2020年6月17日


〖プロロ-グ〗

・人類は過去に多くの感染症に見舞われた。今回も人類は新しい感染症と向き合うことになった。現在、新型コロナウイルスは、パンディミック(世界的大流行)な状態に陥っています。2020年6月16日午後4時現在、世界全体の感染数は803万5364人(43万6918人)、そのうち、米国の感染者数①211万4026人(11万6127人)、②ブラジル88万8271人(4万3959人)、③ロシア53万6484人(7081人)-()内の数字は死亡者数-(注1)。そこで、今回は、日本の天然痘の歴史を紐解き、日本人はどのように感染症と向き合ったのか、今から1300年前に遡ることにします

 

〖歴    史〗

(政治の混乱)

天然痘(疱瘡・痘瘡)は猛威を振るった-『続日本紀』によると、第45代聖武天皇時代(しょうむ<701年-756年>)に豌豆瘡(「わんずかさ」)が、天然痘の最初の記述です(参照1)。735年(天平7年)にあたる-「この年、凶作、豌豆瘡が流行し、死者多数、遣唐使・多治多比広成が帰国し、節刀<天皇から下賜された大刀>を返上する」。天然痘の発症地は大宰府管内(対外窓口)と明記されており、遣唐使船、新羅の渡来と符合することから唐か新羅伝来の可能性が高い(注2)。

天平疫病大流行(735年-737年)は、西日本から畿内にかけて天然痘は大流行します。日本史研究者ウィリアム・ウェイン・ファリスilliam Wayne Farris)が『正倉院文書』に残されている古代律令制下の「正税帳」<出納帳>を利用し、算出した推計による天然痘死亡者は総人口の25-35%に達しており、“100万-150万人”が感染症で死亡したと推計されています(参照2)。

当時、平城京では政権を担当していた藤原不比等(ひじわらのふひと)の4人の息子(藤原4子)が相次いで罹患し、死亡した言われており、同政権は終焉します。また、政権の中核にいた有力者が亡くなり、朝廷政治は大混乱した。この大流行は738年1月(天平10年)にほぼ終息しますが、日本の政治・経済両面、宗教面に甚大な影響を及ぼします。

 

(東大寺建立)

東大寺の大仏造営は747年9月29日(天平19年)鋳造始め、751年(天平勝宝3年)に大仏殿が完成、752年(天平勝宝4年)、大仏開眼供養会をおこなった。大仏造営の背景には、致死率の高い天然痘の大流行がありました。それを鎮めるために聖武天皇は仏教への帰依を深め、東大寺および「盧舎那仏像」(奈良の大仏)の建造を命じ、また、日本各地に国分寺を建立します。武蔵国分寺(国分寺市)もその一つです。大仏の建造には、国の財政を破綻させかねないほどの巨費を投じました。

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奈良の大仏
出典:Wikipedia「東大寺盧舎那仏像


 

(再流行)

天平疫病大流行からほぼ260年後の995年(長徳1年)に天然痘が大宰府で発生し、都(みやこ)にも感染者が増えて大流行し、市中には、死体や骸骨の山で、多くの道は塞がれたといいます。公卿からも8人の死者が出ます。朝廷は粥(かゆ)などの消化の良い食べ物やネギ・ニラなどを奨励し、冷水の禁止などを通達。同時に、寺社への捧げるものや読経に力を入れますが、人々の不安を払拭できなかったのです。民衆は自衛策として、天然痘の根源は疫病神(やくびょうがみ)と信じ、遭遇しないように自宅で過ごしたといいます(STAY HOME)。
 

(道長の栄華)

今回の天然痘の流行で、一人の公卿が幸運を握ります。藤原道長(966年~1028年)です。藤原北家の5男であった彼は、本来であれば家督を引き継ぐことはなかったのですが、感染症の流行で兄や他の親族、有力な公卿の多くが亡くなっため、政治の表舞台へ現れます。外戚(がいせき/皇帝、王の母親または妃の一族)という立場を利用し権勢を強め、1018年10月に有名な「この世をわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思えば」<“俺はこの世の全てを手に入れた”>という歌を残すほど、栄華を極めました(注3)。

 

(パンディミック)

この後、日本では数世紀にわたって、天然痘のエピデッミク(一定の地域に一定の罹患率が常在的な状況にある)が繰り返されます。さらに、10世紀になる頃には、日本人にとって天然痘はパンディミック(大量発生)になります。『日本疾病史』(富士川游氏)によると、735年(天平7年)~1839年(天保9年)までの1103年の間に58回もの大流行があった推計しています。和歌山県の某家に伝わる古文書によると、1828年(文政11年)~1873年(明治6年)までの間に6人の子供が天然痘に罹ったといいます。歴史はほぼ500年を下り、近世の時代(安土桃山/江戸時代)に入ります(注4)。

 

(江戸時代)

