2020年8月23日


〖プロロ-グ〗

およそ60年前、著者が未だ20歳前後、7人家族の昼食で最も好きだったのはカレ-でした。若かったお袋は美空ひばりの“東京をキッド”を歌いながら水で溶かしたメリケン粉を大鍋のカレ-スプ-の中に入れ、増量していました。たんぱく源の豚肉は高いため、マグロのフレ-クを常用。簡単で、満足感いっぱいのカレ-ライスは、食べ盛りの5人の兄弟がちょっぴり幸福感を味うひと時でした。時より、“向こう三軒両隣”(隣組)からも心地よいカレ-の臭いが我が家に漂い始めると、家族の顔、顔に笑みがこぼれました。

家から15分歩くと、カレ-粉を製造する工場があり、その前を通ると、少しきつめのカレ-粉の臭いが漂ってきました(参照1)。家族の主役は「団塊の世代」、多くの日本人が戦後10年、ようやく復興の兆しが見え始め、高度成長の前夜だったのです。当時の「経済白書」(1956年・昭和31年)は-“もはや戦後ではない”(1955年のGNPが戦前の水準を超えたという意味です)が、そのまま流行語となりました。国民食となったカレ-ライスは、明治初年から今日まで150余年の歴史があります。以下、日本人の国民食となったカレ-ライスの歴史を紐解きます。

 

〖歴史を遡る〗

【幕  末】

1853年6月3日(嘉永6年)、米国東インド艦隊司令官ぺリ-が率いる軍艦4隻(うち蒸気船2隻)が浦賀に来航します。幕府は1859年(安政6年)、前年の神奈川、長崎、函館に次いで横浜を開港。1860年(万延元年)、福沢諭吉は、英語の辞書『増訂華英通語』を出版します。その中に『Curry コルリ』とあります。

1863年(文久3年)、幕府の文久遣欧使節一行(総勢38名、正使竹内保徳<下野守>、福沢諭吉など)は、船上で初めて、インド人が食べていた「カレ-」と出会います。開港を機に、友好国の商人たちが横浜に居を構え始め、使用人や出入りの日本人を通して、「カレ-」は、他の西洋料理とともに日本人に伝わったのです。

 

【明治時代】

<最初の人>

1871年(明治4年)、日本で最初の物理学者となる会津藩出身の山川健次郎(参照2)は斗南藩を再興した後、1871年(明治4年)、米国留学のため「ジャパン号」の船上で、ライスカレーを食べたいう記述が回想録にあります。カレ-ライスを選んだのは唯一米を使った料理であったからで、カレ-は残します-日本人として、初めてカレ-ライスを食べた人です。

その後、山川健次郎は1875年(明治8年)、イェ-ル大学(1701年創設)で博士号取得し、帰国します。やがて、東京帝国大学(東京大学の前身)の総長を2回登用(1901年6月<明治34年>・48歳/1913年5月・<大正2年>60歳)されます。少年の頃、会津藩の白虎隊の一員として“悲劇の人”が“主役の人”になったのです。健次郎の妹捨松は、後に大山巌(薩摩/元帥)の妻となり、旧友津田梅子と女子教育を支援したのです(参照2)。
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山川健次郎
出典:「Wikipedia


 

<料理書>

1872年(明治5年)、カレ-の作り方を紹介した料理書『西洋料理通』(仮名垣魯文)、『西洋料理指南』(敬学堂主人)が発刊されます。ぺリ-浦賀来航以来、日本の鎖国体制は事実上崩壊、横浜周辺に多くの欧米人が住居を構えます-次第に、「洋食」は、日本人に伝えられました。

 

<命  名>

1876年(明治9年)、クラ-ク博士(少年よ大志を抱け!)による全寮制の「札幌農学校」(北海道大学の前身)が開校し、1日おきにライスカレ-がでました。一説にはライスカレ-の命名はクラ-ク博士ともいわれますが、1873年(明治6年)、陸軍幼年生徒隊の食事にライスカレ-が登場していますから、クラ-ク博士ということではありません。

 

<婦人雑誌>

1893年(明治26年)、『婦人雑誌』に、“即席カレ-ライス”の作り方が紹介されます。この頃にライスカレ-に「即席」という発想があったのは驚きます。鰹節のだし、醤油などをカレ-ライスに使おうというアイデアも、日本人ならではと言えるでしょう。明治30年代になると、カレ-ライスはチャプヤ(外国人船員相手の店)の定番メニューがカレ-ライスでした。しだいに日本人も訪れるようになります。

 

<今村弥>

明治時代のカレ-粉の主力商品は英国のC&B社のものです。価格については不明ですが、相当の金額だったようです。1903年(明治36年)、国産品カレ-粉を作ったのは大阪の薬種問屋「今村弥」でした。スパイスは漢方薬など東洋医学の薬品として使われるものが多いので、カレ-粉の材料も揃っていたのです。因みに「ハウス食品」も薬種問屋です。「今村弥」のカレ-粉のキャッチフレ-ズは-(洋風どんぶりがうちでも作れまっせ!)、カレ-を洋風どんぶりと呼んでいました。

