2016年06月

爺さんの寝言(5)

2016年6月21日

〖時代変化の中で〗

(デジタル時代)

・爺さんこと筆者は戦前の生まれで、戦中派(1941~45年)といわれる世代。爺さんが駆け出しの調査マンの頃、世界を震撼させた中国の文化大革命(1966年)が起き、邦字各紙は連日・連夜の報道合戦に終始した。結局、文革は10年続き、これにより中国の現代化は10年遅れたと言われている。当時の情報源は、邦字紙、各国主要紙、論文などの紙媒体が主流で、毎日のルーティンは、新聞の切り貼りとその読み込みであった。

・数十年続いた紙媒体による情報収集に革命的な変化をもたらしたのは、多面的な情報取集が可能となったデジタル時代の到来である-1971年の電子メール、1970年代後期のPC、1990年デジタルカメラ、2000年半ばのGPSなどのツールで、仕事は加速度的な変化をもたらした。爺さんは根っから機械には弱かったので、一念発起し、内助の功にも支えられ何とかやってきたが、技術革新は留まることを知らないので、その都度、爺さんを翻弄した。

(スマホ狂騒)

・爺さんの記憶は怪しいが、この10年前頃から街の風景を変えたのはスマホ(携帯)の登場である。次第に日本人の日常生活を席巻し始めた。平成生まれの若い人々は分身のようにスマホを可愛がる。自宅から一歩を出ると、下向きに伴侶(スマホ)をじっと見つめ始めてから四六時中、おかし気な行動をとり続ける。

・この行動は多くの問題を誘発している。プッラトホームからの転落、横断歩道上の赤信号の無視などによる事故など、困った社会現象となっている。加えて、若者の内向的な性格を更に助長した。爺さんの素朴な疑問は、何故、そこまでして、若者がスマホと睨めっこするのか。また、メル友との会話は他愛のないものと察するが・・・。

SNSと日本人〗

(時代の象徴)

・爺さんは、世界中の若者がSNSSocial Networking Service)の虜になっていると考える。その名の通り社会的な繋がりを作り出せるサービスのことであり、Twitter/Facebook/Line/Instagram/mixi/SoundCloundなどである。つまりSNSに繋ぐことでお友達になれる。具体的には、SNS内にある多種多様なコミュニティで、同じ趣味を持つ人、同じ出身地の人、同じ大学を卒業した人など自分と共通点を持つ人と出会うことできるというもの。

・時代の流れに弱い爺さんにとって、何となくSNSの意味は分かるが、そこまでしてお友達になりたいのかとの素朴な疑問をもつ。しかし、時間の省力化と多くの方と友人になれることは結構な事かも知れない。不孝にもSNSを使った犯罪の罠に巻き込まれる可能性は排除できない。最近、武蔵小金井で起きたタレント志望の女子大生への「サイバーストーカー」の事件が明らかになったばかりである。

・取材のため、爺さんの忙しさは留まることを知らない。先日、品川から山手線に乗って新宿方面の電車の座席に座った際、爺さんの左右に座った一見60歳過ぎたおばさんと35歳前後のおじさんがスマホでゲ―ムの真最中、周りを見ることなく、唯々、視線はゲ―ムに集中している。何だ、この真剣さはと爺さんは驚く。ゲ―ムは人に安らぎを与えるのか!それとも苦痛あたえるのか!お節介な爺さんは考えるのだが・・・。

(瞑想に耽ったら)

・スマホは日本人の日常の社会生活や街の風景を変えた。爺さんが通勤電車に乗っていた若い頃、車内は、単行本、各紙の新聞、NHKのラジオやTVのテキスト、難しい論文など無我夢中に読んでおり、車内の雰囲気は熱気を帯びていた。また、読売ジャイアンツが試合で勝利すると、駅ナカの新聞スタンドはスポ―ツ各紙の売れ行きが良く、車内はスポーツ紙の花が咲いた。サラリーマン諸侯は満足げに職場に向かった。通勤電車内の風景は、サラリーマン文化圏を形成していたように思える。この熱気を帯びた昭和の風景は何処に行ってしまったのか!

