2017年08月

明治の世相(10)-歴史の重み 中野泰雄先生のこと-

2017年8月21日

〖プロロ-グ〗

〈柔和の人〉

筆者は半世紀前、亜細亜大学経済学部に在籍、中野泰雄先生(1922年5月〈大正12年〉~2009年4月〈平成21年〉)の授業を聴講(比較社会思想史)していました。当時、先生は45歳前後、中肉中背、白髪が目立ち、小皺が多いのが印象的でした。混乱の昭和の時代を生き抜いた人でした。お酒を好み、学生の面倒見も良く、女子寮の寮監をしていました。時折、授業後、筆者が先生へ質問しますと、喜んで、丁寧に教えて頂いたことを覚えています。以下、中野先生のファミリ-物語です。

〈両  親〉

・来年は明治150年になります-明治・大正は遠くなり、昭和さえも-。中野先生の家系を遡りますと-父は中野正剛(1886年2月〈明治19年〉~1943年10月〈昭和18年〉)。母は多美子(1894年4月〈明治27年〉~1934年6月〈昭和9年〉)です。両親は1913年(大正2年)に結婚(於築地精養軒)。仲人は頭山満(玄洋社総帥・アジア主義者)、橋渡し役古島一雄(ジャ-ナリスト)、多美子の父は三宅雄二郎(雪嶺)、母は三宅龍子(旧姓田辺・花圃)。多美子は4尺9寸の小柄、色白丸顔で、笑うと片えくぼができ、温和で真面目な性質でした(注1)。


FullSizeRender-8-1(出典:国立国会図書館)
〖中野正剛〗

〈来  歴〉

・旧福岡藩士・中野泰次郎とトラの長男として、福岡県福岡市西湊町(現・中央区・荒戸)の叔父の中野和四郎宅で生まれる。父の代に分家し質屋を家業とし、母トラの実家は醤油醸造業を営む黨又九朗の長女。正剛は福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)へ進学し、卒業後、早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と共に上京し、1909年7月卒業(明治42年)。修猷館では生涯の友となる、後に朝日新聞主筆、自民党総裁になる緒方竹虎(1888年1月〈明治21年〉~1956年1月〈昭和31年〉)と出会う。早稲田大学、東京朝日新聞においても行動を共にする。

・1916年(大正5年)に同新聞社を退職し、東方時論社に移って、社長兼主筆となる。1917年(大正6年)、衆議院選挙に立候補したが、落選し、同選挙区から立候補した松永安左衛門(電力王1875年12月〈明治8年〉~1971年6月〈昭和41年〉)が当選。1919年日本外交を批判的に論考した『講和会議を目撃して』(東方時論社)がベストセラ-となったことで1920年(大正9年)の総選挙で初当選。以後連続8回当選する。

・民政党時代は、党遊説部長として、永井柳太郎(政治家1881年4月〈明治14年〉~1944年12月〈昭和19年〉)と臨時軍事費問題や張作霖爆殺事件で田中義一内閣に迫り、反軍派政党人として有名になる。内務大臣だった浜口雄幸(第27代総理大臣〈1870年5月〈明治3年4月~1931年8月〈昭和6年〉)の推薦で、三木武吉後任の大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任。挙国一致内閣を提唱していた安達謙蔵(政治家1864年12月〈元治元年〉~1948年8月〈昭和23年〉)と民政党を脱党し、国民同盟を結成。1936年(昭和11年)には東則正と東方会を結成し、自ら総裁となる。

〈欧州視察〉

・1937年11月〈昭和12年〉~1938年3月〈昭和13年〉、「国民使節」として、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリ-ニ(12月21日)、ヒトラ-(2月1日)と会見、国際政治動向について意見交換。秘書で同行した進藤一馬(後の衆議院議員、福岡市長)はムッソリ-ニについて、「非常に気さくなおじさんタイプ」、ヒトラ-は「物静かで知性的な態度」と回顧し、両者は偉大な政治家だと認識。フランスのジョルジュ・クレマンソ-やイギリスのウィンストン・チャ-チルも高く評価した。ナチスの制服に憧れ、以後、中野はナチススタイルの乗馬ズボンを愛用する。

