2017年9月6日

〖概   況〗

・「衣食住」は“人間生存の要件”です。「食」について江戸時代を見ると、武家、農民、職人、商人(士農工商)の食生活は貧食でした。明治時代に入っても、同様の状態が続きます。従来、日本の食事(和食)に対して「洋食」と呼ばれるようになったのは、1882年(明治15年)、福澤諭吉が著作「帝室論」の中で「洋食」の語を使用したことに始まりです。明治天皇は1872年1月(明治5年)、牛肉を食し、天皇自から食肉の効用を奨励します。好物としてバナナ、カステラ、珈琲を好んで取られていたようです。洋食とは-①広義では西洋風の料理全般を指し、②狭義では日本独自に発展した西洋風の料理を指し、日本の料理のカテゴリーに入ります。西洋料理は、国民の知力・体力向上の面で良い影響を与えたと言えます。

・明治初年、政府の肉食奨励策が始まり、徐々に地方に伝播し、人々は当初、興味本位に牛鍋を食べていたようですが、徐々に滋養の高さが庶民に認識されようになります。加えて、①横浜居留民(外国人)の肉食不足の影響による“食肉飢餓”回避策への要望、②日本の陸海軍は建軍の折、模範として欧州の国軍(主に仏軍・英軍)の料理マニアルを導入し、西洋式料理を給食や野戦糧食へ広めた、③ビタミンB1不足が原因の脚気は死亡率が非常に高く、海軍でも問題化します。1872年(明治5年)、海軍医になった高木兼寛(1849年〈嘉永2年〉~1920年〈大正9年〉、後に海軍軍医総監)は、海軍食を「洋食+麦飯」を推奨したことで、海軍内の脚気はほぼ解決、④岩倉具視の支援を受け、北村重威(1819〈文政2年〉~1906年〈明治39年〉)は、1872年(明治5年)「築地精養軒」を開業し、1918年(大正7年)「上野精養軒」が営業を開始し、本格的なフランス料理を目指した。

〖発展の端緒〗

(肉食忌避)

・今日、日本人の食生活はバラエティに富み、特に老若男女を通じて、肉食を好む人が多いに比して、江戸時代はどの様なものであったのであろうか-儒学者熊沢蕃山(1619〈元和5年〉~1691年〈元禄4年〉)は、没後の1709年(宝永6年)に出版された著書『集義外書』の中で、牛肉を食べてはいけない訳として、神を穢(けが)すからではなく、農耕に支障が出るからであると述べています。当時、人々の食生活は米、豆、魚、野菜、根菜類などで、タンパク源は魚や豆類などでした。反面、『井伊家御用留』によりますと、彦根藩第3代藩主井伊直澄の家臣荒木伝右衛門が「反本丸」(へいぽんがん)と称する全国で唯一の牛肉の味噌漬けが作られ、滋養をつける薬として全国に出回り、幕末まで幕府、他藩からの要求が絶えなかった(注1)。

(天皇英断)

・明治時代に入ると-政府の諸施策により、人々の食生活は革命的に肉食を摂取するようになります。その先導役は明治天皇でした。新聞によると-「我が朝にては中古以来、肉食を禁ぜられし、恐れ多くも天皇、いわれなき儀に思しめし、自今肉食遊ばさるる旨、宮内にて御定めこれあり」という。実際に牛肉を食されたのは、1872年1月24日(明治5年)です(注2)。外国人の説によると、日本人の性格は智巧(ちこう/物事の才知に優れる)であるけれど、根気がないのは肉食を取らないためであると述べています(注3)。明治天皇の好物はバナナ、コ-ヒ-、カステラ(家主貞良)で、また、行幸の折、山陽鉄道の車中にて、牛缶を食べられました(注4)。

