2016年8月16日

【プロローグ】

今からおよそ100年前、日本とポ―ランドの間にポ-ランド孤児の救出をめぐる壮大なドラマがあった。そこには、“人間の尊厳を大切にする歴史的な教訓があった”

【悲惨な孤児たち】

〖ロシア革命〗

・ロシア帝国(15471917年)は、その支配地であるシベリアへポ―ランド人の政治犯などを多数流刑にしたため、ロシア革命当時(1917年/大正6年)、シベリアには10数万人のポ―ランド人がいたといわれる。ロシア革命当時の混乱と第一次世界大戦でドイツは敗れたため、1918年11月のポ―ランドは独立した。しかし、多数のポ―ランド孤児(シベリア孤児ともいわれる)は、主に酷寒の6地点で、筆舌尽くし難い悲惨な状態に置かれていた。

〖救済の始動〗

・千変万化の情勢下、独立を果たしたばかりのポ-ランドはソビエトと戦争を始めため、シベリア鉄道で孤児たちをポ-ランド(約7500km)へ送還させる計画は頓挫した。せめて子供たちだけでも祖国ポ-ランドへ帰してあげたいと1919年10月10日(大正8年)、ウラジオストク在住のアン・ピエルケヴィチ女史(1877~1936年)を会長に、若き医師のユゼフ・ヤクブケヴィ(1892~1953年)を副会長として、「ポ-ランド救済委員会」を組織した。当時、女史は43歳、夫がシベリア鉄道建設工事に携わることになったため、1918年春からウラジオストクに居住していた。

〖英断の背景〗

・女史はこの実情を打開すべく、孤児たちを輸送するために欧米諸国や中国・上海の中国赤十字社を訪ねて救済要請したもののことごとく断られた。同委員会で再考した結果、日本政府に打診することを決めた。女史は単身で、ウラジオストクから船便で、福井県敦賀経由で上京し、外務省を訪れたのは1920年6月18日(大正9年)のこと。応対したのは外交官武者小路公共(きんとも/1882~1962年/作家武者小路実篤の兄)で、女史に外務大臣宛に「嘆願書」と「状況報告書」を書くようにアドバイスした。女史は徹夜して、その旨をフランス語で書き、翌朝に提出した。

・余りの悲惨さに日本政府・外務省は深く同情した。しかし、日本政府は、すでにシベリア出兵のため10億円もの巨額な戦費を投入していたため、日本赤十字社へ救済事業を引き受けて欲しいと要請した。早速、日赤は原敬内閣の陸軍大臣・田中義一と海軍大臣加藤友三郎の認可を受けた上で、日赤社長石黒忠悳は外務大臣・内田康哉に「本件は国交上並びに人道上まことに重要な案件にして救援の必要を認める候につき、本社において孤児たちを収容し、給養いたすべき候」と伝えた。

・これを受け同省は日本赤十字社に救援要請した結果、日赤は直ちに孤児たちのポ-ランドへ帰還させる方策を決めた-女史の要請からわずか17日後であった。日本政府がポ-ランドの非公式な民間機関の要請を早急に決定したことは英断であった。当時の日本政府・関係機関の力量を彷彿するもので、その背景には日露戦争で勝利した“日本の威信と自信“があったように推量される。

〖孤児の歓喜〗

・この朗報を、ピエルケヴィチ会長は直ちに孤児たちの待つウラジオストクに持ち帰った。後年、同会長はこう語っている。「“興奮と混乱、笑いと喜びの爆発”であったと。孤児たちは私を絞め殺すかのように、きつくしがみつき、興奮のるつぼの中で“日本へ行くんだ”!との叫び声が、ひときわ高く響きわった」と語っている。しかし、孤児たちは見知らぬ国、日本へ行くことへの期待と不安を持っていたことは想像に難くない。

