2019年10月10日


〖プロローグ〗

▷筆者(五十嵐)の父祖は越後(新潟県)新発田藩(溝口家)に仕えた武士だったようです。初代藩主の溝口秀勝(1548年<天文17年>~1610年<慶長15年>)は、尾張中島郡西溝口村の西溝口城(現:愛知県稲沢市)の地侍溝口勝政の長男として生まれています。豊臣秀吉の家臣団の一人として手柄を立て、堀氏の与力大名(戦に協力)として越後蒲原郡に6万石(後に5万石→10万石)を与えられ、1598年(慶長3年)加賀大聖寺(石川県)から新発田へ入封します。

▷移封にあたって、家臣総数は2千百人と奉公人を一人残らず召し連れて行くことを秀吉から命じられています。仮に妻と子供を2人とすれば、“総勢8千人を超える大移動”であったと思われます。爾来、初代秀勝から12代直正まで(明治4年・廃藩置県)、273年の治世が続きます。

新発田城の写真







新発田城址 辰巳櫓

〖参勤交代〗

(武家諸法度)

▷参勤交代の法制上の制度は、1615年(元和元年)に初めて武家諸法度に参勤作法が規定された後、1635年(寛永12年)、三代将軍徳川家光が公布した「武家諸法度寛永令」です。全国250以上ある大名家が2年ごとに江戸に参勤し、1年経ったら国元へ引き上げる制度です。

▷幕府は、諸大名に出費を強いて勢力を削ぐなど目的したものです。しかし、参勤交代制度は幕末の1862年(文久2年)<文久の改革>に一橋慶喜、松平慶永らによる幕政改革による緩和され、妻子の帰国を許し、参勤交代の頻度を3年1回(100日)とし、藩主在国中は江戸屋敷の家来を減らすよう命じています。

(越後諸藩)

▷幕末には越後には11の藩がありました。越後の大名をみると、戌年の秋には与板藩(長岡市与板)井伊家が、戌年冬には新発田藩溝口家と高田藩榊原家が、子年の夏には村松藩堀家などが参勤交代を行っています。定府(参勤交代を行わずに江戸に定住を命じられていた大名)の欄には、糸魚川藩松平家、黒川藩柳沢家らの名を探すことができます。但し、長岡藩牧野家、村上藩内藤家の名前がありません。その理由は、文久2~4年の期間、長岡藩牧野忠恭(ただゆき)は京都所司代や老中、村上藩内藤信親(のぶちか)は老中職にあったため参勤交代をしていなかったためです。

▷各藩には参勤交代を担当する部署がありました。諸大名は半年前に老中宛てに「時節伺」(日程、行程、人員などの)を提出します。これに対して、老中から「来年〇月中参府あるべき候」という奉書が届き、各家では請書を提出します。全国には250藩以上の大名が参勤交代のため江戸に向い(参勤)、また、領内に戻る(交代)と言いました。宿場には、大藩、小藩が在勤し、担当者は極めて詳細なプラニングをしなければなりませんでした。幕府は、各藩の参勤交代の時期を、年間を通して分散させ、コントロ-ルをしていました。参勤交代は計算された“大名統制”システムだったと言えます。

▷参勤交代の大名行列が江戸なり国表なりを出発する日が決まると、まず、先ぶれと宿割りの侍が先発して、宿々の問屋場に使用する継立人馬の数を通告し、また宿泊予定地の本陣・脇本陣と宿割りをして、後から来る本隊に手違いの生じないようにしておきます。人員が多くて本陣・脇本陣に収容し切れない場合には、普通の旅籠屋にも宿割りをすることがありました。

(新発田藩)

<主要ル-ト>新発田-若松-白河-宇都宮-江戸。

▷新発田藩の参勤交代のル-トは、新発田から五十公野御茶屋(初代秀勝入封後の仮住居)まで盛装で歩き、休息した後、旅装に着替え江戸に向います。参勤交代の1日の行程は40km(約10里)と言われています。随員は明らかでないが、藩の規模などから200~300人程度と思われます。(1日目)新発田-五十公野-中山-新谷-津川。(2日目)津川-鳥居峠-下野尻-野沢。(3日目)野沢-坂下-若松。 (4日目)若松-三代。(5日)三代-長沼-白川。(6日)白川-大田原。(7日目)大田原-宇都宮。(8日目)宇都宮-古河。(9日目)古河-大沢。(10日)大沢-千住-浅草-藩邸(10泊11日)。出 所(「天保15年会津通御参勤御度道中日記案調帳」新発田図書館蔵)。