江戸時代中頃まで疱瘡(ほうそう)は天罰が下された疫病神と捉え、村や町の路傍のあちこちに疱瘡の石像が建てられ、人々は恐れおののき家内無病息災を願ってひたすら祈りを捧げるだけで、人的手当で治せる病気ではなかっのです。こうした迷信がはびこる中にあって、神社・仏寺・修験道達の疱瘡避けのお札と祈祷にすがる“庶民の顔・顔”がありました。

天然痘(疱瘡)は、伝染力が強いだけでなく、罹った場合の致死率が高く、人々から“疱瘡”の名で恐れられていた。天然痘が流行すると多くの人々が死に、“部落全滅”も散見され、運よく助かった場合でも、顔や体に痘痕(あばた)が残された。天然痘の予防法として唯一あったのは、天然痘に罹患した患者の「かさぶた」を粉末にして鼻から吸引させる方法です。人為的に天然痘ウイルスに感染させることによって免疫を作り出す「人疱種痘法」という方法が中国から伝わり、1778年頃(安永7年)から盛んに用いられましたが、「人疱種痘法」はその効果に個人差があって治療効果は不確実でした。

 

(革新的発明)

欧州で有力な新しい動きが出てきました。1798年(寛政10年)、英国の外科医ジェンナ-(Edward Jenner)が牛法を開発しました!牛のかかる痘瘡(牛痘)に感染した人が、天然痘に対して免疫を持つことに気づいたことから開発された方法で、牛痘に感染した牛から取り出したウィルス(痘苗/とうびょう)を人間に接種することで、免疫を創り出すという予防法です。

この方法は極めて効果が高く、「」に比べて危険性も低かったため、世界的に拡がりました。日本にはロシア経由で1824年頃(文政7年)にもたらされますが、普及しなかったのです。1849年(嘉永2年)、佐賀藩主鍋島直正(第10代)がオランダから輸入させた痘苗を用いて、藩医楢林宗が藩内へと広めていったことから、本格的な導入が図られました。

 

(江川の英断)

種痘は、さらに緒方洪庵や伊藤玄朴によって、積極的に実施されます。蘭学に造詣の深かい江川太郎左衛門英龍(1801年~1855年)は、こうした動きに対応します。1850年正月(嘉永3年)、伊藤玄朴に依頼して、息子英敏と娘に種痘を接種します。引き続き英龍は、配下の医師肥田春安らに命じて試験的な接種を行わせます。

その結果が良好であること確認した上で、同年2月、管轄する韮山代官領(伊豆/駿河/相模/武蔵<多摩>/禄高12万石)に「西洋種痘法の告諭」を発し、種痘を受けるように諭します。この告諭を受けて肥田春安は助手とともに村を廻り、種痘の実施にあった。この事業を継続した結果、韮山代官領内における天然痘罹患率は激変します(注5)。

この成功は、幕府の認めることになり、1858年(安政5年)、伊藤玄朴、大槻俊斎らが中心となって、江戸お玉ヶ池(現:千代田区岩本町2丁目5-5付近)に種痘所(蘭方医者80名)が開設され、江戸町民に種痘受けるのように勧告します。同種痘所は、1861年(文久元年)には西洋医学所となり、明治維新まで活動を続けます。維新後、明治政府に引き継がれ、後に東京大学医学部の前身となります。

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江川英龍
出典:Wikipedia「江川英龍



〖著名人の罹患〗

奥州の戦国大名「独眼竜」の異名で知られる伊達政宗(1567年~1636年)は幼少期に右目を失明したのも天然痘によるものと言われています。東山天皇(第113代天皇<1675年~1709年>)、光明天皇(第121代天皇<1831年~1866年>)も天然痘で崩御します。

歴史上著名な源実朝(1192年~1219年)、豊臣秀頼(1593年~1615年)、三代将軍徳川家光(1604年~1651年)、吉田松陰(1830年~1859年)、夏目漱石(1867年~1916年)には“あばた”がありました。私たちのよく見る漱石の肖像写真を見ると、痘痕(あばた)がないのは、修正されているからといわれています。

1870年(明治3年)、明治政府が国家政策として「種痘令」を通達し、東京府下に4カ所の種痘所を設置します。夏目金之助の養父塩原昌之介が金之助に予防接種を受診させますが、失敗して罹患したのです。訪英した金之助は「あばた顔」を周囲の英国人の注意を引いていること、強く気にしていたと言われます(注6)。

 

〖明治時代〗

(病院の現状)

1892年(明治25年3月10日、ベルツ(東京大学医学部教師)は、東京府駒込の天然痘病院(現:都立駒込病院)を学生たちと訪れた。「醜態だ。400名の患者に、時としては日に50名の新患がある有様なのに、これに対して、一部は無経験のものをも含めて8名の医師と、20名の看護婦である」。

「冬だというのに、破れた紙障子のバラック!ひどい!一体東京市は、病気の市民のために、何をしているというのだ!コレラ-チブス-天然痘の伝染病!それでいて、貧しい人たちを、せめて大切に飼われている馬くらいの程度にでも、収容しておける病院一つすらない!」(注7)(原文)。

 

(一葉の接種)

