2016年12月12日

〖プロロ-グ〗

・樋口一葉は24歳6ヵ月の短い生涯の間に22の短編と40数冊におよぶ日記と4千首を超える和歌の詠草を残した。龍泉寺町(現在:竜泉)は、一葉はわずか10ヵ月住んだだけであり、作品は2つ(琴の音/花ごもり)しか書かず、それも会心作は生み出せなかった。しかし、竜泉寺町の生活苦の経験は、後の『たけくらべ』などの傑作を生みだす力となった。

・明治27年5月1日、竜泉寺町から丸山福山町に引っ越した。一葉の終焉の地となった丸山福山町の自宅は、これまでの控え目な一葉にかわって、明治の有力な文士たちのサロンのようになっていた。島崎藤村、幸田露伴、斎藤緑雨、横山源之助、川上眉山、馬場孤蝶、平田禿木などの面々が入れ替わり訪れている。彼らが異口同音に一葉のことを洒脱で皮肉でウィットがあるとの一葉評である。

・この変化は、龍泉寺町などでの生活苦を経験したことによるもので、この変貌ぶりについて-瀬戸内寂聴氏は、20歳から24歳までの生活苦が一葉から角をとり、人との付き合いを円滑にしたのであろうと述べている(注1)。同様に、塩田良平氏は竜泉寺町の生活(商売)は失敗し、人間的には目標を失い彷徨したが、作家としてみた場合には、結果的には大きな収穫があったと語っている(注2)。

・塩田良平氏は『たけくらべ』を持たない樋口一葉の価値は半減いかになるであろう。もし、一葉が文学に絶望し、生活のたづき(方便)を求めるためにこの茶屋通りに住まなかったならば、一葉は、或いは無名の作家で終わっていたかもしれない。作家的に言えば、竜泉寺町時代は胎生期と言ってよかろうと述べている(注3)。

・丸山福山町に住んでから一葉は「奇蹟14ヵ月」といわれるほどに多くの作品を矢継ぎ早に発表している。折から日清戦争(明治27年7月~明治28年3月)の戦時下に執筆された作品は『文学界』に掲載された。一葉の不朽名作、『たけくらべ』、『にごりえ』、『十三夜』、『軒もる月』、『暗夜』などを発表する-文壇からも高い評価を得ている。

1220(出典:台東区立 一葉記念館『資料目録』)

〖一葉の町〗

(下町風情)

・地下鉄日比谷線の三ノ輪駅で下車し、狭い階段を上がり終え改札口を出ると、目の前には大きな交差点ある。右手裏には遊女の投げ込み寺として有名な浄閑寺「生まれては苦界、死しては浄閑寺」(浄土宗)がある(参照)。交差点を渡り、左手を土手通り沿いに浅草方向に5分程歩くと、右手には竜泉3丁目の住居表示が目に入る。路地を右手に入ると、下町の雰囲気が十分漂う平屋建ての木造の民家が左右に並ぶ。玄関前には盆栽や季節の小花が咲き、小さな金属加工工場や職人の名前が点在する下町の風情である。この町に樋口一葉が今から123年前に住んでいた。

 1220_2
(出典:台東区立 一葉記念館『資料目録』)

〖一葉記念館〗

(沿   革)

・下町の雰囲気を味わいながら10分ほど歩くと、“一葉煎餅”、“一葉の町”などが目に入ってくる。狭い路地が広い道に変わると、右手には小ぎれいな整備された道を歩くと、「台東区立一葉記念館」がある。正面は格子戸を模した3階立ての瀟洒な建物で、下町の雰囲気に合わせた建物である。女流文学者単独のものとしては、我が国第一号の記念館として1961年(昭和36年)5月11日に開館した。

・当館が位置する竜泉寺町は、樋口一葉が10カ月余りの間、居を構え、母子3人(一葉/妹くに/母多喜)で生活苦と闘いながら、不朽名作『たけくらべ』の素材を得た地であり、このことに感銘を受けた地元の人々は昭和11年、菊池寛の撰文による「一葉記念碑」を一葉の旧居跡近くに建て(現一葉記念公園)、さらに、同23年には一葉協賛会を結成し、記念館建設のために敷地を台東区に寄付した。

(住民熱意)

