2017年09月

明治の世相(12)-医療事情-

2017年9月23日

〖プロローグ〗

・急いで暦めくりをするかのように幕末から明治維新への体制変換は早かった。人々は季節の移り変わりを感じる余裕もなく、唯々、世の流れを見るほかなかった。この激動期-1878年5月20日(明治11年)、英国の知的な眼を輝かせたひとりの英国の婦人が横浜の桟橋を降り立った。名前はイザベラ・バ-ド、47歳(参考1)。病弱だった彼女は健康回復のため外国旅行を志しこの日憧れの日本の土を踏んだ。その彼女の眼に最初に映ったのは浮浪者が一人もいなかったことである。街頭には小柄で醜くしなびて、がにまたで、猫背で、胸は凹み、貧相だが優しそうな顔した連中がいた(注1)。

・好奇心に富んだ彼女は、従者兼通訳の伊藤を伴い、東京から日光を経て、新潟、山形、秋田、更に北海道に至る3カ月の大旅行を敢行します。その美しい田園風景の続く農村を歩いて飛び込んできた風景は、見るも痛々しい“病気の群衆”であったという。その多くは、疥癬(ダニ)、しらくも頭、たむしなどの皮膚病、ただれ目などいやな病気が蔓延していることであった。推測ですが、村人たちのおおよそ30%は、天然痘の酷い跡を残していると。

〖医療制度〗

(医学校設立)

・イザベラ女史の紀行記を待つまでもなく、明治政府当局も旧体制の医療システムを如何に転換させることに腐心した-まず基本認識として「国の繁栄、衛生の外なし」、「国家第一の資本は国民の健康」との認識のもとに社会保障制度、特に医療制度の充実に注力した。1868年4月17日、政府は横浜に軍陣病院(現:横浜市立大学医学部)を設置し、鳥羽伏見の役などの負傷者の治療を行っています。

・同年7月20日、これを東京に移し「医学所」に合併して「東京大病院」を設立し、緒方洪庵の子、緒方惟準(これよし)が初代院長になった。1869年2月(明治2年)、同病院は「医学校兼病院」に改称され、相良知安と岩佐純が大学権大亟に任ぜられ、相良は医学校、岩佐が病院を主掌した。両名は共に32歳、長崎で蘭方を学び、佐倉順天堂(現:順天堂大学)の出身で、牛天種痘の普及に功績があった。相良知安はこれからの医学教育はドイツ医学を採用すべきあると主張した。

・佐賀出身の相良は同郷の政府の重鎮、副島種臣(内務大臣)、大隈重信の後押しを得て政府にドイツ医学採用を決定させることに成功した。政府は直ちにドイツ連邦とドイツ人医学教師採用の契約を推進し、日本人医師にドイツ留学を命じ、それ以降、太平洋戦争が終わるまで日本の医学教育はドイツ医学を主にして、行われてきた。「医学校兼病院」は1886年(明治19年)に東京帝国大学医学部になり、明治政府はその卒業生に医学教育制度を築くに当たっての主導的役割を担わせた(注2)。

(公・私病院)

・一方、全国各地に近代的病院を開設して国を挙げて医療制度を完備していく必要がありました。1870年代後半には行政改革で廃藩置県が実施され、これに伴って廃止された病院の再生がすすみ、大半の府県に公立病院が誕生していきました。加えて、私立病院の開設が進み1882年(明治15年)で、全国の病院数は626を数えています。しかし、当時は現在のように医療保険制度が確立されているわけではなく、官立、公立の大規模病院で診療を受けられるのは富裕層に限られ、一般庶民の医療は開業医によるものでした。

(医師養成)

・明治政府は医療の近代化を目指し、医学教育と医師制度を整備していき、文部省より、1874年、全76条からなる医制が公布されました。その中で医師になるには国家試験に合格する必要があると明記されています。当初はその時点ですでに医療活動を行っていた医師も当然、国家試験を受験し直してこれに合格し国家として医師という身分を認めることが考えられていましたが、多種多様な経歴と年齢をもつ医師が簡単に国家試験に合格するとは考えにくいものでした。

