2016年04月

爺さんの寝言(3)

2016年4月18日

〖取材の足〗

(温泉へ)

・何でも興味の尽きない爺さんこと筆者は、時々車で出かける。今回は取材と遊びを兼ねて中央道の相模湖インタ-で下り、国道20号をしばらく上野原方面に約7~8分走ると、日蓮(ひずれ)の信号が目に入る。そこを左折すると県道71号線である。桂川に架かる強固で荘厳な橋を渡る。すぐに急峻な山坂を約3.5キロ走ると、目の前に小高い山が見えてくる。ここが目的地の「藤野やまなみ温泉」(相模原市緑区牧野)である。昔、中学校跡をボ-リングの掘削を始めて暫くして、温泉が噴出したという。多くの老若男女が日頃の疲れを癒す。

(山村の趣)

・牧野から71号線を山中湖方向へ行くと青根である。ここには、神奈川県の最古の木造校舎「市立青根小学校」(昭和18年)があったが、残念なことに今月3日未明、火災で焼失したことが新聞各紙に載った。青根小の児童は新入生1人を含む4人で、近くの中学校を借りて、予定通り5日に始業式と入学式を行った。近くには峻険な山々の間を縫うようにして桂川の支流が流れる。谷は相当深く、その周辺には点在する村々があり、近くには古くから二つの郵便局があり、住民の生命線であった。

・爺さんは好きなウオーキングでこの急峻な坂を歩きたいのだが“酷”である。事ほど左様に車の効用は人間社会には有益である。が、新聞紙上では、毎日のように交通事故が頻発していることを伝えている。とくに高齢者の事故が社会問題となっている-①高速道路の逆走、②ブレ-キとアクセルの踏み間違い、③時には気が付かないうちに線路に入って運転など枚挙にいとまがない。逆走の事例を見ると、2011~2013年の高速道路で起きた571件のうち、その約7割が65歳以上。高齢者事故の特徴は、第1原因の引き金を自ら引いてしまったことを、本人が無意識である点である。
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(引用元 「朝日新聞」夕刊 2016年4月5日)

〖高齢者講習〗

(人生の皺が)

・爺さんの齢は70年台の真ん中、70歳の高齢者講習を経験し、今回は2回目の高齢者講習である。早々に、40年前に普通免許取得でお世話になった「武蔵境自動車教習所」で手続き行った。3月下旬、9時~12時までのコ-スを取った。何でも一番好きな爺さんは8時半頃スタンバイ。少し緊張気味な爺さん達に若い女性職員がお茶のサ-ビスをする。一瞬気分は和らぐ。爺さんは、受講者の爺さん達の顔を見ると、それぞれの顔の皺(しわ)が人生を物語っている。爺さん達は-“この前事故ったんだ”、“パ-キソン病だ”なんだ。でも、免許は必要なんだよ!

(講習の中身)

高齢者講習(高齢者予備検査)は3時間である。講習予備検査の内容は-(1)時間の見当識-現在の「年」、「月」、「日」、「曜日」及び「時間」を記載する。(2)手がかり再生(記億)-4枚のボ-ドで計16種類の記憶を促す―(3)時計描画―指定した時刻を文字盤に時計の針を描く。後は運転適性検査器材を使用して反応速度を測定する、加えて実際に車を運転するなどである。短時間で心身状態を確認する検査は適切な方法と、爺さんは考える。検査の結果、問題ないと、お墨付きを頂く!

〖明確な指針〗

(40年前は)

・40年前の当教習所の風景を思い出す。職員は自分の職責を全うするのに精一杯で、その他の仕事をする余裕がなかったし、面相は緊張感が漂っていたと思う。実地の予約をとる時、確か、紺色の制服を着たおばさんが若干長めのスケジュ-ル表を見ながら講習者の指定日の有無を確認した。

・実地講習はマニアル車に乗った。運転席のとなりには教官が座り、運転方法を指示する。ある時は優しい中年のおじさんが、ある時は若い人がガナリたてる。とくに、坂上発進は苦手であった。でも、教官様の指示を辛抱強く聴いていた。これが免許取得のための試練なのだと・・・。

(現在は)

