2020年7月23日


〖プロローグ〗

2020年6月21日「京都新聞」(コラム/凡言)によると-英国のジェンナ-は1796年(寛政8年)種痘を発明、最初のワクチンと言われる。日本には1849年(嘉永2年)に伝わった。種痘に使う牛痘ウイルスは、人には皮膚に軽い疾患を起こすだけで天然痘に対して大きな免疫を生むという。

1850年1月(嘉永3年1月)、郷里の福井に伝えるために“種痘を施した子供らと吹雪の中、北国街道の難所“栃ノ木峠”(539メ-トル)を命がけで越えた医師がいた。京で種痘法を学び福井で、種痘所(除痘館)を開設した笠原良策(1809年6月22日~1880年8月23日<文化6年5月10日>~明治13年8月23日>)、後の白翁(号)である。

当時、ワクチン(痘苗)の品質を保ちつつ運ぶのは難しく、子供に接種して吹き出た膿(うみ)を駅伝のたすきのように別の子供に“植え継ぎ”しなければればならなかった。福井に辿り着いても、人々の理解は得られなかった。健康な体に病原体を接種して危険はないのか。“ウシの角”が生えるといったデマが飛び交った。以下、種痘伝播に一生を捧げた町医笠原良策物語です。

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笠原良策
出典:歴naviふくい「
笠原白翁(良策)


〖あ ゆ み〗

(修  行)

1809年(文化6年)、越前足羽郡深見村(現、福井市深見町)に生まれます。名は良、字(あざな)を馬、後に白翁と号した。15歳で福井藩医学所済生館に入り、漢方を学びます。妻木陸叟から本草学を学んだ(参照1)。20歳で江戸(1829年~1832年<文政12年~天保3年>)に出て、磯野公道に付いて古医方を学び、23歳の時に福井に戻って、開業します。27歳の時、評判を聞き、山中温泉で、蘭方医大武了玄(大聖寺藩町医)に入門します。啓発を受けて蘭方への志を断ち難く、京都の“大蘭方医”の日野鼎哉(ひのていさい<1797年~1850年<寛政9年~嘉永3年>)の門を叩いて、入門を許されます(参照2)。

良策の医療への真摯な姿勢はきわだち、直ぐに頭角を現します。良策は人体に牛痘膿を接種することで免疫を与え、疱瘡(天然痘)の感染を防ぐことを書物などで知り、輸入費用を自弁する覚悟で、福井藩を通じて幕府に要請し、清国から種痘取り寄せようと考えますが、藩役人などの不理解で藩主に届かなかったのです。再度、良策は、1848年(嘉永元年)に嘆願書を提出し、中根雪江(参照3)などの協力を得て、福井藩16代藩主松平慶永(春嶽)の裁可を経て(参照4)、幕府に出願し、清国から取り寄せることになります。この頃、佐賀藩医楢林宗建は蘭法により接種を行っています。長州藩は、種痘実施を藩内に布令。佐倉藩は、領内に種痘を奨励する動きがありました。

 

(痘苗入手)

1849年7月(嘉永2年)、清国から届く前に、オランダ船がもとらした痘苗(ワクチン)を蘭館医オット-・モ-ニッケの手で長崎の小児に接種され、成功します。同9月、この時の痘苗が良策の師である日野鼎哉のもとに送られてきたことから、予定していた長崎へ痘苗を入手するのを急遽中止します。京都で日野鼎哉とともに一般への接種に当たります。いよいよ、福井への伝苗する日がまじかに迫ります。

 

(分   苗)

京都で150人以上の子供に種痘を済ませたところ、その噂を聞きつけた名医緒方洪庵(参照5)と日野葛民が、大坂に種痘を広めるために、1849年(嘉永2年11月1日)、良策のもとを訪れたのです。目的は、痘苗を譲り受けるためでした。彼らは共の者以外に1人の子供を連れてきました。良策は福井藩内に種痘を広めるために苗を他に分けることができないと明確に述べ、私しの一存では如何ともし難いと説明します。

