2021年6月14日


〖プロロ-グ〗

新潟県を散策するには車にかぎる!幸い五泉市に従弟が住んでいるので新発田市赤谷からの殿様街道、岩船郡関川村の渡辺家への訪問も車である。東京からこの地を車で行くには約360kmもある。今回は阿賀野市から国道460号を走り、沢海(そうみ)の豪農の館・伊藤家(北方文化博物館)を目指した。

阿賀野市下里と対岸の新潟市秋葉区に架かる阿賀浦橋(長さ942.4m)を渡り信号を右折し、阿賀野川を右にして、土手を2~3km走ると、沢海の伊藤家「北方文化博物館」の案内板が目に入ってくる。土手を下りると、沢海である。豪壮な伊藤邸が目に入ってきた(新潟市江南区沢海2丁目15-25)。以下、伊藤家の豪農の歴史を記した。

地理院地図 _ GSI Maps|国土地理院






伊藤邸の場所
出典:「国土地理院 淡色地図

〖来   歴〗

(初  代)

江戸時代中期の1756年(宝暦6年)正月、沢海村にて初代文吉は20歳で1町2反9畝29歩(約13000㎡)の畑を与えられ、1人の百姓として分家した。分家して間もなく従来の向かい側の紺屋の娘・きよを、嫁として、百姓の傍ら、きよの実家の関係から藍(あい)の商売を営むようになった。お金を貯まると畑を買い増し、商売も繁栄するようになり、やがて家を買い足し、商売も繁盛するようになり、やがて、家を建て替えて蔵を造り、徐々に豊かになった。

(二代目・文吉)

安次郎は35歳で二代目文吉を継いだ。商売は藍(あい)の外に雑穀を扱い、加えて質屋、酷取(現在の倉庫業)と次第に大きくなったため百姓をやめ「いはの家」という屋号を名のった。二度目の妻の先夫の子、為次郎を養子とし、父子はやがて知行所一番の財力のある豪商として歩み始め、やがて小浜御用達となり、1837年(天保8年)には名字帯刀を許され、二代目文吉から「伊藤文吉」と名のるようになった。

(三代目・文吉)

幼名為次郎。安次郎の二度目の妻の先夫の子。伊藤家の土台を築き上げた。四代目の文吉を継ぐはずの佐六は44歳の若さで他界したため、三代目文吉の孫にあたる要之助が16歳で五代目文吉を名のることになった。

(五代目・文吉)

三代目文吉の孫、嫁キイとの間に謙次郎をはじめ、子宝に恵まれた。謙次郎の嫁とりに全力を注いだ。1891年2月29日(明治24年)に没した。1873年(明治6年)に地租改正で税が金納に変わると、多くの人が土地を担保に金を借りた。伊藤家は「金融地主」としてさらに成長した。現在に残る建物は5代目が1882年(明治15年)から8年がかりで建てられ、1889年(明治22年)に完工した。作事はこの頃、始まった。作事頭の吉田誠さん(47歳)は「変わらない姿であり続けることは新しいものをつくるより難しい。作事の仕事はまもることだ」力をこめる-その拠点が作事場であり、人知れず維持、伊藤家の繁栄の歴史が滲んでいる(後述)。

(六代目・文吉)

六代目文吉は、上越の旧家であり、名門である村山家から真砂を嫁に迎えた。真砂は柏崎地方の盆踊りのはやしに歌われるほどの才媛だった。次々と取得した伊藤家の土地は、1891年(明治24年)には636.8町歩(637ha)、1901年(明治34年)には1063町歩(1063ha)となり、新発田藩の藩主の清水谷下屋敷(現在の「清水園」)も1892年(明治25年)には全て伊藤家のものとなった。六代目文吉はわずか33歳の若さで亡くなった。

(七代目・文吉)

1903年7月6日(明治36年)、六代目文吉の次男淳夫が7代目文吉となった。七代目は、この時まだ幼かったため、しばらくは6代目の弟・九郎太が後見人となって支えた。1908年(明治41年)には所有地が1384.7町歩(1385ha)となった。1918年(大正7年)に慶應義塾大学を卒業した。米国ペンシルバニア大学に留学して1925年(大正14年)に帰国し、同年に東京・京橋の商家米沢家の娘竹子と結婚する。財団法人「北方文化博物館」の初代館長に就任する。

(八代目・文吉)

1927年9月24日(昭和2年)に生まれた。本名吉彦。1950年(昭和25年)慶応義塾大学法学部卒業し、毎日新聞社に就職。1951年(昭和26年)音楽之友社入社(ちなみに初代社長は同郷の目黒三策である)。1958年9月、音楽之友社編集部を退社。北方文化博物館長就任。1978年5月(昭和53年)、文化財保護尽力と文化の発展功労で文化庁長官表彰。其の外、数々の賞を受賞。2008年4月(平成20年)春の叙勲、旭日双光賞受賞。2016年(平成28年)、従六位叙される。