・福岡市の玄洋社記念館には中野がクレマンソ-を称える絵画を収蔵。1939年(昭和14年)、議会政治を否定・政党解消を主張し、衆議院議員を一端辞職、再び、衆議院議員選挙に当選する。以後、南進論、日独伊三国同盟を支持し、繁栄東亜民族会議を主催。1940年(昭和15年)、大政翼賛会総務に就任。1941年(昭和16年)に太平洋戦争開戦時、東方会本部で万歳三唱するが、長期化する難局に懸念を示す。

〈東條批判〉

・中野は戦局が進む中、独裁色を強める東條首相への反抗を強める。1942年(昭和17年)に大政翼賛会(官製国民統合団体)を強化策に反対のため脱会。同年の翼賛選挙にも、自ら非推薦候補を選んで東條に反抗する。東方会46人中当選者は中野、本領信次郎(早大教授)、三田村武夫(政治家1899年6月〈明治32年〉~1964年11月〈昭和39年〉)など7人だけで、翼賛政治会に入ることを頑強に拒んだ。最終的には星野直樹(大蔵官僚/満州国の実力者(1892年4月〈明治25年〉~1978年5月〈昭和53年〉)の説得で、翼賛政治会への入会を了承。

・1942年11月10日、正剛は母校創立60周年を記念して大隈講堂で、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたる東條を弾劾する歴史的な大演説を行った-「諸君は、由緒あり、歴史ある早稲田の大学生である。便乗はよしなさい。歴史の動向と取り組みなさい。天下一人を以って興る。諸君みんな一人以って興ろうではないか。日本は革新せられなければならぬ。日本の巨船は怒涛の中に漂っている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目覚めよ。天下一人を以って興れ、これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である」と。

・この正剛に呼びかけに、学生たちは一斉に起立し、校歌「都の西北」を合唱して答えた。同会場には憲兵隊が多数いたが、中野の雄弁と熱気は凄まじく、演説の制止どころでなかった。当時、早稲田第一高等学校の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し、政治家の道を志した。中野の演説は近代日本の政治家には珍しい雄弁家であった。中野の演説を聴いた学生たちの多くは学徒出陣し、戦地で亡くなった。2000年3月(平成12年)、早稲田大学総長の奥島孝康は、卒業式で1万人の学生に対し、中野の歴史的演説を紹介し、学生諸君に奮起を促した。

・1943年(昭和18年)の正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表した-「難局の日本の名宰相は、絶対に強くなければならぬ。幸い、日本には尊い皇室がおられるので、多少の無能力な宰相でも務まるようにできている」と、東條内閣を痛烈に批判。同記事の内容に東條は激怒し、朝日新聞に対して記事の差し止めを命じたが、すでに配達されており、この命令は意味のないものであった。

〈重臣工作〉

・1943年3月、第81帝国議会において、「戦時刑事特別法」、同6月第82帝国議会で「企業整備法」などの政府原案に中野は反対し、議会内では鳩山一郎、三木武吉などに呼びかけて、東條内閣への批判を強めるが、東條側の切り崩し工作によって、両法案への反対運動は失敗に終わる。

・中野は近衛文麿や岡田啓介などへの「重臣グループ」と連携をとり、松前重義、三田村武夫らと東條内閣の打倒への動き奔走し、宇垣一成を後任首相に立てようとする計画が進行し、宇垣の了解も取り付け、東條を重臣会議に呼び出すところまで計画を進めたが、一部の重臣が腰砕けになって失敗する。自邸に帰られた中野先生を玄関に迎えた人は、「怒りと悲しみを押しつつんだ無言の先生の姿を、いまもなお、忘れることができない」と会員の一人は語っている(注2)。

・東條は中野などの反抗グル-プを逮捕に踏み切る。先ず1943年9月6日、三田村武夫が警視庁特高部に逮捕される。同10月21日、中野をはじめとする東方同志会(東方会が改称)、他3団体の幹部百数十名を検挙。中野の検挙の様子を中野泰雄は「警視庁特高課の刑事が3.4人、巡査が2、3人、黒塗の自動車で父の拘引にきたのは午前6時頃」のことであった。父は私を呼び起こした。いつもように乗馬に誘いにきたのかと思っていると、戸を開けた父の顔色の真剣であるのに驚かされた。「警察がひっぱりにきた。すぐ俺の部屋に来てくれ。金庫のまえに連れてゆき、中にあった札束を渡し、緒方(竹虎)さんにあずかってもらうように」と(注3)。

