2020年5月14日


〖プロロ-グ〗

2020年4月28日付「産経新聞」コラム(緯度/経度)によると、記者が香港の外国人墓地を訪れ、西洋風の墓石に交じり「日本近藤貴蔵墓」を見つけます。台座には、英文でこう記されていました-「1881年12月27日、香港にて死す。27歳肥後熊本出身」-(参考1)。1881年(明治14年)は、「明治14年の政変」(大隈重信の赦免)、植木枝盛が「日本国憲法草案」を起草した頃です。

近藤貴蔵<1855年12月3日(安政2年)~1881年12月27日(明治14年)>は、肥後熊本藩「時習館」の出身。同校は実学を説いた幕末の思想家、横井小楠<1809年9月(文化6年)~1869年2月(明治2年)>/儒学者>を輩出したことで有名です。同様に近藤貴蔵より3歳上の北里柴三郎は“日本の細菌学の父”として著名で、後にペスト菌の発見や破傷風の治療法を開発するなど、日本の感染症医学の発展に貢献します。

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近藤貴蔵氏の墓(中央)
出典:産経新聞「
香港の墓地に掲げた「日本」


〖出   自〗

(家  族)

近藤貴蔵は4人兄弟の四男として熊本で生まれます。6歳の時、母が亡くなったことから継母に養育される。父は細川藩士近藤敬勝、祖父の昌明は儒学の教授で100石取の騎士長次席に列せられます。10歳になると、藩校「時習館」に学び、ここでは成績優秀なことから藩主から資金の授与を受けます。14歳からは「尊命閣」で学んでいます。その後、木下直弘の塾に通います。

(遊  学)

1871年(明治4年)、17歳で高山直質(参考2)と共に藩から東京へ遊学を命じられ、「大学南校」(東京大学の前身)に入学します。同年7月の廃藩置県により藩費が打ち切られたこところから、同郷の多くが帰国を余儀なくされたが、近藤は貧しい暮らしの中から継母の励ましで、学費の援助を受けて勉学を続けます。

1873年(明治6年)10月「工部大学校」(東京大学工学部前身/現:東京都港区虎ノ門付近)の開校(参考3)と同時に官費生として入学し、鉱山学を修め、1879年11月(明治12年)に卒業、日本最初の工学士となった。卒業生23名のうち、11名は、翌年、英国への官費留学を命じられています。

(説  諭)

海外留学生として選抜されると、渡航直前の1880年(明治13年)1月、一旦熊本へ帰郷します。中風で寝たきりの父(75歳)との別れのためでした。継母は「汝ジ性虚弱。今マ万里ノ殊域ニ遊ブ。若シ不慮ノ患ヲ生ゼバ、大人の悲悼(ひとう/悲しみ痛む)知ルヘキ也。断然辞スルニ如ズト」(筆者:生来体の弱い貴蔵の健康を気遣って留学を諦めるように諭した)。

しかし、貴蔵は「死ニ瀕スル老親ニ生別スルハ誠に人間ノ大不幸タリ。然レドモ男子学成ザルハ孝ニ非ル也。学テ死ルゝハ則チ命ナリト」。情奪ッテ義ニ帰シ。奮テ命ヲ奉ジル也」(筆者:男子、学ならざるは孝に非ざるなり)との言葉を残して東京へ赴きます(注1)。

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近藤貴蔵氏
出典:
「旧工部大学校史料・同附録(78年7月1日)


〖英国留学〗

(新聞報道)

近藤貴蔵の英国へ留学について、当時の新聞は次のように伝えている。先ごろ工部大学校にて卒業した23名の生徒のうち、南清(土木学)、石橋絢彦(燈台学)、尾花冬吉(冶金学)、栗本廉(地質学)、志田林三郎(電信学)、高峰譲吉(化学)、三好晋六郎(造船学)、荒川新一郎(紡績学)、高山直質(機械学)、辰野金吾(造家学)、近藤貴蔵(鉱山学)の11名は、欧州へ留学申し付けられ、近々に出立すべしという(注2)。

(鉱山学校)

英国では当国で最初の政府立専門学校である「ロンドン鉱山学校」に入学します。しかし、継母が危惧した通り、翌年に肺病を患い帰国を余儀なくされます。帰国する船中で病は重くなり、途中の香港で下船して、治療に専念しますが、1881年12月27日、わずか27歳の若さで異国の地で亡くなります。母の予感は的中してしまった。さぞ、“貴蔵は無念”であったろう。

墓は誰が建てたのであろうか。140年たった墓碑には読み取れない文字が多く、分からない。香港で息をを引き取る前に知り合った日本人、あるいは科学者たちが故国や鉱山の将来を語る近藤氏の思いに心を打たれたのだろうか。今になってはまったくわからない(注3)。この墓で最も古い日本人の墓は「大日本陸軍少尉 湯川温作墓」である。1878年(明治11年)に亡くなった。フランス留学中に脳病を患い、香港で下船して、入院手続きを待つ間に息を引き取ったという(注4)。

 