2016年10月25日(平成28年)10月25日、肝臓がんのため死去(89歳)。葬儀は形式上家族葬であったが、会場は博物館の大広間が用いられ、事実上通常の葬儀とは変わらなかった。同年12月5日には偲ぶ会がホテルオ-クラ新潟で行われた。八代目に子供が無かったため、文吉という名は八代目が途絶えることとなった。

 

〖経営方針〗

(藍栽培)

1756年(宝暦6年)、沢海村で初代が分家して独立した。畑で染料による藍を栽培し、藍の商いを皮切りに倉庫業、金融業などで蓄財し、土地を購入していった。伊藤家の土地集積の最盛期は明治半ば、1884年(明治17年)からの9年間で一気に455町歩を得て、1901年(明治34年)には1346町歩を保有する1000町歩地主に成長した。

加えて、明治以後、伊藤家は次第に農地の集積を計り、全盛期には1市4郡64ヶ町村に1370余町歩(1370万㎡)の田畑を所有、昭和期には県下一となり、作徳米(小作人が地主へ納める米))は3万俵余であった。

(家  訓)

伊藤家には、“悪田を買い集め、美田にして小作に返すべし”という家訓がある。小作人の収入や暮らしの安定こそ地主の暮らしも成り立つ、つまり「共在共栄」の考え方。ゆえに、ここでは小作人と地主の争いは少なかった」と-北方文化博物館館長の神田勝郎さんは語る。

 

〖戦後の変化〗

(博物館へ)

1946年(昭和21年)の農地解放後、伊藤家邸宅は米軍による接収を免れ、博物館として新たな道を歩み始まれました。終戦半年後1946年(昭和21年)、遺構保存のため「財団法人北方文化博物館」が創設され、これに全部寄附されたものである。長年の風雪に耐え、往時の面影をそのままに豪農伊藤家の暮らしを今に伝えてある。平成12年4月には国の登録有形文化財に登録された。

(米人の理解)

運命も伊藤家の味方をした。この時の米国側の担当者、ライト中尉は7代目当主が留学していたペンシルバニア大学の後輩だった。話をするうちにその事実がわかると、二人の会話は学友同士の和やかなものとなり、やがて、意気投合、ライト中尉は司令部に働きかけ、博物館設立の後押しをしました。

(古美術品)
こうして邸宅が当時の雰囲気をとどめたまま保存されているのは、7代目の当主の先見の明によります。戦前から『社会構造は変われば地主制も変わる』と考えていた7代目は、古美術品を収蔵し、考古学者や郷土家の協力を得て、博物館構想を練り、現実化していきました。その壮大な目的と計画性、行動力は米国の担当者を動かし、博物館構想が承認された。

座敷には100枚の畳を敷き詰めている。日本庭園は「庭匠」と呼ばれた田中泰阿弥が5年かけて仕上げたものである。建築物や庭が展示品だが、歴代当主が集めていた美術品や古文書などの数々は「2万点はゆうに超えるだろうが、正確には把握できないという(佐藤隆男副館長)。

(鬼滅の刀)

「北方文化博物館」は新潟の文化や暮らしの体感出来る場所として、国際会議などの際には要人も足を運ぶ。近年は大広間の風景が人気アニメ「鬼滅の刀」に登場する「柱合会議」の舞台となった屋敷に似ていると、SNS(交流サイト)で話題を集める。博物館については写真共有アプリ「インスタグラム」でも情報発信している。

今冬大雪では「鬼は嫌う」とされる名物の藤棚が開館以来、初めて、豪雪の重みで倒壊する事態に見舞われた。ただ、庭師によると「花は枯れていない。大丈夫だ」という。これから修復に取組むという。“不滅の藤”として、5月にはきれいな花を咲かせたい-と佐藤副館長はいう。

 

〖エピロ-グ〗

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伊藤邸の全体写真
出典:「北方文化博物館


伊藤邸は8800坪(29100㎡)の敷地、建坪1200坪(3967㎡)に100畳の大広間・茶室など明治の和風建築が並ぶ。この建物群を維持管理する人々がいる。豪邸の一角に、「作事場」という建物がある。屋敷や庭のなどの維持、修繕などをする「作事場」という建物がある。
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大広間
出典:「北方文化博物館

屋敷や庭などの維持、修繕など「作事」と呼ばれる仕事をする人達の事務所である。作事は明治期に現在の建物ができて以来、伊藤家の暮らしを支えてきた。戦後の博物館に姿を変えても、なお、かっての佇まいを後世に遺す役割を担っており、今後も重要な任務として、伊藤家を支えて行くことになる。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(引用資料)

・豪農の頂点-千町歩地主の栄華をたどる(後編)博物館となった沢海の伊藤家

・「新潟日報」2020年2月24日

・「日本経済新聞」2021年3月5日(夕刊)

・ウイキペディア

・豪農の館 北方文化博物館のパンフッレト