〖肉食奨励策〗

・明治政府は当初から肉食奨励のキャンペーンを大々的に奨励します。1869年(明治2年)に築地に半官半民の食品会社「牛馬会社」を設立し、畜肉の販売を始めます。1870年(明治3年)に福沢諭吉が執筆したパンフレット『肉食之説』を出版し、配布をします。斎藤月岑の日記によると「近頃のはやりもの」として、牛肉、豚肉などを挙げています。食肉業者が増えたことで、政府は1871年に「屠場は人家懸隔の地に設くべし」との大蔵省通達を出します。

・1872年(明治5年)、政府の施策として、廃仏毀釈(神仏分離に伴う仏教破壊活動)により僧侶を破戒させるため「肉食妻帯勝手なるべし」と。明治初頭、専ら和食の食材として用いられ、関東では味噌味などの牛鍋として、関西では炒めて鋤焼(すきやき)と称して食べられます。牛肉の質は兵庫産が最上とされ、以下会津、栗原(仙台牛)、津軽、出雲、信州、甲州などが優秀とされた。

・しかし、獣肉食を穢(けが)れるとする考え方が、根強く残っており、食肉の反対運動の動きもありました-①1869年(明治2年)豊後岡藩(現:大分県竹田市)の清原来助が公議所(諸事機関)に農耕牛保護ために牛肉の売買停止を訴えている。②1872年2月18日、「御岳」の行者10名が皇居に乱入し、そのうちの4名を射殺、1名が重傷、5名が逮捕される事件が発生します。後に「外国人が来て以来、日本人が肉食し穢れて神の場所が無くなった為、外国人を追い払うためにやったのだ」と動機を述べています。市井の動きとして『武士の娘』を著述した杉本鉞子(えつこ)は牛肉を庭で煮炊きしたところ、祖母は仏壇に目張りして、食事には姿を見せなかったという。

〖地域事情〗

・明治中頃から洋食熱(牛肉)を伝える報道(地方・地点)が頻繁に取り上げるようになります。以下、当時の臨場感が漂う内容です。

〈神  戸〉

・肉食の盛んなる処は神戸が第一だと申しますが、かの地にては1カ月に800頭の牛を屠(ほふ)り、次に横浜600頭、東京は500、大坂、名古屋などは300くらい。そのほか諸県々には200或いは100の由でありますが、追々寒さが強くなりましたから、まだまだたくさんに殺しましょう。その商売手合い(連中)が話しました(注5)。

〈大  阪〉

・近頃洋食の流行し来たりしは、衛生上に進歩の故か、ただしは廉価にて膏梁(こうりょう/肥えた肉)の美に飽くが故か、とにかく結構の事と言わざるべからず。随(したが)って、洋食店の数をませしもおびただしく、通例上等は70銭または50銭なるか、中には例の競争にて35銭とするもあり。上等、下等それぞれ伴って逓減すれば、ちょっと使いに出し丁稚まで、中等一人前に酒はジャパン(シャンパン)でよろしいなどきめ込むも可笑し。またこの頃は甘酒屋が珈琲売りと化し、コップ一杯2銭くらいで売り歩くを見たり(注6)。

〈東京神田〉

・ああ開けた大開化開化と、書生さんが騒ぐから何事かと思ったら、府下の牛肉屋が恐ろしく多くなったとの事。・・・・これも開化の内には相違ないけど、学者や智者がこのようなたくさんできるとよいが、その方は何とも覚束(おぼつ)ない。馬や鹿がどうも牛より多いようです(注7)。神田三河町一丁目の久保田豊三は、薬用のために牛肉やソップ(ス-プ)をかいたいものがあっても、2銭、3銭は買い悪(にく)く、中には買いに行く人がないものなどへ便利のために、目印の幟(のぼり)を立て牛肉とソップを売り歩行(あるく)させたいと、このほどその筋へ願い出ました(注8)。

〈慶應義塾〉

・日本の衣食住改良の事は近来大いに世人の注意する所なるが、就中(なかんずく)、食物の改良は急務中の急なりとて世上に往々その実施を見る折、芝区三田3丁目慶應義塾にては、本月初めより賄い所に西洋料理人を置き、学生に望みに応じて西洋風の肉食を与うる事となしにたるに、その価は案外に廉にして、日本流の米食と格別の相違なきより、学生等は大いに悦び(よろ)、断然米食の陋習(ろうしゅう/悪い習慣)を破るべしとして、この西洋食に改むる者日に増加する由なり(注9)。