・当時、全国で開業している医師数は西洋医約5200人、漢方医は2万3000人であり、圧倒的なに漢方医が多数を占めていました。しかも漢方医にとって西洋医学の知識を問われる国家試験に合格することは相当難しいことから、制度発足と同時に全国的な医師不足を考慮して、既存の医師、漢方医については一定の書類提出に無試験で医師免許が付与されるという過渡的な措置が採用されることになりました(注3)。

〖医療事情〗

(疾患類別)

・明治政府が1886年(明治19年)に発表した『衛生局年報』の「死亡者病類別」(死因)を見ると、伝染病18万余、発育及営養的病14万余、神経系統及五官器病13万余、消化器病20万余、そのほかとなっている。このうち、呼吸器病には肺結核が、消化器病には伝染性の胃腸炎が含まれていたと思われる。今日の疾患分類による死因統計がつくられはじめたのは1900年(明治33年)で、その年の1位肺炎・気管支炎、2位全結核、3位脳血管疾患、4位胃腸炎、5位老衰となっており、この順位は明治年間ほとんど変わらなかった(注4)。

(コレラ禍)

・明治維新の意義は、長く続いた鎖国政策から解き放されたことです。その息吹は「日米和親条約」(1854年3月/嘉永3月)と「日米修好通商条約」(1858年7月/安政5年6月)を起点に対外開放政策が始まったことです。それを機に外国人が訪日するようになり、併せて海外からの伝染病(コレラ)が開港地から日本中に伝播するようになります。その影響として、明治に入り、コレラの猛威は日本中を震撼させました。

・1886年8月(明治19年)、夜明け前に東京の芝の大通り、毎日のように四斗樽を10数個積んだ荷馬車が数台列をなして通って行きました。その車が通るたびに、周囲の人は悪臭に悩まされた。その樽の中身は、芝の「避病院」(伝染病専門病院)から桐ケ谷の火葬場に運ばれるコレラ患者の死体でした。日本の近代の朝はコレラの洗礼とともに明けたのです。

・明治の44年間のコレラによる総死亡者数は37万人余、これは日清・日露の大戦争の死者総数をはるかに上回ったのです。最大のコレラ禍の年が1886年。同年の全国患者数は15万5923人。死者数は10万8405人。患者1万人以上は東京、富山、大阪が最大の被害地で、患者1万9709人、死者1万5968人でした。当時の死因を見ると、最大の死因はコレラで10万8405人、痘瘡1万8678人、腸チフス1万3803人、赤痢6839人、この4種の伝染病だけで日本は実に14万7000余の人命を失った。

(環境劣悪)

・1886年、この年14歳の樋口一葉や島崎藤村の夢見がちな眼に映った東京の往来は、電灯がつき、陸蒸気(おか)が走り、煉瓦の家が立ち並び始めたものの、実は一歩その裏にまわれば、汚濁と不潔、貧困と頽廃が、表通りの繁栄と際立ったコントラストをなしていました。未だ水道はなく、飲み水は黴菌だらけ、屎尿は垂れ流し、道路はどこでも泥濘と砂塵、塵芥が悪臭を放っていた。伝染病が蔓延しない道理はない(注5)。

〖医師の実態〗

(医師数)

・1873年6月(明治6年)、文部省が全国の医師に履歴明細書を提出するよう府県あてに指令を通達し、1874年末に日本最初の医師人口を発表した-それによると、総数2万8289人、漢医2万3015人,洋医5274人であった。1874年の人口は3515万4000人であったので、人口10万対する医師数は80.4人となります。1984年(昭和59年)が150.6人であった。明治の医師人口はけっして少くなかった。しかし、問題がその内容である。西洋医学を修得した医師は5人に1人もいない。あとの殆どは「傷寒論」(参考2)を読んだだけで医師になったような漢方医、あるいは字もろくに書けない