・スマホで自らのスケジュール管理をしていると思う当人、実はスマホにスケジュール管理されている。つまり人間様はスマホの召使になってしまったことではないかと、爺さんは痛感する。これからもスマホは進化する中で、人間様は相変わらず召使のままでいいのか。そうではないどろう。たまには、スマホから距離を置き、目を閉じて、瞑想にふけるのも一興である。新しい世界が見えるかもしれない。

SNSの功罪〗

(感情の抑制)

SNSは趣味や嗜好など、価値観を共有している人間との人脈形成に有効である。また、過度の誹謗中傷に発展するケースが少ないという。しかし、現実を直視すると、既述のように人間同士の仲良しクラブが思いもよらぬ結果を招くことが頻発しているのも現実。人間様は感情の動物であるが、自分自身を抑制ができない若者が多くなったと、爺さんは考える。

 (他力本願)

・日本人の特性の一つが「他力本願」である。要は何でもかんでも人頼みにする。スマホの効用は、ネットでユーザーが検索を掛けると、素早く答えを出してくれるから助かる。SNSの仲良しクラブに入ることで、お友達をつくれるのは素晴らしいが、しかし、相手への過度の期待は禁物である。先ずは、自分自身のスタンスを決めるべきであると、注意を喚起したい。

(才人曰く)

・17世紀の哲学者、数学者、物理学者であるフランスのパスカルは著書『パンセ』の中で「人間は考える葦」と言った-“人間は1本の葦のごとく弱いものであるが、考えることができることは偉大であり、尊厳がある”とした。人間には知恵があることを若者は認識して欲しい。未だに夢を見る爺さんからの一言。

(グロ―バリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹

萩原タケの素晴らしき人生

2016年6月6日

〖貧しさ故に〗

(純朴な父)

・武蔵五日市の街並みは、多摩川支流の秋川渓谷の切っ先から始まる。江戸時代には檜原村からの木炭の集積地として栄えた宿場町。その表通りに面した旧家で、日本のナイチンゲールと呼ばれた萩原タケは1873年2月7日(明治6年)五日市中下宿の萩原家(現在は寿司店魚治/あきる野市五日市町)に生まれている。当日、明治政府は幕末まで続いた旧習「仇討禁止令」を出し、江戸時代は終焉する。父喜左衛門(隣村大久保村)は入婿で、家付き娘・りんが、幼児・ひさを残し、1862年(文久2年)若くして亡くなる。

(闊達な母)

・後妻として隣村伊奈村より貰ったのが母・ちよである。喜左衛門は柔和で実直な人柄であったが、商売に、畑仕事に精を出しても衰運はおおえず、廃業する。幸運にも母・ちよは、貧乏にめげない闊達な女性で、実家の父は地域では著名な家塾を開く人で、長女タケの教育には熱心であった。タケの下には5人の男子が次々に生まれ、子守の日々の中、読書に励み、裁縫も得意であった。タケは小柄な女性であったが、心の中は大きな将来を見据えていた。

〖向学心故に〗

(通信教育)

・1878年10月24日(明治11年)、満5歳の時、「勧能学校」(小学校=神奈川県所属)入学、1年生の進級試験が優秀だったので優等賞状を授与され、書籍料として10銭を拝領している。タケは経済的な事情から「勧能学校」を3年ほどで退学する。しかし、向学心が強いタケは15、16歳になると当時評判の巖本善治の〚女学雑誌〛の通信教育を受ける(参考)。教育内容は、和歌、和文、漢文、歴史地理などの文系から理系の理化学、生理衛生などを学ぶ。

(自立心)