<脇ル-ト>

▷会津西街道(下野街道)は若松と日光街道の今市宿(栃木県今市)を結ぶ街道で、総延長約32里(約132km)、道幅2間(約3.8m)、江戸時代当初は会津城下から江戸まで9泊10日と主要ル-ト比べ1日短かったため、会津藩をはじめ、米沢藩、村上藩、新発田藩が参勤交代で利用しています。加えて、会津藩の主要物通流ル-トでもあり、領内の年貢米を江戸廻米(一般に遠隔地に回送する米穀のこと)として、会津西街道を利用して江戸まで運んでいました。

▷1680年(延宝8年)、江戸幕府が主要5街道(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道)の利用を促すと共に、脇街道の利用を制限した。1683年(天和3年)の日光大地震により、会津西街道は壊滅的被害を受けたことも大きな影響を受け、会津西街道は物資輸送が不可能となります。因みに、新発田藩の江戸藩邸の所在地は、「上屋敷」は幸橋外、新橋駅西口前。「中屋敷」は銀座木挽町、中央区銀座7。「下屋敷」は本所三つ目、墨田区菊川1。

〖難渋な峠越〗

▷参勤交代で難渋であったのは“峠道”で、会津街道(新発田-若松)には多くの峠があります-鐘撞堂峠、束松峠、青坂峠、車峠、鳥井峠、惣座峠、諏訪峠などです。諏訪峠を著名な人-十返舎一九、吉田松陰、山縣有朋、イザベラ・バ-ドなどが峠越えをしています。

・十返一九(1756<宝暦6年>-1831年<天保2年>)は、江戸時代後期の大衆作家・絵師で、滑稽本(会話が主体のおもしろ話)『東海道道中膝粟毛』の作家として知られる。1814年(文化11年)に会津街道を旅した一九は、著書『方言修行(諸国道中)金草鞋』の中で八田(やつだ)、焼山(やけやま・八木山)、天満(てんまん)、津川、諏訪峠、湯口(行地)、新谷(あらや)、綱木(つなぎ)にて、街道を往来する人々や集落の出来事などを描き、諏訪峠(標高500m)について「会津より越後新発田まで至る街道のうち、この峠ほど高く難儀なるはなし。暑い時分も峠は寒し。」と記しています。

・吉田松陰(1830<天保3年>~1859年<安政6年>)は武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者、地域研究家。1851年(嘉永4年)、東北地方へ遊学する際に、藩の許可なくして出かけ、1852年2月に阿賀町の諏訪峠を越えました。その際の印象について、「雪の深さは幾丈(いくじょう)あるか測(はかり)りしれない。老樹は雪の中に埋没して枝もないように見える。私は山陽から東海に渡る時に、雨が降ったり、晴れたりしただけである。喜び又悲しんだりしたが、このような困難は未(いま)だかって経験したことがない。困難が益々甚だしくなればなるほど、珍しいことに直面する。地元の人が盛んに雪中の困難を言っているが、困難の中に奇特(きとく)を知る事が出来るのは一体誰だろうか。」と記述しています。

・山県有朋(1834<天保5年>-1922年<大正11年>)政治家、軍人、有朋は8月新発田から政府軍を率いて、16日に諏訪峠から津川の阿賀野川右岸に到着した。――中略――8月25日に対岸の会津軍が津川まで兵を引き上げたが、難なく川を渡ることができました。この時の有明の従軍記『越之山風』では、諏訪峠越えが思いのほか簡単だったことや、阿賀野川を挟んで数日間足止めされ残念だったことが記されてい。余談ですが、“有明(ありとも)は幕末に通った松下塾”のことで、吉田松陰から諏訪峠を含む津川周辺の地理を学んでいたと言われています。

・イザベラ・バ-ド(Isabella Lucy<1831-1904年>)は、イギリスの女性旅行家・紀行作家で、イギリス地理学会特別会員でした。幼い頃から病弱でしたが、医者から健康回復にと外国旅行勧められ、アメリカ、カナダ、ハワイなどを旅行しました。1878年(明治11年)5月に横浜港に着き、6月中旬日光から東北・北海道を旅行しました。その旅行記『Unbeaten Tracks in Japan(『日本奥地紀行』)です。バ-ドは東北へ向かう途中7月に阿賀町を訪れています。バ-ドは当時の津川の町について、「津川で屋根は樹皮を細長く切ったもので葺いてあり、大きな石でおさえてある。しかし、通りに面して切り妻壁を向けており、軒下ずっと散歩道になっている。街路は、直角に二度曲がり、上流の岸にある寺院の境内で終わっている。」と。