藪医たちであった。

(高額収入)

・夏目漱石が28歳で松山中学に赴任したのは1895年(明治28年)、その時の月給与が80円であった。当時の小学校教員と巡査の給与が10円そこそこ、大工の月収がほぼ12円だったから、坊ちゃんは破格の高給取りでした。1909年(明治42年)に出版された長尾折三著『ああ 医弊』には、地方病院医師の月収は30円-100円、地方病院長の年収は2000-3000円、大学病院教授は年収2000-3500円であったという。医師の高額収入への揶揄する川柳は沢山あった。以下は、その一端。

▽仁術も金が命の匙加減/▽所得金、医者は調合して届け

(病院の1日)

・大学病院の1日の診察状況をみてみよう。当時の新聞を取り上げている(注6)。

▽大学医院は多分世人が想像するが如く、日本第一の医学博士が集まり居る所なるべし。同院にては此等を先生と言ひ、雇外国人を教師と言ひ、その先生教師に診て貰わんと望む患者は非常の数にて、同院の頑固にて定めて動かざる1日20人限り診察と言ひ定員の内に加はらんと、日々門前へ駈け集めて早く其の許可札を得んと犇めく(ひし)有様は驚くばかりにて、迚ても(と)患者自身が此の札を取りに行く事は覚束(おぼつか)なければ、屈強の車夫を頼んで此の札を取らしむるに・・・。

▽ここでいう「大学病院」とは、東京帝国大学医科大学の附属病院のことである。今日大学医院の繁昌は、明治に遡る。この記事が出てから10年後の1909年(明治42年)、「東京朝日新聞」に連載された『当世医者気質』の中で、筆者の長尾哲三は、「大学病院の患者受付は午前7時限りで御診察は10時過ぎ」と語り、これまでのやり方の是正を求めている。

〖一葉の病歴〗

(貧民事情)

・大学病院の権威主義は、庶民には縁がない。貧乏人には及びもつかない所である。貧民街の樋口一葉の生活は厳しく、毎日の食事も事欠く始末。一葉日記を見ると、病院や開業医へ通院していた事実は見当たらない。治癒するまで我慢をするだけでした。時には、妹の邦子と一緒に御徒町駅前の摩利支天「徳大寺」へ病気治癒のお願いする姿がありました。

・因みに一葉の風貌を紹介しますと-身長5尺足らず、髪はうすく、美人ではないが、目に輝きがあった。きわめて小食、近眼、肩懲りで灸や揉療治に通った(注7)-当時、世の中は、伝染病のコレラ、ペスト、天然痘が流行していることから、樋口一葉は1892年(明治25年)3月16日、本郷にある本妙寺で種痘をしている。一葉の“頭痛持ち”は有名で、日記の随所にみられます。以下、その一端を紹介する(注8)。

▽1892年2月22日(明治25年)、「風邪にやあらん、頭痛たへがたれば此夜は早くふしたり」。

▽同7月23日、「一同帰宅の後、頭痛はげしく暇を乞いて灸治に行んとす」。

▽同9月01日、「我、脳痛いとはげし。水にかしあらひ、はち巻などなす」。

▽1893年2月6日(明治26年)「著作のこと、こころのままならず。かしらはただ痛みて

何事の思慮も消えたり」。

▽同5月21日、「これより脳痛ははなはだしく、終夜くるしみて胸間もゆるが如く、人生の浮沈人情の悲悽こもごも感じ来りて、くるほしき事いふべくも非ず」

・明治29年に入ると、結核の兆候が表れ始めた。「4月に咽喉がひどく腫れはじめ7月初旬には熱が39度前後をいったりきたり、肩にはこりができてひどい時には文鎮で殴っても痛みを感じないほどだった」と、馬場孤蝶(小説家)は書いている。1886年(明治19年)、一葉が歌塾「萩の舎」(はぎのや)に入門した当時、異常な肩こりを心配した医師佐々木東洋は、「これ以上こりが下へ降りたら命とりだ」という。これはまさに肺病の症状でした。