・18歳の時、1891年1月(明治24年)に通信女学部全科を終了し卒業証書を授与される。タケの向学心は並大抵ではなかった。通信教育を終えるとタケは上京し、両国矢ノ倉の桜井産婆学校に入学するが、学費がかさみ退学する。当時の女子は15、16歳で嫁入りしており、母はタケのために嫁入り支度をしていたが、タケの内心は「親を養い弟たちの面倒をみる」という破天荒な考えを持っており、タケの自立志向は強く、母・ちよは、タケの熱意に負ける。

〖看護の道故に〗

(機敏/献身)

・タケは1892年9月(明治25年)の日赤の看護婦生徒募集(6回生)を見落としたため、同10月に日赤当てに嘆願書を出しているが、失敗に終わり、結局タケは翌1893年4月(明治26年/20歳)7回生となる。この嘆願書は愛知県明治村に移築された日赤病院内にタケの自筆嘆願書が展示されている。

・小娘にしては字も文面も大胆なもので、タケの面目が躍如としている。入学後、タケは機敏で器用で気配りができる看護婦として信頼され、1896年6月(明治29年)の三陸大津波で災害派遣班に選ばれ、看護の道を突き進む。

・タケの卒業成績は中位でしたが、病院に配属されると頭角を現す。手先が器用で患者の気持ちを察する勘がよく、器量よしのタケは患者(戦傷病者)に人気があった。医官たちはタケについて、「品があって媚びず、物静かで敏捷」という日赤救護看護婦のモデルをみたという。

(看護マニアル)

・タケは、日本赤十字看護師(婦)の業務スタイルを作成(萩原型)。いわゆる白衣の天使というイメージはタケが構築する。タケを通して戦前の看護医療をみると、現代とそれほどの違いはない。

・卒業後も日赤が行った救護活動には必ず選ばれたタケ27歳の時、1900年(明治33年)の「北青事変」(義和団事件、中国の排外主義)では、病院船(弘済丸)の看護婦長となる。救護者の中にはフランス兵をはじめとする外国人が含まれていた。この献身的な介護で、フランス政府から「オフェシュード・アカデミー記章」が贈られている。

〖戦時体制故に〗

(軍への協力)

・日赤の「国際赤十字条約」の加盟は1888年(明治19年)。赤十字病院は佐野氏常民の創設した博愛社病院(東京飯田町)の後身である。日本赤十字社は陸軍省と表裏一体の組織となり、初代病院長には厳格な陸軍医務局長の橋本綱常(東京大学教授)が就任し、兄は安政の大獄で散った橋本佐内(越前藩士)である。

・1891年(明治24年)、東京渋谷の広大な皇室御用地の下賜を受け東洋一といわれた本社病院が誕生し、先ずは看護婦養成が優先課題であった。タケは橋本綱常の「医者は職で診ない、病で診る」との薫陶を受け、やがて西洋諸国も見聞し、広い見識を育む。

・萩原タケは献身的な看護業務の最中、明治政府は-①1893年5月20日(明治26年)「海軍軍令部条約公布」、②同年5月22日「戦時大本営条約公布」、③同8月22日「君が代、祝日大祭日の唱歌に」(正式公布)など軍事色を強める。日赤は英国のナイチンゲールの看護婦養成のため学校を模範とした。ナイチンゲールは若い子を避け、数も少数精鋭主義であった。日赤が入学資格を20歳以上とし毎回の採用者も10名以下に抑えたのはこのためで、タケ達は戦時救護者の核として採用された。

 〖グロ-バル化時代故に〗
36_1 (画像提供:日本赤十字看護大学史料室)

(皇族の随行)

・日赤は皇族・華族・富豪など赤十字社との関係は深かく、各家庭に看護者を派遣する制度があった。副取締なる前のタケはよく望まれて出張した。タケは看護技術が優れ、愛敬があって、しかも謙虚であった。日赤は宮家や公爵家にはタケを切り札のように使った。1907年11月(明治40年)、以前看護で仕えた伏見宮家のパリへ赴任することなり、その随員に選ばれた。これにはタケの国際視点を学ばせる日赤の配慮が伺える。

