2021年5月22日


〖エピローグ〗
新潟県阿賀野市から新発田市へ向かう車窓の左右は広大な水田が広がる。通過中に「寺社」という珍しい地名が目に入る。暫くすると、新発田市という道路案内があり、車は左折して、静かな佇まいの小さな村落(天王)に入る。近くには小さなモダンな理髪店がある。少し奥を進むと多くの樹々が眼前に広がる。間もなく、表門(胴板桟葺/1907年<明治40年>)が目に入ってくる(参照1)。

屋敷を取り囲むように塀が長々と続く。広い駐車場の前の入口から事務所で入場料を払い、右へ進むと資料館があり、歴代当主の治績が展示してある。1924年(大正13年)の農林省の地主調査(新潟県)によると、1000町歩以上の豪農は5家で、1位は市島家の1830町歩、以下、伊藤家、白勢家、田巻家、斎藤家の豪農・5家が名を連ねている-以下、市島家の発展経緯を報告します。

(参照1):敷地面積8000余坪/延床面積600坪/建築年明治1876年(明治9年)、“簡素にして優雅”な600坪の邸宅とそれを取り囲む回遊式の庭園は新潟県の指定重要文化財です。

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市島家の表門
出典:Wikipedia


〖来    歴〗

 (始   祖)

市島家発祥の地は丹波国氷上郡市島村(現在、兵庫県丹波市市島町)にあるといわれています。永禄年間(1565年~1568年)頃、隣国若狭国高浜(現・福井県大飯郡高浜町)へ移りました。当時、この地を治めていたのは後に新発田藩主となる溝口氏でした。

(新発田へ)

1598年(慶長3年)正月、越後より上杉景勝が会津に移され、そのあと、しばらく石田三成の管理が続いたが、同年4月2日越前より堀秀およびその与力大名が越後に移されることになった。溝口秀勝(新発田藩開祖)も1万6千石の加増をもって、加賀大聖寺から蒲原郡新発田の地に6万石の領地を与えられた。

加賀大聖寺からの移封に当たっては、秀吉から全ての家臣(2千百人)を連れていけとの厳命で、家族の外に、御用商人、御用職人、加えて、農民が移住してきたと伝えられています。その数八千に達したといわれています。同じく、市島家遠祖・治兵衛は、高浜から大聖寺、新発田へ溝口氏に随従し、五十公野(新発田市五十公野/いじみの)に居を構えました。

 

〖福島潟干拓〗

市島家の財力の基盤となった福島潟の干拓は困難を極めた。その端緒となったのは、1790年(寛政2年)に水原代官所が市島徳次郎をはじめとする水原の13人衆に福島潟の干拓を命じました。その方法は、土地を掘り下げて囲土手(かこい)を築き、中にマコモ植え、地面を固め、上流から土を流して沼地を埋めたり、新井郷川の名目所に川を掘って水はけをよくしたりして干拓を進めました。

正保越後国絵図(1647年<正保4年>)によると、福島潟は横3400m、長さ4900mと記載され、県内では特に大きな湖沼。当時、この新発田地域には、ほかに塩津潟(紫雲寺潟)や鳥見前潟があり、川の遊水地として水害、水利調整役としての役割を担っていました(新潟県庁資料 「福島潟の干拓のあゆみ」)。

1824年(文政7年)幕府から13人衆の干拓を引き継ぐように命ぜられた新発田藩は、川の上流から大掛かりな土砂を流し始めます。また、山倉新道、飯塚新道などの土手を築いて福島潟を仕切り、干拓を行った。このようにして、13人衆や新発田藩の尽力で干拓された。

検地の結果、452町歩と新しい農地が生まれ、近くの村々に売り渡された。福島潟干拓以降、市島家は、居を水原(現:阿賀野市)に移した。福島潟の干拓を中心に蒲原平野の開発に努め、化政時代期の終わり(1829年頃<文政12年>)には市島家は北越有数の1700町歩余り(参照2)、幕末時には約1800町歩を保有する大地主・豪農となった。

(参照2):1町歩は3000坪。

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福島潟干拓
出典:Wikipedia


〖歴代当主〗

(初 代)

当家の現在の見方として-治兵衛(遠祖)の孫、同じく治兵衛を市島家初代としています。初代治兵衛の子、2代喜右衛門(又兵衛)は水原(現・阿賀野市水原)に移り、この後、家業となる薬種業はじめました。3代喜右衛門(号、南山)は売薬を中心に山形や京都、大阪まで取引を広げました。南山は多くの子に恵まれ、長男徳次郎(金華)を後嗣とし、その兄弟たちにも水原、下条、新発田、葛塚等に家を建てさせ、今日につながる“宗家・分家体制”を確立しました。

(経営多角化)

宗家4代徳次郎(金華)は家業である薬種業だけでなく、海産物などの移送で財を築き、それによる土地集積を進め、晩年には石高換算7000石となりました。「千町歩地主」と呼ばれる市島家の基礎は南山から金華の時代に築かれました。以後、宗家5代徳次郎(処徳)、6代徳次郎(光弘)と発展を遂げるとともに、加えて、“貧民救済”、“公共事業”へ出資といった「社会福祉活動」に貢献しました。

