2021年3月11日

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庚申塔のお堂
所在:武蔵野市境南町3-25
出典:「東京都の庚申塔


〖プロロ-グ〗

(出合い)

報告者は武蔵野市境南町にほぼ80年住んでいます。境南小学校(第2回生)に通学していた昭和20年代後半、富士見通りを東に向かって歩くと、約200メ-トル先の左側の途中、ノ-トルダム氏(スウェ-デン人/昭和18年来日・商社マン・戦後帰国)の白い瀟洒な2階建て(跡地現・社会福祉法人グットウイル)がありました。

その右隅の桜の木の下に銅板・屋根付(木造)の中に庚申塔(寶暦2年壬申天11月<1752年>/青面金剛立像・身長60糎)が安置されています(現・境南町3丁目)-今から269前の境村に設置された石像です。当時の村の人口は不明ですが、幕末の文久2年(1862年)戌3月・文久3年(1863)亥3月の『宗門人別書上帳』によりますと、659人、同3年655人です(注1)。

(庚申様)

住人が庚申堂の前を通ると、お堂に出でて、手を合わせ、お祈りをし、一礼し、そそくさと、失礼する姿は印象的でした。そのシーンをみた小学生の報告者はこのお堂は何だろうと首を傾げた。境南町に住む人々は、“庚申様”と敬い呼んでいた。それ以来、庚申塔は疑問のまま今日にいたってしまった。最近、この庚申様に興味を抱きいろいろ調べてみると、庚申塔は当時の人々の信仰対象の石像であることが分かり、市内各所や近接の三鷹市、調布市のなどにも多くの庚申塔があることが分かった。以下、庚申様の物語です。

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庚申塔
所在:武蔵野市境南町3-25
出典:「東京都の庚申塔


〖庚申塔由来〗

(背  景)

庚申塔は、数百年もの長い間、風雨にされ、制作当初の原型は留めていないものが多く、“路傍の石”となってしまった石像が多い。中には建物の中に安置されている物がありますが、きわめて稀です。そもそも庚申塔とは、庚申信仰(参照1)を背景にとして像立された石塔です。その由来は、近世に限ったものではなく、中世においても板碑による庚申待板碑の石塔が造立されています。

庚申塔という石像はどのような背景があって造られたのか。その理由を挙げますと、干支の「庚申」に当たります日(参照2)に行われる信仰行事があり、人間の体内に住むとされます伝説上の(さんし)という虫が、庚申の日の夜になると昇天して、「天帝」(万物を支配する神)に人間の罪科を報告することで、寿命を縮めるとされていました(注2)。

それを防ぐために「徹宵勤行」(てっしょうごんぎょう)することを「庚申待」(こうしんまち)と呼ばれ、室町期以降に“行”として一定の形が成立したといわれます。この庚申待を3年ないしは7年続けることで、が調伏(心と身との調和につとめ、悪行にうちかつこととされ、行が成就するという縁起など)から、三尺供養や行の達成を記念し、「供養塔」として造立されたものが近世庚申塔です(注3)

庚申の日には、肉食や同衾などの禁忌も説かれています。後には、守庚申のほかに、服薬・祈禳(きじょう)・お礼・閉気(深呼吸)などによって、積極的にを駆除してしまう方法も考えられています。このように説の原型は、三世紀末には成立していましたが、完成したのは九世紀の頃といわれております。

長寿を最大の幸福の一つとして、中国の人々は、長生きの好手段として三尺説を信じていたために、守護神を中心とする三尺説は、道士の間ばかりでなく、一般人々にも広まります(注4)。このような動きに対して、儒者は“妄説”として、反対しましたが人々の信仰は止められなかったのです。9世紀頃からは仏教とも結びつき、僧侶の加わった守庚申会が各地に行われるようになり、その集まりは相当華美(かび)であったといいます。

(形   式)

庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などは様々です。申は干支(かんし)で猿に例えられますので、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員氏名を記したものが多いのです。仏教では、庚申の本尊は青面金剛が彫られることもあり、神道では猿田彦神とされ、猿田彦神彫られることもあります。また、庚申塔には街道沿いに置かれ、塔には道標を彫つけられたものも多い(参照3)。さらに塞神として建立されることもあり、村の境目(境南町の庚申塔は境村の南の入口、北入口は玉川上水の橋際-境1丁目)にあったが、数十年前撤去されました。

 

〖庚申塔の普及〗

(全国分布)