・タケは任務を終えると、日赤に休職願い出し、パリに滞在してフランス語を学んでいる。その時、タケを親切に世話した森山駐在武官(後に海軍中将)がタケの死後、タケを偲ぶ文章残している。その題は-「分に安んじた忠実な人」という「(献身)」。タケの休暇は半年で終了する。

(国際会議へ出席)

・日赤の指示で1909年(明治42年)、梨本宮御夫妻の欧州旅行の随行とロンドンで開かれる「看護婦国際会議」(ICN)に出席する。タケの資格は日赤看護婦団代表である。タケの初めての外遊は2年ほどで終わり、1909年9月(明治42年)帰国する。タケは看護婦取締加藤まさの後任として、就任する。日赤幹部が期待以上に萩原タケは成長し、人間としての幅を拡げていた。同年、ICNの名誉副会長に推薦される。

(ポーランド孤児)

・1912年(大正元年)、ドイツ・ケルンへ看護婦国際大会、1929年(昭和4年)、カナダ・モントリオールなど多くの国際会議で活躍。第1次世界大戦終了後、シベリアへ出張し、業務視察と慰問を行っている。1920年(大正9年)に起こったポーランド孤児の救済を日本政府が決断し、この孤児救済を日赤に要請してきた。タケは、ウラジオストク経由で来日した飢えと怯えで蒼白な孤児の介護を看護婦たちに指示し、温かな介護を孤児たち(765人/12歳前後大半、中には2歳の幼児)に施した。この収容所を慰問した貞明皇后/大正天皇の皇后)に抱きしめてもらったことが忘れられないと元孤児は語っている。

・タケの指揮下にあった看護婦松沢フミは昼夜の別なく子供達を介護したが、無理がたたり、子供たちが持ち込んだ病気(腸チフス)に罹り、23歳の若さで殉死した。このことを聞いた孤児たちは号泣したという。孤児たちの体も回復したため、ポーランドへ帰国する日がやってきた。タケは横浜の埠頭で孤児一人一人別れを惜しんだ。しかし、子供たちは乗船しようとしない、見送るタケにすがりつき、「日本にいたい」と必死に懇願、見送る人々の涙を誘った。乗船した子供たちは「ありがとう」を連発し、「君が代」歌って感謝の気持ちを表したという。見送る人々は、目に涙を浮かべながら子供たちが見えなくなるまで手を振り続けていたという。

(英語教育導入)

・1915年(大正4年)、萩原タケは女子英語塾(津田塾大学の前身)との協定学習につて「これからの看護婦は外国語が話せなければ駄目だ」という意見を、日赤が承諾した。これは「職業婦人の社内研修制度」(キャリア制度)の先駆けと言っても良い。

・〚日本赤十字社百年史〛によると、同制度は1937年(昭和12年)から廃止まで14人の卒業生を出し、少数だが人材を輩出している。この制度の廃止はタケの死と、しのびよる戦争が原因と考えられる。

〖現役で終焉故に〗
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(画像提供:日本赤十字看護大学史料室)
 


(栄誉の受賞)

・タケの国際的な活躍の中で、父は1917年(大正6年)に死去し、タケは五日市の家を始末し、母と弟茂吉を日赤に近い大森に呼び寄せた。母は1922年(大正11年)に亡くなる。1920年(大正9年)タケは第1回フローレンス・ナイチンゲ-ル記章を受賞する。その他に山本ヤヲ、湯浅うめも受賞。その後、大正時代後半、50歳を迎えたタケは喘息が悪化し、体力の衰えが目立つようになった。国の内外では、活躍するタケの名声はますます高まり、働くシンボルとして、キャリアウーマンの先駆者として、尊敬を一身に受けていた。

(持病の悪化)