・中野の検挙理由として、中野がある青年に「日本はかならず負ける」といったという風説に基づくものであった。この中野の逮捕は、強引すぎるものとして世評の反発を買った。友人の徳富蘇峰や鳩山一郎は中野釈放を各方面に主張した。結局、中野は嫌疑不十分で同10月25日に釈放されたが、未だに取り調べの内容については明らかでない。入浴して、留置場の汚れを落とし、髪を染め、寒いから羽織を出してくれと言い、郷里黒田藩の士族が好んで用いた郡山(こおりやま)の紋付羽織(死に装束)を着た。

〈自  決〉

・1943年10月27日、午前零時、中野は割腹し、自裁した。前日、夕方から警備の憲兵は2名となり、2階の書斎に入った。父は9時頃、憲兵を1階の客間に床をひかせ、寝にやった。10時過ぎて間もなく、父は私の部屋をのぞきにきた。父は「なにを読んどるや」、泰雄「ゴットルです」、父「今日は、勉強はいい加減にして、もう休みなさい」と。これが父との最後の会話となった。父が絶命したのは、10月27日午前零時すぎで、名刺の裏に「断12時」と書かれていたことから推定された。私しに声をかけてから、2時間後のことである。

・机の上には、雑賀博愛著「大西郷全伝」の第2巻が広げられたままになっており、遺体は、右手に軍刀の刃(刃渡り二尺二寸の美濃国兼定)に習字用紙を巻いたうえをしっかりと握りしめたままになっていた。腹を真一文字に薄く切り、左頸動脈を切った。左手は血にまみれていたが、父を抱き起して布団の上に遺体を寝かせた。蒼白い顔色、固くつぶった眼、髪は染めて黒く、苦悩から解放されて、なにか光を受けているかのように明るい死に顔だった。遺書には「東向九拝、平静にして余裕綽綽、自笑、僕は日本を見乍ら成仏する。悲しんで下さるな」と書き残された。

・遺書は二つに分け、一つは習字用のシナ紙を刀で切った。様々な大きさの13片にしたためものを、「護国頭山先生」と表書した封筒に収め、隣室の仏壇に入れてあった。

-頭山、三宅、徳富 盟友諸君 東方会、猶興居 感慨無窮 皇軍万万歳 魂魄躍動皇国を護る

-父上、多美子、克明、雄志、清イ心デ御目ニカカル 母上様へ合掌、達彦、泰雄、恩愛無量、戦争ト人生ヲ戦ヒヌケ-。 

・葬儀は同10月31日、午後青山斎条で行われた。東條内閣のあらゆる圧迫にかかわらず、この日の会葬者は実に二万人。『朝日新聞』は-諸名士の会葬引きも切らず、故中野氏の政治的生涯を飾るにふさわしい葬儀であった-と報じた。中野の葬儀が非常な整儀になったならば、中野が東條に勝つことになるのだと考えた葬儀委員長の緒方竹虎は、「中野が東條に勝った」とつぶやいた(注4)。しかし、当の中野-無量院釈正剛居士は、すでに東條との勝敗や愛憎を超越し、自決当夜泰雄に書き遺した王之渙の詩「欲窮千里目 更上一層楼」、そのままにさらに一層の楼に上って、千里の目を窮(きわめて)いたのでないか。
 
(出典:中野泰雄著『父・中野正剛伝』)
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(祖母とら(76歳)、著者泰雄(20歳)達彦(22歳)、父正剛(56歳))

〖尊父三宅雪嶺〗

(文化勲章)

・三宅雪嶺(1860年7月〈万延元年5月〉~1945年11月〈昭和20年〉)は明治・大正時代の著名な哲学者、評論家である。中野正剛は娘婿である。徳富蘇峰とならんで明治のジャ-ナリズムを二分した三宅雪嶺は、官立東京開成学校を経て、東京大学文学部哲学科卒。志賀重昴らと正教社を結成し、雑誌「日本人」を創刊し、国粋主義に基づく社会批判を行う一方、哲学的著述でも名をお上げ、「中央公論」など諸雑誌に多彩な論説を発表した。後に正教社を離れ、中野正剛と「我観」を創刊した。1943年4月(昭和18年)、文化勲章を受章した。

