2019年7月21日


〖はじめに〗

▷筆者は本年3月、群馬県の最西端にある万座温泉に行った時、中居屋重兵衛に詳しい地元の方のお話を聞く機会を得た。中居屋重兵衛は1820年(文政3年3月)、上州吾妻中居村(現群馬県吾妻郡嬬恋村三原)で生まれている。幼名武之助、通称撰之助、父は中居村の庄屋、黒岩幸右衛門(36歳)、母は川越藩の儒者杉村霞皐の娘のぶ(18歳)である。重兵衛は、横浜開港当時、生糸を扱う大店の経営者となり、横浜の外国商人と取引を始め、巨万の富(100万両)を得た。後に多くの疑惑で幕府に嫌疑をかけられたことを察知した重兵衛(42歳)は、忽然と横浜から逃亡し、その行方には諸説がある。

▷中居屋重兵衛の関連資料は極めて少ない。その背景として、➀父親の幸右衛門が江戸から持ち帰った関連資料が家の火災で焼失したこと、②中居屋重兵衛が横浜開港時に大店(営業品目:生糸など)を営業していましたが、不意に幕府の役人によって接収されたことなどが主な理由である。重兵衛の知名度の低さにもつながっている。歴史上から抹殺されてしまった重兵衛、限られた各資料から類推すると、その印象は、先見の明、信念、冷徹、豪胆、黒幕、豪商、博識などで、重兵衛栄達のエネルギ-となっています。来年は、中居屋重兵衛生誕200年を迎える。


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〖家運の衰退〗

▷古来より草津温泉への文人墨客の往来が盛んでした。室町時代の連歌師宗祇が鳥居峠を越え、中居村を通り、草津へ辿り着いた。佐久間象山(ぞうざん)もその一人で、撰之助は象山の知遇を得た。重兵衛を育んだ中居村は上州の渋川(57.6km)より信州上田(38.6km)に近く、“信州の文化・経済圏の影響”が強かった。現在も万座温泉のホテルの前には商品を搬入する上田ナンバ-の車が見られた。

▹化成時代は第11代将軍家斉の治世(在位50年:1787-1837年)である。江戸で町人文化(浮世絵、滑稽本、黄表紙、俳諧、狂歌、川柳、浄瑠璃、歌舞伎など)の華が咲いた。教育面でも江戸各所に寺子屋ができ、人々の間で読み書き算盤が普及し、街中の明るさは際立っていた。江戸から辺鄙な中居村までは町人文化の伝播は遅く、人々は極めて保守的な生活を余儀なくされた。

▹父は中居村の名主黒岩幸右衛門。財力の象徴“慶長大判の千両箱が10数個”も貯えていた。邸内には家伝の火薬製造所があるのに加え、養蚕所、薬草類などを販売していた。副業として、草津温泉の「旅館山清」の株を所有し、多角経営者ぶりを発揮し、その財力を裏付けるように鳥居川を見下ろす高台に豪壮な屋敷があった。

▷父は1824年10月(文政7年)に、1783年8月(天明3年7月)の「天明の大噴火」(死者約2万人)で、長野原にあった菩提寺曹洞禅刹常林寺が焼失し、その再建に多額の金を寄進した。また、鉱山師(やまし)の手練手管に騙され、甲州金峯山(金/水晶?)や銅鉱山の開発に莫大な資金を費やし、数年間のうちに金蔵にあった祖先伝来の千両箱はなくなった。父幸右衛門悪い夢を見ていた。その慚愧の念から書面を遺し、姿を消した。

〖江戸への途〗

▷撰之助は成人当時、5尺8寸もある頑丈な体躯だったようである。父が帰ってくるまで、経済的に破綻状態にあった黒岩家を守るため、日夜、働き続け、見事な名主役を務めた。ある日、撰之助は新しい新天地を求めて江戸に向かった。路銀は旅芝居一座の勧進元として得た金だった。この頃、母の要望により同族黒岩七右衛門の娘みやを妻に迎えた。

▷1839年(天保10年)、20歳の撰之助は江戸に安着し、縁故先の日本橋3丁目書店和泉屋善兵衛方に居候の寄食人になった。和泉屋書店は川越版『日本外史』の出版を一手に引き受けるほどの書店で、学問好きの撰之助は書籍(和漢書)に囲まれた日々を送り、和泉屋に出入りする知識人と交友を広げた。雰囲気が現在の神田神保町の古書店に似ている。

▷撰之助は学殖を深めていった。話題になったのは1856年(安政3年)に泉屋善兵衛が出版した遠田昌庵の『和蘭文典訳語筌』の初編に、中居義倚(よしのり)の名で、撰之助が序文(漢文)を書いており、文中に遠田昌庵にオランダ語を学んだことが明らかになった。学才もあった撰之助でしたが、世の中は、いずれ“商人の天下”になると、予見していた。