〖追  悼〗

一周忌には鉱山学科の後輩桑原政と同郷の河喜多能達(参考4)の尽力で記念碑が建立され、碑文は工部大学校長大鳥圭介の撰、書は広東の書家に依頼したという。日本の殖産興業を担う前途有望な若人だった。同じ留学組の建築家辰野慎吾(佐賀出身/日本銀行本店・東京駅などを設計)、化学者の高峰譲吉(加賀藩出身/止血剤アドレナリン・胃腸薬タカヂアスタ-ゼを発見)の名だたる偉人が生まれています。

工学会誌に記載された彼の追悼文の末尾には「氏ノ学術ニ於ル沈重以テ起り、緻密以テ畢わり。復タ遺憾ナキカ如シアタカも、之ヲ要スルニ年ヲ假サズ。終ニ其素志ヲ遂に能ハズ」。自らの志を遂げることなく若くして逝った技術者の死を惜しんでいる。

近藤は工部大学校在学中に「工業ノ学タルヤ嘗テ吾朝ニ無キ所ノ者、今専ラ之シテ本邦振起セシメト欲セハ、宜ク鋭意熱心之ヲ研究シ、職トシテ緻密ヲ要スへシ。否ラザレバ何ノ日カ外人ノ手ヲ假ザルヲ得ンヤト」。我国にこれまで存在しなかった“工業技術に対する心意気”を同僚に語っていた。

工学会誌に記載された彼の追悼文の末尾には「氏ノ学術ニ於ル沈重以テ起こり、緻密ヲ以テ畢リ。復タ遺憾ナキカ如シト恰モ、之要スルニ天之ニ年ヲ假サズ。終ニ其素志ヲ遂ニ能ハズ」。自らの志を遂げることなく、若くして逝った技術者の死を惜しんでいる。

 

〖エピローグ〗

近藤貴蔵は藩校時代から幕末・明治維新をつぶさに見てきており、殖産興業のために自分は何ができるかを認識していた。鋭意熱心な研究することが大切で、そのためには緻密でなくてはならないと語ってる。工部大学校を卒業し、官費留学をした11人の多くは互いに切磋琢磨して日本の将来の礎になった。

近藤貴蔵の無念のごとく、滝廉太郎(音楽家・作曲家)も留学先(ドイツ/ライプツィヒ)で、肺病に罹り、日本に帰国を余儀なくされ、23歳で大分市で亡くなっている。近藤の意思を継いだ同郷の高山直質や辰野慎吾(佐賀県唐津)、高峰譲吉(富山県高岡)が果たしてくれた。異国の地で眠る近藤は死去から139年経った今日、日本をどのように見ているのであろうか興味深い。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)市川紀一論文「明治初期のエンジニア教育機関と熊本出身のエンジニア」、土木史研究、第18号、自由投稿論文、1998年5月

(2)「東京日日新聞」明治12年12月3日、「明治日本発掘」(1)、131頁

(3)「産経新聞」2020年4月28日

(4)「香港日本人倶楽部」資料

 

(参 考)

(1)近藤貴蔵の墓は現在も香港島のハッピ-バレ-競馬場を望む湾仔の丘に「香港墳墓(Hong Kong Cemetery)」という公有墓地があります。墓の台石(大理石)には、次の文字が刻まれています。「A NATIVE OF KUMAMOTO OF HIGO JAPAN WHO DIED AT HONG KONG ON THE 27TH DECEMBER 1881 AGED 27 YEARS」(注1)引用。ここには明治(1878)年から1945年(昭和20年)まで、香港で亡くなった日本人465名が眠っている。明治から大正にかけて20代で亡くなった人が多く、鎖国令が解かれて若者が海外雄飛した時代であったことことを物語っています(注4)引用。

(2)高山直質1855(安政2年)~1886年(明治19年)は、専門は機械工学、留学先英国グラスゴ-大学、後に工部大学校教授になります。

(3)1870年(明治3年)10月、工部省の山尾庸三の建言を承け鉄、鉱山、電信、燈台、営繕の緒寮が設けられ、諸官庁の体制が固まると、今度はそれを率いる人材の養成が急務となった。そもで、山尾は工部省御用掛の伊藤博文と計り、明治4年4月に工部大学建設の建言書を太政官に提出。紆余曲折を経て、明治10年1月11日の制度改革で工部大学校へ衣替えし、大鳥圭介(幕末の幕臣/医師/蘭学者/思想家/明治時代/教育者/外交官/官吏)が初代校長となった。

(4)・桑原政(くわばら せい)<1856年(安政3年2月24日)~1912年(大正1年9月9日)>東京出身/工部大学校卒/工部大学校助教授/住友別子鉱山/明治炭鉱社長/   

衆院議員)(新訂 政治家人名辞典 明治~昭和の解説)。

  ・河喜多能達(かわきた みちただ)熊本藩出身<1853年9月4日(嘉永6年8月2日)~1925年4月3日(大正14年4月3日)>/工部大学校卒業/工部大学校助教授/東京帝国大学教授(工学博士/応用化学)(ウィキぺデア)