・正剛が三宅に出入りするようになったのは学生時代から「日本及び日本人」に投稿していたためである。「日本及び日本人」の同人である古島一雄に、雪嶺の娘多美子との縁談で、仲人役を依頼したが、古島は、「雪嶺はあまり若くから文武の才能があったりする早熟な男は早死にではないか」と言い(注5)、また、夫人の花圃は早稲田の出身では学問が十分でなく、人柄が悪いのはないかと、難色をしめしたが、正剛の押しの強さによって縁談はまとまった。

・雪嶺が病気をしている時に見舞いにきた正剛は、「多美子」、「多美子」と呼んで、介抱の指示をあたえて、一家の一員のような振る舞いし、花圃をあきれさせた。三宅は正剛が自裁したことで、当日、緒方竹虎さん、頭山満さん、祖父雪嶺などが弔問に来ている。前言のように雪嶺は“早熟の男は早死”にするとの考えが的中した。雪嶺の心中は複雑なものになったと、思われるが・・・。

(花圃と一葉)

(女流文学)

・雪嶺の夫人三宅花圃(1968年12月〈明治元年〉~1943年7月〈昭和18年〉)。本名龍子。旧姓田辺。東京本所生まれ。10歳頃から伊東裕命に国学、和歌を学び、その縁で中島歌子の「萩の舎」(はぎのや)に入門。明治21年『藪の鶯』を刊行して、近代文学の先駆者となる。翌年、東京高等女学校卒、同25年、三宅雪嶺と結婚する。

・「萩の舎」で花圃は樋口一葉より5歳年上の先輩であった。同書の出版で、33円20銭の原稿料を得たことを知った一葉は、生計のために小説の道を選ぶ。後年、花圃が「まるで姉か何かのように慕って」いたことを語りながら、「嫉妬深いこと、ひねくれてゐることが欠点」であったと語っている(注6)。しかし、その後、樋口一葉は日本の女流作家として有名になり、今でも人気が高い。反面花圃の存在は読者から遠い人となった。


FullSizeRender-10(出典:中野泰雄著『父・中野正剛伝』)
〖エピロ-グ〗

・中野正剛の人生は、寸暇惜しんで目的達成のために走り続けた-まさに波乱万丈の57年の人生であった。既述のように遺書の中に、先に逝った父上、妻、息子克明・雄志への思い、生き残った者に対して、「母上様へ合掌、達彦、泰雄、恩愛無量、戦争と人生ヲ戦ヒヌケ」とあった。息子の将来を案じて、叱咤激励する父親の願いが込められている。反面、無念さが体中を支配していたことが想像に難くない。

・正剛の自分を取り戻す時間は乗馬であった。好きな“ナチススタイルのズボン”を穿いて代々木本町の自宅から狛江市内・猪方にある別荘「慈雨荘」まで走った。時にはひたすら多摩川沿いに馬を走らせ、家族の眠る多磨霊園に墓参りをし、代々木に帰る遠乗りも試みた(注7)。胸中安堵の心情が体中に溢れていたに違いない。遺書の中に乗馬関係者の遊佐サン、安部サンに愛馬の処分タノムとお世話になった人にすべて別れを告げ用件も忘れていなかった。中野正剛の人への細やか配慮が滲み出ていた。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(引用資料)

(注)

(1)中野泰雄著「父・中野正剛伝」、新光閣書店、昭和33年5月10日、226頁

(2)猪俣敬太郎著「中野正剛」、人物叢書、日本歴史学会編集、吉川弘文館、新装版第一刷発行、昭和63年3月1日、211頁

(3)(注2)と同じ。7頁

(4)(注2)と同じ。221頁

(5)(注1)と同じ。227頁

(6)「国文學」、學燈社、1994年10月、86頁

(7)「馬上の中野正剛」狛江市役所、教育部、社会教育課資料

(参考資料)

・「近代日本人の肖像」、国立国会図書館

・「ウイキペディア」

・「銀座一丁目新聞」(345)

河北省雄安新区

2017年8月7日

〖プロロ-グ〗

(本部移転)

IMFラガルド専務理事(フランス出身)は7月24日、IMFが本部を置く米ワシントンでのシンポジュムで、「中国の経済成長が続けば10年後にはIMF本部を北京に移す可能性」があるとの見方を披露します。冗談と受け止めた会場には笑いが広がったが、更にラガルド氏は、「経済規模が最大の国に本部を置く」というIMFの条項があると紹介した上で、「北京移転の可能性はある」と付け加えた(注1)。専門家の間では、「中国の高成長が続けば、2020年代後半には国内総生産(GDP)で米国を抜く可能性がある」と指摘されています。

