2017年04月

明治の世相(6)-出版事情-

2017年4月25日

〖プロロ-グ〗

・江戸時代の出版文化は世界と比肩されるものでした。その文化を支えているのは上流社会(武士、公家、僧侶、豪商)の人達だけでなく、庶民社会においても識字率が高かったことで、読書が盛んでした。寺子屋教育が大きな役割を果たしたのです。こうした豊かな読書環境で、明治維新を迎えたのです。

〖出版事業〗

(背  景)

・明治維新は、強固な幕藩体制の価値観を庶民は打破し、新体制の中で自らの価値観を見出すことに懸命でした。その芽は幕末に見られます-①情報関心の増大、②寺子屋の増大、③教科書の商品価値の増大、④地方書商の発達、⑤国民的規模での書籍市場の形成などです。その結果、幕末における社会的コミュニケ-ションの新たな息吹が、明治維新のコミュニケ-ションの礎になったのです(注1)。

(明治三書)

・旺盛な明治の人々のエネルギ-は“出版事業”にも向かいます。明治初年、『明治の三書』と呼ばれる本が大ベストセラ-になります-①福沢諭吉のわかりやすく西洋文明を紹介した『西洋事情』は、人々の注目を浴びたのです。海賊版を含め25万部、②中村正直が翻訳した英国版伝記逸話集の『西国立志編』は、その後の修身教育用を含めると100万部、③世界の地理を略述した内田正雄・西村茂樹纂輯の『輿地誌略』は各府県で地理の教科書として印刷されたものを加えると15万部です。

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(出典 Wikipedia)

(読書ブ-ム)

・当時の日本の総人口は約3500万人で、市民の読書エネルギ-の凄さを感じます。当時、世界はグロ-バル化の中で、幕藩体制は264年の長きにわたって鎖国体制をとってきた反動が、維新を機に、庶民の知的欲求が、一気に高かったことは容易に想像できます。『西国立志辺』は、初版の全11冊は明治3年(1870年)から4年7月にかけて、中村正直が奉職していた静岡学問所のある静岡県で刊行されています。同様に4年後半には大阪の伊丹屋善兵衛と東京の木平愛二が和本8冊で刊行します。

・福沢諭吉が小幡篤次郎とともに著わした『学問のすゝめ』の明治4年版(慶應義塾刊)は、我が国初の金属直刻活字を使って印刷された本として知られています(印刷博物館所蔵)。諭吉は後に「毎編凡そ20万とするも17編合して340万冊は国内に流布したる筈」(「福沢諭吉全集緒言」)と述べています。諭吉がらみでは、弟子の早矢士有的(はやしゆうてき)〈横浜正金銀行を創業/戦後、東京銀行〉が明治2年(1869年)に横浜で創業した「丸善」が有名です。同氏は明治14年には駿河台下に洋書専門店の中西屋を開きます。同書店の「発売図書目録」(明治34年版)を見ますと、洋書、和書もあり、明治初年の出版界の旺盛な活動ぶりをうかがうことが出来ます。

〖書店の盛衰〗

(三省堂など)

・企業の浮沈は経営者の才覚や経済情勢などに起因することが多々あり、事の成り行きによっては、経営基盤を揺るぎしかねない実態になります。明治初年の創業で、現在も持続している出版社は多くない。明治8年金原出版(かねはら)、10年有斐閣、11年春陽堂、13年学術図書出版の内田老鶴圃(うちだろうかくほ)、14年三省堂、19年冨山房、河出書房(創業当時は河出書店)、23年東京堂書店、大日本図書、24年東洋経済新報などです。

・明治20年代以降、出版社の発展経緯を見ますと、明治24年(1891年)は北隆館です。従来は北陸3県の新聞・雑誌・書類の取次店でしたが、全国展開して戦前は4大取次の一つに数えられるまで発展します。出版分野では、牧野富太郎の植物図鑑を41年に刊行するなど、自然科学分野の出版社として歩んでいます。

・同23年に京都市で弘文館が開業します。同社も吉川弘文館と同じく、古書店として出発し、大正の初めには出版社に転じ、京都帝国大学の関係者を執筆者として法律・哲学・経済学の書籍を刊行します。大正6年(1917年)の河上肇著「貧乏物語」は、大ベスト・セラーになります。同社は昭和15年(1940)、東京市に移転し、今日に至っています。

