2017年03月

明治時代の世相(4)-珈琲事始め-

2017年3月25日

〖プロロ-グ〗

・明治維新・文明開化は旧体制と比して、衣食住の面でも人々の日常生活に大きな変化をもたらしたと言えます。例えば、肉食について、外国人の説によると、「日本人は、性質はすべて智巧なれど、根気ははなはだ乏し。これは肉食せざるによれり。しかれども老成の者、今にわかに肉食したればとて急にその験(しるし)あるにもあらず。小児の内より牛乳等をもって養い立てなば、自然に根気を増し、身体も随って(したがって)強健なるべし」と(注1)。

・飲食の“飲”ですが、食前酒と食後酒のように食との一体の関係にあります。飲料の発展は、幕末より横浜など外国人居留地が発信基地です。明治当初から日本人に好まれていたのは独逸(ドイツ)ビ-ルで、今後、輸入面でも増加すると察したドイツ・ハンブルグ出身のカ-ル・ロ-ト氏は横浜に麦酒醸造所会社を設立して、販路を開拓し、日本のビ-ル発展に貢献しました(注2)。

・コ-ヒ-は、高揚感を高める嗜好品として、日本人は食事後、多くの人がコ-ヒ-を飲みます。サラリ-マンも同僚や取引先とサテン(茶店)で、タバコの煙がモウモウとする中でのコ-ヒ-の味は格別で、昭和の原風景でした。しかし、健康面から考えますと、受動喫煙が喧伝されている昨今、喫煙者にとっては肩身の狭い日々となり、ストレスは高まるばかりです。

・歴史は遡りますが、明治天皇のコ-ヒ-好きは有名です。モ-ニングコ-ヒ-を毎朝召し上がっていました。報道によりますと(注3)、「両陛下は金のお茶釜で、朝のコ-ヒ-を召し上がることを定例としていました」(参考1)。天皇がコ-ヒ-を飲んでいるという記事は、コ-ヒ-の普及に大いに役立ったようです。明治20年代になりますと、街中には、本格的な喫茶館の開店を知らせる報道や伝聞が広がり、人々の間でコ-ヒ-への認識が高まりました。

0404_2(出典:ジャパンアーカイブズ)
〖江戸が始まり〗

(蜀山人)

・奥山儀八郎著『日本珈琲文献略解』によりますと、安永5年(1776年)の記録に、「珈琲」の二文字があります。狂歌で著名な蜀山人(太田南畝〈おおたなんぽ/(参考2)〉は長崎に遊んでコ-ヒ-を飲んだことを次のように書いています-「紅毛船にて“カウヒイ”というもの勧む。豆を黒く煎りて粉し、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに揕ず」と書いています-これは蜀山人が文化元年(1804年)に出版した『瓊浦又綴』(けいほゆうてつ)の中で述べています。

・太田蜀山人とほぼ同年代に活躍した京都の医師に、藤川澥(かい)がいました。彼は臨床的な立場から長崎で外国人の飲むコ-ヒ-を鋭く観察し『長崎見聞録』(1800年/寛政12年)を著わします。彼は、コ-ヒ-に、消化、強心、利尿作用を確認し、他の薬と調合すれば解熱作用もあると、その薬効と用法にも言及しています。嗜好飲料だと違和感を、感じますが、薬と捉えると見事な分析力です。藤川澥はコ-ヒ-の医学的薬理性をいち早く強調し、世人の啓発に一役をかった希代の人でした(注4)。

〖明治の中頃に〗

(油絵茶館)

・浅草の観音裏の奥山で、日本のプロ写真家の祖として知られる下岡蓮杖について、「先ごろまで横浜に居られた下岡蓮杖というふ写真や油絵の先生が、こんどは、浅草の奥山へひっこして、「御見安所コ-ヒ-茶館」、または「油絵茶館」といふの設けました。物見の高い東京っ子が長蛇の列。「タハッ、これが文明開化の味かよ」と大人気だった(注5)。