〈料理人争奪〉

・近頃、洋食の流行に随い西洋料理店の漸々に増加し、新橋停車場脇の長山軒と京橋間近なる南伝馬町の青陽楼を南北として、その間、銀座通りのわずかの八丁ほどの場所にて、宗十郎町の梅茶、南鍋町の三橋亭、銀座四丁目の清新軒等を始めとして都合15、6軒の多きに至りしが、いずれも相応に来客あり、かつ、出前の注文もある由にて、この外なお近日開業せんと目論見おる向きもありという。かく、仲間増加するより料理人に払底を生じ、互いに月給を競うて上手を引き入れんと、甲が15円を与えんと、いいだし、雇い主の間に競争を生じたりと(注10)。

〈横浜居留地〉

・肉食の始まりの地の一つは、1859年7月(安政6年)横浜が開港し、1863年(文久3年)に外国人居留地(山下居留地)ができます。当時必要だったのは、住環境の整備と食料品の供給でした。特に横浜は幕末から外国商船や軍艦の寄港地であったので、寄港船舶の需要は大きかった。このため、日本人から入手困難な食肉、牛乳、西洋野菜、清涼飲料水、ビ-ルなどを生産するための施設が必要になった。駐屯将兵の数は慶應年間で英仏合わせて約一千人、欧米系居留民は五百人が居住していた。この大きな胃袋を満たすために山手地区に屠牛や牧場を始め、飲食料品供給システムが急速に整備された。この分野では、日本人が驚くほど早くから知識や技術を習得している(注11)。

〈悪徳商法〉

・当世智恵の廻りのいずれもよく、古い本を丸取りにして眼のない本屋を被せ(かぶ)、西洋小説を不味(まず)く焼き直して著述などと紛らかすは手間の入った事にて、馬肉を牛肉と書きしは、手を省きて器用なるものと感心せしが、それにては牛肉と紛らわしければ、馬肉は必ず馬と記すべしとこのほどその筋より注意せられしという(注12)。

〈立食事情〉

・大厦広堂の開館式もしくは夜遊びの大宴会(いずれも民間)には、おおむね立食ならざるはなし。しかるにその食堂に入るや、毎度申す事ながら、あたかも打ち込みの戦場のごとく、ビ-フステッキの一番首、ジャガタラ薯の二番槍、各々分捕りの功名を争い、ホルク(ホ-ク)とナイフを働かせて、こなたを潜りてかなたへ抜け、千変万化の秘術を尽くすが、アラ不思議やこの席入る紳士貴女(貴女はうそ)は、当日、歯の用を廃せられしか、肉口に入れば舌にてうけ、直ちに喉に嚥下(えんか/飲み込む)する事あたかも鵜の鳥を見るがごとし(注13)。

〈経営者〉

・中ノ島公園地の自由亭の主人草野丈吉は(中略)、昨日午前、45歳をー期として空しく鬼籍(死亡)に登りたり。同人は長崎の産にして、文久年中、始めて洋食割烹店を長崎伊良林郷に開き、その業日を逐(お)うて繁栄に赴きしが、明治維新の初年、山之内容堂公に当地の高知藩邸に徴(ちょ)されて上坂し、ついで西区本田梅本町に洋食店を開きたるは当地に洋食店あるの嚆矢(こうし/事を始める)する(注14)。

〖軍隊の洋食〗

(洋食普及)

