2021年4月4日

イラスト






左:徳川家茂
出典:「Wikipedia

右:和宮親子内親王
出典:「Wikipedia


〖プロローグ〗

和宮親子内親王(1846年7月3日-1877年9月2日)<弘化3年閏5月10日-明治10年9月2日>は、第120代仁孝天皇の第8皇女として生まれた。15人兄弟の末っ子で、成人したのは兄の第121代孝明天皇(1831年-1866年)<天保2年-慶応2年/明治天皇の父>姉敏宮(ときのみや)の3人だけであった。「和宮」は誕生の際に贈られた幼名であり、「親子」(ちかご)は文久元年(1861年)の内親王宣下の際に贈られた諱(いみな)である。

6歳の時、11歳年上の有栖宮熾仁親王(ありすがわたるひとしんおう)と婚約したが、和宮15歳の時、幕府から朝廷に対して「第14代将軍徳川家茂へ降嫁を請う」(公武合体)と執拗な申し出があり、婚約を解消し承諾にするに至った。1861年(文久元年)10月15日、天皇・准后に御暇乞(いとまごい)のため参内された。和宮御付の典侍(参照1)庭田嗣子はこの日の日記に和宮様は、「御たがひさまに扨々(さてさて)御残り多く思しめされ御事なり」と、簡単ながら離愁の光景を記している(注1)。

(参照1):宮中に仕える女官

 

〖下   向〗

(出  立)

今から160年前、和宮は中山道を通り、第14代徳川家茂との婚姻のため江戸へ下向するビッグエベントが行われました。和宮は文久元年10月20日辰刻(午前8時ごろ)桂邸を出発し江戸に向かった。その行列には権大納言中山忠能(明治天皇の外祖父)、右近衛権少将岩倉具視、典侍庭田嗣子以下御付きの女官が従った。京都町奉行関行篤は手兵を率いて先駆けを勤めた。幕府側からはお迎えとして上京した若年寄加納久徴(ひさあきら)も列後に加わった。

(中山道)

同日大津駅に宿泊、翌21日は扈従(こじゅう/参照2)の行列を整えるために同駅に逗留され、22日同地を出発し、近江(滋賀県)・美濃(岐阜県)・尾張(愛知県)・信濃(長野県)などの駅々を過ぎ、中山道を江戸に向かわれた。その間、道中で御輿を護衛するもの12藩、沿道の警固に当たるもの29藩の多数に達した。

(参照2):貴人に付き従うこと

中山道が選ばれた理由として-①政情不安に伴う沿道の治安問題が大きな理由とし挙げられ、中山道は東海道に比べ、人通りが少ない。②中山道は東海道に比べ河川が少ないため、“川止め”のリスクが少なく、行程が読みやすい。③婚姻縁起の悪い地名が東海道には多かったとも伝えられています(注2)。

中山道の里程は135里22町(534km)、69次(宿)。和宮一行は、1861年10月20日に京を出立し、江戸到着は11月15日-24泊25日でした。行列は「和宮様御通行」といわれる大行列は、道中、京側から1万人、江戸幕府側から1万5千人が加わった。行列の長さは約50km、通過するまで4日間を費やした。世界でも比類のないことで、総費用は、今のお金に換算して、約150億円がかかったと言われます(注3)。

和宮様は道中にて所懐(所感)として-「住み馴れし都路出でてけふいく日 いそぐもつらき東路のたび」と詠っています-『静寛院宮御詠草』より(参照3)。

(参照3)和宮は家茂死後(1866年/慶応2年)、落飾(髪を剃り落として仏門に入ること)し、「静寛院宮」(院号)となった。

(宿場の様相)

<太田宿>

中山道太田宿(岐阜県美濃加茂市)の旧記によると、「和宮間様御通行」は10月27日に宿泊されました。同宿で使役した人馬と宿泊用諸道具類の数量を見ると-▽人馬-7856人・280疋、▽寝具-ふとん7440枚・枕1380個、▽食器-飯8060人前・汁椀5210人前・膳1040人前・皿2110人前・通い盆535枚の多量に及んだ。加えて、名古屋より差し出した御輿の警固人数は1030人、枝道・間道の警衛に当たるもの426人、御旅館の警固人数は64人であったといわれるが、ほとんど万をもって数える人馬調査の大行列が25日の日数をついやして通行したことは、この街道始まって以来の盛観であったという(注4)
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中山道太田宿
出典:「写真AC