庚申塔は沖縄県を除く、全国で分布が確認されていますが、明らかに地域格差が見られます。事例として、関東地方では数多く建立差が見られます。日本における庚申信仰の中心的な寺社のある京都や大阪など関西では、基調的には庚申塔の像立は少ない。

確認されている現在最古の庚申塔は埼玉県にある庚申板碑で文明3年(1471年)です。当初は板碑や石幢などが多い。青面金剛立像は福井県にある正保4年(1647年)が現存する最古と言われています。奈良県東大寺にある木像青面金剛は鎌倉時代に像立されたと言われています。

(経   緯)

庚申の夜を徹夜で謹慎する守(まもり)庚申が日本で行われ始めたのは平安時代からと推測されますが、一般庶民の間で、ほぼ同趣旨の庚申塔が日本で行われたのは、おそらく室町時代の事です。庚申の晩に眠らずに祭祀をするのが「庚申待」で、これは広く使われことばです(注5)。

庚申塔の建立が広く行われるようになったのは江戸時代初期からと言われています。以降、近世を通じて多数の庚申塔が建てられました。当初は青面金剛像が主導・主流となります。その後、江戸中期から後期にかけて、「庚申塔」または「庚申」と文字のみが彫り付ける形式が増加します。

例えば、兵庫県豊岡但東町は石造庚申塔が77基(1956年以前の合橋村35基、高橋村21基、資母村21基)が確認されています。ほぼ18世紀から20世紀初頭に多く造られています。維新後、明治政府は庚申塔信仰を迷信として位置づけ街道筋を中心に置かれている庚申塔の撤去を推進します。戦後の高度成長期以降行われた街道拡幅工事によって残存していた庚申塔の多くは撤去や移転を余儀なくされます。

(最盛期)

江戸幕府は、明暦から万治を経て寛文に入ります-四代将軍家綱の治世になり、大平の時代になります。こうした安定した治下を反映してか、各所に正しい意味の庚申塔が続々と見られるようになります。反面、この動きは庚申信仰などが広く、一般庶民の間に燎原の火の如く行き渡ります。

庚申塔造立は歴史から見ても、寛文時代は初期の庚申塔の開花時期です。寛文元年(1661年)から同13年間に造立された塔の数が、前期に比べて大きな飛躍を遂げたという証(あかし)が現在残っている庚申塔から推測できます。寛文以降、延宝・天和・貞享を経て、いよいよ元禄時代(1688-1704年)となりますと、上・下がこぞって、太平を謳歌します。

五代将軍綱吉(犬公方)の豪奢な治世になりますと、庚申塔も百花繚乱の趣を呈します。加えて経済的にも余裕ができます。至る所に庚申塔の造立が見られ、その数を把握するのは不可能です。この趨勢は宝永・正徳・享保と半世紀近くも続きます。事例として、東京都練馬区(概数)-元禄期28基、宝永期15基、享保期18基-です(注6)。

(東京都)

東京都内には約2600基にのぼる庚申塔が現存しています。多摩地区には約1000基が現存しています(注7)。このような貴重な石造物は民間信仰の証であり、貴重な歴史の証言物として大切です。造立数の特徴は甲州街道、五日市街道、人見街道沿いに比較的多いのが特徴です。この背景には石塔の制作地をみると、約5割が江戸です。これは、物資の流通や人的交流などが背景にある点です。北多摩地区には約20基程度です。

(武蔵野市)

武蔵野市内の庚申塔の数は凡そ9基です。その内容は以下のとおりです(注8)。

⒈井の頭自然文化園内(武蔵野市御殿山1-17-6)にあります。自然石『庚申』/寛政12年(1800年)庚申

⒉路傍(武蔵野市八幡町3-8)庚申塔右側面/天保11年庚子/2月吉日(1840年)

⒊路傍(武蔵野市八幡町4-14)千川上水の関前橋の近く。祠(ほこら)の右側には馬頭観音。文化10年(1813年)左「願主 紋左衛門」

⒋路傍(武蔵野市境南町3-25)庚申堂の中には青面金剛立像(邪気/三猿)、宝暦2年千申天11月(1752年)/庚申講中。御祭神は、「猿田彦大神」で、例祭は毎年10月13日、昭和57年3月(1982年)、武蔵野市文化財に指定されました。
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延命寺庚申塔邪気・三猿(年代不詳)

所在:武蔵野市八幡町1-1-2 延命寺境内
出典:「東京都の庚申塔

⒌源正寺内(武蔵野市緑町1-6-7)、青面金剛立像(邪気/三猿/二鶏)、正面左側、宝永7庚 霜月18日(1710年)

