2020年12月03日

Toshiakira_Kawaji
















川路聖謨
出典「Wikipedia


〖プロローグ〗

筆者は時々、上野不忍池界隈を散策する。近くには横山大観の旧居や岩崎邸などがあり、訪れる人も多い。近くには静寂な佇まいのお寺が点在する中に大正寺(日蓮宗-台東区池之2丁目)があり中に入ると、片隅に小さなお墓があった。墓碑の正面には「川路佐衛門尉源聖謨孺人(じゅじん)大越氏墓」とあり、幕末、幕閣の一人であった川路聖謨(かわじ としあきら)の墓である。

実は、川路聖謨に興味をもったのは、川田貞夫著『川路聖謨吉川弘文館、人物叢書を読んだことによる。また、吉村昭著『落日の宴』(勘定奉行川路聖謨)をみてから一層、川路聖謨の生き方に魅了された。この人物の傑出した外交交渉(対ロシア)などは見事である。以下、川路聖謨の幕末の混乱時代の中で、波乱万丈の生き方を記した。なお、本報告は2012年5月5日に当ブログに掲載されたもので、2020年12月03日に修正加筆したものである。

 

〖出   自〗

(日田生まれ)

川路聖謨は享和元年(1801年6月6日<享和元年4月25日>~1868年4月7日<慶応4年3月15日>)に豊後国日田(大分県)代官所宿舎にて内藤歳由の長男(幼名弥吉)として誕生した。幼名八十吉、のちに弥吉と改めた。1803年(享和3年)、父が日田の生活を捨て、江戸にでることになった。その理由は明らかでないが、1つは江戸で、今一度再起したかったこと、1つは子供の将来を考えてのことであったと言われる。

(江戸へ移る)

▹父は江戸に出て、下谷辺りの落ち着き先を確保したので、家族を江戸に呼び寄せた。1804年、弥吉(4歳)は母に連れられ、江戸に出て、父と同居した。間もなく、牛込中里町の元同心屋敷へ移る。父歳由が江戸城西丸(にしのまる)の御徒に召し抱えられ、下級武士であったが、念願の幕府に仕える夢はとりあえず成し遂げられた。これを機に中里町を離れ、牛込北御徒町の徒組(かちぐみ)屋敷に転居した。

(清貧な日々)

川田貞夫著『川路聖謨』によると、徒組屋敷での生活は日々清貧な生活が続いた。台所には壊れやすいという陶製の食器類がなかった。唯一あったのは、広島産の赤鍋が大小二つあるだけで、これで煮炊きした。毎日の食べ物は一汁一菜に近いものであった。体調の悪い時は、母が作ってくれた赤鍋の上に卵を落とすものだけであった。弥吉の大好物は鰻であったが、両親は、蒲焼屋の前を避けて通ったという。

▹父親がお酒を飲む姿を弥吉は見ることはなかったという。母親の姿は、寒くなっても紺縞(こんかすり)の着物にタスキをかけた母親の青白い顔色、また、寒中、手桶を下げて、裏の井戸をまで水を汲みに行き、両手に下げて戻ってくる“痛々しい姿”を終生忘れないと、聖謨は述懐している。この苦労は家族のためにしていること、1日も早く一廉(ひとかど)の武士になって母を楽にしてあげたいという、幼い心に焼き付いた。反面、父は、教育には異常の程、熱心であった。

(徹底した教育)

歳由の子供への教育は半端でなかった-「馬は乗り殺せ、子は責め殺せ」だったいう。“驚愕するほどの凄さ”である。弥吉は9歳ごろから、先ず、「四書」を学んだ。速読用の本が買えないため、父が筆写したものを教本にして練習した。しかし、思うように進まず、度々、父に叱責され、やっと、「四書」を読了したのが、11歳の時であった。

▹父から薫陶を受けたのち、1812年(文化9年)の正月、碩学佐藤一斎に次ぐ儒者友野霞舟に入門したことである。弥吉は次第に学ぶことが楽しくなり、師との絆が強くなり、1849年(嘉永2年)の霞舟が亡くなるまで続いた。“父の眼力”が、弥吉を成長させたのである。昔を振り返り、父の教えに心底感謝していると述懐している。父は江戸へ出たのも、清貧生活を強いたのも、お金を貯め弥吉の教育のために施したと言える。

 

〖転   機〗

 (養  子)

歳由は常々自分の将来に見切りをつけ、相当の幕臣へ弥吉を養子に出すことを思案していた。丁度、四谷に川路光房という人物がいた。通称三左衛門といい、幕府の小普請組に属する御家人であった。以前から知り合いなので親交があった。光房には男子がいなかったので、歳由には二人の男の子がいたので、是非、弥吉を養子に迎えたいと思っていた。歳由は断ることが出来ず、弥吉を養子に出すことに決めた。川路家に入籍した弥吉であったが、しばらく、内藤家で従来通りの生活をしていた。