・40年前の教習所には、明確な経営者の指針があったと、爺さんは思う。今は、素敵な制服を着た女性がテキパキと仕事をこなす。爺さんはその手際の良さに“びっくりぽん”である。受講者が困っていると、すぐさまその対応をする-”八面六臂“―の活躍、それが使命なのだと!この背景には、経営者の明確な指針とコンピユタ-化があると爺さんは視ている。

〖経営理念〗

(モット-)

・当教習所のモット-は「お客様にとって教習所が一生の思い出の場」。わかりやすい標語であるー爺さんの理解としては、普通免許の取得は18歳からで、多くの若者は初めての国家試験である。免許取得までには多くの壁がたちはだかっている。爺さんも一時、免許取得を断念しようと思ったが、“素敵なかあちゃん”に励まされて、難行を走破して取得した!その過程が“一生の思い出の場”となったと、今でも爺さんは考える。上杉鷹山(治憲)曰く、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」と明言-言いえて妙である。

(将来像)

・船長はチャ-ト(海図)を見ながら、細心の注意をはらって目的地に向かい、荷主の意向に応える。自動車学校の将来像も将来を見据えて弾力的な経営の進化を図らなければならない。その経営理念は、今後とも「共尊共栄」-共に尊び共に栄える-である。因みに国民の自動車免許の取得者は平成25年現在(警察庁調べ)、約8186万人で、男性4540万人(55.5%)、女性3646万人(44.5%)である。国民の約64%が免許取得者である。

・最近の特徴として、若者の車離れは、経済面での理由ではなく、車に興味がないかららである。但し、資格として自動車免許を取得する。加えて、最近の顕著な動きとして、車の自動運転技術の開発競争は各メカ-が凌ぎを削っている。但し、どのような技術革新が想定されても自動車免許は必要であると、爺さんは考える。
sc_main_3035(引用元 https://www.driver.jp/driving_school/3035/)
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(引用元 http://www.carsensor.net/contents/editor/category_1585/_28649.html)

〖展   望〗

・車社会は未来永劫に続くと、爺さんは考える。但し、多くの不確定要素が考えられる。過去にも経営者は、不確定要素との闘いであった。日本経済の最大のネックは少子高齢化社会である。この問題は自動車教習所にとっても避けて通れない難題である。目下、有力な施策はなく、延長線上には労働人口(15~65歳)の減少が待ち受けている。

・将来、日本も他の先進国と同様に移民政策の緩和を図らなければならない。この政策の転換は、潜在的に免許取得者の増加の可能性として考えられる。その動きの一端として、当自動車学校には、すでに3人の英会話ができる教官がいることは心強い-と爺さんは視ている。

(グローバリゼ-ション研究所)所長 五十嵐 正樹

Dr.肥沼信次の留学と諸先輩

2016年4月9日

〖プロローグ〗

八王子が生んだ偉大なヒュ―マニストDr.肥沼信次は29歳でベルリン大学(現フンボルト大学)に入り、研究に没頭し、1942年(昭和17年)に研究成果が認められ、東洋人で始めて同大学の正教授資格取得者となる。ドイツは1939年9月、ドイツ軍が突然、ボ-ランドへ侵攻し、これが発端で第二次世界大戦が勃発する。戦火の拡大で、ドイツ国内は壊滅的な打撃を受け、敗戦を迎える。在ベルリン日本大使館は在留邦人に帰国命令をだす。が、肥沼は日本に帰国しなかった。戦争は終結し、肥沼は1946年当初、8年間過ごしたベルリンからポ―ランド国境に近いヴリ-ツエンに移り住む。そこで、ポ―ランドから帰国した多くのドイツ人難民の一部から発疹チフスが発症し、次第に罹患者が増えた。肥沼は治療のため「伝染病医療センタ-」で、患者への献身的な治療を施す。不運にも自身も罹患し、1946年3月8日、不帰の人となる。この肥沼の真摯な医療活動に対してドイツ人から尊敬される。最近、八王子市民からもヒュ―マニストDr.肥沼信次への賞賛の輪が拡がっている。
Humboldt_Universitaet_Berlin