・油絵は日朝社の岸田吟香さん(明治初期の新聞人)も感心して、其時のことを思い出すやうだと言われました。ナント、コ-ヒ-を呑ませて、この多くの油絵を見せるのですから、1銭5厘は実に御安見どころに違ひありません」(参考3)

(東京に茶館)

・日本人が経営した最初の本格的なコ-ヒ-店は、1888年(明治21年)4月13日、東京・下谷区西黒門町2番町警察署隣(現台東区上野3丁目)に開業した、『可否茶館』(コ-ヒ-)で、その人は「東京府士族」の肩書を持つ鄭永慶です。同氏は米国に留学し、帰国後に外務省や教育者を経て同店を開業しました。当初、文学者や芸術家達が集う仏文学カフェをイメ-ジしていました。コ-ヒ-の値段は一杯1銭5厘、牛乳入りは2銭でした(参考4)。
 0404

・「可否茶館」は、現代の複合喫茶の雰囲気で、トランプやビリヤ-ド  などの娯楽品、国内外の新聞や書籍、化粧室やシャワ-室などが備えられていました。鄭永慶は当初、「コ-ヒ-を飲みながら知識を吸収し、文化交流する場」として、広めようとしましたが、時期尚早で、1892年(明治25年)に倒産。多額の借金を抱えた鄭永慶は、偽名で米国に密航しました。因みに、鄭永慶は『国性爺合戦』(こくせんやがっせん)の主人公・和藤内こと鄭成功から9代目、父は明治初年の外交官でした(注6)。

(出店の動き)

・芝日陰町通り露月町の「清涼亭」主人が、一番奮発して「新聞縦覧所」を設け、その日の各社新聞を見せるはもちろん、一銭も見料を取らずして、明30日から開場するとぞ。また縦覧に来た客が好めば、珈琲でも氷水、洋酒でも、何でも飲ませるはよい趣向であります(注7)。

・京橋区南鍋町「風月堂」主人の次男米津恒次郎氏は8年前、西洋菓子と料理法研究のため欧米に航し、かの地の商館な等に入り実地研究を積みてこのほど帰朝せしが、手始めに仏国にて調達せしビスケット製造器機を据えつけて最上ビスケットを製し、追っては場所を選み仏国風の珈琲店を開くはずなりという(注8)。

・八木新蔵はこのたびダイヤモンド珈琲店を第3回内国勧業博覧会(参考5)美術館前左側大松木下に設置し、駈って在米国中研究したる純良の珈琲を極めて低廉に売り捌く(さばく)由。休憩がてら、その風味のいかんを試みたまえ(注9)。

・名古屋市伊勢町2丁目森永佐兵衛方にて製造、販売する珈琲は、味わいも他品に優りにて、匙(さじ)つきで1銭1鑵(かん/インスタントコ-ヒ-)なりと(注10)。

〖珈琲全般〗

(種苗栽植)

・1878年(明治11年)、内務省より吏員を印度、爪哇(ジャワ)に派遣して珈琲種苗若干を得、これを小笠原に栽植してし、同79年に種子を播き下し、翌年春期移植せしに生長最もよろしく、14年は花が着け少しばかり結実あり。15年に至りては採取せしもの、3貫目ばかり容るる函4筒に盛れりと。現今存在の樹数およそ4万本なり(注11)。

(輸入量)

・近来、東京府庁はその保護、培養に意を用い、たとえ外国に輸出するの多きを致すあたわらずも、内地の需要を充さんと予期される由。なお、1881年(明治14年)の珈琲豆の輸入量は1万4015弗(ドル)24仙(セント)にて、このうち精養軒の買入高は6百60円(2千百斤ただし百六十目斤)。1882年(明治15年)は精養軒の買入高520円(2千百50斤)であった(注12)。