 

<食道楽>

1903年、村井弦斎(明治・大正時代のジャ-ナリスト)の料理小説『食道楽』が報知新聞に掲載されます。その後、単行本になり、ベストセラ-となった小説です。この中で印度風カレ-の作り方が紹介されます。この頃、日本郵船欧州航路の一等船室の食堂で、カレ-ライスに“福神漬”が添えられます。

因みに「酒悦」の福神漬けの誕生は1886年(明治19年)です。今でも、福神漬けの“ちょっぴり感”はカレ-との風味を和ませるものです。1910年(明治43年)、大阪・難波新地に、西洋料理店「自由軒」が開業します-1940年(昭和15年)、織田作之助が『夫婦善哉』で、同店が(混ぜカレ-または名物カレ-)を紹介して有名になります。

 

【大正時代】

<ハウス食品>

時代は維新の混乱と近代国家づくりに苦悩する明治時代は、明治大帝の崩御(1912年7月30日)により、終焉を迎えます。時代は大正デモクラシ-の時代に入り、活発な民間活力が豊かなアイディアを生み出します。1913年11月11日(大正2年)、日本を代表する有力メ-カ-の一つである「ハウス食品」の前身の薬種科学原料店「浦上商品」が大阪市松屋町筋に創業します。

創業者は徳島の士族浦上靖介(せいすけ)は10歳の時、当時すでに大阪で、薬種問屋店を営んでいた兄を頼って、単身大阪へ出ます。船場の薬種問屋で働き、商売の基礎を学んだのです。創業日は、現在も「ハウス食品」の創立記念日となっており、同社は本年で創業107年を迎えます。

 

【昭和時代】

<中村屋>

1927年(昭和2年)、パン、食品の製造販売メ-カ-中村屋は、レストランのカレ-でも著名です-「純印度式カレ-」のメニュ-が誕生したのが、1927年(昭和2年)でしす。当時、中村屋創業者相馬愛蔵・黒光夫妻は、イギリス政府から懸賞金をかけられていました。インド革命の志士ボ-ス(夫妻の長女と結婚)を匿ったためです。

中村屋のカレ-のレシピはこのボ-スによるものでした。日本に亡命したボ-スは、当時の日本のカレ-を見る度に、インドのカレ-とは違うと嘆き、本格的な美味しいインドカレ-を相馬夫妻に説きます。当時、町のカレ-屋さんが10~12銭だったのに対して、80銭と超高級!それでも大変な人気でした。

 

<名花堂>

カレ-パンは1927年(昭和2年)、東京下町のパン屋さん「名花堂」(現:カトレア洋菓子店/江東区森下1丁目)が実用新案登録して世に出たものです。当初は「洋食パン」の名でしたが、いつとはなしに“カレ-パン”と呼ばれるようになり、現在に至っています。そばにカレ-を合わせたカレ-南蛮のアイデアも秀逸ですが、パンの中にカレ-を入れるというアイディアも日本人以外は誰も思いつかなったようで、これも日本人のオリジナルです。1928年(昭和3年)、東京銀座「資生堂パ-ラ-」でも高級カレ-カレ-とご飯が別々に盛られ、各種薬味付きが登場し、大人気となります。
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カトレア洋菓子店
(旧:名花堂)
出典:「カレー細胞

 

<ルウカレ->

1961年(昭和36年)、「全日本カレ-工業協同組合」設立されます。この頃、日本の高度経済成長が始まります。1963年(昭和38年)、日本のカレ-産業の一角をなす「ハウス食品」が、マイルドな辛さで子供と一緒に食べられる「バ-モンドカレ-」(ルウカレ-)が発売されます。これまでの“大人独占のカレ-”から“家族全員”が食べれるカレ-へと変身します。“カレ-民主主義”の始まります。その反動とも思われる大人のカレ-「ジャワカレ-」(辛味)が1968年(昭和43年)に同社から発売されます。

 

〖カレ-と県民性〗

(ランキング

日本人の国民食となったカレ-、カレ-ルウの場合(年間支出金額)、全国の市町村でみると(2012年度)、1位は鳥取市1409円、2位熊本市1364円、3位鹿児島市1216円です-全国平均で1120円です。全国的に人気の程がうかがえます。次にカレ-ハウス(カレ-専門店)の登録件数を見ると、タウンぺ-ジデ-タべ-スに登録されている職業分類「カレ-ハウス」は、ここ10年、増減を繰り返しているものの、2004年(平成16年)の2737件から2013年(平成25年)2978件と、約8.09%の増加となっています。

 

(店舗数)