〖人脈の構築〗

▷撰之助は1849年(嘉永2年)、書店で約10年研鑽を重ね、30歳になった時、泉屋善兵衛の後援で、日本橋3丁目に「誠格堂」という書籍兼居宅を構え独立した。書籍の他に上州の資産家とも連絡して郷里の産物、材木、和薬、雑貨類などの商いを始めた。大江戸の目抜き通りに店を構えたことは、撰之助の商売への姿勢を窺うことできる。郷里の村名にちなんで中居屋と号し、商人名を中居屋撰之助と改めた。

▷撰之助は約10年間の修養時代に天下の高名な学者・文化人の知遇を得た人の名前を列挙すると、佐久間象山、伊藤玄朴、林鶴梁、大橋訥庵、保岡嶺南、藤森弘庵、羽倉簡堂の学者や高島秋帆、江川担庵、下曽根金三郎などの西洋砲術家や書家の生方鼎斎、中沢雪城、佐瀬得所から渡辺崋山門下の画家の福田半香、岡本秋暉などの人達で、撰之助の知性を育んだ“素晴らしいインテリ集団”であった。

〖黒船来港〗

▷撰之助が生まれた1820年(文政3年)頃から、日本周辺にはイギリス、フランス、ロシア、アメリカなどの外国艦船が日本に通商条約を求めて出没した。当然、幕府は関連情報を入手し、動静を把握していた。1846年(弘化3年)頃から撰之助は学者・知友より海外事情を知り、国防の急務と国内の政情に関心を抱き、“憂国の志”を自覚した。

▷列国の動きに対応するため、幕府、諸藩の火器(銃や大砲)のニ-ズが高まった。こうした情勢変化の中で、郷里中居村に火薬原料の粒子を砕く、水車がつくられていた。火薬は三色火薬と呼ばれ、硫黄、硝石、木炭の混合で造られている。原料の硫黄については、草津温泉の西にある白根山の自然硫黄の質がよいことを撰之助は知っていた。

▷1850年(嘉永3年)頃から撰之助は、江川坦庵、佐久間象山の教えを受け、西洋砲術にも通じ、銃砲や火薬の重要性を知った。また、火薬を改良製造するため、日本橋の自邸内(清風閣)に試験実験室や清風閣と称した書斎をつくった。大量に製造することは問題があるので、1854年(安政元年)、信州飯沼の松田玄仲の所に大規模な製造所を設置した。この地は松代藩の領地内であったことから佐久間象山の影響があったと思われる。

▷1853年(嘉永6年)6月、ぺリ-艦隊が浦賀に到着した時、地元の漁師は“伊豆大島が動いた”と錯覚した。また、「泰平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん/蒸気船)たった四杯で夜も眠れず」という狂歌がはやり、日本中が“驚天動地”の状態であった。当時の瓦版をみると、「長サ三十八間 巾十五間 帆柱三本、石火矢六挺 大筒十八挺 煙出一丈八尺 水車丸サ 四間半 人数三百六十人乗」など黒船の詳細なデ-タが記載されていた。

▷1855年5月(安政2年)、中居撰之助は多年研鑽の家伝火薬秘法をさらに独自の製法を記した秘伝書『集要砲薬新書』を上梓し、水戸家、松代、上田藩の両真田家、老中、各諸大名に献じ、国防上の貢献をした。高島秋帆が激賞の序を書いた。このため中居撰之助は、一躍天下の諸大名に、その学識・技量を知られるようになり、火薬の依頼が殺到した。

▷撰之助の商人道は、火薬製造という国家的見地に立って推進された。それは1850年(嘉永3年)に出版して頒布した『子供教草』(おしえぐさ)にうかがうことができる。この本は商人を志す青少年のため教訓書として“商人道”のバイブルとして読まれた。商人である前に人間であれということから「六勿の法」(りくふつ/6つのしてはならないこと)を説いている。

〖情報収集〗

▷中居撰之助の優れた点は、常に研ぎ澄まされた視点で、内外情勢の変化の予兆を察知し、素早く対応し、自らの立ち位置を決めている。このため、情報収集には心血を注いでいました。火薬の製造販売のために幕閣の有力者に近づいたことが、1859年(安政6年)の彼の日記『昇平目録』に記述している。幕末の逸材と知られる幕府の高官(水野筑後守忠徳<ただのり>・岩瀬肥後守忠震<ただなり>・村瀬淡路守範正<のりまさ>)の役宅や私邸を訪問している。

▷撰之助は当時のレベル超えた学識をもっていた。幕閣重臣に接触する一方、火薬の取引よって各藩の物産方役人とも接触して情報を収集している。また、オランダ語の師友を通じて、海外情報を入手していました。幕末末期の日本のグロ-バル化の進展の中で、1859年4月以降、撰之助は中居屋重兵衛と改名した。

〖横浜へ移住〗

▷撰之助は1858年(安政5年)12月末、日本橋3丁目から芝金杉片町の元“金座役人”が建てた立派な家に移転する。海に面した家に転宅したことは、横浜移住の準備とみられ、横浜進出の布石をうったと考えられる。1859年1月(安政6年)、金杉片町に本拠を置いて貿易商としての準備に取り掛かる。同年に幕府が地の利に恵まれた横浜を開港場に決めたことは、彼の先見の明が的中した。

