の念が脳裏をよぎったのかもしれない・・・・・。

・肥沼はヴリ-ツェンの人達に個人的なことは何にも話さなかった。シュナイダ―夫人と同居していることも。多くの同地の人達は肥沼を独身と思っていたのに加え、献身的な治療から彼はキリスト教徒と思い込んでいた。彼はキリスト教徒ではなかった。肥沼の行為は宗教や思想とは関係のない、純粋な人間としての行為であり、“医師として、患者を見捨てる”ことができなった。肥沼は不眠不休で働き患者が回復するたびに一つの命が救われたことを心から喜んでいたという。

〖東西冷戦の中で〗

(ベルリンの壁崩壊)

・戦争が終結し、ブランデンブルグ州(州都ボン)のヴリ-ツェン市では、肥沼が身を粉にしてチフスの撲滅にあった「伝染病医療センタ―」は、ヴリ-ツェン市役所となった。ソ連の衛星国となった東ドイツでは、秘密警察の情報管制下にあり、市としては肥沼信次博士を公に称賛することはできなかった。肥沼に助けられた多くのヴリ-ツェン市民は肥沼の功績を忘れずに清楚な墓を建て、四季を通じて花を絶やすことはなかった。肥沼が亡くなって43年後の1989年にベルリンの壁は崩壊し、これまで封印されていた肥沼への感謝の気持ちを晴れて公言できるようになった。

(ル-ツ探し)

・ヴリ-ツェン市では、地元の郷土史家のシュモ-ク博士が、肥沼についての住民の証言を集め、歴史に埋もれてようとしていた肥沼の功績を公にする。これを機にドイツでは、肥沼の出自調査が始まる。しかし、肥沼が自らの事を一切話さなかったため、まったく分からなかった。ドイツ・アカデミ―の長老で、フンボルト研究所所長のピアマン博士は肥沼について強い関心を抱いた。当時、ドイツに駐在していた立教大学の村田全教授(数学思想史)に肥沼の調査を依頼し、同教授は関係機関に問い合わせをするが、やはり不明であった。やむをえなく「朝日新聞」の尋ね人欄に、肥沼の名前を掲載したところ、ようやく1989年12月14日(平成元年)、実弟の肥沼栄治氏の所在が東京であることが分った。このことを村田教授からピアマン博士、シュモ-ク博士、ヴリ-ツェン市長へ伝えられた。ヴリ-ツェン市民は自らの感染という危機を恐れず、市民の生命を守ってくれた肥沼の過去を初めて知った。

・1993年(平成5年)、ヴリ-ツェン市役所の入り口に肥沼信次の記念プレ―トが飾られる。そこには、「肥沼信次はこの建物で自ら悪疫に感染し、倒れるまで多くのチフス患者の生命を救った」と刻まれた。1994年(平成6年)、ヴリ-ツェン市議会は、満場一致で、肥沼信次の功績を称え、名誉市民とすることを決定した。同年、肥沼栄治氏が同市を訪れ、市長をはじめ多くの人達の歓迎を受けます。栄治氏は兄の墓を訪れ、花を手向け、“57年ぶりに兄と対面”する。・栄治氏は帰国し、ヴリ-ツェンの市長から預かった寄付金で、同市に100本の桜の苗木を贈る。肥沼信次医師の墓にも植えられた。「桜の花を見たい」と兄の夢は、ようやく48年ぶりに叶えた。また、桜の木が成長した時に一つの通りを「肥沼通り」と名付けると議会で議決された。

(日独高校生の交流)

・八王子高等学校(市内台町)は2007年、地元ゆかりの肥沼信次の業績を学ぼうと、同校の生徒が聖ヨハネル-テル高校(ヴリ-ツェン)を訪問。2009年同校の生徒が八王子高校を訪れ、両校は姉妹校となった。東北大震災について、2011年3月中旬、聖ヨハネル―テル高校の校長から、被災地への深い悲しみを綴った手紙が届いた。その後、現地では生徒が小遣いを節約し、保護者や学校関係者からの寄付を募るなどして義援金が集められ、八王子高校に送られた。同校には被災地の岩手県釜石、陸前高田、大船渡の三市の中学校出身の生徒がいたことから、義援金は三市の中学校に送付された。同校の佐藤博文校長は「ドイツの人々が60年前の恩を忘れないことに驚くとともに、有難い気持ち」と話す。