ベルリン大学(現フンボルト大学)(引用元 
https://ja.wikipedia.org/wiki/フンボルト大学ベルリン


〖留学までの動き〗

(信次の青春)

肥沼信次のドイツへの留学の端緒となったのは、府立二中(現都立立川高等学校)に在学した頃、常々、「相対性理論」(1905年発表)で有名なベルリン大学教授アインシュタインのようになりたいと、強い憧れをもっていたのに加え、キュリ-夫人(フランス人)が女性初のノ-ベル賞受賞者で、しかも2度も受賞するほどの学者であったことなどから信次の部屋にはアインシュタインとキュリ-夫人の写真が飾られていた。勉強に疲れると、写真を眺めながら物思いに耽っていたという。信次の青春時代は寸暇を惜しんで勉学に集中し、ドイツ留学に備えていた(注1)。

1922年10月8日、アインシュタインがマルセイユから妻エルザと共に日本郵船の北野丸で来日する途中、香港から上海に向かう船上にいた同年11月10日、1921年度のノ-ベル賞(ノ-ベル物理学賞)授与がノ-ベル財団から発表された。このニュ-スは「相対性理論」という神秘的な学説を樹立した世紀の天才物理学者への日本人の熱狂的崇拝をいやが上にも高めた。同11月17日に神戸に上陸したその瞬間から彼が行くところアインシュタイン・フィーバ-が巻き起こった。肥沼信次は14歳の時でした(注2)。

(先進国ドイツへ)

信次の数学の成績はずば抜けて優秀で、常に学年で一番の成績であったという。日本の教科書では飽き足らずドイツ語で書かれた原書を買って読んでいたという。信次は、旧第一高等学校を受験するが不合格となり、1年間本郷に住むことになる。近くの東京物理学校(現東京理科大学)で教鞭(数学)をとった。1927年4月(昭和2年)、父親の梅三郎の母校である日本医科大学入学する。

当時、科学に関してはドイツが先進国であった。日本の医学は明治時代からドイツを手本としており、用いられる医学用語も英語ではなく、ドイツ語。著者が若きし頃、開業医は問診の結果をカルテにドイツ語で書いていた。

信次は1934年(昭和9年)に同大学を卒業し、東京大学医学部放射線医学教室に入局し、放射線医学を専攻する。初代教授はドイツ留学から帰国したばかりで、後に日本の放射線医学の基礎を築いた中泉正徳先生(当時39歳/1985-1977年)である(注3)。非常に厳格な指導の下で、肥沼は研究に研鑽を重ね,後に肥沼は中泉先生らとの共著で3編の論文を書いた。程なく、長年の夢であったドイツ留学(国費留学生)を決意する。

 訪独の準備のため、肥沼は、①「外国旅券下付願」(パスポ―ト)、②「身許申告書」(履歴者)、③「保証書」(勤務先の身分証明)、④乗船手続(航路/船室など)を用意した(注4)。肥沼信次は、1937年(昭和12年)の春、母親ハツ(61歳)、弟の栄治(24歳)、研究室の仲間達が横浜に見送りに来た。しかし、誰もがこれが最後の別れとは思っていなかった。それから57年後、弟栄治は兄信次の墓前(ヴリ-ツエン)の前に額ずく。  

肥沼は、横浜港から欧州定期航路に乗船し、名古屋-大阪-門司-香港-新嘉(シンガポ―ル)-ベトナム-古倫(スリランカ・コロンボ)-スエズ(エジプト・ポ―トサイド)などを経由して、馬耳(フランス・マルセイユ)に着くまで41日間、それから、肥沼は鉄道などを利用してベルリンに到着するまでに約50日を要した(極東→極西)。現在、航空機で、日本からベルリンまでの所要時間は約13時間(1万キロ)で、当時と比べると、隔世の感がある。

察するに、赴任中、肥沼は胸を張り、インド洋の広い海原を見て、前途洋々たる自分を誇らしげに思っていた違いないし、ベルリン大学での研究にも大いに期待をしていたに違いない。だが、肥沼の心中は知る由もない・・・。肥沼にはドイツ人以上の語学能力と抜群の数学の力量を持っていた。肥沼は何の心配もなく、目指すベルリン大学に向かった。

