2017年05月

明治時代の世相(8)-女工さんの職場-

 2017年5月17日

〖プロロ-グ〗

・1867年(慶應4年)、旧体制の厳しい抑制の時代は終焉し、人口の9割を占める農民は、明治維新を迎えます。その時代の変化の中で、多くの人々は暗中模索し、毎日の生活を過ごしたに違いない。新政府は版籍奉還を施行し、身分制度を華族・士族・平民に再編成する。1873年(明治6年)の地租改正令では、納税制度を旧体制の米から、地価に応じた税金を徴収する制度に変えます。

・旧体制の職人の組合は廃止され、武士の給与も打ち切られ、人々は失業者や賃金労働者になります。また、近代化を急速に進める国家の梃入れで、若い女性は工場労働者(工女)に就きます。反面、士族の娘や貧困に喘ぐ農民の娘は、半ば身売りの形で、不安の将来を見据えます。

〖経済の勃興〗

(繊維産業)

・日本の資本主義は、明治政府の国策としての富国強兵、殖産興業施策の推進などにより、明治20年代前後から本格的な発展をみます。その後、日清・日露戦争後の企業の勃興期を過ぎると、急速に産業資本主義が始動し、日本経済は新しい局面を迎えます。

・この産業資本主義の形成は、主に綿紡績業、製糸業、織物業の三分野を核とする、繊維産業で、うち綿紡績業は、明治政府の施策の下で、官営模範工場を設置(富岡製糸場)します。加えて、紡績機械の年賦払下げ、輸入代金の立て替え払いなどを背景に発展します(注1)。

・繊維産業の急速な発展は、女子労働者(女工)を激増させます。その背景として-①農村部の過剰人口を、農村外に送り出す必要があり、繊維産業が必要とする若い女性の供給源となります。②若い女性は、貧しい農村生活から必然的に家を助けるために一定期間工場労働者として働き、再び農村に帰る出稼ぎ労働者の役割を果たす。

・明治初年の繊維産業の労働時間は、おおむね1日12時間です。しかし、同業企業の競争激化で、労働時間は徐々に延長されます。また、賃金についても労働時間の長短に関係なく低賃金が支配的でした。その主な理由は、農村の生活水準は極めて低いために、女工の賃金水準に影響を与えたと言えます。

〖報道面から〗

〈三井、女工の労働時間を12時間に延ばす〉(以下、原文)

・三井家の所有に属する富岡、三重、名古屋等の各製糸所は、開業以来数年を経過するも比較的純益薄く、損耗りしこと多かりしは、原料買い入れ等に拙なるの致す所なるべしといえども、外に工女労働時間の少なきも一原因なることを発見し、11時30分の規定外に30分を増加して12時間の労働をなさしめし++に、その成績すこぶるよろしかりしかば、某支配人よりその成績をの実況を本年の支配人会議に報告すべきははずなりとのことにて、いよいよ同会議に上り可決を見るときは、本年度より労働時間を増加することとなるやも知れずという(注2)。

〈鐘紡の女工虐待、監獄のごとし〉

・近来、東京市内各種工場における工女虐待に関する事実は言語道断の現況にて、現に過日来、結核性患者の続々発生の傾向にある鐘淵紡績会社を始め、その他各工場ともその惨状はなははだしく、同社のごとき、東京市内における模範工場をもって自任しおるに、その寄宿舎を始め1日間の食費のごとき、1日3回7銭5厘にして朝食、夜食は南京米に香物、味噌汁、昼は生魚と称し、すなわち肥料に供する鰮(いわし)、鰊(にしん)等にして、その宿舎のごとき、いかなる患者といえども伝染病患者と同一室に収容しおり、監獄における囚徒待遇よりもこれがいっそう惨状を極めおれるが故、警視庁においては差し当り工場条例の制定せらる暁まで相当の工場条例規定を設け、雇い主と被雇者間に相当の制裁を付することに決し、昨今しきりに取り調べ中なりという(注3)。

〈鐘紡、操業短縮を誇る〉(広告)

