2021年2月16日

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三鷹市野崎に立つ
鷹場区域の標石
出典:「風のタイムトリップ


〖プロロ-グ〗

(鷹   場)

報告者は、昨年9月から「武蔵野市古文書解読講座」の講義を受けている。教材は主に村方史料を使用し、関前村(武州多摩郡野方領・江戸日本橋迄道法(みちり)6里/現:武蔵野市関前)の農家(小前)の日常生活を学んでいる。講義が進むにつれ同村の実態が次第に分かってきた。お拳場(将軍の鷹場)に属し、鷹場の中に関前村があった。

鷹場の所属について、勘定所(参照1)より武蔵野新田が残らず尾州鷹場になったが、関前新田と境新田は入らなかったのはどういう訳かとの問い合わせがあった。その理由として尾州鷹場の新田村寄(よせ)の際に関前新田と境新田が抜け落ちてしまったと返事。そこで、両新田については本村と新田と共に御拳場にして下さるように願いを提出した。同所から二つの村は引渡帳に記載しておらず、特別にお拳場に入れたという返答があったという(注1)。

 

〖新田開発〗

近世初頭の新田開発について、大石慎三郎氏が「近世初頭100年ほどは、わが国の総耕地面積が室町中期のそれの約3倍になるという急成長をとげ、我が国の歴史でも珍しい耕地の大量増出の時代であった」と分析している(注2)。その代表的な新田開発は武蔵野新田である。享保の改革の一環として、武蔵野台地を中心に開発された享保期新田の総称で、享保期以前設定された新田はこれには含まれないという。生産高は1万2600石。

武蔵野新田は武蔵国・多摩郡・入間郡・新座郡・高麗郡19村で、水田は極めて少なく、陸田が多かった。新田の出百姓(参照2)の総戸数は元文4年(1739年)当時、約1300であったいう。関東ロ-ム層(赤土)に覆われた武蔵野台地は土地が痩せていたため、百姓たちの生活は困窮を極め、離散する者も多かったという。

関前新田も同様の状態で、開発当初、水の確保が出来ないことから、一時行き詰まったものの玉川上水からの分水許可を得てからは分水路の開削を行ったことで、百姓が住みついたという。以後、第8代将軍徳川吉宗の享保改革の柱となった新田開発で江戸からの移住者が増えた。

 

〖関前村経済〗

関前村・同新田の200年前の「明細帳」(文政4年巳年9月<1821年>/現:市政要覧)をみると、以下の通り。なお、同村は寛文12年(1672年)に野村彦大夫(代官)が検地をしている(注3)。

明細帳

・238石48升9合 反別65町4反5畝15歩(高40石6斗1升2合)

・家数36軒、人別181人 男100人、女81人

・馬8疋

・寺1か所八幡山延命寺

・甲州街道上下高井戸助郷

・農業の間、男女出稼ぎ、男は江戸表にて肥取り、女は薪木取り

・当村は野土(農地)による困窮村

・御水帳1冊名主忠左衛門が所持

・山・川・沼なし

・用水はない、飲料水は井戸

・お拳場である

・市場なし

・古城各所、旧跡なし

 

〖鷹場の中で〗

(鷹場法制)

関前村の181人の人々の家は鷹場の中にあった。このことは鷹場(お拳場)のスケジュ-ルにより、農民の日常生活(農作業など)は終始制約されていた。関前村の纏め役は名主忠左衛門である。鷹場村落が一村単位で毎年提出されたのは「鷹場法度証文」または「鷹場法度手形」である。その規定は鷹場村々が守らなければならない基本法令である。一方、鷹場役人がこの法度を基礎として鷹場の村々を監視した。

「鷹場法度手形」は何時頃から提出するようになったのか。専門家の分析によれば、早期の事例としては、万治3年(1660年)9月6日、下総国相馬郡布施村が幕府鳥見に提出した「水戸中納言様御鷹場御法度相之事」(『柏市史』資料編五)が知られる(注4)。

(諸規制)

鷹場法制は享保期以降、お拳場村々に触れられた定型化された「鷹法度手形」はほぼ同文である。その内容は、鷹場の鳥追い・殺生人の監視、無許可の鷹遣いの監視、鷹場内の道路や橋の普請、寺社・屋敷の新築の禁止、余所者(よそもの)の排除などである。その取り締まりを農民に義務づけた。異変があった時は、鳥見役に注進することを命じられた(注5)。

生活の支障)

加えて、鷹場の指定にともなう諸規制は村落生活に多大な影響を及ぼした。火災の変事の際の連絡と駆け付けの義務、魚鳥殺生人・犬捨て人・鳥商売人、鳥・小動物の飼育禁止、新家作禁止、増築の届け出、稲刈り後の田への水張・起こし・起こし返しの禁止などである。