・一葉協賛会の「一葉の文学を顕彰し、その功績を永く後世に遺したい」という熱意と多大な努力に台東区が応える形で、当館が開設された。平成14年8月、一葉が「新5千札」の肖像に決定したのを機に、当館も全面改装され、同18年11月にリニュ-アルオ-プンした。展示内容は、一葉の父母の時代から小説家を志すまでの経緯、竜泉寺町の生活、奇跡の14ヶ月と称される晩年の執筆活動、没後顕彰され続けている一葉の姿に至るまで、わかりやすく編集・解説したものである。
1220_4(出典:台東区立 一葉記念館『資料目録』)
 

〖一葉と竜泉寺町〗

(住居遍歴)

・一葉記念館が作成した労作「資料目録」によると、一葉の下谷龍泉寺町時代〈塵の中-実生活の中でのたたかい〉の生活を克明に分析している(注4)。事例として転居先をみると、-葉の転居は都合14回に及ぶ-生誕(明治5年3月〈1872年〉)の地である東京府第二大区-小区幸橋御門内(現在:千代田区内幸町2丁目内幸町ホ-ル付近)に始まり、⑭終焉(明治29年11月〈1896年〉)の地である東京市本郷区丸山福山町4番地(現在:東京都文京区西片1-17興陽社前路上〈一葉没/享年24歳〉)。

・⑫東京市本郷区本郷菊坂町69番地(現在:東京都文京区4-31)。

・⑬東京下谷区下谷竜泉寺町368番地(現在:東京都台東区竜泉3-15-2前)。明治26年7月20日~明治27年5月1日(21歳)。

(暮らし向き)

・明治26年7月20日、一葉一家は本郷菊坂町を離れ、下谷竜泉寺町に引っ越してきた。翌年5月まで10か月余りこの町で過ごした。一葉宅右隣には人力陣宿(主人根本和助)、左隣りには伊勢屋、魚屋魚金等があった。同8月6日、荒物・駄菓子を開いた。

・当時、下谷竜泉寺町は浄土宗大音寺の前一帯は字大音寺前と呼ばれていた。一葉の家の前には約2間(3.6m)は大音寺通りで、

多くの商いの店(米や/魚や/たばこや/甘酒屋など)が立ち並んでおり、今風に言えば、大音寺通り商店街である。大音寺通り(現在:茶屋町通り)周辺には10軒長屋、20軒長屋、30軒長屋立ち並び、生活の極めて貧しい人々が暮らしていた。一葉は『たけくらべ』で、大音寺前に住む人のほとんどは郭者(くるわもの)といって遊郭にかかわりがあると記している。

・この通りは新吉原へ通じる道である。幕末には22軒の茶屋が新吉原に遊ぶ客達を迎えて妓楼に導いていた。廓の水道尻や非常門の出入りが明治維持後、酉の市の日だけに制限されると、茶屋は姿を消して、廓の中には仕事を持つ兼業者が多く住む商家の町に変わっていった。人口は増加の一途をたどり、一葉の日々の生活をしていた明治20年代には維新直後の4倍に近い約2000人が界隈に住んでいた。

・一葉宅前の約2間(3.6m)幅の狭い道路を、郭通いの客を乗せた人力車が駆け抜け、夕方になると、郭内の仕事に出かける「郭者」や郭相手の商売や内職をする物は相変わらず多く、一葉は、郭通いの酔客が毎日目に入ってきたが、日々の生活に窮していたので、一葉の顔は無表情であったに違いない。時はゆるりと静かに流れた。 

(諸行無常観)

・この茶屋町通りの北西には三河島の火葬場があり、冬になると、北風が吹くために火葬の煙がこの辺まで臭ってきた。また、この町の通りに住むものは、千束からこの通りの西端を通って北行する焼場通いの人が、そこで一休みするのを見かけたというから、一葉ならずとも絶えずこの地に住む者は諸行無常観を漂わせていた。東をみれば華やかな吉原の燈火、西をみれば火葬場帰りの人、という両極端を居ながらにして眺められる町であった。

(商  い)