 

(基盤の確立)

水原の地に暮らすこと約150年、明治維新の動乱が市場家を襲いました。戊辰戦争によりそれまでの屋敷が戦火で焼失したため、宗家7代徳次郎(静月)は、1877年(明治10年)、天王の地に新たな邸宅・本邸(現在の場所/新発田市天王)をつくり移り住みました。静月は明治新政府に対し、米穀、金銭、加えて、それまで住んでいた水原の地を提供することで新時代に対し、明治以後の発展の地盤を固めました。

 

〖中興の祖〗

(銀行頭取)

市島家の「中興の祖」として活躍した第8代市島徳次郎(湖月/1847年6月6日~1917年6月26日<弘化4年4月23日~大正6年2月26日>)は、明治時代の地主、政治家、銀行家、貴族院多額納税者議員、族籍は新潟平民。幼名千吉、のち宗輔と称した。1911年(明治44年)福島潟は湖月の時代に全面市島家の所有となった。

越後国蒲原郡天王新田(新潟県北蒲原郡天王新田、天王村、中浦村、福島村、豊浦村、豊浦町を経て現新発田市)出身、1871年(明治4年)以降、新潟県第22大区小8区天王新田用掛、同県第22大区長、天王村長を歴任しました。

(銀行頭取)

第四銀行(参照3)の発起人に名を連ね、1874年(明治7年)初代頭取に就任した。新潟県下第一の地主であり、1890年(明治23年)には多額納税者として貴族議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任した。その後は新潟銀行や新潟水電などの取締役を務めた。
(参照3):1873年11月(明治6年)、第四銀子の設立に当たっては、市島徳次郎らが発起人となった。いわゆるナンバ-銀行の一つである。現存の77銀行(仙台)、82銀行(長野市)など。明治6年に第1国立銀行(現・みずほ銀行)、1879年(明治12年)開業の第153国立銀行まで設立された。

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第8代市島徳次郎(湖月) 
出典:Wikipedia


〖経営の中枢〗

(実務改革)

江戸時代から新発田の地に経営基盤をつくり、本家(宗家)を中心に様々な事業を推進し、土地集積を実現した市島家では、複数(30人)の番頭と手代を中心にして家政が運営されていた。幕末維新の混乱を乗り越えて天王の地に移り住み(現在の地)、新潟県だけでなく、全国でも有数の豪農となった市島家(宗家)は、8代徳次郎(湖月)の晩年である1901~1903年(明治34~36年)頃から、江戸時代から続く古い体制を、より実務的に即したかたちへと次第に改革された。
(重役会議)

そこでは家長のもと、総取締や総務理事さらには重役会議がおかれ、その下には、内事部(総務)、会計部、土地部などの実務担当者を箇所に設置、実務処理の合理化が推進された。そうした体制になっても、家長と使用人(事務職員)との間は強い絆で結ばれており、市島家の経営戦略の強さの要因となった。

1945年(昭和20年)敗戦後、市島家は多くの土地や資産を手放すことになった。事務所も1947年(昭和22年)3月末に廃止され、その後は残務整理のために要員のみとなり、残された資産の運用と市島家の継承を模索し、その活動は1959年(昭和34年)まで続き、現在に至った。

 

〖家    風〗

(質素倹約)

市島家は福島潟の干拓を中心に蒲原平野の開発に関与した。また、薬種問屋や金融業も行うなど多角経営を実践した。薬種問屋としても栄えた市島家には江戸時代から伝わる薬の独自の処方が残っている。今野真理子氏(市島邸職員)によると-明治初期には納税額全国2位になったほどの大地主でありながら市島家の家風は“質素倹約”でした-市島邸の建築物からも見て取れます。

 

〖育英事業家〗

(慶応大学卒)

先代徳次郎(湖月)の10子として生まれた宗家9代徳厚(1893年~1951年(明治26年~昭和34年)は慶応義塾大学を卒業後、兄たちが夭折(ようせつ)したので、父の家督を相続した。父の代に福島潟を完全取得していた市島家の水田面積は大地主が集中する蒲原でも最大規模になっていた。加えて、所有山林の開発、福島潟における魚業など、経営は多方面に及びました。そうした土地経営者であると同時に、徳厚には育英事業家としての顔がありました。

(学費援助)

『お金と努力は人のために』という家訓だからこそ、難事業の福島潟干拓に挑み続け、大正・昭和時代には、一族だけでなく使用人や小作人の子弟への“学費援助”もした。そうした理念が脈々と受け継がれ、江戸から昭和に渡る長い繁栄につながったのだと思う(市島邸職員・今野真理子氏談)。

(使用人教育)

先代徳次郎(湖月)の10子として生まれた宗家9代徳厚(1893年~1951年(明治26年~昭和34年)は慶応義塾大学を卒業後、兄たちが夭折(ようせつ)したので、父の家督を相続した。父の代に福島潟を完全取得していた市島家の水田面積は大地主が集中する蒲原でも最大規模になっていた。加えて、所有山林の開発、福島潟における魚業など、経営は多方面に及びました。そうした土地経営者であると同時に、徳厚には育英事業家としての顔がありました。

