2020年11月15日


白壁兵舎








白壁兵舎
出典SankeiBiz

〖プロローグ〗

著者の田舎は新潟県新発田市です。帰郷は-昭和20代後年~50年代、7~8回程度です。当時、上野駅から蒸気機関車や気動車(ディ-ゼルカ-)で約8時間かかりました。今では、上越新幹線で新潟駅経由で3時間余りで行けます。著者は後期高齢者となり、父母が青春を過ごした大正後半から昭和中頃の新発田町(現新発田市)、母の水原町(すいばら/現阿賀野市)を、本年7月、10月に訪問した。また、父方、母方のル-ツを調べるためでもありました。改めて、新潟の優しさ・素晴らしを感じました-その情景を背景に、本ブログで新潟各地を紹介致します。今回は新発田市にある「白壁兵舎」物語です。

 

〖藩政時代〗

新発田市の歴史は藩祖溝口秀勝(1548年<天文17年>~1610年<慶長15年>)は、加賀大聖寺から慶長3年4月(1598年)、家臣総数2100人、奉公人は1人残らず、召し連れて行くことを、秀吉から厳命を下されます。仮に妻と子を2人とすれば、“総勢8000人”を超える大移動でした。

加えて、現在の宝光寺の祖である大麟寺(宗廟)も移り、瑞雲寺、託明寺も一緒に従ってきたといいます。著者の父祖は、新発田藩士であったことからお墓は宝光寺にあります。新発田藩は藩祖溝口秀勝から12代溝口直正まで幕藩体制の中で273年続き、明治維新を迎えます。爾来、現在まで153年の時は流れました(参照1)。

 

〖軍都時代〗

(16連隊創設)

明治新政府は廃藩置県とともに、近代的な兵制の整備にのりだします。新発田は明治4年(1871年)に東京鎮台管下の分屯地となって以来、旧新発田城跡の広大な敷地に、歩兵第16連隊が創設(1884年6月<明治17年>)され、1885年(明治18年)に営前練兵場を、翌年町裏練兵場を造成し、しだいに軍都としての色彩を濃くしていきます-陸軍常備団隊の配備表(1896年<明治29年3月16日>)送乙963号によると、新発田は第2師団第15旅団第16連隊です。

社会運動家の大杉栄(1885年<明治18年>1月17日~1923年<大正12年>9月16日)は、父親が16連隊の将校であったため、幼少期から14歳まで新発田で過ごしました(参照2)。大正期の新発田の印象記について-「最近に、20年目で新発田へ行ってみた。その間には、もう10幾年か前に鉄道がかかって、そこに停車場もできている。ほとんど面目一新というほどに変わっているだろうと期待して行った。そうしてほとんどどこもかも、まるで20数年前そのままのに驚かされた。
・・・・中略・・・・新発田の町はやはり依然たる兵隊町だった。兵隊のお陰でようやく食っている町
だった。」(大正10年刊『自序伝』)と記している(参照2)。

新発田は、連隊の存在によって、経済的に潤った。例えば、入営の前日か遠方よりの入営兵と付添人で賑わった。新発田駅の降車人員は平日の約2倍の混雑ぶりとなった。駅前の竹内旅館が受け付き本部となった。玄関前にテントを張って応対したという。この混雑ぶりは、新発田町周辺の地域経済にも影響を及ぼしたと思われる。その後、世界恐慌の経済不況を機に、虚礼廃止や土産物全廃となった。

加えて、戦争の度に“軍隊は大移動”する。1930年(昭和5年)、連隊の満州移駐時は、当時の香川町長は町の先行きを懸念して対策を訴えた-御用商人、料理店、映画館などへの経済的影響は大きかった。明治時代は-日清戦争、日露戦争/昭和時代は-日中戦争、太平洋戦争を経て、日本は敗戦国となった。これにより、明治以来の殖産興業、富国強兵の縛りから解放されます。また、第16連隊も1884年(明治17年)6月の創設以来、61年の歴史に幕を閉じます。その間の戦病死の数は6459名と言われています。 


〖戦後時代〗

(自衛隊)

1946年(昭和21年)、敗戦により、兵舎や敷地は在日米軍の駐留地や新潟青年師範学校(現在の新潟大学)として利用されます。1953年(昭和28年)5月20日に新発田駐屯地が開設されます。保安隊第2連隊第3大隊が金沢駐屯地から移駐、分校は閉鎖されます。1954年6月30日、陸上自衛隊へ移管されます。1962年(昭和37年)1月18日、第12師団編成(群馬県北群馬郡)に伴い、第2普通科連隊第3大隊を母体として第30普通科連隊が編成完結(人員650名)されます。担当地域は中越地方・下越地方です。