・明治時代のコ-ヒ-豆の輸入量を見ますと、1877年(明治10年)に初めて18トンが輸入され、1888年(明治21年)頃に60トンに増え、1907年(明治40年)になっても80トン程度でした(注13)。この量は、市民への普及まで至っていないことの証左です。その後、ハイカラ好きな文人や芸術家が「茶館」に集い、コ-ヒ-文化の先駆けとなりました(注13)。

〖コ-ヒ-文化〗

・コ-ヒ-文化を開花させた集いは、《パンの会》(コ-ヒ-の愛好会)です。森鴎外が指導して、1909年(明治42年)に創刊された文藝雑誌『スバル』のメンバ-である北原白秋、石川啄木、高村光太郎、佐藤春夫、永井荷風などが日本橋小網町「メイゾン鴻の巣」を利用して、毎月会合をもっており、文士の社交場だったようです。しかし、いずれもまだ一般の人には敷居の高い店ばかりでした。

・『カフェパリスタ』は、最初こそ文士や文学青年たちの社交場でしたが、一般の人達が気軽に立ち寄れる値段と雰囲気で、あっという間に大繁盛して、大正時代の最盛期には全国20余りの支店を数えるほどになりました。その理由として、高級西洋料理店「プランタン」のコ-ヒ-が当時15銭だった時に、パリやニュ-ヨ-クのカフェを模しながら、しかもコ-ヒ-の普及とサ-ビスでは、5銭で飲むことが出来たのです。

・当時の開店した茶館を見ると-①1910年(明治43年)〈キサラギ/大阪の川口居留地〉②1911年(明治44年)〈カフェ・プラタン/東京市京橋日吉町〉③1911年(明治44年)〈カフェ・ライオン/東京市尾張町新地1丁目〉④1912年(明治45年/大正元年)〈カフェ・バリスタ/東京市京橋区南鍋町〉など。

〖エピロ-グ〗

(文化の先導役)

・諸説紛々ありますが、明治時代の始まりは-“文明開化”、文明開化の始まりは-グロ-バリゼ-ションです先ず、「散髪脱刀令」(1871年9月/明治4年8月)により、明治天皇は1873年3月(明治6年3月)、断髪されたことが『新聞雑誌』に報道されたことで、民衆の髷(まげ)への執着を断念させることに大きな影響を与えました。

・明治天皇は毎朝、モーニングコ-ヒ-を皇后陛下と取られていることが報道され、市民へのコ-ヒ-の宣伝普及に大いに役立ったようです。このような事例から明治天皇は明治時代のグロ-バル化の先導役として、明治人の意識に変革をもたらしたと言えます。

(カフェ文化)

・日本の本格的なコ-ヒ-文化(カフェ)の先駆けとなった『可否茶館』の開店から130年の歳月が流れました。昭和時代の象徴の一つである「喫茶店」文化は、時代が変わり、多忙な人々は時間を大切にするようになり、カフェは“セルフサ-ビス”が主流となり、この変化をよんだ鳥羽博道は1962年(昭和37年)に「ドト-ルコ-ヒ-」を設立しました(注14)。

・セルフカフェが定着していた日本へ、1996年(平成8年)に進出してきたのは「スタ-バックス」(ミルク系コ-ヒ-/シアトル系コ-ヒ-)です。メニユ-は女性に支持され、日本に上陸して僅か10年で業界最大手ドト-ルコ-ヒ-の売り上げを上回りました。変革はコ-ヒ-の香りとともに日本のコ-ヒ-文化を変えたのです。明治のコ-ヒ-の香りは不断なく現在も続いています。

(グロ-バリゼ-ション研究所)代表 五十嵐正樹

〈引用資料〉

(注)