良策は、半井元沖(福井藩医)の指示を仰ぐべきだと考え、その意を手紙で伝えた。元沖から間もなく返書が来ます。側用人(おそばようにん)の中根に相談したところ、「種苗は福井藩のもので、その源の一つとして下賜する形をとるように」と明確な指示があります。元沖は、その方法として、良策が藩を代表として分苗する望ましく、それに町医の身分ではなく、藩主の侍医という形で下賜するようにと、記してありました。

良策と鼎哉は大坂の洪庵のもとを訪れます。良策は、「この牛疱苗は未だ福井藩に伝えていないが、福井で種苗が切れた時の用意のために京都でひろめたものです。同様に大坂にも伝えることにした。今後、京都と同じ方法で、種痘をつづけるようにお願いする」と述べます。先ず、良策の手で、京都から連れてきた子供の腕からすくいとられた膿(うみ)が、大坂の子供の腕に植え付けられた。次に洪庵、葛民、良策の順序で合計8名の子供に接種します。これが端緒となり、大坂各地に広まります。

 

〖福井への途〗

(綿密な準備)

京都での種痘の成功、大坂の緒方洪庵への分苗を見届け後、いよいよ福井へ牛痘苗を運ぶことになります。良策は、種痘を施した子供の膿(うみ)を7日後に他の子供に植え付けるという種継ぎをしていくしか確実な方法がなく、京都で子供2名を雇入れて、種痘を施し、発痘を確認には3日間を要します。見定めた上、直ちに子供をつれて京都を出発し福井に向かう。その折には、福井から呼び寄せた子供2人も同行させる。種痘してから7日目、つまり京都を出て4日目に、京都の子供の腕から痘の液をとって、福井の子供2人に種痘する。福井の子供に痘がついて帰国できれば、この2人の子供から福井藩内へ種痘を広めることが可能であると、考えます。

 

(難    所)

良策は京都から福井までの旅程を1週間と策定し、京から2人、福井から2人の幼児を雇い。幼児の両親を含め、総勢14名で、1850年1月6日(嘉永2年11月19日)に京を出立します。すでに真冬の雪の季節となっていました。旅行ル-トは大津、米原、琵琶湖最北端の畔にある木之本の堺屋に宿をとった。そこで京童から福井童への種痘が行われた。役目を終えた京童とその家族はここで引き返した。

道は木之本から急な登りになって、柳ヶ瀬から難所の栃ノ木峠に至る。その距離は6里(24キロ)である。女、幼児を伴う一行にとって長い距離であった。そのうえ“雪の深さが6尺以上”(約2メ-トル)を雪中行を行う。土地の人はやめたほうが良いと執拗に言われたが、良策の強い決意は変わらなかった。遂に日没を迎え、遭難寸前のところまで追い込まれた。しかし、事前に連絡を受けて虎杖(現在の板取)の部落の人々は、良策の一行を心配して、迎えに来ていたため、“危ういところを救出”された。

国土地理院








栃ノ木峠
出典:「国土地理院 淡色地図

 
(藩内へ種痘)

虎杖で一夜を過ごし、翌朝村を発ち、その日に今庄へ着き、路上で計画通り府中(現在の武生→越前市)の斎藤策順、生駒耕雲、渡辺静庵の3人の医師の子供たちに種痘を施した。京を発って7日目、こうして良策の決死の雪中行は終わった。難渋の峠を越え、ようやく京都を出立してから7日目の同25日に無事福井城下に到着した。笠原良策の“決死の雪中行(せちゅうこう)”は終わった。遂に良策は種痘を行った。幼児を福井領内に持ち込むことができたのです!