【孤児の訪日まで】

〖萩原の尽力〗

・萩原タケの1920年(47歳)は、多忙な日々を送っていた。第1回フロ―レンス・ナイチンゲ-ル記章を受賞したこと。シベリアで流浪しているポ―ランド孤児を日本政府の要請で、日本赤十字社が受け入れることを決めたなどである。萩原タケは前年に日本軍のシベリア出兵(ロシア革命に対する干渉戦/日本軍7万3000人)に伴い東部シベリアへ出張し、シベリアを彷徨(ほうこう)する孤児たちの実情をすでに把握しており、それだけに深い同情を寄せていた。これを機に萩原タケは孤児たちの訪日に向けての主導的な役割を果たすことになる(参考)。

〖陸軍の温かい支援〗

・日本赤十字社はウラジオストク派遣軍司令部(司令官大井成元大将)に支援を要請、加えて、ウラジオストクから敦賀港(福井県)までの孤児輸送については陸軍の輸送船に便乗させてもらうことにし、陸軍輸送部と綿密な打ち合わせを行った。こうして、いよいよ孤児救出作戦が始まった。

・この時の模様について、既述の若き医師のユゼフ・ヤクブケヴィは次のように回想している。「日本人は日本内地において、我々を援助してくれたばかりでなく、シベリアにおいても、等しく援助してくれた。異郷の地であるシベリアにおいて、日本人は日本陸軍の保護の下にシベリアの奥地からウラジオストクにいたるまで、ある時は陸軍の自動車をもって、ある時は汽車をもって、わが児童を輸送してくれた」と述べている。孤児たちはウラジオストク港に集結した。

〖移送手段と内容〗

・当時の輸送状況について-第1次第1便は陸軍輸送艦の筑前丸(2448総トン)は1920年7月20日に出航、22日午前5時、敦賀港に着岸。赤十字社の社員3名が東京から赴き、社旗を振って出迎えた。孤児57名、ポ-ランド人の付き添い5名。皆、揃いの服に頭陀袋(ずたぶくろ)を下げている。多くの孤児は12、3歳で、中には4歳6カ月の幼児までいたという。以後、翌年7月まで全5回にわたり、総員375名の孤児を定着先の東京へ送り届けた。

・シベリア沿海州にいた孤児たちもウラジオストクに集結した。第2次第1便は1922年8月5日(大正11年)、陸軍輸送船明石丸に孤児107名、付き添い11名の118名を乗せて、ウラジオストクを出港し、同7日に敦賀に着岸し、8日朝、大阪に到着した。移送は3回行われ、孤児390名、付き添い人39名、総計429名を大阪の定着先へ送り届けた。このように東京、大阪の支援施設に預けられた孤児たちは、総員765名となった。
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(引用元:「歴史街道 2014年3月号」)

【定着先の諸環境】

〖福田会育児院〗

・孤児たちは東京府下豊玉郡渋谷町字下渋谷(現・渋谷区広尾4丁目)の日赤本社病院に隣接する「福田会育児院」(現社会福祉法人)に収容された。不調な孤児たちに同情し、官民挙げて温かく迎えた。献身的な看護や、温かくもてなしたことから、来日当初は飢えで体力も衰えていた孤児たちは皆元気になった。翌年にかけて同育児院で総数375名の孤児を収容(男子205名、女子170名)。この時から92年後の2012年4月にアンナ・コモロフスカポ-ランド大統領夫人が来日の際、福田会を訪問して「シベリア孤児救済事業完了90周年」の記念プレ-トの贈呈式を行った。

〖看護婦寄宿舎〗

・1922年8月(大正11年)、シベリア沿海州にいた孤児390名を救出し、敦賀港経由で、大阪府東成郡天王子村にあった「大阪公民病院」(現大阪市立大学医学部付属病院)付属看護婦寄宿舎が用意された。この寄宿舎は新築2階建て未使用のため清潔、庭園も広く環境の整ったところであった。

【整った生活環境】

〖細やかな配慮〗

・収容された時の孤児たちは、栄養不良で痩せ細り、顔面蒼白で目だけが怯えたようにギラギラしていた。言葉も人種も異なる極東の島国への例えようもない不安で、彼らは胸が張り裂けそうになっていたと思われる。子供たちの多くは腸チフス、風邪、百日咳などの病気に感染していた。多くの孤児たちは、身なりは長い放浪のため、着ている者はボロボロで、大半は靴を履いていなかった。日本赤十字社は、一人一人に衣服、肌着、靴、靴下などを新調した。