以上の村落生活や農耕・商売への影響は計り知れないものがあった。加えてこれが農業生産にも直接かかわる時、状況はより深刻となった。鷹場内農民は春の農耕を自分の意思で開始することは許されなかった。通常、鷹場は9月から翌年の3月まで繰り広げられた。その間、鷹狩や冬鳥飼育は御用の終わりを告げるまで農耕は禁止されていた。このように鷹狩や諸鳥の居つきを優先させたものである。この規制を破って処罰された者は数多くいた。

 

〖野    鳥〗

(多  種)

鷹場の厳しい規制は自然保護に役だったといえる。関前村には多くの鳥が飛来していた。鳥名を挙げてみよう。菱喰(ひしくい)、雁(がん)、鴨、鷺の類の水礼(けり)、鷮(きょう)、大鷹、雀、雲雀(ヒバリ)など、その他数多くの鳥が見られた(注6)。報告者の自宅付近の麦畑には多くの雲雀のさえずりを聴いたのは、今から半世紀前である。

雲雀








雲雀
出典:「写真AC

現在、雲雀のさえずりはまったく聴かれなくなった。その背景には、雲雀の住みかであった草地(麦畑など)面積が昭和35年(1960年)から約20年間で3分の一になったためである。現在、雲雀は東京都版レッドリストで絶滅機種Ⅱ類に指定されており、人間の住環境の悪化が進んでいる。

(飛来地から)

鳥類で最近、話題になったのは日本海側に飛来するトモエガモが太平洋側の八王子の長池公園に見られた。本年は新潟や秋田は豪雪で田圃の小魚が取れなくなり、餌が少なくなったためであると言われている(注7)。

阿賀野市瓢湖(ひょうこ)管理事務所の関係者によると、毎年、6000万羽の白鳥がシベリアから飛来するが、2月5日現在、1663羽を確認した。田圃に多くの積雪があり餌が見つからないことから、白鳥は餌のある所に飛び立ったという。飛来先は約350km離れた埼玉県都幾川流域(ときかわ/荒川支流)である。毎年80羽ほどが渡ってくるという(注8)。

 白鳥







瓢湖の白鳥
出典:「写真AC


〖エピローグ〗

関前村の将軍の鷹場(お拳場)は、武士の権力の象徴だったとも言える。そのために農民の生活は艱難辛苦の連続だったと言える。農民の救い難い環境は武士の拳(こぶし)のなかにあったと言える。但し、鷹場は鳥の宝庫で自然の環境保持に大きな成果があったと言える。関前村の名主は忠左衛門である。名主の仕事は『明細帳』の管理、鷹場の治安維持、他村からの嫁入りの確認など多岐にわたり、気の休む時はなかったと思われる。明治初年の「御門祖事件」の指導者でもある(参照3)。
碑文














御門訴事件記念碑
出典:「武蔵野市観光機構


(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)「武蔵野市役所」編集発行 『武蔵野市史 続資料編四 井口家文書』191頁 75所収

(2)大石慎三郎『江戸所代』中央公論社(中公新書)、1999年9月25日31版、38頁

(3)『「武蔵野市史』(資料編) 編纂市史編編纂委員会・武蔵野市役所昭和57年3月2日Ⅱ刷 『明細帳』 223~224頁

(4)根崎光男著『将軍の鷹狩り』同成社、1999年8月5日、第4章鷹場と民衆、183頁

(5)(注4)と同じ。185~186頁

(6)「武蔵野市役所」編集発行 『武蔵野市史 続資料編四 井口家文書』204頁

(7)「東京新聞」2021年2月6日

(8)「東京新聞」(夕刊)、2020年12月15日

 

(参   照)

(1)「勘定所」

・江戸幕府の財政・農政を担当する機構。主な職務は、幕府財政の出納、全国幕領年貢の財政、鉱山・山林・河川・街道の支配、新田の開発、旗本の知行割、代官の支配地割、幕領の私領からの公事訴訟の取り扱いなどを業務としていた(世界百科事典)<第2版>

(2)「出百姓」

・近世の新田村では、他村から入ってきた百姓を(新田出百姓)というのが普通である。この場合には、古村を出て新田に入ってきた百姓を意味する(コトバンク)。

(3)「井口忠左衛門」

・井口忠左衛門(1812<文化9年>-1870年<明治3年>)は、幕末-明治時代の農民運動指導者。武蔵野多摩郡関前新田の名主。明治初年の貯穀提出による「社倉」に反対し、武蔵野新田12ヵ村農民の御門訴事件(嘆願門訴)を指導した。その後、逮捕され、病気手当てのため一時出獄中の1870年2月18日に死去。59歳。名は勝克。