(親中路線)

・加えて、同氏は中国などの新興国の経済規模に合わせ、IMFの議決権比率も見直す考えを主張した。これまで、ラカルド体制下で中国・人民元をSDRIMF特別引き出し権)構成通貨に加えるなど、予てから親中路線が指摘されています。米国はトランプ政権の発足後、地球温暖化対策「パリ協定」からの離脱を決めるなど国際協調からの距離を置くようになり、ラガルド氏の発言はそうしたトランプ政権への苛立ちも背景にあるようです。以下、習近平国家主席が世界一の中国経済を目指す新たなプロジェクトを紹介します。

〖雄安新区〗

(計画概要)

・習近平国家主席は、今秋、5年に一度の中国共産党大会を開催し、残り5年で、同氏は体制の総括(政治、経済)をして、次世代に引き継ぐことになります。そのための規模拡大への政策手段として、習近平氏が、鄧小平や江沢民が主導した経済特区に相当する新たな地域開発計画・「雄安新区」(河北省の雄県・容城県・安新県)を発表し、同主席の新たな実績作りとなる可能性があります。

・正式には、中国共産党と国務院は2017年4月1日、河北省保定市の「雄安新区」の設立を発表します。2017年4月2日付の党機関紙・人民日報は1面トップで「習近平同志を核心とする党中央が下した重要な歴史的、戦略的選択だ。深圳、上海に続く全国的な意義を持つ新都市であり、千年の計、国家の大事である」と高く位置付けます。

・中国の国家プロジェクトとして開発される「雄安新区」(北京市・天津市・保定市の後背地に当たり)は、深圳経済特区(1980年)、上海浦東(1992年)を含めて18ありますが、党と政府が連名で許可したのは初めてです。

(深圳人脈)

・「雄安新区」を立ち上げる人事面の特徴を見ると、深圳や浦東の開発に取り組んだ経験者を多く登用しています。「雄安新区」の母体となる“京津翼協同発展工作推進会議”の張高麗常務副総理(70歳、政治局常務委員)、李鴻忠天津書記(56歳、中央委員)は、ともに深圳市書記の経験者である。加えて、雄安新区を管轄する河北省長には、深圳書記、市長を歴任した許勤氏(56歳、共産党委員)が抜擢された。

・実務面では、天津濱海新区書記を務めて後、2016年から河北省に移動し、雄安新区開発準備工作委員会臨時党委書記の地位にある袁桐利常務副省長(56歳、前天津市委常務委員)が担います。顧問役として、かって、上海浦東開発区の責任者だった元上海市長徐匡迪(80歳)が就任しています(注2)。

・また、同省は習近平国家主席とその腹心の栗戦書・中央弁公庁主任は、河北省での勤務経験があり、習氏の母も河北省出身です。習氏は18年勤務した福建省と共に河北省への思いが深いとされ、2月23日、「雄安新区」の予定地のである安新県を視察しています(注3)。

(将来像)

・本年2月、習近平国家主席の視察時の指示によれば、北京の首都機能や人口の分散をはじめ、環境都市(エコシティ-)の構築、ハイテク産業の発展、公共サ-ビスインフラの整備、近代的交通システム都市、対外開放都市などが挙げられます。例えば雄県は、地熱発電依存度が90%以上を占める環境都市でありますが、これをさらに周辺に普及させる計画という。加えて、戸籍改革、医療改革といった制度改革のモデル地区とも位置付けられています。

・「雄安新区」が狙う産業誘致や街づくりは、経済発展一辺倒の深圳や浦東とは異なる環境に優しい都市を目指すとともに、近代的なインフラ整備を行い、通信、交通、生活といった様々な視点から、首都北京と効率的な連携機能を発揮させるという狙いが込められているようです(注4)。

(土地過熱)

・初期の開発面積は100㎢ですが、最終目標は2000㎢(約東京都面積〈2000㎢〉)と、浦東(121㎢)を上回り、深圳(2050㎢)に匹敵します。北京、天津の両都市から約100㎞とほぼ同距離にあり、首都機能の分散を視野にいれています。当初の開発経緯を見ますと、深圳が未開発区、浦東が既存の工業・農村地区から推進されましたが、「雄安新区」は既に都市機能を持ち一定の基礎があります。