・弊社はすでには他の同業者に比して1カ月2昼夜多く運転を休止して職工を休養せしめおれり。今回更にこれに加うるに毎日昼夜30分間ずつ運転を休止せんとするものなり。現今、吾が国同業者間に行わるる操業時間は12時間押し通しにて、食事時間といえども運転を休せず、工女はわずかに交代食事をなすのみにて、毫(ごう)も休息の余裕なし。

・これがため職工の衛生を害するのを勿論、この交代食事時間中は人手少なきため、最も粗製乱造に流れる時なり。これは弊社が今回断然職工の衛生のため、一はこの間に起こる製品の欠点を根絶せんがため、食事時間として毎昼夜30分間ずつ器械の運転を停止すること決したる所以(ゆえん)なり(注4)。

〈外出も思うにまかせず〉

・憐れなる今の工女なり。彼等らはただ身貧家に生まれたるがために、ほとんど生ける器械として、追い使われる、その健康は壊され、その品行は敗られ、浅猿(あさま)しき堕落を遂げざるなし。熊谷町の林組と称する製糸工場は数10名の女工を使用せるが、工女の虐待言語に絶し、工女が外出する時に常に腕力ある男を付添人として同伴せしめ、寸隙たりともその自由に任ぜず、あたかも囚人を遇するのごとし。

・現に去月中、富山県生まれの山崎まつと外、一名の工女が、多くの屑糸を出せしとて酷く鞭笞(むち)しを加えし後、裸体のままにて戸外に突き出だせしより、両人は人事不省となりて倒れいたる通行人のために救われたり(注5)。

〈製茶女工、ストで賃上げかちとる〉

・同盟罷業の風潮はついに女工の社会に波及せり。埼玉県入間郡東金子村の吉田嘉助所有の製茶工場工女121名は労銀の件につき、去る20日、同盟罷業をなし、その目的を達して復業したり。東京の労働者にしてそのいくじなき、埼玉の女工にすらもしかざる者多きに歎ぜずんばあらず(注6)。

〈幸徳秋水「労働者諸君に次ぐ」〉

・吾人は労働者諸君のために完全なる工場法の完全なる施行を希う(ねがう)。しかれども労働者諸君よ、果たして今回の工場法が完全に修正、改訂せられ、その実施、運用もまた完全なる得たりとするも、しかも労働問題は決してこれがために解決せらるもにあらず。これ、ただその解決に近づくの第一歩たるに過ぎざるのみ、労働問題最後の解決は、工場法の力によらべきにあらずして、実に労働者諸君自身の力によらざるべからず。労働者諸君、大いに覚悟する所なかるべからず・・中略・・(注7)。

・今回の工場法案要領を見よ。いかにその資本家の鼻息を覘(うかが)うに汲々たるよ。いかにその標準が二、三の勢力ある大工場にのみ限られて、多数の工場の利害が無視せらたるよ。いかに労働者諸君の権利と利益を保全し増進するの途に躊躇せられたるよ。

・いかに工場法を作る所以の目的が喪失せられて、立派なる骨抜き鱒となりおれるよ。労働者諸君の利益と権利が認められるるとするも、そはただ資本家の利益と権利が認められるるとも、そはただ資本家のご機嫌を損せざる範囲に限らるるものにあらずや/(参照)。

〖工場法制定〗

(背   景)

・日本の近代の繊維産業のうち、その中核をなす綿紡績と製糸業の深夜業についてみてきた。概ね、当時の長時間労働と深夜業は、工場の非衛生的環境、女工の衛生知識の欠如などと結びついて、呼吸器、消化器病などの疾病率を高めます。このような状況は次第に認識されると、人道主義の観点から、あるいは母性保護の面から、労働時間、深夜業の規制が考えられるようになってきます。以上の社会的状況から、後に、我が国初の労働者保護法である「工場法」が成立することになります。

(内   容)