<
八幡宿>

和宮下向の人馬・調度の継ぎ立て(参照4)のために、八幡宿(長野県浅科村八幡)に動員された助郷村は、定助郷(参照5)佐久郡28カ村、当分助郷小県郡14カ村、更級郡14カ村、埴科郡8カ村、新規当分助郷佐久郡4カ村、小県郡村6カ村、遠国新規当分助郷甲州八代郡72カ村、越後国蒲原郡64カ村と記され、合計120カ村(清水岩夫/1998年/史料16)の村々に助郷が割り当てられている。この時、塩名田宿(長野県浅科村塩名田))八幡宿(長野県浅科八幡)は、岩村田宿・小田井宿と合宿(組合)になって和宮の大行列を次の宿泊地である沓掛宿まで継ぎ通しを命じられている。

(参照4):継ぎ立ては宿駅で人馬を替えて貸客を送り継ぐこと

(参照5):江戸時代、幕府が諸街道の宿駅の継ぎ立てを援助・補充させるために宿場周辺の農村に課した夫役(ぶやく)。

<小田井宿など>

同様の動きとして、長野県下水内郡栄村の市川家に伝わる文書(現在県立歴史館に預託)に寄れば、北信濃・高井19カ村が小田井宿・岩田村の両宿に助郷を命じられている。この奥信濃ともいわれる村々から追分宿へは、飯山・追分間が約100キロあり、少なくとも2泊3日以上の行程である。加えて、『野沢温泉村資史』によれば、高井郡37カ村が、追分・沓掛・軽井沢3宿に助郷を命じられた。

 

<桶川宿など>

「和宮様御通行」は11月11日、上野国から武蔵国に入った。県内の行程は本庄、熊谷、桶川の各宿場で計3泊をしています。警備も行程別に各藩が担当しました。(1)安中~本庄間は、上野高崎藩、武蔵岩槻藩、武蔵岡部藩、(2)本庄~桶川間は、武蔵忍(おし)藩、(3)桶川藩~板橋間は備後福山藩と下総古賀藩などです(注5)。

このうち、史料が多く残っている桶川宿では、長く続く「和宮様御通行」に、宿場、一連の村々は戦争のように大混乱に陥った。その様子を垣間見ると、周辺の村々に対して人足と馬を強制的に取り立てる「徴発」をしていた実態が分かります。次の宿泊先の板橋までの小休止だけで直行することになっていたので、桶川宿は全部の人馬を乗り換え、荷物の継ぎをお送りしなければならなかったからです。

このため、板橋までの間の上尾、大宮、浦和、蕨の人足はすべて桶川に集められました。当時、不足する人馬の提供を命じられていた宿場町の付近の「助郷」は59カ村に112村が加えられ、遠い飯能や所沢からも人足が徴発されました。その数は人足3万6450人、馬1799頭。参勤交代で集められる人足は3000人程度の12倍になりました(注6)。

 

〖板橋宿助郷〗

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板橋宿
木曾街道 板橋之驛
出典:「Wikipedia


(石高が基準)

和宮様の江戸到着の最後の宿となった板場宿は11月14日に宿泊することになった。そのため板橋への助郷人馬勤方を仰せつけられたことにより、早速「議定一礼」(宿と助郷との取り決め書)を作っている。実際、板橋宿へ助郷に加わる村は都合167カ村と規模が大きく、近郷村々の総動員である。それがたとえ休役中であるにも係わらず、動員された点が注目される。

これら村々夫々の石高によって、平均割付によって動員数が決められている。では、実際の割り当て人足動員数はみると、甲州道中の上下高井戸両宿助郷は南北35カ村(惣代:多摩郡関前村名主井口忠左衛門/現:武蔵野市関前)を見ると、凡そ石高4.5石に1人の人足、同様に114石につき馬1疋の割合となっている。

例えば境村(現:武蔵野市境)は石高が295石であるので、人足数65人、馬3疋となる。35カ村の石高は9254石なので、総数は-人足は2056人、馬81疋が動員された。板橋宿への助郷は167カ村なので高井戸宿南北助郷35カ村の約6倍の55524石となる。板橋宿への助郷の総数-人足は12338人、馬は487疋が動員された(注7)。

 

〖街道の混雑〗

(時代の変化)