・1896年8月(明治29年)初め、それに気づいた妹の邦子は袷羽織(あわせ)を着せ、抱えるようにして、駿河台の山滝堂病院に行き樫村清徳の診察を受けた。樫村は診察後、邦子だけを診察室にとどめ、一葉の病状を説明、絶望だと告げた。邦子はそれを聞き、涙がとどめなく溢れ、一葉に気づかれないようタオルで目をかくしたという。同9月、さらに病状が重くなった。斎藤緑雨(小説家/批評家)の依頼により森鴎外の紹介で、医学博士青山胤通が往診した結果、邦子は失望の淵に落とされる結果となった。同年11月23日、一葉は24歳6カ月の短い命を閉じた。

〖エピローグ〗

・樋口一葉が生きていた時代-明治時代の中頃まで、官民ともに、コレラやペストなど伝染病対策に追われ、公衆衛生に心を奪われたが、明治も後半になると、民衆もようやく個人の健康問題に留意するようになり、今日いうところの『健康読本』などの本を買い求めた。薬依存派の夏目漱石は『吾輩は猫である』一節に-「吾輩の主人は滅多に吾輩を合わせる事がない。職業は教師だそうだ・・・・彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力ない不活発な徴候をあらはして居る。其癖に大飯食ふ。大飯を食った後で“タカチヤスターゼ”(健胃薬)を飲む。飲んだ後で書物を広げる・・・」と(注9)。

・明治時代は伝染病が蔓延していた時代と言っても過言ではない。多くの人々は生活苦から、力強く働いたが、不幸にも多くの人が伝染病に罹ってしまった。如何ともし難い時代でもあった。イザベラ・バ-ドは東北、北海道を旅行し、庶民の衛生状態を視認した-明治の時代は梅雨空のように晴れ間の見えない時代でした。当時、読売新聞のコラム「はなしの種」で、或人曰く-「東京は健康に適せざる土地なり。芝に住めば肺病に罹り、築地に住めば腸チフスに罹り、神田に住めば脚気に罹り、四谷、牛込に住めば心臓病に罹り、本所、深川に住めばコレラに罹る」と(注10)・・・・。

(グローバリゼーション研究所)所長  五十嵐正樹

(出 所)

(注)

(1)イザベラ・バ-ド著『日本奥地紀行』(株)平凡社、初版第24刷、2016年6月、

22~28頁。

(2)「日本医事抄」、大阪市南医師会、1997年11月15日。

(3)「医療の歴史(92)­-明治初期の医療事情-、末廣病院資料(内科・吹田市)。

(4)立川昭二著「明治医事往来」昭和61年12月15日、18~19頁。

(5)(注4)と同じ。20頁。

(6)「東京日日新聞」1899年5月19日。

(7)森まゆみ著「一葉の四季」2012年6月20日、2頁。

(8)井上ひさし著「樋口一葉に聞く」、文藝春秋、1995年12月12日、101頁。

(9)(注4に同じ。52頁)。

(10)「読売新聞」1898年6月19日(明治31年)。

(資 料)

・立川正二著『明治医事往来』、新潮社、昭和61年12月15日。

・イザベラ・バ-ド著『日本奥地紀行』(株)平凡社、初版第24刷、2016年6月。

(参 考)

(1)イザベラ・バ-ド(Isabella L.Bird)のUnbeaten Tracks in Japan(『日本の未踏の地』)の普及版(1885年)の全訳。1973年10月、東洋文庫として平凡社より刊行された。