(市島塾設立)

大正期から昭和初期にかけ、市島家の一族だけでなく、使用人や小作人の子弟に対しても育英の目的で学費援助をしました。その後、東京林町(文京区林町/現在千石)の別邸内に県外者も含めた寄宿舎である「市島塾」を創設し、常に青少年の教育に理解と関心が深い人でした。また文化事業の成果は新しい教育、研究所の基盤となりました。

(隣保館)

私有地とはいえ、漁業、水利、水運と、多方面で「公的」な側面を持つ福島潟の利用にあたり、市島家で大規模な商業行為でない個人的な活動に対してはある程度の自由を認めてきた。当時を知る人々の話からも読み取ることができる。市島塾や季節託児所の設置は勿論ですが、今日数多く残された、市島家とそこで働く職員、更には地域の人々との交流を示す資料は、市島家が彼らととともにこの地に生きてきたことを示す証となった。

1926年(大正15年)には天王中屋敷跡に隣保館を建設し、ここに地域農民のため春秋の農繁期に季節託児所を創設されたところ非常に好評を博しました。この事業に関しては市島隆子様(参照4)も熱心に協力された(田坂幸右衛門~市島信編『面影』より-)。
(幼稚園)

戦前は天王神社の手前左あたりで幼稚園(託児所)を運営していた。クレヨンや本がそろっていて、冬の間は滑り台やブランコは蔵にしまった記録があります。託児所には

オルガンもあって、先生(保母さん)に弾いてもらいました。

雪で遊んだ記録はありませんから、農繁期のみだったでしょう。保母さんの中には高橋淳三さん(敗戦時には理事補)の娘、智子さんもいました。月謝がかかったという記録はありませんから、無償だったと思います。天王周辺からだけでなく、中ノ通りのほうからも通ってくる子がいました(天王ボランティアの話)
(参照4):1915年(大正4年)3月20日、東京で盛大な結婚披露宴が開かれました。主役となった新郎は市島宗家9代徳厚(初之丞)、新婦子爵・松平康・松平斉民の隆子(長女)でした。松平康民の父は美作国(岡山県)津山藩主・松平斎民、つまり隆子
様はお大名の孫娘でした。江戸時代から名字帯刀を許された豪農とはいえ、「平民」であった市島家に「華族」の令嬢がお輿入れとなったわけです。

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市島徳厚
出典:しばた観光ガイド


〖終    焉〗

宗家9代徳厚は、1945年(昭和20年)の敗戦後、農地改革が進む中で市島家の存続に尽力しましたが、往年の繁栄を取り戻すことができませんでした。市島家は1598年新発田に入り、爾後、1
945年に終焉し、約350年の歴史を閉じました。市島邸は
長く分家筋の市島成一により管理され、明治初期の代表的住宅建築として、1962年3月(昭和37年)、邸内の12棟1構が新潟県の有形文化財に指定され、新発田市管理下、一般に公開された。
 

〖エピローグ〗

日本一の豪農である酒田の本間家(3000町歩)について-「本間様には及ばないがせめてなりたや殿様に」まで言われていた。本間家の繁栄ぶりを偲ぶことができます。それに次ぐのは越後の市島家です。市島家の財力構築の背景には、薬問屋、金融業、商社機能の経営多角化と積み上げた地主の戦略などを指摘されます。

加えて、使用人教育の徹底と心の安定のために邸内には「説教所」があり、歴代当主が毎月17日に僧侶を招き、村中の人を集めて説教を行っていました。市島家の強みは、家長と使用人は堅い絆で結ばれていました。この関係は、市島家が新発田に移り住んでから350年の間、市島家の堅実経営(質素倹約)の背景となっていた-市島家の家訓『お金と努力は人のために』-でした。

(グロ-バリゼション研究所)所長 五十嵐正樹

(引用資料)

・第2期『物語藩史』第」3巻、人物往来社、昭和41年6月25日、初版発行

・鈴木康著『シリ-ズ藩物語、新発田藩』、現代書館、2015年2月20日

・市島邸資料館リニュ-アルオ-プン展示(平成28年10月1日)-市島家の歴史-主催/新発田市  協力/早稲田大学図書館

・市島邸 資料館ニュ-アル展示 -市島分家の人々-

・「市島家のはたらく人びと」近代豪農の事務組織、市島邸2017年度第3回企画展

・福島潟の干拓のあゆみ/新潟県

 

(参考資料)

・伝田 功著『豪 農』、教育社歴史新書(日本史)、1978年8月20日

・市島家の入場配布資料より

・フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

・『日本史年表』、発行所(株)東京堂出版、編者東京学芸大学、昭和59年6月10日

 

(市島家データ)
・田 畑:約1830町歩(1924年<大正13年>:農商務省地主調査県下1位>

・山 林 約3000町歩

・小作人 2600人

・米 蔵 20箇所

・米売上 約30000俵

・番 頭 30人