・既述のように女工さんの長時間労働や低賃金を是正のため工場労働者の保護を目的とした「工場法」(1911年/明治44年3月29日/法律46号)が制定され、1916年(大正5年)に施行されます。日本における近代的な労働法の端緒ともいえる法律であり、その主な内容は、工場労働者(職工)の就業制限と、業務上の傷病死亡に対する扶助制度である。ただし、小規模工場は適用外であり、就業制限についても、労働者全般を対象としたものでなく、年少者と女子労働者(保護職工)について定めたにとどまるなど労働者保護法としては貧弱なものです。以下、当時の新聞の内容です。

‣同法は多数の職工、徒弟を使役する大規模の工場に適用するを原則とし、小規模の工場には特別な理由ある場合、特別の理由ある場合の外は適用せず。

‣幼工保護及び時間の制限、10歳未満の幼児は工場において、使役することを禁じ、14歳未満の職工、徒弟には使役時間に制限を設け、一般職工には1カ月2日以上、1日1時間以上の休憩を当うること(注8)。

〖エピロ-グ〗

・女性労働者(女工)の生活を克明に描いた「女工哀史」(1925年/細井和喜蔵著)は、紡績工場で働く女性労働者の生活を克明に記録したルポルタ-ジュです。これによって世に知れるようになった過酷な労働、それ自体についてもこの語が用いられるようになった。この女工さんが劣悪な労働環境の中で、艱難辛苦を乗り越え、日本の資本主義の発展の礎になったと、言っても過言ではない。

・明治時代の女性を取り巻く労働環境は欧米諸国と比べて、発展途上の国でした。それから明治を経て、大正、昭和、平成と変遷し、来年は明治維新から150年になります。しかし、現在、多くの女性は各界への職場進出を果たしましたが、その根底には明治時代の劣悪な女性の労働環境と同質である点は払拭されていない。

・最近、話題になった電通の社員であった高橋まつりさんの事例である。長時間の労働に耐えかね、まつりさんは自らの生命を自ら絶ってしまった。この種の事例は後を絶たない。最優先の利潤追求型の経営方針が、未だに経営者の脳裏を支配しており、経営者の猛省を促したい。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)「明治・大正の女子労働政策(二)」創価大学法学部、第18巻第4号、1989年3月

(2)「時事新報」、明治32年1月4日

(3)「日本」明治34年8月1日

(4)「中外商業新聞」明治36年7月15日

(5)「平民新聞」明治36年12月6日

(6)「平民新聞」明治36年11月29日

(7)「万朝報」明治35年11月10日

(8)「時事新聞」明治31年9月9日

(資   料)

ニュースで追う「明治日本発掘」全9巻7、河出書房新社1995年6月23日 

(参   照)

幸徳秋水(こうとくしゅうすい)〈1871年11月5日(明治4年9月2日)~1911年1月24日(明治44年1月24日)〉、明治時代のジャ-ナリスト、万朝報(よろずちょうほう)記者、思想家(中江兆民の門弟)、社会主義者、無政府主義者、大逆事件(明治天皇暗殺計画を企てたと明治政府が捏造した事件と言われる)により、処刑された〈ウイキペディアより〉。

明治の世相(7)-庶民の貧困-

2017年5月7日

〖プロロ-グ〗

・本年は平成29年である。この民生が安定している世相の中から“飢饉”という言葉を見出すことはできない。しかし、30年前の昭和の元号を冠した時代(1926~89年)は、「飢饉」という言葉を見出すことは容易です。昭和4年(1929年)の世界大恐慌の発生の影響で、生糸価格が暴落し、養蚕業を生業とする農家は大打撃を受ける。

・加えて、東北地方の農民は、1930年(昭和5年)~1934年(昭和9年)にかけて、やませ(北東風又は東風〈こち〉)の発生の影響で、冷害を主因とする農産物の不作が続いたため、各地で飢饉(昭和東北大飢饉)が発生し、農民は困窮する。家族の危機を救うために「娘の身売り」が続出する。飢饉は、2.26事件の背景の一つとなった。

〖三大飢饉〗

(負の遺産)