(2)「傷寒論」中国後漢末期から三国時代に張仲景が編纂した伝統中国医学の古典。

明治の世相(11)-食生活の西洋化-

2017年9月6日

〖概   況〗

・「衣食住」は“人間生存の要件”です。「食」について江戸時代を見ると、武家、農民、職人、商人(士農工商)の食生活は貧食でした。明治時代に入っても、同様の状態が続きます。従来、日本の食事(和食)に対して「洋食」と呼ばれるようになったのは、1882年(明治15年)、福澤諭吉が著作「帝室論」の中で「洋食」の語を使用したことに始まりです。明治天皇は1872年1月(明治5年)、牛肉を食し、天皇自から食肉の効用を奨励します。好物としてバナナ、カステラ、珈琲を好んで取られていたようです。洋食とは-①広義では西洋風の料理全般を指し、②狭義では日本独自に発展した西洋風の料理を指し、日本の料理のカテゴリーに入ります。西洋料理は、国民の知力・体力向上の面で良い影響を与えたと言えます。

・明治初年、政府の肉食奨励策が始まり、徐々に地方に伝播し、人々は当初、興味本位に牛鍋を食べていたようですが、徐々に滋養の高さが庶民に認識されようになります。加えて、①横浜居留民(外国人)の肉食不足の影響による“食肉飢餓”回避策への要望、②日本の陸海軍は建軍の折、模範として欧州の国軍(主に仏軍・英軍)の料理マニアルを導入し、西洋式料理を給食や野戦糧食へ広めた、③ビタミンB1不足が原因の脚気は死亡率が非常に高く、海軍でも問題化します。1872年(明治5年)、海軍医になった高木兼寛(1849年〈嘉永2年〉~1920年〈大正9年〉、後に海軍軍医総監)は、海軍食を「洋食+麦飯」を推奨したことで、海軍内の脚気はほぼ解決、④岩倉具視の支援を受け、北村重威(1819〈文政2年〉~1906年〈明治39年〉)は、1872年(明治5年)「築地精養軒」を開業し、1918年(大正7年)「上野精養軒」が営業を開始し、本格的なフランス料理を目指した。

〖発展の端緒〗

(肉食忌避)

・今日、日本人の食生活はバラエティに富み、特に老若男女を通じて、肉食を好む人が多いに比して、江戸時代はどの様なものであったのであろうか-儒学者熊沢蕃山(1619〈元和5年〉~1691年〈元禄4年〉)は、没後の1709年(宝永6年)に出版された著書『集義外書』の中で、牛肉を食べてはいけない訳として、神を穢(けが)すからではなく、農耕に支障が出るからであると述べています。当時、人々の食生活は米、豆、魚、野菜、根菜類などで、タンパク源は魚や豆類などでした。反面、『井伊家御用留』によりますと、彦根藩第3代藩主井伊直澄の家臣荒木伝右衛門が「反本丸」(へいぽんがん)と称する全国で唯一の牛肉の味噌漬けが作られ、滋養をつける薬として全国に出回り、幕末まで幕府、他藩からの要求が絶えなかった(注1)。

(天皇英断)

・明治時代に入ると-政府の諸施策により、人々の食生活は革命的に肉食を摂取するようになります。その先導役は明治天皇でした。新聞によると-「我が朝にては中古以来、肉食を禁ぜられし、恐れ多くも天皇、いわれなき儀に思しめし、自今肉食遊ばさるる旨、宮内にて御定めこれあり」という。実際に牛肉を食されたのは、1872年1月24日(明治5年)です(注2)。外国人の説によると、日本人の性格は智巧(ちこう/物事の才知に優れる)であるけれど、根気がないのは肉食を取らないためであると述べています(注3)。明治天皇の好物はバナナ、コ-ヒ-、カステラ(家主貞良)で、また、行幸の折、山陽鉄道の車中にて、牛缶を食べられました(注4)。

〖肉食奨励策〗

・明治政府は当初から肉食奨励のキャンペーンを大々的に奨励します。1869年(明治2年)に築地に半官半民の食品会社「牛馬会社」を設立し、畜肉の販売を始めます。1870年(明治3年)に福沢諭吉が執筆したパンフレット『肉食之説』を出版し、配布をします。斎藤月岑の日記によると「近頃のはやりもの」として、牛肉、豚肉などを挙げています。食肉業者が増えたことで、政府は1871年に「屠場は人家懸隔の地に設くべし」との大蔵省通達を出します。