〖諸先輩も〗

明治・大正・昭和中期までの日本人の多くは欧州への視察、商用、留学をする場合、欧州定期航路(一部はシベリア鉄道経由)を利用して、仏マルセイユ経由で欧州諸国へ赴いた。ベルリン大学の大先輩森鴎外は1884年6月(22歳)、ドイツ陸軍の公衆衛生学研究の目的で陸軍省からドイツ留学を命じられた。同8月24日横浜港を出発し、インド洋、スエズ運河を経て、10月7日にマルセイユに到着し、同11日ベルリンに到着した。明治維新後、近代医学を学ぶためベリン大学に留学した3人の日本人研究者(医学関係者)を紹介する。そのうち、北里柴三郎と山極勝三郎はノ-ベル賞候補者であった(注5)。

(1)北里柴三郎(1853~1931年)、東京医学校(現東京大学医学部)、日本の医学者/細菌学者、「日本の細菌学の父」として、ペスト菌や破傷風の治療を発見し、医学の発展に貢献。第一回ノ-ベル生理学賞・医学賞最終候補者(15名の内の一人)、北里大学祖。1855年より、べルリン大学へ留学、ロベルト・ゴッホに師事し、業績を上げた。

(2)佐藤達次郎(1868-1959年)、1892年東京帝国大学医学医科に入学。1897年ベルリン大学で外科学を中心に学ぶ。1900年に帰国し、順天堂医院で外科を担当。順手堂医学専門学校を開設。1946年、順手堂医学専門学校が順天堂医科大学となり、初代理事長兼学長に就任した。

(3)山極勝三郎(1893-1930年)、1891年東京大学助教授、1892年からベルリン大学に留学し、ゴッホ、フィルヒョウに師事。帰国後、1895年東京大学医学部教授就任。専門は病理解剖学、特に癌研究では日本の第一人者。1919年帝国学士院賞、1928年にドイツからノルドホフ・ユング賞を受賞。世界初の人工癌発生のメカニズムを解明した。この偉業はノ-ベル候補にもなったが、当時の日本の国際的な地位などの諸事情で、選考漏れとなった。現在の人工癌の発生、それによる癌の研究は勝三郎の業績に拠るといわれています。
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山極勝三郎
(引用元 http://museum.umic.jp/jinbutu/data/031.html)

△萩原三圭(18401894年)は、江戸時代土佐藩士の医師、明治天皇の内親王のご典医、1869年、青木周蔵(外交官)と並び、日本初のドイツ・ベルリン大学留学医学生。

△高橋順太郎(1856~1920年)は、日本の薬理学租(河豚の毒を発見)。ベルリン大学留学、同大学プスレリ-ブライト教授に師事。日本薬理学会に設立に中心的な役割を果す。

〖エピローグ〗

・肥沼信次は青春時代に日夜を問わず、自分自身を研鑽し、その努力はドイツ・ベルリン大学への留学であった。ベルリン大学でも日々寸暇を惜しんで研究に没頭した。その努力によりベルリン大学の正教授資格を取得した。

・歴史にはIF(もしも)はない。彼が亡くなる前に日本への郷愁が高まった。しかし、肥沼のヒュ-マニズムはそれを許さなかった。信次はドイツ人がチフスに罹った人達の治療に専念したのである。ヒュ―マニストDr.肥沼信次は日独友情の架け橋を架けた。信次の死から70年、八王子市民から肥沼の人間愛への称賛が高まっている。最近のヴィキペディア(英国の多言語インタ-ネット百科辞典日本語版)に、ベルリン大学教授リストに肥沼信次と記されている。八王子で生まれたDr.肥沼信次の37年間の人生にブラボ-!

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)肥沼信次(リ-ツェンの桜)2015年7月24日。

(2)「アインシュタインと日本」中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)、2005年2月28日。

(3)「講談社日本人名辞典」など。

(4)瀧本二郎「欧州旅行案内」、欧米旅行社、昭和5年3月12日。

(5)ウイキペディア。

(参 照)

グロ-バルゼ―ション研究所・ブログ「ドイツ人から尊敬されるDr.肥沼信次の生涯」2016年2月26日。

 


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