(名前の由来)

▹筆者は「聖謨」という名前は、最初、何と読むか戸惑った。その由来は-霞塾で漢詩を作っている時、弥吉は歳福と自署するのを見て、「万歳めきたる名」だから、あとで改めてあげようと約束した。ある日、霞舟から『書経』の講釈を聞いていたら、同書商書の伊訓の一節に「聖謨嘉言(かげん)は孔だ(はなは)だ彰(あきら)かなり」とあるのに、出会(でくわ)し、これによって「聖謨」と名付けてくれたという。但し、聖謨を「としあきら」と訓むようになったのは、幕府に出仕した後である。

(就職活動)

▹1813年(文化10年)、正月が終わり、弥吉は元服の式を挙げた。同年3月家督を相続した。川路家は小普請組であったので、無役であった。父は歳由が生まれた時から、“これば人にする、御目見以上にする”と言っていった。そのために、日田から江戸にきたのである。聖謨は、「登城前」に、上役の小普請組支配の自宅へ「逢(相)対日」(面接日)に押しかけている。しかし、以前から、聖謨は勘定所を出仕すること望んでいたので、勘定奉行、勘定吟味役の屋敷を欠かさず参上した。今で言う“就職活動”である!

このような聖謨の行動はみていた実父の歳由は朝夕神仏に祈り、1日1回は塩断ち、禁酒を励行していた。実母は、神仏への祈願はもとより、日中縁側に出て一心に経文を独唱したという。養父の光房も好きな酒を断ち、3年の禁酒を誓っていた。実母にいたっては水垢離(みずごり)を取っていたという。頭から冷水を浴びたという。そのザザッ、ザザッという水音を聞くと、思わず身が引き締まる心地であった、聖謨は述べている。後に希望の勘定所の登用試験に挑戦し、運よく合格した。

 

〖幕閣として〗

(順調な出世)

▹その後、聖謨は関係部署に根回して、運よく1818年(文政元年)3月、支配勘定出役採用された。これを機に聖謨は順調に幕閣への道を歩み始める。その経緯を追うと、江戸幕府勘定組頭格寺社奉行吟味物調役→勘定吟味役→佐渡奉行→小普請奉行→普請奉行→奈良奉行→大坂東町奉行→勘定奉行西丸留守居→外国奉行。その間の将軍は、徳川家斉→家慶→家定家茂である。

(有能な官吏)

▹勘定奉行、外国奉行などの要職を歴任した川路聖謨は、幕末きっての有能な官吏だけでなく、誠実で情愛深く、ユーモアに富んでいた。勘定奉行という要職にありながら衣食住ともに粗末で、家族にも贅沢を決して許さなかった。和歌にも造詣が深く、歌集『島根乃言能葉』などを遺している。

▹反面、勝海舟は、「川路は取り立てものだから、どうも人が悪くてね、こすくてね」と言っていた(岩本善治編『改訂 海舟座談』岩波文庫、1983年)。これは、勝海舟の方が狭量であると、山内昌之氏(東大教授)は述べている。さらに、海舟の実父小吉はもともと安永年間に御家人株を買った男谷家の出身であり、“取り立てもの”典型である。

 

〖外交交渉〗

▹1852年(嘉永5年)公事勘定奉行に就任し、1853年(嘉永6年)、阿部正弘に海岸防禦(ぎょ)御用掛に任ぜられ、黒船来航に際し、開国を唱えた。また、同年、長崎に来航したエフィム・プチャ-チンとの交渉を大目付格・槍奉行筒井改憲、勘定吟味役・村垣範正、下田奉行・井沢正義、儒者・古垣謹一郎と共に担当し、1854年(安政元年)、下田で日露和親条約に調印した。その際、ロシアは川路の人柄に大変見せられたという。肖像画を書こう(写真をとろう)とするが、それを聞いていた川路は、ロシア人に「私のような醜男を日本人の顔の代表として思われては困る」とウイットに富んだ発言をし、彼らを笑わせている。

ロシア使節プチャ-チンに随行している秘書官の作家イワン・ゴンチャロフは、川路について、『日本渡航記』の中で-「川路は非常に聡明であった。彼は私たち自身を反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃(ひらめ)かせたものの、なお、この人を尊敬しないわけにはいかなかったと評価していた。②彼の一言一句、それに物腰までが、「すべて“良識”と、“機知”と、“炯眼”(けいがん)と、練達を顕していた」と、書きとめている。▹川路もプチャ-チンに対し、ひそかに敬意と親愛の情を抱き日記に、「この人(プチャ-チンは)、第一の人にて、眼ざしただならず。よほどの者也」。巧みな弁活と論理はユ-モアをからませた川路の外交交渉は、プチャ-チンも驚愕させた。彼は帰国後に、川路こそ「ヨ-ロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物」だと称賛している。