〖エピロ-グ〗

・「誰かのために生きてこそ人生には価値がある」Dr.肥沼信次が崇拝していたアンシュタインの言葉です。まさにこの言葉はDr.肥沼の人生そのものでした。

ブランデンブルグ州の地方紙の記者、ロルフ・リンクリンは言う「後に続く世代もまた、肥沼信次医師のことを忘れずにいて欲しい。博士のような人間は物質至上主義のこの世の中にはあまりいないのだから・・・」と。

・死の直前、「桜が見たいと・・・」とつぶやき、再び日本に帰ることなく、両親に会うこともなく、遥か遠いヴリ-ツェン地で病に侵され亡くなったDr.肥沼信次。現在、同市には弟の栄治さんが寄贈した桜が咲くようになり、毎年3月8日の命日には同市民による慰霊祭が開催されている。

Dr・肥沼信次が亡くなって今年で70年。八王子の市民団体「D.肥沼の偉業を後世に伝える会」が2月22日、肥沼信次の墓前に供える千羽鶴を市に託した。市は命日の38日に間に合うよう石森孝志市長の手紙を添えて送る。

         -我らが八王子の野口英世、Dr.肥沼信次は不滅である-。

人物史(東京都・八王子市)

グロ-バリゼ―ション研究所)所長 五十嵐正樹

(参考資料)

・舘澤貢次〚大戦秘史 リ-ツェンの桜〛1995年8月15日(ぱる出版)。

・川西重忠〚肥沼信次を知っていますか?ドイツ人が神と慕い続け〛。

・「世界週報」2005年6月14日、時事通信社。

・「東京新聞」2016年2月10日、同2月24日。

・なかむらちゑ「ヴり―ツェンの風のなかで」、株式会社開発社、平成27年8月5日。

・肥沼 信次 「八王子の野口英世」2016年2月14日。「八王子ボランティアネットワ-クD.肥沼の偉業を後世に伝える会」主催の講演会の配布資料。

・ウイキペディアなど。

 


歌人江口きちの生涯

2016年2月5日

〖プロロ-グ〗

・筆者が薄倖歌人江口きち1913年(大正2年)―1938年(昭和13年)を知ったのは、2011年秋、群馬県利根郡川場村の『歴史民族資料館』(旧小学校)を訪れ、鮮烈な印象を受けた時である。古びた木造2階の奥まった所に「江口きち」展示室に入った際、目の前には絹性の純白なドレス(複製)が掛けてあり、胸には真っ赤なバラがつけてあった。傍らには、きち自身がドレスを縫上げた時に使用した古びたシンガ-製・ミシンが部屋の片隅に、無造作に置いてあった―寒々とした部屋、純白なドレス-この“空虚感”には、悲しみを象徴するような出来事があったのです。

・この純白なドレスを着て、江口きちは兄広寿と共に1938122日、青酸カリによる服毒自殺(享年26歳)を図っている。きちの生きがいであった短歌、しかし、自裁せざるをえなかったきちの短い生涯が気になった。2012年秋頃からきちの関連資料を集め、また識者の評価等から、歌人としての江口きちの才能が素晴らしいことがわかった。きちの生き抜いた大正初期から昭和10年代の日本は、軍人が政治を支配した暗い時期でもありました。この僻村の川場村にも出征兵士の形で時代の波が押し寄せてきたのです(後述:二首)。
江口きち


























(引用元:http://www2.wind.ne.jp/satouyukio/egutikiti.htm)

〖悲しい日々〗

・歌人江口きちは終生の友・武尊山(ほたかやま:2158m)の麓-群馬県利根郡川場村谷地にて江口熊吉(41歳)・ユワ(34歳)の長女として、1913年11月23日(大正2年)に生まれています。幼少時から学業優秀で高等科卒業後、沼田で和裁を習った後、1930年2月(昭和5年)「沼田郵便局」に勤めます。