・一葉一家は暮らし向きをよくするため、同年8月6日、荒物屋・駄菓子屋を始めた。妹くには主に店番、一葉は仕入れのため、開店当初の品は伊勢利が紹介してくれた浅草東本願寺前の荒物問屋中村屋から仕入れた。布海苔、元結紐、各種帯、はたきなど5円ばかり仕入れ、店を満たした。その後、荒物は花川戸や駒形の蝋燭屋などからも仕入れた。8月11日には北川藤兵衛の紹介で、神田方面へ玩具や駄菓子の買い出しを行った。

・一葉は神田方面に仕入れ出かけるときには、未明の暗いうちに家を出て問屋街に向かった。帰ってくると店は、妹のくにに任せて、奥の部屋で一葉は店先の人声を気にもせず机を向かった。時には「十三夜」の舞台となる新坂を登って東京図書館にも出かけて半日を過ごしている。当時、何処へ行くにも徒歩で出かけるのを常とし、役目を負う一葉の姿が目に浮かぶ。しかし、どのような繁忙でも一葉の小説を書く執念は人一倍強かった。

・商品の売れ筋を『仕入帳』(明治26年9月1日から11月23日)からみると、特に目立つのは「めんこ」や「風船」(5銭)などがよく売れている。近くの千束神社の夏祭りには「麻だすき」や子供がつける「大鈴・小鈴」などのマスコットも売れている。仕入帳からは、当時の人々の生活や物価が偲ばれる興味深い資料である。

・一葉は頭痛がひどくて立っていることすらできない時も店を開いていた。一個5厘のゴム風船を売りながら、荒物屋の女主人として生きてゆく日々・・・。売り上げは多い時で60銭、少ない時40銭、店の儲けは雀の涙。加えて小説を発表していないから原稿料も入らない。その上家賃1円50銭である。一葉一家の生活はひどくなる一方で、困窮の度合が察せられる。

1220_3(出典:台東区立 一葉記念館『資料目録』)

〖エピロ-グ〗

・一葉の人生は短かった。龍泉寺町時代は、一葉は生活苦から逃れることはできなかった。一葉の罹患した結核はさらにひどくなった。一葉の安らぎは一つが、中島歌子が主宰する歌塾で『萩の舎』(現在:文京区春日町1丁目)で和歌を学ぶことであった。竜泉寺町時代、一葉は久しぶりに同年11月15日に4ヵ月ぶりに訪れて、社中の動静を聞いている。

・一葉の短い人生について、瀬戸内寂聴氏は、この世の長命が、必ずしも幸福とは、思わない。樋口一葉は肺結核で、貧困のうちに、わずか24歳で死んでいる。生涯、結婚もしていないし、片思いの恋(半井桃水)はあっても実を結んだ恋をしていない。

・現代の医学や医術であるなら、当然、全快していたはずの病気で夭折している。一葉の人生はすべてが負にみえる一葉の生涯を、彼女はその不滅の光芒を放つ作品、それもわずか、2、3の短い小説によって勝ちに逆転させてしまった。

・竜泉町の「台東区立一葉記念館」には、毎日見学者が来館し、つぶさに一葉の人生を興味深くみている。竜泉町の人々も“この町は一葉の町”であることを深く認識しているのが印象的である。一葉の人生は短かったが、一葉の魂は永遠不滅であることを筆者はこの町で感じた。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

〈資料1〉

(注)

(1)瀬戸内寂聴著『わたくしの樋口一葉』、小学館、1996年1110日、第1版第1刷発行、178頁。

(2)塩田良平著『樋口一葉』吉川弘文館、編集者日本歴史学会、平成7年8月20日、197頁。

(3)(注2)と同じ。

(4)『樋口一葉』資料目録、台東区区立一葉記念館、平成21年121日、新版第3刷発行。

〈資料2〉

①杉山武子『文学夢街道』、「樋口一葉 豆知識」。

②井上ひさし『樋口一葉に聞く』文藝春秋、1995年12月12日。

③ニュ-スで追う「明治日本発掘」全9巻、(5)、河出書房新社、1995年2月24日。

④篠田達明著『日本史 有名人 臨終図鑑』、新人物往来社、2009年12月22日、26~27頁。

⑤秋山佐和子著「樋口一葉」山日ライブラリ-、山梨日日新聞社、2005年7月29日。

〈参 照〉

・筆者拙稿「ブログ」、『見返り柳』、2015年7月7日。