2020年10月24日

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塩沢宿
出典:「にいがた観光ナビ

〖プロローグ〗

川端康成の小説『雪国』の出だしの文章は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった信号所に汽車が止まった」-ヒロイン駒子の住む越後湯沢温泉の近くの塩沢宿は、昔、三国街道と清水街道(参照1の二つの街道が交わる交通の要所(現;南魚沼市)でした-ここが、鈴木牧之の生誕の地です。

江戸後期の文人鈴木牧之(すずき ぼくし)の生家は、今は牧之通りとなっています。その一角にある「鈴木商店」です。本家は有名な造り酒屋「鶴齢」<かくれい>を醸造する「吉野家」。鈴木家は、この地域の豪商です。「鈴木商店」の主力商品は縮<ちじみ>(参照2)や薄荷(痛み止め/酔い醒まし薬)で、織物と並んで塩沢宿の名産です。

著者が鈴木牧之を知ったのは、古厩忠夫(ふるまや)著「裏日本」の中で、豪雪の凄まじさを最初に全国に紹介したのは、湯沢町の隣の町、塩沢の人、鈴木牧之の『北越雪譜』(天保6年=1835年)でした。雪崩や吹雪で落命した例がびっしりと紹介されています-「赤子を抱きしめて、助けながら、自分たちは凍死した若い夫婦の事など」、“雪の恐ろしさ”を紹介しています。以下、鈴木牧之著『北越雪譜』の一部の物語です。

 

〖来   歴〗

(俳号牧之)

鈴木牧之、1770年2月22日(明和7年)~1842年6月23日(天保13年)。江戸時代後期の商人、随筆家。幼名は弥太郎、通称儀三治、雅号は秋月庵、螺耳など。「牧之」は俳号です。越後国魚沼郡塩沢の豪商「鈴木屋」の子として生まれます。幼い頃から、俳諧や書画を楽しんだと事など、後の『北越雪譜』の上梓するうえで多きな力となります。

(江戸へ出立)

1789年(寛政元年)、19歳の時、縮(ちじみ)80反(参照3)を売るため江戸に上り、江戸の人々が“越後の雪の深さについて知らない”ことに衝撃を受けます。牧之は、雪をテ-マした随筆を執筆し、帰郷した後に執筆した作品1798年(寛政10年)、劇作者山東京伝に添削を依頼し、出版しようと試みたが、果たせなかったのです。

(京山が協力)

“雪国の人牧之”は諦めずに、曲亭馬琴や岡田玉山、鈴木芙蓉らを頼って出版を依頼するが、“それでも実現できなかった”のです。しかし、念願かなって山東京伝の弟、山東京山の協力を得て、1837年(天保8年)、『北越雪譜』初版3巻を刊行します。

1841年(天保12年)に4巻を上梓します。同書は雪の結晶、雪国の独特の習俗・行事・遊び・伝承や大雪災害の記事、雪国ならではの苦悩など、地方からの発信する“科学・民俗学上の貴重な資料”となったのです。

(商い上手)

著作は他に十返舎一九の勧めで書いた『秋山紀行』や『夜職草』(よなべくさ)などがある。画も巧みで、馬琴に『南総里見八犬伝』の挿絵の元絵を依頼されたり、牧之の山水画に良寛が賛を添えられたりしています。牧之は文筆業だけでなく、家業の縮の商いにも精を出し、一代で家庭の資産を3倍にしたという商売上手であったと言います。加えて、“貧民の救済”も実施し、小千谷の陣屋から褒章を受けています。

 

〖北越雪譜〗

初編の(巻之上)<越後塩沢 鈴木牧之編撰 江戸京山人百樹 冊定>-以下に紹介します。

○地気雪と成る弁

凡天(およそ)より形を成して下す(くだ)物-〇雨〇雪は地気(ちぎ)の粒珠する所、霜は地気は凝結する所、冷気の強弱によりて其形を異にするのみ。地気天に上騰形(のぼりかたち)を為(なし)て、雨〇雪〇霰(あられ)〇霙(みぞれ)〇雹(ひょう)となれども、温気(あたたかなるき)をうくれば水となる。