・その後、明治29年(1896年)には国語・国文学の明治書院、文芸書の新潮社が開業、明治30年は経営実務の実業之日本、英字新聞のジャパンタイムズです。明治40年(1907年)にアンパンマンで人気の児童書のフレーベル館、英語の研究社、明治42年野間清治が講談社の前身である「大日本雄弁会」の看板を掲げます。明治の萌芽期からの出版実績をみますと、明治20年の1万4552点~30年には2万5522点、40年には2万910点と当初の3倍近くなりました(『日本出版百年史』)。

(休   業)

・この時代に優れた業績を上げながら活動を休止した版元の事例を紹介すると-江戸の大店であった浅草の朝倉久兵衛、大阪の石田和助、文明開化の風物を、風刺を風刺した作品で人気のあった仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛』から教科書、医書まで幅広く刊行した万笈閣、さらに成島柳北の『柳橋新誌』(りゅうきょう)や新都東京の風物を描いた服部撫松の『東京新繁盛期』などを刊行した稲田政吉(山城屋政吉)。

・ギゾ-の『欧羅巴文明史』(ロ-マ帝国崩壊からフランス革命にいたる)などの翻訳を手掛けた奎章閣、立憲改進党結成や早稲田大学の設立に大きな役割を果たした小野梓が創業した東洋館書店、同店を坂本嘉治馬が引き継いだ冨山房です。末広鉄腸の政治小説『雪中梅』の博文堂など、順天堂の医事雑誌などの英蘭堂、外国の辞書で知られた大倉書店などです(注2)。

 〖雑誌出版〗

(蘇峰と雪嶺)

・明治時代は中期に入ります。明治20年(1887年)には近代国家の礎となる憲法草案が伊東博文首相、伊東巳代治・金子堅太郎らは神奈川県金沢で井上毅法政局長官の提出した憲法草案の検討を始めます。折しも、同年、ジャ-ナリズムの泰斗徳富蘇峰の『国民之友』(東京・民友社、主宰徳富蘇峰)を創刊されますが、蘇峰は愛読した米国の『ネ-ション』の日本版として考えていたようです。

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(出典 Wikipedia)

・創刊当初は月刊7000部でしたが、明治22年1月には旬刊となり、2万部を発行するオピニオン雑誌として、急成長します。明治30年8月、蘇峰が松方内閣で内務省の参事官となったことで、この変節に憤った購読者層は離れ、31年8月、ついに廃刊に追い込まれました。代わって、三宅雪嶺の主宰する『日本人』でした。同誌は40年に『日本及日本人』と改題、「吉田松陰」号、「憲法満20年記念」号など500頁、1000頁を超えるような大部の特集号を刊行して人気を博します。

(太陽と中央公論)          

・明治28年1月、博文館が日清戦争の勝利に国民的雑誌を目指して『太陽』を創刊、執筆人に一流大家を集め、総合雑誌の評価を得ます。発行期間は明治25年1月(1895年~昭和3年(1928年2月)、計531冊発行。また、仏教雑誌『反省雑誌』が『中央公論』と改題、総合雑誌として、明治末には『太陽』とならぶ地位を確立します。このほか文芸誌『都の花』(明治21年)、『文学界』(同26年)、森鴎外の『めさまし草』(29年)、与謝野鉄幹『明星』(32年)、少年誌の『少年世界』(29年)、婦人誌『婦人画報』(38年)など多分野の雑誌が創刊されます(注3)。

〖新聞報道〗

・これまでの多くの雑誌が創刊され、その中で、意気軒高な明治の人々は、それぞれに自らの考えを披瀝し、まさに百花繚乱の様相を呈していました。その生き様を当時の新聞はどの様に報道(-雑誌の時代の幕あけ-)していたのであろう。以下に事例を紹介します。

⒈雑誌「日本人」は、-作三日をもって第一号発兌(行)し、山王公園星カ岡の茶寮にて宴会を開き、会員は30余名、東京大学、文部省の諸氏、新聞記者、著述家等なり、座定まる後、志賀重昴氏(しげたか)は、この雑誌の発兌の趣旨を述べた。この雑誌の編輯人は「南陽時事」の著者志賀重昴氏なるが、氏はなお齢若きも文才あり、挙動活発、未来になかなか望みある人なりという(注4)。