(1)「新聞雑誌」明治04年5月

(2)「中外物価新報」明治13年8月1日

(3)「時事新報」明治39年8月12日    

(4)「別冊サライ珈琲」、小学館 伊東博〈江戸のコ-ヒ-てんやわんや〉、2000年12月30日、103~104頁

(5)「東京絵入新聞」明治9年4月7日

(6)「別冊サライ珈琲」、小学館 宮腰太郎〈ハイカラじいさん奮戦記〉、2000年12月30日、107頁。

(7)「自由燈」明治17年5月29日

(8)「毎日新聞」明治22年8月20日

(9)「東京日日新聞」明治22年8月20日

(10)「新愛知新聞」明治25年1月12日

(11)「郵便報知」明治17年4月29日

(12)(注11)と同じ。

(13)「コ-ヒ-」事典。

(14)「ウィキペディア」(Wikipwdia

〈参   考〉

(1)両陛下は金のお茶釜で一度沸騰した水を金の茶釜に入れ、再び沸騰して奉る。茶釜の大きさは、直径40センチのものに2つの銀環を付したもので、昔、豊臣秀吉が関白の時、茶の湯に使用した物という。
(2)太田南畝(1749年〈寛延2年3月〉~1823〈文政6年4月〉)/辞世の歌は「今までは人のことだと思うに俺が死ぬとはこいつたまらん」と伝わる。

(3)(浜田義一著『江戸たべもの歳時記』より)。

(4)明治時代~昭和時代のコ-ヒ-の価格推移をみると、明治19年3銭、明治21年1銭5厘、明治30年2銭、明治40~45年3銭/大正2~7年5銭、大正10~12年10銭、昭和元年~5年10銭、昭和9~15年15銭、昭和20年5円/「週刊朝日編「値段風俗史」〈明治/大正/昭和〉、『週刊朝日』、昭和62年3月20日。

(5)1890年(明治23年)4月1日~7月31日(於東京上野公園/入場者1023693人)。

明治時代の世相(3)-新聞発刊-

2017年3月9日

〖プロローグ〗

・情報は人々にとって、生きる術であった。日本史上-織豊期(しょくほうき/織田信長・豊臣秀吉時代)であっても、戊辰戦争期(内戦:薩長軍と幕府軍)であっても、樋口一葉が生活困窮の中から抜け出すためにも、“人の耳と口は重要であった。江戸時代、町人の日常生活の上で、〈噂〉や〈瓦版〉は、有力な情報源であった。

・〈瓦版〉は、江戸の火事/地震/心中/敵討など-時事性の高いニュ-スを速報し、町を売り歩いた。その多くは木版一枚刷り・絵入りのものであった。現存する最古の「瓦版」は1614~1635年の「大阪の役」を記事にしたものである。現在の「新聞」は、幕末から明治時代に居留欧米人向けの新聞を真似してつくったもので、英語の「news」に相当する訳語として広まった。

〖英字紙物語〗

(英国人活躍)

・幕末期に手書きの回覧文章を「新聞」と呼ばれるケ-スがあった。1861年6月(文久2年)、英字新聞として『ナガサキ・ショピング・リスト・アンド・アドバイザ-』などである。日本のジャ-ナリズム史上の恩人であるジョン・レディ・ブラック(John Reddie Black)は1863年(文久3年)に来日し、横浜でハンサ-ドの英字紙《The Japan Herald》の共同編集人となった〈参考〉。1867年(慶應3年)、日刊紙《The Japan Gazette》を発行し、“日本の維新の動きなど”を掲載した。また、日本の商品やサ-ビスなどの広告を英語で載せたが、日本人には馴染みの薄いものであった。

・日本を全世界に紹介する意図を抱いて1870年(明治3年)に『ファ-・イ-スト』紙を発刊した。同紙は、「外の世界と世界で最も古い帝国王朝の臣民との間に善意と同胞愛」を養成することを狙いとしていた。同氏は日本人のための近代的新聞を発行することを決心し、『ジャパンガッゼト』紙を継続したまま家族と共に東京の増上寺近くに転居し、実現に向けて奔走する。

〈参考〉ジョン・レディ・ブラック(John Reddie Black/1827年(文政10年)~1880年(明治13年)、英国ロンドン出身。海軍士官を辞め、実業家として成功しようとオ-ストラリアに渡った。しかし、事業に失敗した後、1863年(文久3年)に来日した。