水は地の全体なれば元の地に皈(かへる)なり。地中深ければかならず温かい気あり、地温(ちあたゝかなる)なるを得て気を吐き(はき)、天に向て(むかひ)上騰(のぼる)事人の気息(いき)のごとく、昼夜片時も絶(たゆ)事なし。天も又気を吐きて地に下す。是天地の呼吸なり。人の呼(でるいき)と吸(ひくいき)とのごとし。

 

〇雪の形(かたち)

凡(およそ)物を視るに眼力の限りありて、其外(そのほか)を視るべからず。されば人の肉眼を以(もって)雪をみれば一片(ひとひら)の鵞毛(がまう)のごとくなれども、数十百片の雪花併合(よせあわせ=結晶)て一片鵞毛を為也(なす)。是も験眼鏡に照し視れば、天造の細工したる雪の形状妙々なる事下に図する如し。其形の斉(ひとし)からざるは、かの冷際に於て雪となる冷際の気運ひとしかざゆゑ、雪の形気に応じて同じからざる也。しかれども肉眼のおよばざる至微物(こまきもの)ゆゑ、昨日の雪も今日の雪も今日の雪も一望の白模糊(はくもこ)を為すのみ。

〇雪 意(ゆきもよひ)

我国の雪意は暖国はに均(ひとし)しからず。およそ9月の半ばより霜を置て寒気次第でに烈(はげし)く、9月の末に至(いたれ)ば殺風肌(さつはだ)を侵(をかし)て冬枯れの緒木葉を落とし、天色霎(ショウ)として日の光を看(み)ざる事連日是雪の意(もよほし)也。天気朦朧(もうろう)たる事数日にして遠近の高山に白を点じて雪を観(み)せしむ。これを里言に嶽廻(たけまはり)といふ。又海ある所は海鳴り、山ふかき処は山なる、遠雷の如し。これを里言に胴鳴(どうな)りといふ。これを見これを聞て、雪の遠からざるをしる。年の寒暖につれて時日(じじつ)はさだかなねど、だけまはり・どうなりは秋の彼岸前後にあり、毎年かくのごとし。

暖国の人の雪を賞翫(しょうくわん)するは前にいへるごとし。江戸には雪の降ざると年もあれば、初雪はことさらに美小賞し、雪見の船に歌妓を携え、雪の茶の湯に賓客を招き、青楼は雪を居続(いつづけ)、媒(なかだち)となし、酒亭は雪を来客嘉瑞(かずい)となす。雪の為に種々の道楽をなす事、枚挙(あげてかぞえ)がたし。

〇雪の推量(たかさ)

余が隣宿六日町の俳友天吉老人の話に、妻有庄にあそびし頃聞きしに、千隈川(ちくま)のほとりの雅人(が)、初雪より、天保5年をいふ12月25日までの間、雪の下る毎(ごとに)用意した所の雪を尺をもって量り(はかり)しに思いに、雪の高さを18丈ありしいへりとぞ。

此話(このはなし)雪国の人すら信じがたくおもへども、つらつら思量(おもいはかる)に、10月の初雪より12月25日までおよその日数80日の間に5尺づづの雪ならば、24丈にいたるべし。随(したがっ)て、下(ふれ)ば、随て掃(はら)ふ処は積んでで見る事なし。又地にあれば減もする也。かれをもって是を思えば、我国深山幽谷雪深事ははかりしるべからず。天保5年は我国近年の大雪なしゆゑ、右の話誣(はなしし)ふべからず。

 

〖北越雪崩初編〗巻之中<越後塩沢 鈴木牧之編撰 江戸京山人百樹 冊定>

雪頽人に災なだれ わざわひ)す

吾住魚沼郡の内にての為に非命の死をなしたる事、其村の人のはなしをこゝに記す。しかれども人名を不詳(つまびらか)にせず。こゝに何村というふ所に家内の上下十人あまりの農人あり、主は50歳ばかりの妻は40にたらず、世息(せがれ)は20あまり娘18は15也。いずれも孝子の聞ありけり。