カレ-人気のカツカレ-やス-プカレ-はもちろん、全国各地にその地方の特色を生かした、ご当地カレ-のバリエ-ションや人気もどんどん広がっていったことが、うかがえます。10万人当たりの都道府県別の登録件数ではどうでしょうか-1位石川県(628件)、2位北海道(496件)、3位東京都(367件)です。石川県といえば、金沢市のご当地カレ-「金沢カレ-」が有名です。濃厚なルウ、ソ-スがかったカツ、付き合わせのキャベツが載っています。反面、登録件数が少ないのは、福島県(0.87件/47位)、新潟県(1.02件/46位)、茨城県(1.・09件45位)です。

 

〖海外展開〗

(CoCo壱番屋)

大手カレ-チェ-ンの「カレ-ハウスCoCo壱番屋」は、積極的に海外出店し、成功を収めています。「ジャパニ-ズカレ-」は、多くの可能性を求めてグローバル化を推進しています。同社が初めて海外に出店したのは1994年(平成6年)のハワイです。以降、本格的な海外展開が始まります。2004年に中国・上海に出店したのを皮切りに、アジア地域では9か所の国・地域に進出し、146店舗を展開しています(2017年8月現在)。

1店舗ごとにデザインを変え、現地のニ-ズにあった空間作りを心掛けて、日本の店舗とは異なる雰囲気を醸し出しています。運営会社は資本業務提携している「ハウス食品」との合弁法人がほとんです。2020年8月3日、カレ-の本場インド北部のグルグラムの複合施設サイバー・パプ内にインド1号店を開店しました。

 

〖中国の見方〗

最近の中国の報道によりますと、-たった150年の歴史を持つ日本カレ-がインドより人気のわけは?-を掲載します。その要旨は-①日本のカレ-の歴史は、わずか150年-その中で、日本は、カレ-の工業化製造ラインを急速に発展させ、今や世界第2位のカレ-消費国になり、毎年93億食分が消費されている。②日本で生産されたカレ-粉やカレ-ル-は世界の食品市場を席捲し、売り上げ世界-を達成しただけでなく、インドカレ-よりも人気がある。③北海道のス-プカレ-は、東南アジアが源流。真っ白い降り続ける雪と氷の大地でひとしきり遊んだ後、お腹がすき、冷えた体で炬燵に潜りこんで、熱々のス-プカレ-を食べるのは、この上もない幸せなひとときだ-と結んでいます。

 

〖海軍カレ-〗

(切っ掛け)

明治初期の頃、海軍の病死数で最大と原因となっていたのは脚気(かっけ)でした。海軍軍医高木兼寛は-長期洋上任務の艦内において“白米中心”の栄養バランスが偏った食事が原因と考え、英国海軍の兵食を参考にして糧食の改善を試みましたところ、脚気が激減した。その兵食の一つにカレ-シチュ-があり、ご飯と合うようにアレンジされたものが、カレ-ライスであったと言われています。

 

(罹患率)

スパイス(生薬)を多量に使うカレ-は、寒さ暑さへの適応力、新陳代謝の促進などの健康効果が期待でます。脚気の主因はビタミンB1不足で、玄米(米ぬか)に多く含まれています。1878年(明治11年)の記録に海軍の総兵力4528名中、脚気罹患者は1458名(32.79%)、死亡者は32名で、深刻な状態だったのです。また、現在も海上自衛隊では、“毎週金曜日”は、カレ-ライスを食べる習慣になっています。同じ曜日に同じメニュ-を食べることで、長い海上勤務中に曜日感覚をなくすための方策でした。

 

 

〖エピローグ〗

新型コロナウイルス、熱中症の猛威下、国民は巣籠(すごもり)の中で、日々暮らしています。外食もできず、自宅で、毎食変化に乏しいものになっています。このようの環境に刺激を与えるのは、カレ-ライスです。著者も時折、昼食にカレ-ライスを連れ合いに所望します。時代の変化や価値観の変化にもかからわず、カレ-ライスはいつも我々の“身近な存在”です。国民食としてのステイタスは今後も変わりません。

(グローバリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(引用資料)

・『ハウス食品』(株)~商品情報・「カレ-日本史」-今回、報告を書くにあたっては、多くの部分で、同社の報告を引用させて頂きました

・「アジアの注目企業100」~CoCo壱番屋の海外進出 日本のカレ-文化を世界へ

・JB PRESS 食の研究所

「北京週報」2020年8月11日

・星亮一著「山川健次郎」伝 ~白虎隊士から帝大総長へ~ (株)平凡社、2003年10月2日

・ウイキペディア

 

(参   照)

(1)昭和30年(1955年)当時、今のJR中央線東小金井駅近くに「テ-オ-カレ-工場」があり、その前を通ると、ちょっぴりきつめのカレ-の臭いが漂ってきました。当時、同社の小さな缶のカ-レ-粉をお袋が使用していました。

(2)山川健次郎(1854年9月<嘉永7年7月>~1931年6月<昭和6年>)、会津藩出身で白虎隊兵士として明治新政府軍と戦う。日本最初の物理学者、教育者、男爵です。東京帝国大学総長、九州帝国大学総長、京都帝国大学総長、私立明治専門学校総長(現:九州工業大学)などを歴任します。