・1872年(明治5年)、政府の施策として、廃仏毀釈(神仏分離に伴う仏教破壊活動)により僧侶を破戒させるため「肉食妻帯勝手なるべし」と。明治初頭、専ら和食の食材として用いられ、関東では味噌味などの牛鍋として、関西では炒めて鋤焼(すきやき)と称して食べられます。牛肉の質は兵庫産が最上とされ、以下会津、栗原(仙台牛)、津軽、出雲、信州、甲州などが優秀とされた。

・しかし、獣肉食を穢(けが)れるとする考え方が、根強く残っており、食肉の反対運動の動きもありました-①1869年(明治2年)豊後岡藩(現:大分県竹田市)の清原来助が公議所(諸事機関)に農耕牛保護ために牛肉の売買停止を訴えている。②1872年2月18日、「御岳」の行者10名が皇居に乱入し、そのうちの4名を射殺、1名が重傷、5名が逮捕される事件が発生します。後に「外国人が来て以来、日本人が肉食し穢れて神の場所が無くなった為、外国人を追い払うためにやったのだ」と動機を述べています。市井の動きとして『武士の娘』を著述した杉本鉞子(えつこ)は牛肉を庭で煮炊きしたところ、祖母は仏壇に目張りして、食事には姿を見せなかったという。

〖地域事情〗

・明治中頃から洋食熱(牛肉)を伝える報道(地方・地点)が頻繁に取り上げるようになります。以下、当時の臨場感が漂う内容です。

〈神  戸〉

・肉食の盛んなる処は神戸が第一だと申しますが、かの地にては1カ月に800頭の牛を屠(ほふ)り、次に横浜600頭、東京は500、大坂、名古屋などは300くらい。そのほか諸県々には200或いは100の由でありますが、追々寒さが強くなりましたから、まだまだたくさんに殺しましょう。その商売手合い(連中)が話しました(注5)。

〈大  阪〉

・近頃洋食の流行し来たりしは、衛生上に進歩の故か、ただしは廉価にて膏梁(こうりょう/肥えた肉)の美に飽くが故か、とにかく結構の事と言わざるべからず。随(したが)って、洋食店の数をませしもおびただしく、通例上等は70銭または50銭なるか、中には例の競争にて35銭とするもあり。上等、下等それぞれ伴って逓減すれば、ちょっと使いに出し丁稚まで、中等一人前に酒はジャパン(シャンパン)でよろしいなどきめ込むも可笑し。またこの頃は甘酒屋が珈琲売りと化し、コップ一杯2銭くらいで売り歩くを見たり(注6)。

〈東京神田〉

・ああ開けた大開化開化と、書生さんが騒ぐから何事かと思ったら、府下の牛肉屋が恐ろしく多くなったとの事。・・・・これも開化の内には相違ないけど、学者や智者がこのようなたくさんできるとよいが、その方は何とも覚束(おぼつ)ない。馬や鹿がどうも牛より多いようです(注7)。神田三河町一丁目の久保田豊三は、薬用のために牛肉やソップ(ス-プ)をかいたいものがあっても、2銭、3銭は買い悪(にく)く、中には買いに行く人がないものなどへ便利のために、目印の幟(のぼり)を立て牛肉とソップを売り歩行(あるく)させたいと、このほどその筋へ願い出ました(注8)。

〈慶應義塾〉

・日本の衣食住改良の事は近来大いに世人の注意する所なるが、就中(なかんずく)、食物の改良は急務中の急なりとて世上に往々その実施を見る折、芝区三田3丁目慶應義塾にては、本月初めより賄い所に西洋料理人を置き、学生に望みに応じて西洋風の肉食を与うる事となしにたるに、その価は案外に廉にして、日本流の米食と格別の相違なきより、学生等は大いに悦び(よろ)、断然米食の陋習(ろうしゅう/悪い習慣)を破るべしとして、この西洋食に改むる者日に増加する由なり(注9)。