(日本紹介)

・同氏に言わせると、当時、邦字紙は若干あたったが、「敢えて論説を書こうとするものや、日々の出来事を真面目にコメントしようとするものはなかった」と述べている。ジョン・レディ・ブラックは、己(おのれ)の使命は日本人に一流紙とはどんなものかを見せることだと痛感し、1872年4月、マカオ生まれのポルトガル人で日本語の実務の才に長けた友人F・ダ・ロ-ザの強力得て、日本語新聞『日新真事誌』(1872年/明治2年)を創刊した。

・同年暮れ、同紙へ「太政官左院」(明治初期の立法府)が会議録の刊行と政策を記事にする権限をあたえた。「左院御用」という」肩書を加えた『日新真実誌』(俗に貌刺屈新聞〈ブラック〉)の影響力が増大し、秘密文書からの暴露記事(征韓論争による内閣危機説)を掲載し、慎重さを欠く紙面をとったため、関係者は周章狼狽した。そのため、政府の圧力で、同氏は新聞を他人に譲渡した。1875年6月、【讒謗律】(ざんぼうりつ)と【新聞紙条例】を発布し、政府の政策批判を禁じ、日本の新聞編集から外国人を排斥した〈参考〉。

〈参考〉:著作物を通じての名誉毀損に対する処罰(明治8年6月28日/太政官布告110号)

・ジョン・レディ・ブラックは、明治政府から見放されたのを知り、日本を去り上海に赴いた。1879年(明治12年)に横浜に戻ってきたが、入院加療のためであった。しかし、『ヤング・ジャパン』を執筆中、1880年6月(明治13年)、脳溢血で他界した。同氏の息子ヘンリ-・ジェム-ズ・ブラック(豪州生まれ)は明治時代のエンタ-テ-ナ-(落語家・快楽亭ブラック、英語教師など)として、日本で活躍し、その後、日本に帰化した。現在、横浜の外国人墓地に親子共々眠っている。

〖邦字紙創刊〗

(有力紙と啓蒙)

・明治に入り、多数の新聞を創出した。1868年(慶應4年/明治元年)に半紙を2つ折りした小冊子風の新聞を刊行した。『中外新聞』(1868年2月/柳河春三〈洋学者・新聞界の先駆者〉・慶應新聞の1つ/部数1500)、『江湖新聞』(1868年/福地源一郎・条野伝平/佐幕色の強い)、1871年1月(明治3年)、日本最初の日刊紙『横浜毎日新聞』(洋紙を二つ折り)、1872年『東京日日新聞』(毎日新聞の前身)、『郵便報知新聞』(報知新聞の前身)などが創刊された。

・明治政府は新聞の普及が国民の啓蒙に役立つという視点から、新聞を積極的に保護する制作を取った。当時の明治政府は日本各地に無料の「新聞閲覧所」や新聞を人々に読み聞かせる「新聞解話会」を設置したほか、新聞を公費で買い上げたり、郵便面で優遇したりして各新聞社を支援した。

(新聞と政治)

・1874年(明治7年)、「民選議院設立建白書」などを提出した事ことを機に自由民権運動が盛んになり、これまでの御用新聞より民権派の勢力が強くなり、政府に批判的な論調が目立つようになった。このような動きに対して、明治政府は前述のように1875年6月(明治8年)に【讒謗律】、【新聞条例】を制定して、新聞の言論弾圧に乗り出した。当時の新聞は、正論中心で知識人を対象にとした「大新聞」と娯楽中心で一般対象とした「小新聞」に分かれていた。

(新聞と戦争)

・現在の大新聞である『読売新聞』は1874年(明治7年)、1879年(明治12年)『朝日新聞』、同『大阪朝日新聞』が創刊された。それから10数年後、日本の軍国主主義の発火点となった「日清戦争」1894年(明治27年)と「日露戦争」1904年(明治38年)が勃発した。新聞報道は“戦時色の強い”ものになり、紙面は戦争を鼓舞・礼賛する政府主導ものとなった。その影響から明治政府と国民は、異常な精神状態に置かれた。