・明治時代に入り、軍隊が洋食の普及に果たした役割を大きい-1884年(明治17年)、海軍省医務局長の高木兼寛は、当時大きな問題であった脚気(かっけ)の原因がビタミンB1不足と考え、脚気対策として海軍の兵食を西洋式に改めることを上申した。しかし、兵員の多くがパンと肉を嫌って食べなかったため、海軍では1885年から麦飯も支給されることとなった。また、陸軍おいても日常で食される兵食や野戦糧食に肉食・洋食が多く取り入られ、日清戦争当時「戦時陸軍給与規則」では1日の基準の肉・魚は150gであった。

(レシピ)

・1910年(明治43年)制定の陸軍公式レシピ集『軍隊料理法』(「明治43年陸普3134号」)には肉をメインとする洋食レシピとしてカツレツ(ビ-フ・ポ-ク)、ビ-フステーキ、メンチビ-フ、ロ-ル・キャベツ、カレ-ライス、ミ-トオムレツなど牛肉のサンドウイッチなどが掲載されている。大正末にはパン食を組織的に取り入れられた。また、政府は役人に対して、外交上あるいは外国人との交際上の理由から洋食を奨励している。例えば、海軍は「上野精養軒」で食事をすることを奨励し、月末に精養軒への支払いが少ない士官に対して注意されることが多かった。また、遅くとも1877年(明治10年)までに宮中の正式料理は西洋料理となった。この頃には東京の牛肉屋は558軒。

〖エピローグ〗

・明治時代の人口推計によると、1872年(明治5年)の総人口は3480万人でした-この人達が明治維新を迎えました-明治初年、肉食奨励策が発表になり、老若男女は大いに戸惑いました-1895年(明治28年)の『時事新報』によると、「この牛の煮たものは変なにおいがする!」「ネギが臭くてたまりませんから、香水をふりつけました!」との新婚家庭の笑い話が掲載されており、日本中の多くの人が、肉を食べた途端-奇異!感嘆!などの表情が満面に現れたとことが想像できます。

・「樋口一葉日記」によると、一葉が肉食を食べた記述はありません。一葉の日々の暮らしはカツカツでしたので、肉食のどころでありませんでした。一葉の食事にかんする言及は①「今日は私の誕生日(1893年3月25日〈明治26年〉/21歳)なので、魚などを買って心ばかりのお祝いをする」②芦澤芳太郎が習志野の演習から帰営し訪ね来る。今日は土用の入りなので蒲焼をおごる(1895年6月20日〈明治28年〉/23歳)。一葉の日々の生活は「私には金もないので、この世に生きる手段もない。今住んでいる家もおわれようとしている。食事もろくに取れないので、精神は疲れはて、筆をとって物を書こうとしてもいつのまにか眠ってしまう日が多い」と、赤裸々の日々を綴っています。

(グロ-バリゼ―ション研究所)所長 五十嵐正樹

(資 料)

(注)

(1)多田鉄之助著、「たべもの日本史」-万葉の味からラ-メンまで、人物往来社、昭和47年7月1日、237頁

(2)「新聞雑誌」明治5年1月

(3)「新聞雑誌」明治4年5月

(4)「大阪朝日新聞」明治35年11月16日

(5)「郵便報知」明治8年9月23日

(6)「東京日日新聞」明治19年9月15日

(7)「朝野新聞」明治10年11月8日

(8)「読売新聞」明治11年12月11日

(9)「時事新報」明治19年7月10日

(10)「時事新報」明治20年8月29日

(11)斎藤多喜夫著『幕末・明治の横浜-西洋文化事始め』2017年3月10日、明石書店、64~65頁

(12)「読売新聞」明治20年12月14日

(13)「東京日日新聞」明治20年1月6日

(14)「朝野新聞」明治19年4月13日

(基礎資料)

・ニュースで追う「明治日本発掘」、河出書房、1994年

・斎藤多喜夫著『幕末・明治の横浜 西洋文化事始め』2017年3月10日、明石書店

・多田鉄之助著、「たべもの日本史」-万葉の味からラ-メンまで、人物往来社、昭和47年1日

・ウイキペディア

・高橋和彦著「樋口一葉日記」(完全現代語訳)、1993年11月23日、発行所(株)アドレエ-初版第一発行。