〈料理人争奪〉

・近頃、洋食の流行に随い西洋料理店の漸々に増加し、新橋停車場脇の長山軒と京橋間近なる南伝馬町の青陽楼を南北として、その間、銀座通りのわずかの八丁ほどの場所にて、宗十郎町の梅茶、南鍋町の三橋亭、銀座四丁目の清新軒等を始めとして都合15、6軒の多きに至りしが、いずれも相応に来客あり、かつ、出前の注文もある由にて、この外なお近日開業せんと目論見おる向きもありという。かく、仲間増加するより料理人に払底を生じ、互いに月給を競うて上手を引き入れんと、甲が15円を与えんと、いいだし、雇い主の間に競争を生じたりと(注10)。

〈横浜居留地〉

・肉食の始まりの地の一つは、1859年7月(安政6年)横浜が開港し、1863年(文久3年)に外国人居留地(山下居留地)ができます。当時必要だったのは、住環境の整備と食料品の供給でした。特に横浜は幕末から外国商船や軍艦の寄港地であったので、寄港船舶の需要は大きかった。このため、日本人から入手困難な食肉、牛乳、西洋野菜、清涼飲料水、ビ-ルなどを生産するための施設が必要になった。駐屯将兵の数は慶應年間で英仏合わせて約一千人、欧米系居留民は五百人が居住していた。この大きな胃袋を満たすために山手地区に屠牛や牧場を始め、飲食料品供給システムが急速に整備された。この分野では、日本人が驚くほど早くから知識や技術を習得している(注11)。

〈悪徳商法〉

・当世智恵の廻りのいずれもよく、古い本を丸取りにして眼のない本屋を被せ(かぶ)、西洋小説を不味(まず)く焼き直して著述などと紛らかすは手間の入った事にて、馬肉を牛肉と書きしは、手を省きて器用なるものと感心せしが、それにては牛肉と紛らわしければ、馬肉は必ず馬と記すべしとこのほどその筋より注意せられしという(注12)。

〈立食事情〉

・大厦広堂の開館式もしくは夜遊びの大宴会(いずれも民間)には、おおむね立食ならざるはなし。しかるにその食堂に入るや、毎度申す事ながら、あたかも打ち込みの戦場のごとく、ビ-フステッキの一番首、ジャガタラ薯の二番槍、各々分捕りの功名を争い、ホルク(ホ-ク)とナイフを働かせて、こなたを潜りてかなたへ抜け、千変万化の秘術を尽くすが、アラ不思議やこの席入る紳士貴女(貴女はうそ)は、当日、歯の用を廃せられしか、肉口に入れば舌にてうけ、直ちに喉に嚥下(えんか/飲み込む)する事あたかも鵜の鳥を見るがごとし(注13)。

〈経営者〉

・中ノ島公園地の自由亭の主人草野丈吉は(中略)、昨日午前、45歳をー期として空しく鬼籍(死亡)に登りたり。同人は長崎の産にして、文久年中、始めて洋食割烹店を長崎伊良林郷に開き、その業日を逐(お)うて繁栄に赴きしが、明治維新の初年、山之内容堂公に当地の高知藩邸に徴(ちょ)されて上坂し、ついで西区本田梅本町に洋食店を開きたるは当地に洋食店あるの嚆矢(こうし/事を始める)する(注14)。

〖軍隊の洋食〗

(洋食普及)

・明治時代に入り、軍隊が洋食の普及に果たした役割を大きい-1884年(明治17年)、海軍省医務局長の高木兼寛は、当時大きな問題であった脚気(かっけ)の原因がビタミンB1不足と考え、脚気対策として海軍の兵食を西洋式に改めることを上申した。しかし、兵員の多くがパンと肉を嫌って食べなかったため、海軍では1885年から麦飯も支給されることとなった。また、陸軍おいても日常で食される兵食や野戦糧食に肉食・洋食が多く取り入られ、日清戦争当時「戦時陸軍給与規則」では1日の基準の肉・魚は150gであった。