(創刊別)

明治初期の邦字各紙や雑誌などを創刊年別に類別すると、以下の通りです。

△1871年(明治4年)新聞雑誌(曙新聞/東京曙新聞/東洋新報改題)、名古屋新聞(愛知新聞と改題)

△1872年:東京日日新聞(1942年〈昭和17年〉、大阪毎日新聞と合同、題号を毎日新聞)、日新真事誌(英国人の経営、1875年廃刊)、郵便報知新聞(1884年報知新聞と改題)、公文通誌(1874年朝野新聞と改題)

△1874年:読売新聞

△1875年:平暇名絵入新聞(東京絵入新聞と改題)、浪花新聞(1877年廃刊)

△1876年:大阪日報(1882年日本立憲政党新聞に吸収されるが再び大阪日報)に戻り1888年大阪毎日新聞)、中外物価新報(中外商業新報、日本産業経済新聞、日本経済新聞と改題)山形新聞、愛媛新聞

△1877年:京都新聞、大阪新聞(大阪日報)筑紫新聞1880年福岡日日新聞と改題、九州日報と合併、西日本新聞となる)

△1878年:土陽新聞、大阪でっち新聞

△1879年:大阪朝日新聞

〖発行部数と読者〗

(発行部数)

・明治初期の小新聞は明治初期当時としては巨大なメディアであり国民の有力な情報源であった。事例として「心の寫眞」が掲載された1876年(明治9年)の『読売新聞』の号当たりの平均発行部数は1万5009部、『人心寫眞繪』の連載が始まった1886年の『朝日新聞』は3万1413部。また、新聞は「新聞閲覧所」(公的施設/東京は上野恩賜公園内)を通じて、一部当たり複数の読者に読まれていたので、実際の読者は発行部数以上と思われる〈参考〉。

〈参考〉:「新聞閲覧所」は、公費で新聞を買い上げ、有料または無料で供覧に付していた施設。明治時代を通じ普及衰退した。1867年(慶應3年)に最初の閲覧所が設置され、1870年(明治3年)頃から普及。1877年(明治10年)頃に設置のピ-クを迎えたという。当時は、新聞自体の販売網が整っていなかった。一箇所でまとめて複数の新聞を読める施設は庶民から重宝された。東京市内でも、公的施設として上野恩賜公園の園内(花園稲荷神社の近辺?)に設置された。

・新聞の印刷技術の向上や読者層の拡大によって、新聞は、この時期の発行部数を伸ばした。例えば、『大阪毎日新聞』は1893年(明治26年)に7万部だったのが1895年に10万2000部、1900年(明治33年)には12万6000部と増えた。この背景として、この時期の中等教育を受けたいわゆる知識層が増加したことにより新聞の購読者が増えたばかりでなく、それまで新聞とは縁のなかった職工などの下層読者がリテラシ-(literacy:識字率)を獲得し、新たに読者となった。

・教育の普及で婦女子のリテラシ-も向上したため、家庭読者も必然的増加し、女性も多くの新聞を手にするようになった。この頃、樋口一葉も購読者の一人であった。1891年(明治24年)の『朝日新聞』の1カ月の新聞代は28銭であった。爾来、124年経った2015年の1日当たりの新聞発行部数は4424万部(日本新聞協会調べ)となった。

〖新聞の配達史〗

(宅配の動き)

・日本の新聞の宅配制度は多面的視点から新聞の発達にとって大きな役割を果たしたと言っても過言ではない。明治初期の小新聞時代を起点として、1872年(明治5年)2月21日、『東京日日新聞』が創刊された翌日の2月22日に、社員や印刷工らが仕事の合間に近所の読者宅へ届け出ていたのが始まりである。