・しかし、同年6月、母ユワが脳溢血のため急死したため郵便局を辞め、きちは川場村に戻ります。寒村の片隅で、一膳飯屋の「栃木屋」を継ぎ、父・兄・妹の面倒を見ることになり、きちを取り巻く貧しい生活は、筆舌尽くし難いものとなりました。若い時から流浪人であった父熊吉は、事件に関わり村を出奔し、加えて、兄広寿は脳膜炎により知恵遅れとなります。唯一の救いであった妹たきも1931年10月(昭和6年)、東京「松屋」内の大場美容院に7年の年季奉公で村を出ることなり、きちは寂しさに耐えます。

〖歌人として〗

・きちは心の憂さを歌に託するようになります。小学校の時分に恩師田村はる(晴子)から手解きを受けます。歌人としてのきちは1931年4月(昭和6年)の19歳の折、「女性時代」(1930年11月創刊〈昭和5年〉)の誌友となり、同8月号「飯田章子」の名で秀逸。11月号で一等。この後「涼子」のペンネ-ムで投稿します。きちの恩師、田村はるは川場村を去ります。

以下、母ユワの一周忌で詠んだ一首(昭和6年)と、その他六首(昭和7年)です(旧仮名づかい)。

◎この世にて生きがたかかりし人は今日星空をえらびて去り逝きにけり(母)

○なりはひのいとまを出でて県道の埃まみれしもち草を摘む

○石垣のかげに芽生えて名も知らぬ草も実をもち春たけにけり

○こまごまと心つかひて出(いだ)しやりし妹の行きて気弱くなれる

○帰りゆく武尊は荒れてその下に住ひうごかぬわがさだめあり

○荒れつづく武尊裾野の村に住むわがいのちは小さかりけり

・江口きちの短歌は実感から歌を詠んだという作風から“女啄木”と言われています。作品発表当初は評価が低かったが、日々の生活感情を、素朴ながら気迫のこもった歌風にまとめ、徐々に頭角を現します。しばらくして、江口きちは河井酔茗と島本久恵に師事します。河井酔茗は1939年4月(昭和14年)、「江口きち歌集」(『武尊の麓』より)序の中で江口きちについて以下のように述べています。

・―元来、きち女は楽しみ半分に歌を作るといふやうな肌合でなかったから、仮令感傷をうたってゐるにしても、面白く読んでみて陶酔感を得ようとしてもそれは得られない。寧ろ息づまるやうな苦しさをさへ感ぜしめる歌集だと思う。きち女は格別歌道専修に志していたのでないから、作品価値の上から言へば、第一流の歌人と肩を比べるわけにゆかないのは勿論だ。小学校を卒業しただけでなく深い学問もなく、ただ生来文芸の才能に恵まれてゐたので、それが短歌の形に現われ、遂に7年足らずの間に千首にあまる収穫を遺したといふことになる-(原文どおり)。

・きちは長歌及び詩をのこしている-いもう(妹)とに-

〇歳若く 家を離りて(さか) 都べの 巷にあれど 華やかな 彩に染まらず いつくしき 人にも馴れず ひそひそと 心寄するは ふるさとの 人にあらね 野の花や 山の木の実や おのづから いのちも薄く はかなげに 見ゆかと思(も)えば もの言はぬ 胸のおくがに しんとして ひびくものあり媚び知らず 驕らぬまみに 堪ふるは 孤独の愁ひ あめつちに ただひとりなる 姉われを たのみてあはれ そのわれも 人のえにしに 背は向けて ゆかむとするを 人なみに 安らかなれと 汝のみに 念(おも)ふをむなし生(お)ひ立てば 汝もまたかなし 帰り来よ 姉が佗び住む 人の生(よ)の片隅の塔 扉閉し 垣ひき結ひて 中世(なかつよ)の ゆめひもとかん 塔の外 かくて過ぎゆき 年月は 遷(うつり)かはらん 妹よ そこにこそ汝が やすらひはあるべし 生ける日の はたての日まで 白き花 まきてや埋めん われはともに 1937年春(昭和12年)。