・1936年5月(昭和11年)に入ると、持病は悪化し、腎臓炎を併発した。同月27日午後2時12分萩原タケは静かに息を引きとった。日本赤十字社は盛大な病院葬を以って永年の功績に報いた。タケは1910年(明治43年)の日本赤十字病院看護婦監督就任(37歳)から、1936年(昭和11年)日赤病院にて死去するまで、26年間を監督して2700人あまりの看護婦の養成・指導にあたった。あきるの市役所五日市出張所玄関前には「萩原タケ女史 人道のために国家のために」と題した胸像が建てられた。

〖人々の思い故に〗

(節約を信条)

・1936年5月27日(昭和11年)、タケはその生涯に終止符をうった。タケを知るものは、その後の半生は修道女同然だったという。破格の年棒をうけたにもかかわらず、万事節約を信条としていた。他人の面倒を見続け、交際費も殆ど私費だったため、自分が病床に臥す時は、入院費を心配するほどであったという。

・驚くべきことはタケの墓には名前と生年没年のみが刻まれていない。生前の栄誉が一切記されていない。ナイチンゲールの墓も質素であるという。臨終に際し、「私の願いは静かに死んでいきたい。あまり人に知らせないで」と弟にいったという。死の直前に至るまで、人への気遣いを忘れなかった。享年63歳、献身の生涯であった。

(タケへの思い)

・日赤社長徳川家達公爵が「看護婦のことはタケに任せよ」と全幅の信頼を得ていた。タケもこうした信頼に身をもって応えざるをえなかった。彼女は七夕飾りに「不惑すぎてなんの願いの糸をかける」と書いた短冊を結んだという-タケは生涯独身をとおした。

【萩原タケの業績】

▽1895年(明治28年)東京陸軍予備病院勤務(27年日清戦争勃発)      

▽1896年(明治29年)明治三陸大津波救護派遣

▽1900年(明治33年)北清事変に際し、病院船弘済丸看護婦長勤務

▽1904年(明治37年)日露戦争に際し、東京予備病院渋谷分院取締代理

▽1907年(明治40年)伯爵山内豊景夫人禎子の瑞光看護勤務(パリ)

▽1909年(明治42年)梨本宮守正王夫妻の欧州視察旅行看護勤務

▽1912年(明治45年)第3回国際看護婦協会(ICN)出席(ドイツ・ケルン)

▽1915年(大正4年)女子英学塾協定学習決定(タケの死後終了)

▽1920年(大正9年)第1回フローレンス・ナイチンゲール記章を受賞。

▽1923年(大正12年)関東大震災救護勤務

▽1928年(昭和3年)日本赤十字社看護婦同方会発足(副会長就任)

▽1929年(昭和4年)第6回国際看護婦協会(ICN)出席

▽1934年(昭和9年)第15回赤十字国際会議代表社員参加

(人物史No.4)

                   (グローバリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹

(資  料)

・「五日市町史」昭和51年11月1日、五日市町史編さん委員会

・「萩原タケ」ナイチンゲール記章に輝く郷土の人五日市町教育委員会昭和

   59年8月31日

・森 禮子著「献身」~萩原タケの生涯~、白水社、1995年4月20日      

・夢酔藤山著「聖女の道標」西多摩新聞、平成25年8月10日

・夢酔藤山評論「萩原タケ」、歴史研究、第639号、2016年3月

・石井道郎評論「萩原タケの生涯」、「多摩のあゆみ」第37号 編集多摩
  文化資料室

・石井道郎評論「新編萩原タケ略伝」~郷土あれこれ~第20号、平成21年3月10日

・「萩原タケ」NPO法人「国際留学生協会」

・あきる野市デジタルアーカイブ「萩原タケ」

(参考)岸本善治(1963~1942年)は但馬国出石(現兵庫県豊岡市出石町)明治時代の女性教育家、評論家、事業家

著書
①〚海舟余波〛巖本善治編、勝海舟述、女学雑誌社、1899年4月1日

②〚海舟座談〛巖本善治編、勝海舟述、岩波書店、1930年7月1日

③〚教育学講義〛女学雑誌社、1893年5月19日

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