・昭和の始まった1926年から凡そ60年前は、明治時代(1868年)の始まり。この時代は文明開化とはいえ、幕藩体制の多くの“負の遺産”を引き継いだ。特に貧困問題は典型的な事例で、その原点は、江戸時代の三大飢饉(享保、天明、天保)の影響による食料不足が、生活困窮をもたらした。

(実   態)

・飢饉が特に酷かったのは、東北地方の南部藩領(岩手県)の北部地域や胆江地区である。それを裏付ける藩史や多くの地域内に残る墓標などから事態の深刻さが伺える。墓標は飢饉の際に道端で行き倒れとなった人を葬ったものと地元に伝わる。飢饉は、「死んだ牛馬の肉を食するのは普通で、人肉を食する者さえいた」。

・飢饉による餓死者は、弘前藩の例を見ると、餓死者は10数万人に達したとも伝えられている。逃散した者を含めると、藩の人口は半減したという。飢餓に加え、疫病が流行し、1780年(安永9年)から1786年(天明6年)にかけて、全国で92万人余りの人口減を招いたとされる。

・飢饉の対応処置として、藩内の米を藩外に移出することを禁ずる「穀留」(こくどめ)や生産低下の緊急対策として年貢減免、飢餓状態になると「お助け米」(おたすけ小屋)による給食などである。飢饉翌年の田植期には労働不足で、次期の作付けが不可能になること恐れて、扶食米(ふじきまい)や塩を援助した(注1)。

・飢饉は基本的には農村の問題である。天明飢饉の際、都市部(江戸、大阪など)の庶民が食糧不足に陥ることはなかったと言われる。他方、飢饉のない時でも、都市の貧困問題は顕在化し、江戸時代後期には江戸や大阪に「貧民街」が形成されたことは、貨幣経済の中に取り込まれた証左である。

〖明治の施策〗

(貧困の連鎖)

・治世は明治に移る。明治政府は徳川時代の「貧困問題」を重要施策の一つして注力するが、これまでの幕藩体制による藩単位のセイフティ-ネットが崩壊し、農村、都市の貧困問題が新たな局面を迎える。近代国家の最初の貧困対策は1874年(明治7年)「恤救規則」(じゅきゅう)の制定である。

・この対策は1874年から1931年までの法令である。明治政府が生活困窮者の公的救済を目的として、日本で初めて統一的な基準をもって発布した“救貧法”である。罹災者を除く当時の窮民には、寡婦、孤独老人、孤児、障害者、重病者といった生計維持困難者のほかに、農村部と都市部にはそれぞれ多数の貧困者がいた。

(貧民、細民)

・明治の貧民、細民の状況について、日清戦争の勝利(1894年〈明治27年〉)後も産業化の発展過程における貧困層の実態のルポタ-ジュである横山源之助『日本の下層階層』が1899年〈明治31年〉に出版される。東京の細民の状態について、以下のように説明している(注2)。

‣東京市15区、戸数29万8000人、現在人口136万余人、その10分の幾分は中流以上にして、即ち生活に苦しまざる人生の順境(万事うまくいっている様)に在るものものなるべしといえども、多数は生活に如意ならざる下層の階級に属す。細民は東京市中いずれの区に住み、その数幾何なるや知るべからずといえども、東京市全体の上にて、細民の最も多く住居する地を挙ぐれば山の手なる知るべからずといえども、東京市全体の上にて、細民の最も多く居住する地を挙ぐれば山の手なる小石川・牛込・四谷にあらずして、本所、深川の両区なるべし(原文)。

〖新聞報道〗

(農民騒動)

△明治時代の農民騒動に関する新聞報道は枚挙にいとまがない。報道時期は明治16~18年である。17年1月末、松方大蔵卿によるデフレ政策により、農村地域は疲弊した。福島県大梅村ほか数カ村の借財を抱えていた農民約300人が、負債の減免、延納を求めて八溝山近くに屯集した。これを機に農民騒動は燎原の火の如く拡がった。