▷1859年4月26日(安政6年)、中居屋撰之助の名義で、神奈川貿易許可願いを提出する。同5月22日、移住商人の店舗がバラック建ての多い中で、横浜居留地本町4丁目の角、豪壮な店を開店した。外国貿易を行うために間口30間、奥行き30間、2階づくりで、60余人の定員を擁したと言われている。新し建物は通称“銅御殿”(あかがねごてん)と呼ばれていたが、当時、銅瓦はご法度、神奈川奉行から5日間の閉店・謹慎と土瓦に替えるように申し渡されていたが、重兵衛は無視した。

〖激動期の中で〗

▷1858年前後(安政5年)の日本は激動期でした。①将軍継嗣問題、②安政大獄、③桜田門外の変などの歴史の転換点の中で、近代日本の最初の貿易商人として頭角を現わした重兵衛は、横浜で生糸を輸出品として外国商館に売り込む仕事に専念した。しかし、生糸を過剰に輸出したという罪に問われた。

▷1860年(万延元年)、重兵衛は横浜の貿易商人への不当取締について、幕府奉行所へ抗議し、上申書を提出した。外国商人とのトラブルの仲介役などの世話したことで、“浜の門跡様”の綽名があった。因みに上州の生糸は海外で評判が高く、ロンドンの生糸市場では堤げ糸を「まえばし」と呼んでいた。

▷1860年(万延元年)、重兵衛は井伊大老暗殺のため、水戸浪士関鉄之助、薩摩浪士有村次左衛門など及び同志も上方挙兵のために短銃(ピストル)20挺を密かに提供したといわれる。同3月3日、大老は桜田門外登城の駕籠の中で、短銃の弾丸貫通銃創に傷つき、水戸浪士などの手に討たれた(46歳)。同日夕べ、重兵衛の娘たか初節句の祝宴中、井伊大老の死を告げる密書が江戸より到来、重兵衛は“快哉”(かいさい)を叫んだと言われている。

▷1861年5月(文久元年)、念願の湊川楠公墓に詣でる。横浜に帰着早々、大変事が待っていた。情報通の中居屋は、日頃から奉行所を内偵していたが、事情が一変していました。それは、①貿易事業関係の武器大量取引の嫌疑、②井伊大老の遭難事件に関わる水戸浪士との連繋や短銃の件などで、有力な証拠をもって、近く幕吏が来宅することが判明し、豪胆な重兵衛は動揺したと言われる。

▷重兵衛は幹部(大番頭重右衛門など)を緊急に集めて密談した。①機密書類の焼却、②取引関係では英国六番館のフィンドレ-・リチャードソンに相談してとりはからうよう一切を任せる。③家族も連座制を問われるので、妻そのを離縁し、三歳になる愛娘は親友の佐瀬得所に頼み、向後一切、中居屋の縁故者であることを口外してはならぬと堅く言い渡した。

▷重兵衛は急迫する動きの中で、豪壮な店を見る余裕もなく、小舟に乗りこみ横浜を脱出し、海路房州方面へ向かったという。下総には和泉屋の親戚村越清兵衛など土地の有力者がいた。その後、房州から牧野善兵衛と名乗り、江戸へ潜入している。関連資料の湮滅(いんめつ)によって委細は不明であるが、芝あたりの隠れ家に潜伏し、麻疹(はしか)に罹り、1861年(文久元年8月2日)、亡くなったと伝えられる。横浜出店2年後である(享年42歳)。

〖あとがき〗

▷中居屋重兵衛に影響を与えた人物として、佐久間象山(1811年3月<文化8年2月>~1864年8月<元治元年7月>)がいる。象山は江戸末期の学者-兵学者、朱子学者、思想家である。西欧の科学技術の摂取による国力の充実を持論とし、先見の明があった。重兵衛が若い頃、知遇を得たのを機に重兵衛は“江戸を意識し、世界を視ていた”と思われる。
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▷中居屋重兵衛は、士魂商才ぶりを発揮して、短期間に100万両の巨万の富を得たと言われている。その背景として、①人の掌握術、②情報入手術、③経営の術、④機を見る術などの要因が集積されたものと思われる。歴史にはif(もし)はないけれど、重兵衛が生きていたならば、商社のような組織立ち上げる力は十分持っていたと言える。ぺリ-来航を機に日本のグロ-バル化は到来していた。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

〈引用資料>

・萩原進著『中居屋重兵衛』<炎の生糸商>(株)有隣堂、平成6年6月20日、新版発行。

・佐佐木杜太郎著『中居屋重兵衛』<開国の先覚者>新人物往来社、昭和47年11月25日。

・松本健一著『真贋』(中居屋重兵衛のまぼろし)(株)新潮社、1993年5月15日。

・南原幹雄著 『疾風 幕末の豪商中居屋重兵衛来り去る』 人物文庫、1998年11月。

・「人づくり風土記」、全国の伝承 江戸時代、農山漁村文化協会、1987年11月24日。

・森田健司著『江戸の瓦版』、洋泉社、2017年7月19日、70頁。

・評論〈ぐんまの人物誌〉中居屋重兵衛、黒岩幸一。