第30普通科連隊の重要な役割は以下のとおり。

⒈「災害派遣」-△1997年(平成9年)1月、ナホトカ号重油流失事故、△2004年(平成16年)10-12月、新潟県中越地震、△2011年(平成23年)3月、東日本大震災に伴う災害派遣、主に福島県内で活動。△2017年(平成29年)3月、関山演習場にて米国海兵隊と共同訓練を実施、△2018年(平成30年)1月、佐渡市の凍害による水道断水に対する給水を活動を第12後方支援隊、第2普通科連隊他の陸上自衛隊の部隊および航空自衛隊の第46警戒隊と共に実施した。

⒉ 国際貢献-△2006「年(平成18年)5-7月、第10次イラク復興支援群(山中1佐が復興支援群長、その他多数の隊員が参加)。

 

〖白壁兵舎〗

(見学して)

白壁兵舎(正式名称は「白壁兵舎広報史料館」)は陸軍兵舎として、1874年(明治7年)建設された。国内に残る木造兵舎としては最も古いされる歴史的建造物です。外壁が白い漆喰で塗られたいたことから「白壁兵舎」と呼ばれるようになりました。明治初期の「城郭破却令」によって取り壊された新発田城の部材を再利用するなどして、建設された建物です。その荘厳感、重量感は、他に比肩するもはない-明治時代の人智・英知を見た思いです。

館内を見学をしました。多くの展示物の中で、歴史的な軍人を以下に紹介します。

⒈本間雅晴中将:フィリピン攻略戦を指揮(佐渡島出身/1887年11月27日(明治20年)-1946年4月3日(昭和21年)<58歳没/銃殺刑>)、本間中将の書を紹介します-「以和為光」(和を以て光と為す)。

⒉山本五十六元帥・海軍大将:連合艦隊司令官(長岡出身/1887年4月4日(明治17年)-1943年4月18日(昭和18年4月18日/ブ-ゲンビル島上空で戦死/56歳没)-「皇国興廃繋在此征戦粉骨砕身各員完其任」(皇国ノ興廃、繋リテ此ノ征戦ニ在リ、粉骨砕身各員其ノ任ヲ全ワセヨ)、当時の戦線を指揮した名将の格言です。

⒊今村 均大将(宮城県出身1886年6月28日(明治19年)-1968年10月6日(昭和43年/82歳没)-「天日無死花枝有序」(太陽は一律平等に慈光を照らして恵んでいる)、今村 均大将は「新発田中学」(甲府中学から転校)を首席で創業し、紆余曲折を経て、陸軍士官学校に入る。1915年12月11日(大正4年)、陸軍大学校27期を首席で卒業し、恩賜の軍刀を賜った(参照3)、同期生には本間雅本間雅晴(3番の成績)、東条英機は(11番の成績)。

新発田城









新発田城
出典「しばた観光ガイド


〖エピローグ〗

著者の父は昭和10年に新発田中学を卒業している。在校時代に剣道部の副主将をしていた。1933年(昭和8年)に全国中学剣道部大会(京都)で新潟県代表として参加し、準優勝している。それを祝って、同中学内で剣道部員66名部員と14名の幹部部員の写真が著者の自宅に残っていました。この意気軒高とした若者の多くはガダルカナル戦役などで戦死したという。

太平洋戦争の戦没者数は310万で、そのうちの“60%が餓死”であったという。改めて、戦争とは何か-著者は自問自答してしまった。「白壁兵舎」は創設以来、多くの同僚が生活を共にしていました。やがて、度重なる戦争で、多くの兵士が帰郷できなかったのです。「白壁兵舎」は、多くの英霊の思い出多き場所でもあります。令和時代に入り、「白壁兵舎」は平和の礎(いしずえ)としての役割を果たしているように思えます-その象徴が白の漆喰の壁です。一度、「白壁兵舎」を訪ねてみませんか!

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(引用資料など)

・『城下町新発田400年あゆみ』、編集新発田市教育委員会、発行新発田市長近寅彦、平成10年(1998年)6月1日発行。近世10頁。~城下町400年記念~

・シリーズ藩物語鈴木康著『新発田藩』、現代書館、2015年2月20日

・第2期『物語藩士』、第3巻、編者児玉幸多 北島正元、人物往来社、昭和41年6月25日 初版発行

・『地域のなかの軍隊(8)』-日本の軍隊を知る基礎知識編、2015年(平成27年)6月1日、第1刷発行、吉川弘文館

 

(参  照)

(1)当ブログ「越後新発田藩の参勤交代」、2019年10月10日。

(2)(大杉 栄(おおすぎ さかえ)-「1885年(明治18年)1月17日-1923年(大正12年)9月16日」は、思想家、作家、ジャ-ナリスト、社会運動家。愛媛県丸亀市出身。父の大杉 東(おおすぎ あずま)は近衛連隊から新潟県新発田市に赴任したので、14歳まで多くを新発田で過ごした。

(3)恩賜の軍刀を賜った-日本軍の軍学校(陸軍大学・海軍大学など)において、成績最優な卒業生に授与される軍刀類のこと。恩賜刀。ほかに上官が部下に贈る頒恩賜(わかつおんし)の品もあります。