△同年、全国各地で負債返弁を中心とする農民騒動は167件に達し、明治期における農民騒動のピ-クを迎えた。その典型は明治17年11月1日午後8時、埼玉県秩父郡下吉田村椋神社にむしろ旗翻った。農民の中に広がった自由民権運動の力は、「秩父事件」となって激しく燃え上がった。以下各地の情況である。

‣滋賀県でも不穏

・江州甲賀郡各村(滋賀県)の小作人がその地主へ入れ揚げ米減少せんと主張しいる由なるが、うち夏見村の地主は昨年の暮れ、本年限りに一表一升ずつ減ずべしと告げしに、小作人はなお不満にて、我々の在意は本年に限り引き米を乞うにあらず、近年は豊作打ち続くのみならず米価高貴なる、地主より官へ納むる租税は一石五円の割りに過ぎず、地主の利益を得る事はなはだ多ければ小作人の入れ揚げ米を幾分か減少するが至当なりと主張する(注3)。

‣岐阜県で銀行に押し寄せる

・濃州土岐郡恋村の小作人どもがある所へ集会せし席にて、一人が諸色の下落につれて米までが低落には困るじゅねえかといい出す。満場囂々(ごうごう)としてそうだそうだ、これは銀行というものができて、金持ち連がそれへ預けるから起源(おこった)ったことだ、己たちに邪魔なもの、害あって益なのない銀行は打毀(たたき)こわしてしまえと無法な詞(ことば)に、一同がそうともそうとも賛成し、おもいついたが吉日、これから直ぐに毀(こわ)しにいこうと相談たちまちととのい、勢揃いはこれでようしと鋤、鍬、とって押し出せしが、かくと筋へ聞こえ、途中でさし止められ、一同恐れ入りて帰りしゆえ、銀行は危うき難を遁(のが)れたりとの事なり(注4)。

‣福井の不況

・福井県は従来生糸、蚊帳産出しけるが、昨今来生糸、蚊帳の非常に下落せしもって、右製造人は皆ヒシヒシと破産して、或いは身代限りを受け、或いは離散遁進して、維持の見込みある者とては暁天の屋敷もただならざる有様なり。米価の下落せしは申すまでもなきことなれども、当県において目下一俵(四斗六升入り)一円四、五十銭くらいなるもなお買い人(て)なき故、農家の困難実に名状すべからず(注5)。            

(士族窮状)

‣新潟貧窮士族

・越後高田にて旧藩士の追々窮乏に趣く救わんとて、戸田、長谷川、都築などといえる人々が首唱、発起人として高田力役会社という社を興し、士族の貧困なる者は男女老幼を問わずそれぞれ相当の業を与え、労力に賃銀(金)を得せしめて肌寒を医せしむるにつき、同社にてはおよそ力役事業に関する工事は悉皆(しっかい/すべて)これを引き請け、日雇い、配達人、土方・・・中略・・・婦女子には裁縫、洗濯などの業を採らしめ、ゆくゆくはこの会社にて駅伝の業も開かんとの目的なり(注6)。

‣士族困窮、女房・娘が妾さがし

・不景気は何国も同じことになるが、江州地方(滋賀県)にては特にあえって旧藩士族の向きに多くありて、なかんずく禄高の余計にありし輩(やから)はかえって糊口(ほそぼそと暮らす)に窮するより、廉恥も何も構わばこそ、娘はもとより、女房も寡婦も或いは権妻(妾)、月囲いと化けている(注7)

‣乞食増え、安宿は天保銭1枚

・近来、石川県下では、疲労困窮は実に名状すべからずざるものあり。輪島の漆器、九谷の陶器など、一時随分捌け口よくして県下に銭の落ちる道となりしが、近年、追々その業衰え、当時は全く廃業の姿なり・・・中略・・・金沢の人口は九万五千人と称するが、そのうち十分の一はその日暮らしに差し支えるほどの貧民なり。近来はとみに乞食の数を増し、毎朝、群れをなして市中を横行し、その惨状を見るに忍びず(注8)。

(餓死続出)