▷昨日の旅行は、今まで経験したうえでもっともきびしいものの一つであった。10時間も困難な飛びを続けたのに、たった15(約24km)マイルしか進むことができなかった。車峠から西へ向かう道路は、とてもひどいもので、駅場間はただの1マイルしか離れていないことがある。しかし、多くの市町村と大きな後背地をもつ肥沃な会津平野の産物を新潟へ送り出すためには、少なくとも津川にくるまでは、その道路に頼らなければならない。--中略――私は日光を出発(会津西街道/下野街道)してから“2000フィ-ト(760m)以上の高さの峠を17も越し”たが、車峠は最後の峠であった。車峠から津川までの景色は小さいが、今までとほぼ似ている「第14信 津川にて 7月2日」。

阿賀町


出所:「阿賀町で暮らそう」

〖財政負担〗

(加賀藩)

▷一見華やかな大名行列と見られている参勤交代ですが、内実、どの藩の台所は火の車でした。詳しい資料があるので、「加賀100万石」の藩財政(使途)をみると、参勤の年は5~6割を参勤交代の費用で使い、約2割を江戸の生活費、残りの2割が国元の政治、生活の費用となった。具体的な数字を挙げてみよう。

▷参勤交代は2000~4000人の規模です。1635年(寛永12年)~1862年(文久2年)の227年間、加賀藩では参勤93回、交代97回の合計190回の大名行列が実施されている。行列の総距離は約480km(120里)で、1日平均40km(10里)を歩いた。平均的に12~13泊の旅程であった。宿泊場所も一度に2000人以上を宿泊させる場所などがなかった為、事前に予約し、周囲の民家、寺なども宿泊場所としていた。参勤者2000人と馬200頭が12泊するために現在の貨幣価値で約2億円が必要であった。

(新発田藩)

・新発田藩の参勤交代の実態を示す事例は見当たりません。既述の天保15年の大名行列のル-トを挙げている。当時の新発田藩の財政事情は米を中心とした単一経済であり、洪水や大火、地震に見舞われことが多く、藩財政の窮乏を招き、幕末まで続いた。新発田藩の参勤交代は、大藩と比べて、極めて地味なものであったことは想像に難くない。参勤交代規模も200~300人程度であったと思われる。

〖エピローグ〗

▷参勤交代の主役である藩主は、幕府に対して、物心全てのエネルギ-を投じ、江戸に向い、江戸到着を厳守しなければならなかった。幕府が当該藩の動きを詳細に把握しているからである。そのため参勤交代は、藩財政に大きな負担となった。幕藩体制は265年続いた。

▷参勤交代は幕府の厳格な統治機能に基づいて、日本の近代化を促進させた。五街道の設置、橋梁の設置など枚挙にいとまがない。また、1853年(嘉永6年6月)、アメリカ合衆国のぺリ-提督が艦隊を率いて浦賀に来航し、日本国内は衝撃が走った。新潟湊も1859年(安政6年)にロシア船、オランダ船が相次いで来航している。

▷この外国船の来港は幕藩体制の鎖国令(1633年<寛永10年>)にも大きな影響を与えた。加えて、参勤交代制度は幕末の1862年(文久2年)に、一橋慶喜、松平慶永らによる幕政改革による緩和された。この背景には軍備増強と全国の海岸防備を目的としたが、結果として、徳川幕府の力を弱めることになり、日本のグロ-バル化の端緒となった。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

<引用資料>

・鈴木康著『シリ-ズ藩物語 新発田藩』、現代書館、2015年2月20日。

・「会津街道」~いにしえから続くみち~新潟県阿賀町、新潟県新潟地域振興局。

・イザベラ・バ-ド著『日本奥地紀行』、平凡社ライブラリ-329、~第14信、津川にて7月2日~、2016年6月23日、初版第24刷。

・『歩きたくなる 大名と庶民の街道物語』新人物往来社、発行者杉本惇、2009年11月24日。

・『歩く・観る・学ぶ参勤交代と大名行列』、別冊歴史REAL、発行所(株)洋泉社、2012年4月1日。

・『藩史大辞典第3巻』中部編Ⅰ北陸・甲信越、平成27年12月25日。

・「戊辰戦争150年 新発田藩新たな時代と出会い」-新発田市歴史図書館 秋季企画展。

・『江戸の大名屋敷』、編者江戸遺跡研究会、吉川弘文館、2011年3月20日。

・『日本史年表』、編者東京大学・日本史研究室、(株)東京堂出版、昭和59年6月20日、初版発行。

・『考証江戸事典』、編者南条範夫、人物往来社、再版発行、昭和39年4月15日。