(レシピ)

・1910年(明治43年)制定の陸軍公式レシピ集『軍隊料理法』(「明治43年陸普3134号」)には肉をメインとする洋食レシピとしてカツレツ(ビ-フ・ポ-ク)、ビ-フステーキ、メンチビ-フ、ロ-ル・キャベツ、カレ-ライス、ミ-トオムレツなど牛肉のサンドウイッチなどが掲載されている。大正末にはパン食を組織的に取り入れられた。また、政府は役人に対して、外交上あるいは外国人との交際上の理由から洋食を奨励している。例えば、海軍は「上野精養軒」で食事をすることを奨励し、月末に精養軒への支払いが少ない士官に対して注意されることが多かった。また、遅くとも1877年(明治10年)までに宮中の正式料理は西洋料理となった。この頃には東京の牛肉屋は558軒。

〖エピローグ〗

・明治時代の人口推計によると、1872年(明治5年)の総人口は3480万人でした-この人達が明治維新を迎えました-明治初年、肉食奨励策が発表になり、老若男女は大いに戸惑いました-1895年(明治28年)の『時事新報』によると、「この牛の煮たものは変なにおいがする!」「ネギが臭くてたまりませんから、香水をふりつけました!」との新婚家庭の笑い話が掲載されており、日本中の多くの人が、肉を食べた途端-奇異!感嘆!などの表情が満面に現れたとことが想像できます。

・「樋口一葉日記」によると、一葉が肉食を食べた記述はありません。一葉の日々の暮らしはカツカツでしたので、肉食のどころでありませんでした。一葉の食事にかんする言及は①「今日は私の誕生日(1893年3月25日〈明治26年〉/21歳)なので、魚などを買って心ばかりのお祝いをする」②芦澤芳太郎が習志野の演習から帰営し訪ね来る。今日は土用の入りなので蒲焼をおごる(1895年6月20日〈明治28年〉/23歳)。一葉の日々の生活は「私には金もないので、この世に生きる手段もない。今住んでいる家もおわれようとしている。食事もろくに取れないので、精神は疲れはて、筆をとって物を書こうとしてもいつのまにか眠ってしまう日が多い」と、赤裸々の日々を綴っています。

(グロ-バリゼ―ション研究所)所長 五十嵐正樹

(資 料)

(注)

(1)多田鉄之助著、「たべもの日本史」-万葉の味からラ-メンまで、人物往来社、昭和47年7月1日、237頁

(2)「新聞雑誌」明治5年1月

(3)「新聞雑誌」明治4年5月

(4)「大阪朝日新聞」明治35年11月16日

(5)「郵便報知」明治8年9月23日

(6)「東京日日新聞」明治19年9月15日

(7)「朝野新聞」明治10年11月8日

(8)「読売新聞」明治11年12月11日

(9)「時事新報」明治19年7月10日

(10)「時事新報」明治20年8月29日

(11)斎藤多喜夫著『幕末・明治の横浜-西洋文化事始め』2017年3月10日、明石書店、64~65頁

(12)「読売新聞」明治20年12月14日

(13)「東京日日新聞」明治20年1月6日

(14)「朝野新聞」明治19年4月13日

(基礎資料)

・ニュースで追う「明治日本発掘」、河出書房、1994年

・斎藤多喜夫著『幕末・明治の横浜 西洋文化事始め』2017年3月10日、明石書店

・多田鉄之助著、「たべもの日本史」-万葉の味からラ-メンまで、人物往来社、昭和47年1日

・ウイキペディア

・高橋和彦著「樋口一葉日記」(完全現代語訳)、1993年11月23日、発行所(株)アドレエ-初版第一発行。

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