良策は福井に帰った後、早朝から自宅の隣りの仮種痘所へ行くのを日課とします。種痘の接種の対象を先ず親戚から始めたものの、親が恐れて子供を渡さないという事態になった。雪が降る中、良策は必死に親を説得し、親をようやく納得させ、約束した日に家を訪ねると、子供を隠したり、一家で留守にするなどにあう。良策の苦悩は増すばかりでしたが、良策はただただ下向きに執拗に親を説得する日々が続いた。

笠原良策はその後、1853年(嘉永6年)までに6595人に種痘を施し、その中で天然痘に感染したのは三国港の小役人鷲田楢衛門の子供1人で、他は1人残らず感染から免れた。良策のもたらした種痘は、鯖江藩、大野藩、加賀藩金沢、富山藩、敦賀藩、勝山藩、丸岡藩、金津藩、三国などへ分苗され、多くの人命を救った。1851年(嘉永4年10月)、下江戸町に除痘館(100畳)が開設された。その後、除痘館は1855年1月(安政2年)、藩医学所講堂(済生館)の東側に除痘館の増築・併設された。

 

〖エピローグ〗

旧福井医科大学医学部医学科(1978~2003年)は、2003年に福井大学医学部に吸収合併された。両大学の同窓会組織を「白翁会」という。白翁は笠原良策の号である。2020年2月19日、雪の栃の木峠や世間のさげすみに耐え、医師のとしての信念を貫いた白翁の遺徳を偲ぶため福井大学の医学部産科婦人科の黒川哲司准教授(52歳)は2020年2月9日、学生達と福井市北西部大安禅にある笠原良策の墓参りをした。町医笠原良策の庶民への医療活動は今から171年前の出来事である。現在も医師の原点とされる。

現在と過去、数世紀の時間差があるけれども、人間と感染症の戦いは笠原良策の経験した当時とは変わらない。笠原良策は痘苗(ワクチン)の入手のため奔走し、入手後、良策は緒方洪庵へワクチンを分苗した。福井藩への途は、“難所栃ノ木峠”を越えなければならない。死の危機を乗り越えた。良策は言った、「たとえわれ死ぬとも死なましき人はし(死)なさぬ道をひらきせむ」(しなずに済む人を救う道を開く)。コロナに罹患し、最悪の状態に陥った患者をエグモ(ECMO/対外式膜型人工肺)で、救命する医師の姿勢は良策の姿勢と変わらない。笠原良策の偉業は現代の医療に貴重な教訓を残したと言える。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

 

(引用資料)

このブログの記述にあったては、「雪の花」、新潮文庫 よ・5・23 平成2年4月10日の中から引用させて頂きました。

「福井県史」通史編4 近世2

navi ふくい、(財)歴史のみえるまちづくり協会

『中高年に人気の歴史群像』

『笠原良策』 ウィキペディア

「日本史年表」、昭和59年6月20日、編者東京学芸大学・日本研究室、(株)東京堂出版

「ブルタニカ国際大百科事典、小項目事典の解説。

ふくい 笠原白翁(良策)、(財)歴史のみえるまちづくり協会

 

(参   照)

(1)中国と東アジアで発達した医薬に関する学問

(2)日野鼎哉は豊後(大分県)の人、1824年(文政7年)長崎に行き、シ-ボルトにオランダ医学を学んだ。後に京都で弟子の笠原良策とともに牛痘種の実現を図っていたが、1849年(嘉永2年)長崎のオランダ商館医モ-ニケが牛痘の接種に成功すると、日野はその痘苗(モ-ニケ苗)を入手し、京都で孫や懇意の人の子に接種して植え継ぐことに成功した。

(3)中根雪江(1807年08月04日<文化4年07年07月01日>~1877年10月03日<明治10年>)は、江戸時代末期の福井藩士、油利公正、橋本佐内らとともに改革派で、笠原良策などに援助を与え、天然痘予防の普及に関与した。

(4)松平春嶽、越前福井藩第16代藩主(1828年~1890年)<春嶽は号><諱(いみな慶永である。英邁な藩主、将軍・徳川家慶の従弟、幕末四賢候の一人。

(5)緒方洪庵は(1810年8月13日~1863年7月25日<文化7年7月14日~文久3年6月10日>)江戸時代後期の武士、医師、儒学者である。大坂に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖と言われる。