・昭和12年に詠んだ-出征兵を送りて(二首)

○おのづから悲壮の気満ちこの暁を出征兵送ると言葉すくなし

○粛然としづもる庭に出征兵告別の辞の徹りてゆゆし

・1938年(昭和13年)に詠んだ-深夜鏡にたいひて(四首)

○女なれ死にての後の面影をせめてすこしくよそはむとすや

○夜を閉じてかなしきすさびするものぞ人には見せぬ化粧(けはい)してみつ

○誰がために保ついのちぞ相見じと誓ひし面に紅ひくあはれ

○夜はせめていましめときて放ちやらな紅粉(べに)も涙もひとりわがもの

〖切ない恋心〗

・妹たき、友人も上京した。その寂しさを癒すように、1936年頃(昭和11年)からきちは、18歳年長で妻子ある村の有力者・宮田弥右衛門と相思相愛の間柄となり、そのことに苦悶する。その心の痛みを読んだ短歌を多く残している(二首)。

○わが投げる波紋の揺れの揺れを及びいたみあらすなその君の上に

○ただにただに君が苛らちの悲しきを小さき身もて護らむと思う

・また、妹宛に密封して送られ、没後(きち)に弥右衛門へ手渡しを依頼してあった手帖には-「最後の最後まであなたの息吹の中に生きてゐました瞳に映るすべての象の中にあなたがありました・・・何もしてあげることがなったので、せめて毛糸のチョッキでも編もうと思ったのですけれど、もうその間がありません・・・。

・帰っていらして(温泉旅行から)切ない愛に抱かれたならまたそこにくず折れゆくことを怖れます。生きるならきっぱりと、いきなければいけないものを、所詮生まれついた厭離の念から抜けがたい生命は、何の創造もありえないでせう。あなたのために、これまで生きたいのちでこそあれ、あなたのために死ぬのではないことは幾度もくりかえした通りです。・・・決してご自分をお責めにならぬやう、お悔いになることのあらぬやう祈ってやみません。あなたはあなたに渡される大道を、いらして下さい・・・と。

・きちは無能の父、精薄の兄を抱えての苦しい生活、生来の厭世観、実らない恋への苦悩、そうしたものが入り交り、きちは死を決意する。193812月2日未明(昭和13年)、歌人きちは兄を道連れに、服毒自殺を遂げた。枕元には辞世の二首がおいてあった。

〇睡たひて夜はあけにけりうつせみに聴きをさめなる雀鳴き初む

〇おおいなるこの寂しさや天地のあやたまず夜は明けにけり

〖エピロ-グ〗

・妹たきはその後、幸せな結婚をし、満蒙開拓団員として渡満したが、終戦を迎えて帰国する途中、疲労と病に侵され、ついに故郷の土を踏むことはなかった-1946年827日(昭和21年)、29年の生涯であった。たきの2児また、同じチフスのために満州の地で亡くなっている。父熊吉は1942年(昭和17年)に亡くなっている(享年68歳)。江口家は、きちが「亡びの家」と詠んだとおり、今、直接その血を受け継ぐ者はいない。

・きちの生きていた時代は遥かに遠い過去となったが、人間としてのきちの優しさや強さは、現在の混迷深い社会に生きている人々にとって、多くの教示を与える違いない。きちの境遇をじっと見つめていたのは武尊の山々で、きちは終生、心のよりどころであった。今頃、きちの墓のある桂昌寺からは雪化粧している雄大な武尊山は見えるはずである。

最後に「路」―

路は 追憶を秘めてゐる 路は 運命を暗示してゐる 路は 季節をいちはやく知ってゐる 路は 永劫に沈黙を守ってゐる

人物史(群馬県)

                                     ( グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十正樹

(資  料)

・野勝美著「かやつり草」-歌人江口きちの生涯。至芸出版社、平成3年9月30日(1991年)。

・江口きち歌集(『武尊の麓より』)、至芸出版翻刻叢書、19914月23日。

・川場村歴史民族資料館配布資料。

・ウイキペディア。

・その他。

(参  照)

本ブログは、「歌人江口きちの哀歓」(2013123日)を修正・加筆したものである。

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