・同新区に対しては、今後20年にかけて、インフラ投資を含めて4兆元(約66兆円)以上を投資する計画です。決定を機に対象地域ではすでに不動産ブ-ムが到来し、過熱気味です。雄安新区が健全に発展し中国経済の新たな発展の起爆剤となるか、その行方が注目されます(注5)。加えて、計画の発表を直後にから不動産を購入しようと、北京や天津の富裕層が殺到しています(注6)。

(企業動向)

・「雄安新区」はスタートしたばかですが、すでに国内では“雄安フィバ-”が起きています。国内の40社以上の大手企業が進出の準備をし、中には本社機能を移す意向を示す企業もあります。同新区の8大注力分野(エネルギ-・電力・通信・インフラ・軌道交通・情報化ネットワ-ク・生態環境保護・スマ-トシテイ)などのうち、エネルギ-では、中国石油化工、中国石油天然ガス、中国海洋石油、電力面では、国家電力、中国華電、中国華能など。

・通信面では、中国電信、中国移動通信、中国聯合網絡通信などの企業が進出を明らかにしている。加えて、軌道交通では、中国中鉄なども関心を示しています。ビックプロジェクトため、資金需要が旺盛になることを想定し、国家開発銀行、中国建設銀行、中国農業銀行、中国工商銀行、中国銀行などがそれぞれ「雄安新区建設指導小組」を設立し、進出準備をしています(注7)。国家開発銀行は、河北省の開発支援として今年3月末までに累計で約8000億元(約12兆8000億円)を融資しています(注8)。

〖国際視点〗

(株式市場)

・香港株式市場において、雄安関連銘柄の株価が上昇していますが、景気回復にある香港経済にとって、“一帯一路”への関与の方が景気の押上効果が大きいとして、香港政府および経済界は一帯一路への戦略への関与を表明しています。実際、一帯一路構想の対象地域へのインフラ整備事業への一部香港企業の参加などが既に進められています。

・香港の銀行の銀行である「香港上海銀行」(ホンシャン)は、永い間、香港経済に君臨してきましたが、このほど、金融支援を前提としたプロジェクトを公表しています。香港経済の旗振り役として、ビジネスチャンスを強調しています。また、香港政府は3月にAIIB(アジアインフラ投資銀行)への参加にも踏み切り、AIIBの香港事務所も近く開設されるなど、香港の一帯一路への支援は加速される見込みです。反面、「雄安新区」の難点は、香港から遠距離にあることです(注9)。

〖エピローグ〗

・深圳経済特区を立ち上げた鄧小平氏は能弁で、外向型の政治家でした。反面、習近平氏は物静な内向型の政治家で、政策を着実に推進するエネルギッシュなものを内に秘めているものと考えます。習近平氏は最後の5年間で、同氏が提唱した“一帯一路”と“雄安新区”構想は、万難を排しても成し遂げると思われます。

・2021年7月、開催予定の“中国共産党100周年記念”は党の威信をかけて、成功にしなくてはなりません。その背景には、まず経済の安定が不可欠です。その上で、習近平氏の提唱したビックプロジェクト(一帯一路/雄安新区)の推進と成功の意義は、冒頭のIMFラガルド専務理事の発言にも繋がることになります。

 (グローバリゼーション研究所)代表 五十嵐正樹

 

 

(引用資料)

(注)

(1)「日本経済新聞」2017年7月25日

(2)「経済の進路」、三菱経済研究所、2017年7月、No.664、16~18p

(3)「毎日新聞」2017年4月3日

(4)(注2)と同じ

(5)(注2)と同じ

(6)「新京報」2017年4月3日

(7)(注2)と同じ

(8)「新華社」2017年4月27日

(9)(注2)と同じ

(参考資料)

(1)「経済の進路」、三菱経済研究所、2017年7月、No.664、16~18p

(2)「マ-ケットレポート」 三井住友アセットマネジメント 2017年5月17日

(3)「中国経済:千年の大計「雄安新区」はうまくいくのか?」、大和総研、主席研究員、斎藤尚登氏評論、2017年5月26日

(4)「Record China2017年5月11日

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