⒉「貴女之友」-婦女子の教育を奨励するの目的をもって、日本橋区本町なる東京教育社より発兌せる「貴女之友」は、発兌以来都下及び各地方の貴婦人社会にすこぶる評判よろしく、回一回ごとに得意も増加する由(注5)。

⒊「都も花」-「都の花」、金港堂より第一号を出版したり。山田美沙斎「主人の花車」、二葉亭四迷氏の『めぐりあい』、依田学海先生の『政党美談淑女操』、迷花生の『謡の評釈』、流鶯散史の『中原の鹿』、槐棠仙史の『華胥の夢』(かしょ)の小説を集めしものにして、美しく面白し(注6)。

⒋「少年園」、「少年園」はいよいよ去る天長節(11月3日)をもって発行せり。「少年園」はその名に負(そむかず)、実に明治の少年の花を集めり。寄書家には柴四朗(東海散士)、朝比奈和泉等の少年名家あり、饗庭篁村氏の小説は富麗の熊嫣然として一枝の牡丹を着くるもの、懸賞文の募集といい、探画考物の趣向といい、編輯者の用意至れり(注7)。

⒌「写真新報」、当時有名なる写真家なる飯田橋町4丁目の小川一真氏が編輯に係る「写真新報」第一号は、30間掘2丁目の博文堂より発兌したり。そのうち同氏が暗室構造大意、銀写真印画手術二篇のごときは、駆け出しの写真師のために至大の利益を与うるならん(注8)

⒍「早稲田文学」、我が文学をして円満ならしむべき方便として、和漢洋三文学の調和を目的とせる「早稲田文学」は、今度いよいよその第一号を発行せり。本号には釈義部には三島中洲氏の荘子、畠山健氏の万葉集、講述の部に関根正直氏の徳川文学の現象・・・中略・・・坪内逍遙氏のセキスピヤ脚本評釈、及び時文評論の文部の紛乱、文体の成り行き、史学の風潮等を掲げ、いずれも早稲田専門学校の一派の手になれる文学専門の好雑誌なり(注9)。

⒎大坂(阪)において発兌せし『社会燈』とえる破壊義の雑誌は、先に停止を命ぜられし間もなく、「第二社会燈」を発足せいしに、これまた第一号にて停止を命ぜられ、今度はまた『第三社会燈』を発兌したるに、これも昨日発行を停止せられたり(注10)。

〖エピローグ〗

・明治時代は盛んな出版事業に対する民衆の読書ブーム。その事例として、明治の著名な樋口一様の事例を紹介する。赤貧の樋口一葉は寸暇を惜しんで、上野の図書館に出かけ、本を借りて興味を引いた書物を読破していた。明治25年2月19日、一葉(21歳)は早朝、雪搔きを終えて、習字をしようとすると、手が震えてしかたがない。

・力仕事をすると人が字を書くのは億却(おっこう/気乗りしない)が本当にもっともな事だ。萩野氏から借りてきた雑誌と山東京山(きょうざん)の『蜘蛛の糸巻』を読んでいる。「朝日新聞」の記事を読んでからお昼にする。午後から早稲田文学の中の江戸文学もの、シルレル伝記(フリ-ドリヒ・フォン・シラ-/詩人、歴史学者)、マクベス詳解、俳諧論など、四、五冊を読む(注11/注12)。

・明治時代に入り、雨後の筍のように新聞、雑誌などが世の中に出てきて、論陣をはったのである。即応して、官民の異常なほどの好奇心と異常なほどの知識欲があった。樋口一葉は、ジャンルの違う本を貪り読んでいた事実は興味深い。後に一葉が評価の高い作品を生んだのは、困難な生活環境と厳しい自己抑制と作品への思いがあった。明治時代は日本のジャ-ナリズムの礎となり、大正、昭和の激動な時代を乗り越え、現代の豊かな国となった背景には、ジャ-ナリズムの発達が民主主義を保証するという証左であった。

(グロ-バリゼ―ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)今田洋二著「江戸の本屋さん」-近世文化史の側面-、NHKブックス、昭和55年2月10日、196頁