街道の宿駅の役割は、公用通行者に人馬を提供し、継ぎ立てを行うことと、幕府などの公用通行者や参勤交代の諸大名、公卿・公家などの急速・宿泊の施設を提供することであった。江戸時代の宿駅の負担は幕末期に向かって年々増加するが、助郷村の負担もこれに伴って必然的に増加し、宿駅と助郷村との紛争も各地で頻発した。

(助郷村の難渋)

<商品流通>

幕末期に街道通行が増加した原因は、幕府などの公用旅人の増加と経済の発達にともなう“商品流通の拡大”であったと考えられる。文久元年(1861年)の皇女和宮下向の大行列と文久2年の幕政改革(軍政)にともなう翌3年の通行量の増加は、幕末期の宿駅と助郷村の負担増加の中で特筆した。

<過重な負担>

幕末期の変化を象徴する動きとして和宮下向は極めて短期間に8万人もの人馬・調度が街道を通行したことで、宿駅と助郷村に大きな負担を課したことである。文久3年の人馬の通行は、長久保宿(長野県長門町)の場合、文久元年の人足総数が22693人、馬8412疋であったのに対し、文久3年の通行は、大名家の妻子などが国許に帰るものが多く、人足総数47507人、馬9439疋を数え、春から秋にかけて街道を通行していた(注8)。

<江戸安着>

「和宮様御通行」は、かくて11月14日板橋宿に到着、翌15日に江戸に入り、九段の清水邸に安着された。越えて12月11日、首途(かどで)の儀と同様の威儀を整えて清水邸を出で、大手門より江戸城本丸の大奥に入輿され、翌文久2年2月11日、将軍家茂と婚儀をあげられたのである(注9)。このように和宮は徳川家茂の夫人となった。

 

〖エピローグ〗

幕末のビッグイベントである「和宮降嫁」は-莫大な経済支出、莫大な人的供給とそれに伴う物品の供給であった。加えて、「助郷制度」は農民の限りないサポートにより、皇女の降嫁を成功させた制度であった。この背景には幕藩体制を支えた農民の難渋と犠牲的精神によって成し遂げられたと思われる。同制度は1872年(明治5年)に廃止された。

公武合体は、朝廷(公)の幕末の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化を図ろうとした動きである。その方策として、和宮を降嫁させることであり、政略結婚であった。しかし、当時17歳の家茂は「夫婦関係が形だけのもので心が通わなければ公武一和あり得ない」として、和宮に真心を込めて接し、側室をおかなかった。

プライドの高い和宮も、このよう将軍家茂の態度にすっかり心を許すようになったという(注10)。しかし、1862年(文久2年)、薩摩藩が幕府と協力して尊王攘夷派を京都から追放し、一時は公武合体が成立するかにみえたが、まもなく内部抗争から瓦解し、薩摩藩は倒幕へと方針を転換した。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)武部敏夫著「和宮」、昭和62年3月1日、新装版第1印発行、吉川弘文館、80頁

(2)「産経新聞」2018年11月15日

(3)「太田の歴史」中山道太田宿会館資料

(4)武部敏夫著「和宮」、昭和62年3月1日、新装版第1印発行、吉川弘文館、83頁

(5)「明治維新150年7 埼玉県誕生」人物編(皇女和宮花嫁行列)「産経新聞」令和3年3月25日

(6)「産経新聞」(地方/埼玉)、令和3年3月25日

(7)桜井芳郎著-「江戸時代天領下における助郷の研究」:特に武州多摩郡関前村を中心として-法制史学、法政大学史学会、1956年3月、49-74頁

(8)小林幹男論文「和宮の下向と助郷に関する研究」、「長野女子大学紀要」、長野女子短期大学出版会、1999年12月2日

(9)武部敏夫著「和宮」、昭和62年3月1日、新装版第1印発行、吉川弘文館、86頁

(10)「本郷」2012.5、「徳川家茂」、吉川弘文館、 No.99、25頁

 

(参考資料)

・笠原英彦著「歴代天皇総覧」-皇位はどう継承されたのか-、2001年12月5日5版、中公新書1617、中央公論社

・斎藤司論文「甲州街道と布田五宿」特集 多摩の街道と宿、「多摩の歩み」、第94号、平成11年5月15日、8-19頁

・「差し上げ申し済み口証文の事」、文化12年6月 92「上下高井戸宿助郷に付き口証文済み」、武蔵野市史、続資料編、井口家文書-

・「日本史年表」、編者東京学芸大学・日本史研究室、東京堂出版、 昭和59年6月20日

・編者南條範夫「江戸事典」、人物往来社、昭和39年4月15日 再販発行