2021年1月8日


 

〖プロローグ〗

新潟の文化は多彩です。全て歴史が作りだした所産です。その背景として、お米が経済力の主役でした。報告者が生まれ育った東京郊外(武蔵野市)の農家の多くは明治期に養蚕業で生計を立てていました。一部の農家は野川水域で、水稲栽培(国分寺崖線)を行っていました。天領であった武蔵野台地は8代将軍徳川吉宗の享保の改革の一環として、大規模な新田開発を行いました。新天地を求めて、人々が江戸市中から移ってきたのです。幕末には著名な伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門が統治していました。

新発田市の歴史は、初代溝口秀勝公(1598年<慶長3年>外様大名)から12代直正(1871年<明治4年>)まで273年の治世が続きました。その間、溝口家は一回も転封せずに済みました。新発田藩は幕末(1860年12月<万延元年>)に外国からの海防警備の為に5万石から10万石に加増されます。溝口氏の歴史を紐解くと、豊臣秀吉の命令で加賀大聖寺から1598年に新発田に入封。同年、秀吉は亡くなります。

 

〖五十公野〗

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藤倉メンチカツ店

出典:「城下町新発田の食生活

(メンチカツ店)

新発田駅から市島酒造、諏訪神社、県立新発田高校、新発田総合庁舎の前を通り、暫くすると豊町に入る。名前が良い。直進すると左側に赤い看板が目に入ってくる。「いじみの肉やふじくら-メンチカツの店-」、車で庭に入ると、母屋の一角に店があり、中に高齢者の方が2人、若い女の方が1人で店を切り盛りしている。母屋の前は広い庭があるので、車でお客さんはしっ切りなしに買いに来る。

社長の藤倉久雄さんは当年89歳、聞くところによると、75歳で店を始めたという。1日にほぼ300個(1個90円)のメンチカツが売れるという。付近は静かな住宅地、コンビニや店も見当たらない。メンチカツ店には近郷近在から車で1度に大量に買っていくという。著者も一度に3個食べてみた“旨い”。店はこれまでにTVのインタビュを受けたという。この静かな地、摩訶不思議な商い!


(静寂の地)

著者に住んでいる地(武蔵野市)、ほぼ半世紀前、お袋の友人の方が五十公野出身であった。時々、自宅でお茶をみながら若い時の五十公野の思い出を、笑みを浮かべながら話をしていたことを思い出す。著者は2020年7月に初めて五十公野を訪れた。新発田駅からの道が突き当り(T字交差点)、右には浄念寺(真言宗大谷派)がある。右折すると、暫くして、右側にJA五十公野支店の前を左折すると前に鬱蒼(うっそう)した森が見える。駐車場に車を止め、下車すると、まったく世間の雑音とは縁がない。この地は新発田駅からバスで“10分程の距離”である。



〖五十公野御茶屋〗

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五十公野御茶屋

出典:「しばた観光ガイド

(入封時、住まい)

森に沿って歩き、右に入ると、「五十公野御茶屋」の土間(勝手口)を上がると、質素な部屋がある。係員が雨戸を開けると眼前には大きな庭見える、なんの音がない。唯々(ただただ)時を忘れ、己を忘れる時間が続く。「五十公野御茶屋」の由来は、新発田藩初代藩主溝口秀勝(1548年<天文17年>~1610年<慶長15年>)が新発田入封の際、到着地であった五十公野の地に仮住まい「五十公野御茶屋」を構えて、築城と領内経営の構想を練ったのです。

別邸から茶寮)

以後、3代藩主信直(1605年<慶長10年>~1678年<延宝4年>)が、この地に別邸を構え、4代藩主重勝(1632年<寛永9年>~1708年<宝永5年>)の時に幕府の茶道方で遠州流の茶人縣宗知(あがたそうち)を招いて庭を造り、別邸を茶寮とした。

歴代藩主が江戸への参勤交代(10泊11日/白川ル-ト)の際、御城からは「五十公野御茶屋」まで、権威を示すため大名行列をおこなった。早々に「五十公野御茶屋」にて旅支度に着替え、最初の旅程は津川まで峠越えした。随員は藩の規模から200人前後で、江戸に向かった。普段は重臣にも開放し、茶会を催したという。

(座敷は開放的)

御茶屋は洗練された数寄屋造りの建物で、全般に木柄が細かく簡素繊細な作りです。夏座敷2部屋は思い切って、解放的に造られ、庭園を十分に鑑賞できるように作られた。庭園内の樹木は諸国の名所の種苗を取り寄せて植えたものといわれ、“心”の字をかたどったいわれる池を配し、中には美しい赤松を植えた島を浮かべ、周りに築山をめぐらした池泉廻遊式庭園です-「日本の歴史公園100選」に選ばれています。

幕府の茶道方の縣宗知の指南の下に造られながら、それぞれ異なった趣の庭園が良好に保存されている越後を代表する大名庭園として評価を受け、2003年8月27日(平成15年)、「五十公野御茶屋」と「旧新発田藩下屋敷」庭園(清水園)が「国指定名勝」になった。


(清水園)  