(2)『本郷』「明治の出版事情」(1)、吉川弘文館、2012.1、14~15頁 

(3)『本郷』「明治の出版事情」(2)、吉川弘文館、2012.3、14~15頁

(4)「毎日新聞」明治21年4月5日

(5)「毎日新聞」明治21年7月4日

(6)「読売新聞」明治21年10月16日

(7)「郵便報知」明治21年11月10日

(8)「東京日日新聞」明治22年3月19日

(9)「東京日日新聞」明治24年10月28日

(10)「郵便報知」明治22年4月28日

(11)「にっ記二(明治25・2・10~25・3・11)

(12)「完全現代通訳」(高橋和彦訳)「樋口一葉日記」

(株)アドレエ-、1993年11月23日、99頁

明治時代の世相(5)-人生40年-

2017年4月12日

〖プロロ-グ〗

・264年に続いた将軍の時代が終焉を迎えた幕末までは『宗門人別改帳』(しゅうもんにんべつあらためちょう)が住民台帳の役割を果たしておりました。それによると、幕末の日本の人口は約3000万人と言われており、その人達の多くは、明治時代(慶應4年/明治元年)の黎明期を迎えました。

・1871年(明治4年)に戸籍法が公布され、各地により提出された戸籍(壬申戸籍)に基づき内務省により明治5年1月29日(太陽暦では1872年3月8日)付で『日本全国戸籍表』が編纂されました。その内容によれば、1872年(明治5年)の総人口は3311万825人、男1679万6158人、女1631万4667人。

・1886年12月31日(明治19年)、内務省総務局戸籍課が編纂した『日本帝国民籍戸口表』(小冊子)によりますと、戸数774万7115、人口3850万7177人で、男1945万1491人、女1905万5686人です。このうち華族3443人、士族194万4000余人、残り3650万余人が平民と区別されています。

・日本で平均寿命が初めて発表された明治24~31年の第1回生命表によると、男42.7歳、女44.3歳、明治42~大正3年の第2回生命表によれば、男44.25歳、女44、73歳。因みに2015年(平成27年)の労働厚生省の発表による日本人の平均寿命は、男80.79歳、女87.06歳です。明治時代と平成時代の違いは一目瞭然です。

〖史上の寿命〗

・織田信長は桶狭間の戦いの折、「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て減せぬもののあるべきか」(人間の一生は、所詮五十年に過ぎない。天上世界の時間の流れてくらべたらまるで夢や幻のようなものであり、命はあるものはすべて滅びてしまうんものだ・・・)と。

・日本史上において、平均寿命を見て見ますと、平安から江戸時代(幕末)までは男女ともに30代半ばだったいわれています。その理由として、数百年を経ても人々の栄養状態や衛生状態、医療事情などに特段改善されなったために寿命は延びず、停滞を余儀されたと。

〖伝染病の蔓延〗

(コレラ禍など)

・明治時代に入り新聞の発刊により、市民はいち早く全国津々浦々の出来事を接することになりました。当時の新聞報道の特徴の一つは、市井の人々の疾病に関する情報が次第に多くなり、特に伝染病関連ニュ-スが人々の目を引き付けるようになりました。当時、運命を天に任せる以外に方策はなかったのです。ましてや、今日のように抗生物質などが皆無で、病魔に苦しんだ末、多くの人が亡くなり、明治人は悲嘆にくれました。

(感染ル-ト)

・明治時代に入り、“文明開化”は、官民の目を海外へ注力させたのです。グロ-バル化の波は怒涛のように日本に押し寄せました。当然のごとく、医療の面でも、無垢な日本へ感染症の大波が押し寄せ、猛威を振るったのはコレラです。1858年(安政5年)当時、すでに発症の事例があります。その感染ル-トは相次ぐ異国船の来航でした。

・コレラの感染は2~3年間隔で数万人単位の患者を出す流行が続きました。1879年(明治12年)と1896年(明治19年)には、死者が10万人の大台を超え、日本各地に避病院(感染症隔離病院)の設置が進みます。1890年(明治23年)、日本に寄港したオスマン帝国の軍艦・エルトゥ-ルル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われました。また、1895年(明治28年)、日本の軍隊内で流行し、死者4万人を出しました。