・以後、新聞の発行部数の増加に伴って配達頻度も増え、1875年(明治8年)には戸別配達が制度化され、専門配達員が生まれた。現在の販売ル-トである新聞社→販売所→読者へのシステムになったのは、1903年(明治36年)からで、「報知新聞社」が先駆けとなった。全国各地に専売店を設け、積極的に新聞の拡販を始めた。

(新聞配達人)

・現在の新聞配達人は、バイクに乗り、肩で風切って、春夏秋冬の街中の家々を配達する姿は、朝の風物詩まで行かないが、早朝の営みになった。明治の頃の新聞売りはどの様な姿で街を売り歩いていたのであろうか。当時、横浜で新聞売りをしていた安藤政次郎(1855~1930年/通称〈小政〉)である。イケ面で、いなせな恰好をして売り歩き市民から人気があったという、後に安藤動物園を設立する(現豊橋総合動植物園創設者)(写真参照)。

0310


















(出典:横浜開港資料館 http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/087/087_05.html)

〖エピロ-グ〗

・幕末から明治となり、人々の移動は自由となり、交通手段も1872年(明治5年)に新橋-横浜間に陸蒸気(おかじょうき)が走るようになり、人々の動きに合わせ、多くの情報が入手できるようになり、新聞紙面も多くの情報が掲載されるようになり、その都度、国民は一喜一憂した。例えば、1891年10月28日(明治24年)6時38分50秒「濃尾地震」(岐阜県/愛知県)が発生し(直下型地震)、日本史上最大の内陸地殻内地震(福井県今立郡鯖江町震度7)で、死者7273人、負傷者17175人、家屋全壊14万2000戸など甚大の被害をもたらした。

・地震発生時、樋口一葉は、現在の文京区本郷1丁目に住んでおり、地震の様子について-

『28日、曇、6時頃はげしい地震あり、今年は大地震がおこる37年目(1854年12月〈安政東海地震を指す〉)の大地震にあたると、ひどく心配している人もいる・・・中略・・・。29日、朝早く配達して来た新聞を見ると、・・・中略・・・各地からの電報によれば愛知、岐阜あたりから伊勢、浜松あたりなどは大きな被害を受けたという。しかし、詳細は不明であると』と伝えている。

・この新聞報道から当時の国民生活への影響を大きかったことを示唆している。あらためて、新聞の効用は多方面にわたっており、樋口一葉は、新聞情報がいかに重要であったかを認識していたことは想像に難くない。以後、一葉の小説活動は“奇跡の14ヵ月”に繋がり、『たけくらべ』など、多くの秀作を発表している。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

〈引用資料〉

・佐々木みよ子・森岡ハインツ共著『快楽亭ブラックのニッポン』PHP、1986年10月6日

・奥武則著『幕末明治新聞ことはじめ』―ジャナリズムをつくった人びと、朝日新聞出版-2016年12月25日

・「横浜開港資料館」資料

・「明治期の広告」-近代広告の幕開け、斎藤悦弘(広告研究所代表取締役)、「ADSTUDIESVol.9    2004

・「表象文化論学会ニュ-スレタ-(REPRE):研究ノ-ト(1)」など

・土屋礼子著『大衆紙の源流』-明治期小新聞の研究-

・完全現代語訳『樋口一葉日記』、(株)アドレエ-高橋和彦、65~66頁

Yahooブログ 「日本の新聞発達の歴史について」、2012年10月4日

・「読める年表」監修 松尾章一、『現代用語の基礎知識』1980年版-別冊付録

・『明治日本発掘』(全9巻)、1994年6月15日、河出書房新社

・加藤秀俊著『世相史』―明治/大正/昭和、加太こうじ/岩崎爾郎/後藤総一郎、社会思想社刊、昭和42年6月15日

・『産経新聞』2017年3月6日-温故地震-郡司嘉宜

(参  照)

・拙稿ブログ「明治時代に活躍した英国人の落語家」、2013年11月19

プロフィール

igarashi_gri

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