日本の女流作家で綺羅星の如く輝いた樋口一葉(1872年~1896年)。残念ながら24歳8カ月で亡くなります。1892年3月16日早朝(明治25年)、一葉は日記に、「晴天、一点の雲なし、本妙寺で種痘があるというので、我もくに子(邦子/妹)と行こうと思って支度をする」(注8)。一葉は当時、東京市本郷区本郷菊坂町70番地(現・東京都文京区本郷4-32)に住んでいた。年齢は18歳、今でいう高校3年生であった。

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樋口一葉
出典:Wikipedia「樋口一葉


 

(接種事例)

1876年(明治9年)、「天然痘予防規則」が設けられ、1885年(同18年)には同規則と同7年の「種痘規則」を廃止、整理・統合した「種痘規則」を公布、種痘が強化された。1884年(明治17年)町村制度改正により、野口村・久米川村・廻田村・大岱村の連合による四ヶ村組合(野口村正福寺に戸長役場を置く/現:東京都東村山市)が誕生したばかりです。当時、久米川村在住の伊東医師、隣の秋津村平山医師らが医療活動(感染症など)に従事します。

「種痘規則」により種痘所が作られ、医師手当、痘苗費、消毒費などの措置がなされ、爾後、種痘は確実に行われます。明治27年、村の人口は5716人、当時、どのような者が接種したかは不明ですが、接種者は140人、そのうち善感(種痘の効果が現れた)は123人であった(村事務報告)。法の制定以来、村には罹患者は見られない。1900年(明治33年)には、接種者(春季)485人、36年204人で善感は122人。この年の村の戸数は880戸、人口は6108人(注9)。

1907年(明治40年)の接種者は満1歳から30歳までの者が受けていて、不善感の者(種痘の効果が現れず、免疫を生じない状態)は接種を2回した。種痘は天然痘の大流行にあたっては、臨時に接種が行われました。1908年(明治41年)流行があって、人口6200名余人のうち、実に過半数の3331人が受診、不善感は2863人であった(村事務所報告)。

 

〖エピロ-グ〗

幕末の1846年(弘化3年)肥後(熊本県)の海に突如妖怪「アマビエ」が現れ、「この先6年は豊作が続く、疫病が流行した際は、私の姿を描き、人々に見せよ!と言い残して消えます。人々はアマビエを描き、疫病の魔除けとした。著者の家の玄関にも女房が書いたアマビエを吊るしています。吊るしていると言えば、最近、どの家にも軒下に洗濯したマスクを吊るしています。“感染症の魔除け”のように見えます。信ずるものは救われます!

感染症は全ての人間の創造した価値を破壊尽くす。ウイルスはその都度、強くなり、質の悪いものに変質する。これからも人間と感染症ウイルスとの闘いは不断なく続きます。当局は、内外の感染症情報を適宜適切に分析し、即応体制を構築しなければならない。日本の天然痘の患者の発生は1974年(昭和49年)、世界では1977年(昭和52年)以降、なくなります。WHOは1980年(昭和55年)に“天然痘根絶宣言”します。これまでに、地球上から撲滅できた唯一の感染症は“天然痘”です。
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アマビエ
出典:Wikipedia「アマビエ





(グロ-バリゼ-ション研究所)所長  五十嵐正樹

(注)

(1)『世界各国・地域の新型コロナウイルスの感染者数』(米ジョンズ・ホプキンス大学まとめ)、6月16日午後4時現在、「日本経済新聞」2020年6月17日
(2)「日本史年表」、編者東京学芸大学、東京堂書店、昭和59年6月20日

(3)人類は「パンデミック」をどう生き延びたか、島崎 晋著、青春出版社、2020年6月1日、155頁

(4)一般財団法人 北多摩薬剤師会~薬と歴史シリ-ズ3~

(5)「江川太郎左衛門英龍と三島」

(6)「論  座」夏目漱石と感染症の時代、小森陽- 東京大学名教授(日本近代文学)、『吾輩』の主人・苦沙弥先生はなぜ「あばた面」だったか

(7)「ベルツの日記」(上)、2018年4月26日 第9刷発行、訳者菅沼竜太郎訳、岩波書店、159頁

(8)完全現代語訳「樋口一葉日記」、訳者高橋和彦、発行所(株)、アドレエ-1993年11月23日、110頁

(9)「多摩のあゆみ」、平成14年2月15日発行(季刊)、105、<特集幕末・近代の医師たち> 伝染病記-東村山往事-、63~64頁

 

(参   照)

(1)天然痘の呼び名は、奈良時代は豌豆(わんずかさ)、鎌倉時代は赤斑瘡(あかもかさ)、室町時代は痘瘡(いもやみ)、江戸時代は疱瘡などと呼称

(2)(William Wayne Farris/専門:日本古代中世史・歴史人口学/米国ハワイ大学)

 

(参考資料)

・「日本史年表」、編者東京学芸大学、東京堂書店、昭和59年6月20日

・笠原英彦著「歴代天皇総覧」、中公新書1617、2001年12月10日5版

・仲田正之著「江川坦庵」、(株)吉川弘文館、2009年10月1日