・収容先では、孤児たちを慰めるために慰安会が開かれ、時には動物園や博物館へ行った。また、日本全国から多数の寄付金が寄せられた。子供たちは午前6時起床(冬季は7時)、洗面後お祈りをして、7時には朝食をとった。日中は、読書や勉強に励み、また、寄贈のおもちゃで遊んでいた。午後は各自、自由に過ごし、午後6時には夕食をとり、午後8時にはお祈りして就寝。後日談ですが、9歳の時に上陸したポ-ランド・ワルシャワ在住のハリ-ナ・ノビッカさん(故人)は、「到着した美しい花園ある民家。バナナやみかんなど食べたことない果物を食べ、日本の子供たちと遊んだ」と述懐している。

〖貞明皇后の優しさ〗

・貞明皇后(大正天皇の皇后)から孤児へ御下賜金500円とお菓子料250円が届けられた。1921年4月6日(大正10年)、赤十字活動を熱心に後援されてきた貞明皇后は自ら日赤本社病院へ行啓されて孤児たちと親しく接見され、その中で最も可憐な3歳の女の子、ギェノヴェ・ボグダノヴィッチをお傍らに召されて、その頭を幾度も撫でながら、健やかに育つようにと話され、3歳の女の子を抱きしめられた時、孤児たちは一斉に号泣したという。この子の父親は貴族であったが、シベリアで赤軍に捕らわれ、その見た母親は遺書を書き、その場で自殺をしたという。

〖松澤フミの殉職〗

・孤児たちを、世話をしていた看護婦松澤フミ(新潟出身)は孤児の中から発症した腸チフスに感染し、1920年7月11日、23歳の若さで殉職した。彼女の死は多くの孤児、関係者に衝撃を与えた。事情を知らない幼子は、優しかった松澤看護婦の名前を呼び続け、周り人々の涙を誘いました。彼女は1921年にポ-ランドから赤十字賞、また、1929年(昭和4年)に名誉賞も贈られた。当時、神流川県支部に所属していた。この孤児たちを、昼夜を問わず一所懸命に支えたのは“慈愛にして懇篤なること”-日赤看護婦たちの「遵守すべき10箇条」は、教育時代に日赤の看護婦精神を徹底的に叩き込まれたことによる。

【惜別の涙溢れる】

・東京の孤児たちはそれぞれ100日近く福田会で過ごした後、順次米国を向けて旅立つことになった。第一陣の出発は1920年9月20日。10日ほど前の9月17日に孤児が、ウラジストクから福田会に到着したばかりで、入れ替わる形での出発となった。東京駅経由で横浜港に向かった。孤児たちは男子30名、女史26名の計56名。横浜港には、アン・ピエルケヴィチ女史、大村福田会会長、ポ-ランド領事などの見送りに来ていた。

・孤児たち各自に洋服が新調され、航海中の寒さも考慮されて毛糸のチョッキが支給された。見送る医師、看護婦、近所の人々の首にしがみつき泣いて離れようとしなかった。「アリガトウ」、「アリガトウ」を繰り返し、滞在中に覚えた「君が代」、「ポ-ランド国歌」を歌った。孤児たちは日本郵船の「伏見丸」(1万940総トン)に乗り込んだ。伏見丸の解纜は午後3時、見送る人々の中に今回の孤児への総指揮をとった涙の萩原タケの姿があった。

〖温かな船長の手〗

・保護した765名に及ぶポ―ランド孤児たちは全員、日本で病気治療や休養していた後、第1次の孤児375名は、横浜港から6回にわたり、諏訪丸(11758総トン)で150名、香取丸(9847総トン)114名、伏見丸106名などは米国経由でポ―ランドへ送り届けた。第2次は大阪に収容された孤児たちは神戸港から、香取丸191名、熱田丸で199名の合計390名が香港、シンガポール、マルセイユ、ロンドン経由でポ―ランドへ送り届けられた。