この二人について-吉村昭氏は、「プチャ-チンにとって、川路は外交交渉の敵であったが、川路の聡明さと外交官としての鋭い感性に感嘆し、類(たぐい)まれな人物」と激賞している。川路とプチャ-チンとの間には敬意と親愛の念が感じられ、まことに快いと述べている。

 

〖落日の宴〗

(外交官)

山内昌之氏(東大教授-現明治大学特任教授)は、理想の外交官、川路聖謨-吉村昭『落日の宴』によせて-川路聖謨の姿は欧米での外交史論に登場する「理想の外交官」もしくは「外交官の理想像」の基準に照らしても少しでも遜色がない。それどころか、川路が示した外交談判の冴えは、良き交渉の基礎が道徳的な力にあるという古典的な教えを証明してあまりあるといえようと。

目を現在に転じると、世界情勢は中国の台頭、米国は欧州、中東からアジア志向に変わり、日本を取り巻く国際情勢は非常に厳しい情勢下にある。この激動する動きの中で-日本の政治家の“国際情勢への認識の甘さ”、“政治家の力量不足”、“政治の国内志向”などの諸因などにより停滞を余儀なくされている。川路の時代は欧米列強の中でグロ-バル化が忍び寄り、厳しい時代であったが、吉村昭は若い優秀な人材で難局を乗り切ったと分析しており、衆目の一致するところである。しかし、現在の人材不足は深刻な事態のように思えてならない、川路の時代と比べて・・・・。

(自   裁)

井伊大老に罷免された川路は、再び外国奉行に復職するものの中風によって半身不随になり伏してしまう。討幕軍は江戸市中に入り、幕府瓦解が近いとみた川路は古式にのっとって腹部に横真一文字に腹を切り、切腹しようとしたが、半身不随の身では死に至らぬと判断した川路は、前から用意していたピストルで喉を打ち抜き絶命している(1868年3月15日)

▹忌日は新政府軍による総攻撃の予定日であったが、勝海舟と西郷隆盛は会談の結果、無血開城を決めていたことも知らず病躯が戦いの足手まといになることを恐れて自決したとも言われる。柩は近親者の引く大八車で池之端七軒町の大正寺に運ばれ、埋葬された。騒然とした世情であったので、会葬者は近親者以外に数人であったという。

(相通じる)

▹その後、多くの作品をのこした作家吉村昭氏は長い間、ガンと闘って入退院を繰り返してきたが、退院後、自宅で療養中に、看病していた長女に「死ぬよ」と告げ、自ら点滴の管を抜き、次いで首に埋め込まれていたカテ-テルポ-トも引き抜き、数時間後に絶命している。作家吉村昭らしい毅然とした最期(2006年7月31日/79歳)で-死期が近いと自尽した川路聖謨と相通じるものがあり、男らしい壮絶な死であった。

1920px-Taisho-ji_(Taito)









大正寺 (台東区)
出典「Wikipedia

 

〖エピローグ〗

川路は幕末に、軽輩の身から勘定奉行の筆頭まで登りつめたことでもあきらかのように、“頭脳、判断力、人格ともに卓越した幕吏”であった。このような異例の栄進は、一歩あやまれば日本が諸外国の植民地になりかねない激動期に、幕閣が人材登用を第一として、家柄、序列その他をほとんど無視したからである。

川路をはじめとした有能な幕吏を積極的に抜擢し、その期待にかれらは十分にこたえた。開国以後の欧米列強との至難な外交交渉、国内の目まぐるしい混乱を経て日本を明治維新にすべりこませることができたのは、これらの優れた幕吏の尽力に負う所が大きかったと言える。

▹吉村氏は、「川路は外交官としても第一戦に立ち、ロシア使節プチャ-チンとの間で「日露和親条約」を締結する。談判の記録を読むと、かれがプチャ-チンに少しでも臆することなく堂々とした議論を展開した。それらは、彼らが“外国事情に精通”していたからで、駆け引きもまことに巧妙であり、その根底にはゆるぎない誠実さがあった」と述べている。

グロ-バリゼ-ション研究所所長 五十嵐正樹

 

(引用資料)

川田貞夫著『川路聖謨』、吉川弘文館、平成9年(1997年)10月10日

・吉村 昭著『落日の宴』、講談社、1996年4月10日、第1刷発行

・山内昌之著『幕末維新の学ぶ現在』、中央公論社、2011年4月25日

・「産経新聞」2011年2月10日