⒍延命寺(武蔵野市八幡町1丁目1-2)、青面金剛立像)、其の外4基の庚申塔があります。判明している庚申塔に刻まれている年号を表記します-①左側面「元文4己未11月17日」(1739年)、②正面左側「元禄9子年11月27日」(1696年)

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庚申塔
所在:武蔵野市八幡町1-1-2 延命寺境内
出典:「東京都の庚申塔

〖現在の活動〗

(不透明)

境南3丁目にある庚申様は、昭和の時代・平成の時代までは庚申様への信仰心は未だ散見できます-例祭は毎年10月13日、講中の人々が庚申堂の前を清め、近くには、薄めの手書きの絵(人、風景など)をぼんぼり(雪洞)に書き、一晩中、灯し、風情を醸し出した。通行人は何のお祭りなのかと庚申様の前を通りすぎた。

講中(地主の人、農家の人々、杵築神社の氏子など)の人々も令和に入り、高齢化と新型コロナの影響もあり、庚申様の例祭は中止となった。宝暦2年以来、続いた講中は、後継者もなく、現在、その先行きは不透明になり、困難な時を迎えた。しかし、人々の庚申様への敬いは変わりません。

 

〖エピローグ〗

武蔵境の庚申様の信仰は江戸時代中期以来、続いています。その由来は、村人が信仰すればご利益(りやく)があるということでした。当時、今のような十分なヘルスケアが皆無の時代で、信仰が身を守るセルフケアでした。まさに信じる者は救われるという境地であったと思われます。現在の新型コロナウイルスの蔓延はワクチンを接種すれば、命は救われますが、しかし、人間の心の悩みは不断なく続きます。

三鷹市の上連雀にある神明様の庚申塔(享保13年戌申天11月14日敬白<1729年>)は小さな建物中に庚申様が鎮座し、綺麗な赤い布を掛けられ、満足そうに世の中の流れを見ています。隣には講中の人々の名前を記しています。庚申様は今から292年前に像立された-現在も信仰の対象として、今も生き続けています。

(グロ-バリゼ―ション研究所)所長  五十嵐正樹

(注)

(1)「武蔵野ふるさと歴史館だより」第6号、<境村の人びと>-(文久2年<1862年>戌3月・文久3年(1863年)亥3月、「宗門人別書上帳・人別送状」などより作成>-、12-15頁

(2石神裕之論文『多摩の歩み』第140号、平成22年11月15日発行、「近世庚申塔みる<かたち>の普及」-多摩と江戸・周辺地域とのつながり-26~27頁

(3)(注2)と同じ

(4)『神道史大辞典』、吉川弘文館、2007年6月1日<平成17年>、351頁

(5)平野 実『庚申信仰』 角川選書、昭和44年1月20日、16頁

(6)(注4)と同じ。44頁-45頁

(7)(注2)と同じ

(8)「東京都の庚申塔」-武蔵野市の庚申塔-、ライブドアのブログより。

 

(参  照)

(1)中国の道教で説く三尺説を母体とし、仏教とくに密教、神道、修験道、呪術的医学な医学、日本の民間の雑多な信仰や風俗などを習合して成立した複合信仰をいう「神道史大辞典」、吉川弘文館2007年6月1日<平成17年>)、351頁

(2)60日に1度、年6回の庚申の日があります。1日・1夜眠らなければ、寿命は120年の齢を保って、子孫繁昌(はんじょう)で冨貴自在であるという。児童もこれを信じることで児童になれる。出家これを信じる事で、仏法が繁盛するという。

(3)中央線東小金井駅北口の喫茶店コメダ前から西北に向かう旧道の東側角から4メ-トルにある庚申塔(宝暦元年<1751年>)の側面に「武州多摩郡小金井村」、右より府中みち」、「ひたりきょうとみち(左京都道)」(京都道)の道標が刻まれています。

 

(参考資料)

・明田鉄男編著『江戸10万日全記録』、雄山閣、2003年8月25日発行

・平野 実『庚申信仰』 角川選書、昭和44年1月20日発行

・『東京都北区庚申信仰関係石造物報告書』、東京都北区教育委員会、文化財研究紀要別冊第10集、平成8年3月

・石神裕之論文『多摩の歩み』第140号、平成22年11月15日発行、「近世庚申塔にみる<かたち>の普及」-多摩と江戸・周辺地域とのつながり-26~27頁