1年(ひとせ)2月のはじめ主(あるじ)人は朝より用ある所へ出行しが、某日も己(すでに)申(さる)の頃のなれど皈(かえり)きたらず。そのみ間(ひま)をとるべき用にもあらざりければ、家内不審におもひ倅(せがれ)家僕(下男)つれて某家にいたり父が事をたづねしに、こゝへはきたらずといふ。しからばこゝならんかしこならんなど家僕とはかりて尋求め(たずねもとめ)

此事近隣に聞こえて人々の集まり種々に評議した居たるをりしも一老夫来りといふ。あるじの見え給はぬとや、我心あたりの事あるゆゑしらせ申さんと来れりといふ・・・中・・・。かくて夜を明ければ、村の者どもはさら也聞しほどの人々此家に群(あつまり)り、この上はとても手に手に木鋤を持家内の人々も後にしたがひかの老夫いひつりるなだれの処に至りけり。

さて、を見るにさのみにはあらぬすこしのなだなれば、道に20間余りの土手をなせり。よしやこゝに死たりともなだれの下をこゝぞとたづねんよすがもなければ、いかにやせんと人々佇みたるなかに、かの老人よしよし所為(しかた)こそあれとて、若き者どもつれて近き村にいたりて(にはとり)をかりあつめ、雪頽の上にはなち餌をあたえつゝおもふ処へあゆませけるに、一羽の雞たゝきして時ならぬ為晨(ときをつくり)けば余のにはとりもこゝにあつまり声を上げあはせり。

ここ水中の死骸もとむる術なるを雪に用ひしは応変の才也しと、のちのちまでも人々いひあへり。老人衆にむかひ。あるじはかならず此下にあるべし、いざ掘りほらんとて大勢の一度に立ちかゝりて雪頽を砕きなどして掘りけるほどに、大きな穴をなして6、7尺もほりいれしが目に見ゆるものものさらになし、猶(なほ)ほりあて、すはやとて猶ほり入れ死に片腕ちぎれて首なき死骸をほりだし、やがて腕(かひな)はいでたれども首はいでず。

こはいかにとて広く穴したるなかをあちこちほりもとめてやうやう(ようやく)首もいでたり、雪中にありしゆゑ面生るがごとく也。さいぜんよりこゝにありつる妻子らもこれを見るより妻は夫の首を抱へ子どもは死骸にとりすがり声をあげて(なけ)けり、人々もこのあはれさを見て袖をぬらさぬはなけり。

かくてもあられば妻は来る羽織に首をつゝみてかゝへ、世息は布子を脱ぎて父の死骸を腕をそへて、泪ながらにつゝみ脊負んとする時、さいぜん走りたる者ども戸板むしろなど担げる用意をなしきたり、妻がもちたる首ををもなきからにそえてかたげれば、人々前後につきそひひ、つま子らは哭々あとにつきて皈りけるぞ。此ものがたりは牧之が若かりし時その事にあづかりたるひ人のかたりしまゝをしるせり。これのみならずなだれに命をうしなひ人猶多かり、まただれに家をおしつぶせし事もありき。其恐さいはんかたなし。かの死骸の頭と腕の断離たるは、なだれにうたれて磨断れたる也。

 

〇縮の市(ちじみいち)

市場とてちゞの市あるは、まへにいる堀の内十日町の小千谷塩沢の4カ所也初市も里言にすだれあきといふ。雪がこひの簾(すだれ)の明をいふ也、4月のはじめに有。堀の内よりはじむ、次に小千谷、次に塩沢は、いづれも3日づ間を置きてあり。年によりて一定ならず。右4ヵ所が外には市場なし。

十日町には三都呉服屋の定宿ありて縮をこゝに買(かふ)。市日には遠近の村々より男女をいはず所持のちゞみに名所を記したる神簽をつけて市場に持ちより、その品を買人に見せて売買値段定まれば鑑札(きって)をわたし、その日市はてゝ金に換ふ。およそ半年あまり縮の事に辛苦したるのは此初市の為なれば、縮売りはさら也。こゝに群るもの人の濤をうたせ、足々を踏れ、肩々を磨(す)る。