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清水園
出典:「新発田市


新発田藩10万石下屋敷「清水園」(新発田市大栄町)は、近江八景をとり入れた京風の庭の中央に、草書体の「水」をかたどった大池泉のある回遊式庭園は、池の周囲に江戸期に江戸期建築の簡素な数敷屋造りの書院と五つの異なる趣の茶室が配されています。京の桂離宮の技術と苔寺(西芳寺)の要素がとり入れた名園です。水路沿いの苔庭、池に設えた石組や小滝や石橋、書院から見た額縁庭園など、多くの見所があります。


〖旧県知事公舎記念館〗

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旧県知事公舎記念館
出典:「新発田市」 

(質実剛健な造り)

「五十公野御茶屋」の隣接している洋館「旧県知事公舎記念館」は実に見ごたえのある建物である。同館は1909年12月(明治42年)、新潟市営所通に新潟県知事公舎として完成したものです。以後、12代清棲家教(きよすみいえのり)知事から52代君健男知事までおよそ80年間歴代知事が起居し、県政の重要事項が決定された。

公舎の特徴は明治建築ならではの和洋混合であり、私邸の和風建築に対し、公邸は屋根の一部に三角屋根を採用し、外壁にはドイツの下見張を用いるなど、洋風建築となっています。現存する知事公舎しては国内最古のものです。五十公野へ移築した経緯ですが、1909年(明治42年)に新潟市営所通に建てられた知事公舎の老朽化に伴い、1988年(昭和63年)に新発田市が移築・復元し、記念館として公開しています。築後100年を超えています。

(知事の横顔)

昭和65年5月から取り壊しの上、新築することになった。新発田市では公邸全部と私邸の一部を譲り受け「奉先堂公園」の隣接地に移築復元します。旧県知事公舎の主(あるじ)は戦前までは中央政府が派遣した官選知事(内務官僚など)が任にあった。著者が若い時の上司が内務官僚の人達です。その多くの方は、官選知事を経験しています-日本の最高学府を卒業しており、大変なプライドを持っていました。

同公舎の12代清棲家教(きよすみいえのり)知事の出自を見ますと、1862年6月19日(<文久2年5月22日>~1923年7月13日<大正12年>)、伏見宮家親王の第15王子として江戸で生まれています。貴族議員伯爵議員、新潟、和歌山、茨木、山梨の各県知事を努めています。

君建男(第49代~第52代)、官立新潟医科大学(現新潟大学医学部卒業)し、応召。1947年に新潟県庁入庁し、1962年新潟県総務部長になります。1974年5月1日、第49代から第52代の新潟県知事として、同知事公舎に起居します。なお、1947年10月(昭和22年)、昭和天皇の甲信越巡幸の際に宿泊した応接間(公邸には応接室と執務室がります)も公開されています。

同知事公舎記念館内参観しましたが、中でも長い縁側から見た景色は素晴らしく、その敷地は「五十公野御茶屋」の一角になっており、特に秋の紅葉の季節は素晴らしい景色を参加者に提供してくれる。当時の建設費は不明ですが、相当のお金を使用し、造られたものと推測されます。

有効利用として各部屋を借りることが可能です。その方法として、事前申し込み(5日前)が可能である。因みに料金を見ると、和室(ニ間)は1630円(午前9時~午後3時)、洋室(約24畳)、1630円(午前9時~午後3時)で借りられる。食事は持ち込みが可能で、新発田市内の業者からも配達可能である。因みに2021年1月5日、10時20分に同記念館に電話をして、降雪の具合を聞いてみると、除雪が昨年と比べて大変です。とのコメントを頂いた。


〖エピローグ〗

著者の住む武蔵野市には歴史的建造物は皆無です。新発田市には、多くの歴史的建造物が点在しており、新発田の歴史を垣間見ることが出来ます。既述のように、「五十公野御茶屋」は新発田市の歴史を物語るものです。また「旧知事公舎記念館」は、明治維新後の市民を統治するヘッドクォーターとして、新潟県の歴史を考察する際、非常に参考になるものです。なお、この公舎を移築・復元をした新発田市の英断に敬意を表します。

新発田市周辺には歴史的所産が厳然としてある。当時の経済的力を見る思いです。代表的な豪邸として、①市島邸宅(新発田市天王)、②「五十嵐邸ガーデン」(阿賀野市金屋)、③「椿寿荘」(新潟県南蒲原郡田上町)、④「中野邸記念館」(新潟市秋葉区<石油王>)、⑤「旧斎藤家別邸」(新潟市中央区)、⑥「渡辺邸」(岩船郡関川村)⑦「北方文化博物館」(新潟市江南区沢海)-などが代表的な建造物で、人間の知力の反映です。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(引用資料)

・鈴木 康著『新発田藩』シリーズ藩物語、現代書館、2015年2月10日 

・城下町400年記念、『城下町新発田400年のあゆみ』、平成10年(1998年)6月1日

・にいがた庭園街道。

・新発田市観光協会(しばた観光ガイド)

・「越後新発田藩の参勤交代」、グロ-バリゼ-ション研究所、ブログ、2019年10月10日

・「旧県知事公舎記念館」資料

 

(参  照)

・「新潟」の地名の由来は、近世の町名に基づいた区名によるもので、信濃川と阿賀野川の河口の中州に新しく形成された潟湖から、「新しい潟」の意味で「新潟」となったものです。