・秋田県仙北郡金沢村、江州八幡などは二、三日間絶食者多く、新潟県長岡にては路傍に食を乞い、はなはだしきは餓死せんとする有様につき、有志者は協力して救助せり。兵庫県淡路にては困窮の村日に増加し、うち赤貧者は北海道へ移住せんとす。茨城県猿島郡辺は困難者多く、豪家の尽力にてわずか一命を繫ぎおれり。京都二条外堀には投身多く、ために交番所を設けられる。昼は橋上で袖乞いし、夜は橋上に露臥し、また、貧のため棄(捨)て子多し(注9)。

〖エピロ-グ〗

(一葉の困窮)

・糊口の小説家樋口一葉の日々は「赤貧洗うが如し」でした。一葉が本郷菊坂町に住んでいた頃(22歳)、近くの伊勢屋(質屋/建物現存)に頻繁に質草を入れ、日々の生計を立てていました。「樋口一葉日記」(注10)から、その困窮ぶりを紹介する。

・明治26年3月15日(曇)の「よもぎふ日記」をみると、「お灸をすえる。昨日から家にお金というもの一銭もない。母上は、これを苦にして姉のところから20銭借りてこられる。同3月30日「我家に貧困日ましにせまりて、今は何方より、金をかり出すべき道もなし、母君は只せまりにせまりて我が著作の速かならんことをの給ひ、いでや、いかに力をつくすとも、世に買い入れる時はいかゞせん」と。

(終焉の寂しさ)

・一葉は明治29年11月23日午前、自身で「枕の向きを替えてくれ」、特に言い、替えるとそれきり呼吸が途絶えた(結核)」享年24歳。翌24日、川上眉山(小説家)、斎藤緑雨(小説家)らで通夜、翌25日、数名で葬儀を執行し、森鴎外は騎乗(陸軍軍医の制服で馬上参列)して棺と側に付き添うと申し出たが、なにごとも内輪に考えた妹くには丁重に断わっている。お返しができないからと、会葬もほとんど、受けなかった(注11)。一葉の一生は、私生活においては不幸の連続であったかも知れない。しかし、彼女には、最後までその生活をはね返す、自由な魂が存したことが、文学の永遠にならしめたといえよう(注12)。
FullSizeRender-4-1(出典:『歴史読本 明治女傑伝』新人物往来社)
       

(明治から現在)

・明治の治世は文明開化とはいえ、政治家は日清戦争、日露戦争に奔走し、戦費増大などで、国民の民生は疎かになった。時代は明治から大正、昭和、平成と続く。2014年8月、子供の貧困率が過去最悪の16.3%になったとの報道があり、政府は、「子供貧困対策大綱」を初めて策定した。

・その背景には1970年代以降、国民の多くが「1億総中流」と意識するようになった。1990年代バブル経済崩壊後、非正規社員の増加で、所得格差が拡大し、世の中は勝ち組、負け組なる言葉が生まれた。イデオロギーに関係なく、富裕層、貧困層の相克は明治以来、現在も続いている。

(グローバリゼ―ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)「アジ研ワ-ルド・トレンド」2005年6月号,特集「特集(貧困)で学ぶ開発-諸学の協働」『基礎研究』(アジア経済研究所研究報告書、2005年)

(2)横山源之助著「日本の下層階級」、第36刷、発行、1988年5月10日、23頁

(3)「朝野新聞」、明治16年1月16日

(4)「東京日日新聞」明治16年2月6日

(5)「東京日日新聞」明治16年12月29日

(6)「東京日日新聞」明治18年1月30日

(7)「日出新聞」明治18年4月19日

(8)「日出新聞」明治18年5月10日

(9)「朝野新聞」明治18年5月19日

(10)完全現代語訳「樋口一葉日記」訳者高橋和彦(株)アドレエ-1993年11月23日、213頁

(11)森まゆみ著「一葉の四季」、岩波書店、2012年6月20日、49頁

(12)塩田良平著「樋口一葉研究」〈増補改訂版〉、昭和43年11月23日、730頁

(資 料)

(1)「明治日本発掘」全9巻(3)、河出書房新社、1995年

(2)「読める年表」現代用語の基礎知識80年版付録

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