(感染報道)

コレラの流行を当時の新聞から見ると、以下の“なま”報道(原文のまま)があります。

・横浜は虎列刺(コレラ)の流行により、停泊の軍艦にては陸地より来る商人などをみだりに乗船するを許さず・・・中略・・・昨今しきりと激しきは翁町、松影町辺にて、同所の警察署へ届ける者陸続として絶え間なく、戸部、平沼辺の利口連は不動産へ護摩を焚き、赤紙へ牛という字を三つ書いて門口へ張りだすものもある(注1)。

・コレラ病を予防、鎮圧するに第一の妙薬と称する石炭酸は既に市中に売りきれ、官にてもほとんど困らせられて至急に英国へ注文ありし由(注2)。

・讃州(現・香川県)小豆郡土庄村にては、コレラ病退治の祈祷に百万遍の祈念を致したいと群役所並びに警察署等へ出願せしにより、郡役所、警察署にてはこの節柄、多人数集合してはかえって有害なることを懇々説諭がありたれども、なにぶん聴き入れず、去月23日、いよいよ捨て置きがたしとて、巨魁のもの3名捕縛した(注3)。

・内務大臣はその告示第19号をもって、東京府(伊豆7島、小笠原を除く)を虎列刺流行地と認定せられたり、されば現に日本全国にて虎列刺流行地は東京府、神奈川県下各部、長崎県、新潟県、千葉県、福井県、島根県、大阪府・・・中略・・・三府16県の多きに至れり(注4)。明治13年のコレラ病の初発より12月27日までの患者総計は16万8314人、うち死亡10万1364人(注5)。

〖当局の発表〗

・内務省衛生局の報告に係れる一昨年の19年虎列刺流行の記事を一読するに、同流行病の全国に惨害を及ぼしたる現状は実に竦然(しょうぜん/すくむ)として毛髪を立つるほどになり。同年の大流行は12年以来の惨害にして、その患者の総数は15万5574人、うち死亡者11万86人の多きに達し、死者の数は3分の2以上なりし(注6)。

・内務大臣はその告示第19号をもって、東京府(伊豆7島/小笠原島を除く)を虎列刺流行地と認定せられたり。されば現に日本全国にて虎列刺流行地域は東京府、神奈川県下各郡、長崎県、新潟県、千葉県、福井県、島根県、高知県、福岡県、佐賀県、大阪府、京都府、兵庫県、岡山県、広島県、和歌山県、愛媛県、三重県、山口県にして、三府16県の多きに至れり(注7)。

・虎列刺流行につき、氷水等のかわりにラムネを飲用するものすごく多くなりにしより、神戸十八にて製造する同品は昨今既に払底を告げたるにつき盛んに製造しおるも、その注文高の十分の一にも足らざるほどなりと(注8)。

(犠牲者)

・明治44年間のコレラによる総死者数は37万余りで、この数は日清、日露の戦争の総数をはるかに上回ったのです。なかでも、最大のコレラ禍の年の明治29年でした。この年の全国患者数は15万5923人。死者数は10万8405人。患者1万以上は東京、富山、大阪で、このうち大阪が最大の被害地で患者1万9709人、死者は1万5968人であった(注9)。

・1886年(明治19年)という年は、じつは明治このかた日本人の生き死の統計がとられて今日までの間で、もっとも死亡率の高い年でした。この年の死者総数93万8343人、これは人口千人あたり24.3人の死亡率は、ほぼ40人に1人が死んでいました。その死因を見ると-①コレラで10万8405人、疱瘡1万8678人、腸チフス1万8678人、赤痢6839人、この4種伝染病だけで、日本人は実に14万7000余の人命を失った。日露戦争一つやったほどの大きな惨事があったのです(注10)。

〖疾病の類別〗

・1896年の『衛生局年報』の「死亡者病類別」(死因)をみると、伝染病18万人余、発育及営養的病14万人余、神経系統及五管器病17万人余、呼吸器病13万人余、消化器病20万人余、そのほかとなっています。このうち、呼吸器病には肺結核が、消化器病には伝染性の胃腸炎が含まれていたと思われます。                                                    