万の品々もここに店をかまへ物を売る。遠く来りたるものは宿をもとむもあれば、家毎入つどひ、香具師(かうぐし)の看物薬売(みせもの)の弁舌、人の足をとゞめて、錐(きり)をたつべき所、あらぬやうなり。此初市の日を繁花の地の喿饒にもをささ劣らず。右にいふ四度の市をはりてのちも在々より毎日問屋へ来りてちゞみといひ17日より翌年の初市までを冬ちゞみといふ。縮の精疎(よしあし)の位を1番2番といふ・・・中略・・・さてちゞみの相場は大やうは穀物相場におなじうして事を前後する。年凶すれば穀は上がり縮は下る。年豊かななれば縮は上がり穀は下る。豊凶の万物に係る事比一を以て知るべし。されば万民豊年のをいのちざらめや。

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豪雪地帯(新潟県)
出展:「写真AC


〖エピローグ〗

「北越雪譜」は今から183年前に書かれた本です。本の特徴は、当時の越後国の塩沢と周辺地域の地誌である-人々の暮らしは、自然の営みの中で不断なく続けられています。豪雪地帯であるがゆえに、春が近くなると、根雪が少しづつ融けはじめ、自然は春の臭いが漂い始め、人々は営みはじめる。塩沢の縮みの営みは市が発ち、多くの人々が動きが活発化すればするほど地域経済を潤す。牧之は物書きであったが、経済人の眼で縮み市場の動きを見ています。

牧之は自然科学に強かった。験微鏡で雪の結晶を正確に見ています。「雪頽人に災ひ」では、雪頽で主を亡くした家族の悲しを正確に描写しており、遺体を丁寧に扱う姿は、悲しみが伝わってきます。また、雞(にはとり)の動きを逐一観察しており、非常に説得力のあるものとなっています。

塩沢は交通の要衝で、多くの文人墨客が牧之の家を訪れています。それらがきっかけで、牧之は江戸へ出る機会を得ます-「北越雪譜」を出版するために多くの文化人との交流を得ます。遂に山東京伝の実弟である山東京京山の協力得て、1837年(天保8年)に初版3巻を発行した。加えて、牧之は商いの才があった。一代で資産を3倍にしたという。牧之の最大の功労は、雪国生活の営みを全国に明らかにした事です。

  (グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(引用資料)

(1)『北越雪譜』、校訂者」岡田武松、岩波書店、2012年4月24日、第66刷発行

(2)「ウィキペディア」鈴木牧之

(3)「江戸ガイド」

 

(参  照)

(1)三国街道は中山道の高崎宿から分かれ北陸の寺泊までの35宿。第22番目の宿が塩沢であった。清水街道は清水峠越えの道は、古くから「直越」(すぐごえ)と呼ばれ、山道の区間は長いもの上野国から越後国とを結ぶ最短ル-とであっちゃ。遠回りながら標高の低い西側の三国峠とともに、古来よりよく利用されたてきた。この道は上野国水上から越後国清水(現:南魚沼市)までの距離に因んで「15里尾根」と呼ばれ、また、越後の大名・上杉謙信の軍勢が関東への行軍の際に使用したことから「謙信尾根」と呼ばれ、現在も新潟県側の登山道になお残している。しかし、江戸時代には三国峠越えの三国街道が整備されtことから、江戸幕府は湯桧曽にに口留番所を設置して通行を禁じ、江戸時代を通じた200年以上にわたって清水峠はほとんど利用されない期間が続いた。

(2)1反は:大人のようの和服1着分の用布を1反(3丈もの)というが、この1反に仕上げてある布の総称。着尺は幅約37センチ、長さ約12メ-トル50センチ位が標準。

(3)<>は:涼しげな盛夏用の着尺地で、絹、麻、木綿などの糸に強い撚り(より)をかけて着物にし、その後の加工により布の表面にシワのような「しぼ」を表した織物のことです。このシワのようなしぼを「くじら」と呼ばれることがあります。