・孤児たちは故国に送り届けた日本船の船長は毎晩、ベットを見て、一人一人に毛布を首までかけては孤児たちの頭を撫でて、熱が出ていないどうか確かめていたという。その手の温かさを忘れないと、一人の孤児は回想している。

【その後の孤児たち】

〖極東青年会結成〗

・ポ-ランドの孤児たちの運命は日本人のヒュ―マニティによって新しい息吹となって将来を見据えた。孤児たちは帰国してからそれぞれの人生を歩んだ。医師、教師、福祉事業家、法律家、技術職人などの公のために尽くすものが多かったという。その一人イエジ・ストシャウコフスキ(1911~1992年)はワルシャワ大学(教育心理学を専攻)を卒業後、孤児院の院長に就任している。19歳(1930年/救出時11歳)で、日本との友好を深める「極東青年会」を結成した。第二次世界大戦前のポ-ランドで日本の素晴らしさを紹介する活動を行うとともに、日本に行くための資金を積み立ていた。最盛期には640余人の会員がいた。しかし、第二次世界大戦の混乱と東西冷戦が彼らの夢を断ち切ってしまった。

〖再び戦争へ〗

・1939年9月、ナチスドイツ軍がポ-ランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発し、イエジは少年部隊「イエジ部隊」を編成し、祖国守護のために先頭に立ち、戦い抜いた。戦争は終結したが、ポ-ランドの歴史の歯車は逆転して、再びソ連の傘下に入った。でもイエジは生き残った。イエジは76歳を迎えた1983(昭和58年)、昔年の感謝を伝えるため来日し、日本を第二の祖国と呼んでいる。1995年1月(平成7年)、阪神大震災が発生した時、ポ-ランドはいち早く救援活動に入った。震災児童を1カ月近くポ-ランドに招待している。イエジはロシア革命とそれに続く内戦で父親がロシア兵に殺され、母は5人の兄弟とも離れ離れになって、シベリアをさまよっているところを救出されている。収容先は大阪で、神戸から祖国へ帰っている。

〖再び皇后さまと〗

・2002年7月(平成14年)、天皇皇后両陛下はポ-ランドを訪問された。両陛下に是非お会いしたいと3人のお年寄りが申し出た。日本が救った孤児の方であった。アント二―ナ・リロさんという86歳のお年寄りは皇后陛下の手を握ったまま離そうとしなかった。実は80年前日本の支援施設にいた時、「元気になるように」と、抱いて励ました方がいた。その方こそ大正天皇の皇后であった貞明皇后であった!

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(引用元:「歴史街道 2014年3月号」)

【エピロ-グ】

・流転する歴史の中で戦争は人々の現在と将来を脅かす。この世に生まれ、不幸にも孤児になった子供たちを救い出すことは、世界の人々の責務である。100年前のポーランド孤児、70年前の満州で飢えに苦しみ、彷徨する日本の戦災孤児の数は未だに不明とされる。現在、中東、アフリカの戦禍の中で怯える難民の孤児たちの問題は、この瞬間も続いている。100年前に日本政府の英断で、ポ―ランド孤児への支援に注力した事実を、今こそ諸国民は学ばなければならない。日本も至極当然であるが!

(グローバリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹

(引用資料)

・「歴史街道」~ポ-ランド孤児を救え!PHP、20143月号

・「あきる野市ゆかりの人」、あきる野市環境部観光まちづくり活動課

・岸本善治「萩原タケの生涯」〚多摩のあゆみ〛第37号、編集多摩文化資料室

・森禮子著 「献 身」 白水社、1995年5月12日

・無酔藤山著 「聖女の道標」、平成22年7月10日、(株)西多摩新聞社 出版センター

・山田邦紀著〚ポ-ランド孤児・「桜咲く国」がつないだ765人の命〛現代書館、2011年9月 30日。

・「世界年鑑」2011、一般社団法人共同通信社、2011年3月17日

・「東京新聞」2016年8月6日

(参  考)

グロ-バリゼ―ション研究所、拙稿ブログ「萩原タケの素晴らしき人生」2016年6月6日