・今日の疾病分類による死因統計が作成されたのは1900年(明治33年)でした。その年の1位は肺炎・気管支炎、2位は全結核、3位脳血管疾患、4位胃腸炎、5位は老衰となっており、この基調は、明治年間、ほとんど変わらなかったのです。なお、2008年(平成20年)の死因は、1位は悪性新生物(ガン)、2位は心疾患、3位脳血管疾患、4位肺炎、5位は不慮の事故、6位は老衰、7位自殺、8位腎不全、9位肝疾患、10位慢性閉塞性肺疾患でした。

〖著名人の病〗

(一葉に種痘)

・21歳の樋口一葉(本名夏子/1872~1896年)は、1893年3月16日(明治26年)に種痘(天然痘〈疱瘡〉)の予防接種)を受けている。その様子を次にように記している。「晴、一点の雲もない。本妙寺(本郷区菊坂町八十二)で種痘があるというので、私も邦子(妹)も行こうと思って支度する。母上は私達の髪を結い終わってから・・・中略・・・私は『聖学自在』(参考)を読み、午後早々に秀太郎とともに種痘に行く。

(肺結核3人)

・種痘を受けた3年後の1896年、樋口一葉は春頃より喉の不調を覚え、4月には咽頭が腫れる症状が現れた。7月には毎日ように39度の高熱が続く。8月初め、神田小川町の山龍堂病院を訪れたところ、樫村清徳院長から肺結核の診断を受けた。加えて、森鴎外の紹介により東大病院の青山胤通教授の診察を受けたが、重症の肺結核と判かり、すでに絶望的状態であった。同年11月23日、24歳6カ月の若さで不帰の客となりました。

・詩人石川啄木(1886~1912年)は、日常、自由放漫の生活を繰り返した結果、1911年4月(明治44年)頃から肺結核となりました。本人の母カツも妻節子も結核に倒れました。母は1912年3月7日、65年の生涯を終えます。母の死後、啄木は目に見えて衰弱し、1912年4月13日、父の一禎、妻節子、友人若山牧水に看取られ永眠したのです(享年27歳)。妻節子も1913年(大正2年)、この世を去りました。

・滝廉太郎は1894年(明治27年)、高等師範付属音楽学校(後の東京音楽院)に入学した。テノ-ルの美声に恵まれ、ピアノ演奏やクラリネット奏法に優れた廉太郎は卒業すると同時に母校の教師に採用されました。1901年(明治34年)、22歳でドイツ・ライプチヒ音楽院入学。11月25日、ライプチヒ(ドイツ)でオペラ観劇の後、風邪をひき、次第に重症化し、ライプチヒ大学付属病院で診察を受けた結果、重度の肺結核であることが判り、やむなく日本で療養することなり、1902年10月17日に横浜に到着。翌年1903年6月29日、大分県竹田市にて治療の甲斐もなく、父母や弟妹に看取られ息を引き取りました(享年25歳)。
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滝廉太郎(出典 Wikipedia)
 

〖エピロ-グ〗

・明治維新の早暁はコレラの流行から始まりました。明治維新、為政者にとっても、庶民にとっても大変な時代でした。特に庶民の生活基盤は、コレラをはじめ、多くの伝染病の病魔が人々を襲い、苦難を強いられる結果となり、多くの人命を失いました。その主因として-①生活苦、②公衆衛生、③医療環境-などです。このような諸因から勘案すると、人々の寿命は概ね40歳前後であったものと推量されます。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

  () 「朝野新聞」明治10年922

(2)「郵便報知」明治10年925

(3)「朝野新聞」明治12年7月18日

(4)「東京日日新聞」明治19年8月8日

(5)「東京日日新聞」明治13年1月14日

(6)「朝野新聞」明治21年3月22日

(7)「東京日日新聞」明治19年8月8日

(8)「大阪日報」明治19年7月20日

(9)立川昭二著「明治医事往来」、株式会社新潮社、昭和61年12月15日
     

(10)             同   上


(引用資料)

(1)完全現代語訳『樋口一葉日記』、訳者高橋和彦、(株)アドレェ-、110p          

(2)篠田達明著『日本史有名人の臨終図鑑』、(株)人物往来社、2009年12月

(3)「Wikipedia                                                                                                           

(参  考)

(1)新井白蛾(安政5年刊)の代表的な白蛾の随筆集

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