2021年6月24日


入口








観音院入口 栄見山
出典:「武蔵野市観光機構


〖プロロ-グ〗

散策のため、本年6月初め、午前6時頃、中央線武蔵境駅の南側にある「観音院」(曹洞宗)の通用門から境内に入ると、ご住職が梵鐘(ぼんしょう)の東側に座られ、梵鐘を撞木(しゅもく)で、撞(つ)かれる-その瞬間、広い境内は重く厳かな音が響き渡る-ほぼ、55~60秒。訪問者4~5人、手を合わせる。一説によると、梵鐘の響きは物故者の魂を呼び戻すことができるという。

毎日、ご住職は、午前6時前にお住まいから鐘楼に上がられる。西側から東側に移られ、上敷きを取られ、その上に坐られる。6時丁度、梵鐘を撞かれる。計7回、6回目は最初に軽くつかれ、次に強く打つ。昔から“時の金”として、続けられ歴史を刻んできた。撞き終わると、梵鐘に数回拝礼し、人々に言葉を掛けられ、西側に廻り、階段を下りられ、お住まいに入られる

 

〖梵鐘への誘い〗

(由  来)

梵鐘とは、主に東アジアの寺院などで使用される仏教法具としての釣鐘(つりがね)。撞木で撞(つ)き鳴らし、重低音で余韻がある。「梵」は梵語(サンスクリット)のBrahma(神聖・清浄)を音訳したものである(参照1)。別名-大鐘、洪金(こうしょう)、鯨鐘(げいしょう)、巨鯨(きょげい)、華鯨(かげい)-などがある。

(役  割)

梵鐘は、法要など仏事の予鈴として撞くという。仏教の重要な役割を果たす。朝夕の時報(暁鐘<ぎょうしょう>、昏鐘<こんしょう>)に用いられる。但し、梵鐘は単に時報として撞かれるものではない。その響きを聴く者は、“一切の苦から逃れ、悟りに至る功徳(くどく)があるとされる”-こうした梵鐘の功徳については多くの鐘の銘に記されている。

(製  造)

梵鐘の製造使用金属は青銅製が多い。小型のもの(一説には直径1尺7寸)は半鐘(喚鐘、殿鐘)といい、高い音で、用途も仏事以外に火事などの警報目的でも使用される。響きをよくするために鋳造の際、“金の指輪”を入れることもある。江戸時代には“小判”を鋳込んだ例もあるという。

(伝  来)

梵鐘の日本伝来は、日本書記に大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が562年(欽明23年)、高句麗から日本に持ち帰ったとの記録が残っているが、現存遺品でこの時代にまでさかのぼるものはない。京都の妙心寺の梵鐘(国宝)は、内面には戊戍(698年)筑前糟屋評(現在の福岡市東区か)造云々銘があり、制作年代と文様から福岡県太宰府市の観世音寺鐘と兄弟鐘とする説がある。

(奈良時代)

梵鐘研究家の坪井良平氏の指摘する主な梵鐘は以下のとおり。

・千葉/成田市出土鐘(国立歴史民俗博物館蔵-重要文化財<宝亀5年>(770年)在銘。

・福井・劔神社鐘(国宝)神護景雲4年(770年)在銘、制作年が明らかにものとして日本で3番目に古い。

京都・妙心寺鐘(重要文化財)-戊戍(698年)在銘製作年が明らかなものとしては日本最古、国宝である。「徒然草」にも登場する。

・奈良・東大寺梵鐘(国宝)

・奈良・興福寺(国宝)-神亀(727年)在銘・製作年が明らかになったものとしては日本で2番目に古い。

(著名な梵鐘)

・京都・方広寺梵鐘(重要文化財)-重さ82.7トンで、日本一の重さと言われる。銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し、豊臣を君主とし、家康および徳川家を冒涜するものとみなされ、最終的には大坂夏の陣による豊臣家の滅亡を招いてしまったとされる(方広寺鐘銘事件)。

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京都・方広寺梵鐘
出典:「Wikipedia

 

〖功   徳〗

(心に響く)

全国の寺にある梵鐘は本来、その鐘の音の大きさで仏の功徳(くどく:恵みという意味-福徳、神仏の恵みを指す)を表わす道具とされる。撞木と呼ばれる木製の道具で鳴らすと、「グオ~ン」と重く余韻のある音が響き渡る。時を告たり、1年の煩悩を清める「除夜の鐘」として使われる。西洋で使われる「鐘」の音は人々に祈りや感謝、希望、喜びなどを与えるのと異なり、梵鐘の荘厳な響きは日本人に心の安らぎをもたらす。

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興味深いことは、梵鐘の余韻に中に含まれる<1/f>(エフぶんのいち)が心身をリラックスさせることが近年、科学的に証明された。「小川のせせらぎや小鳥のさえずりなどと同じく、心を癒す音」と分かり、梵鐘の音を聞くと気が休まるという。

 

〖観音院縁起〗

(境村の寺)

観音院は(山号:栄見山/院号:観音院/宗派:曹洞宗)は、1653年(承応2年)に開山の盛岳栄見大和和尚により開創された。幕府公認、曹洞宗大本山永平寺の末葉である。境村は万治年間(1658-1660年)、幕領地として、松平出羽守直政(1601<慶長6年>-1666年<寛文6年>/祖父は徳川家康)が下屋敷を構え(参照2)、松江藩を統治していた。屋敷内には東側に杵築明神、稲荷明神が祀られ、西側に観音堂が建立されたとされる。これが坤為地(こんいち:すべての願い叶う意味)の観音院であり、神社は杵築大社である。

(3度の火災)

江戸期の1813年(文化9年)、1826年(文政8年)、昭和5年の3度の火災で伽藍や法物等や古い記録を失った。堂内に安置されていた聖観世音菩薩像(行基作、1尺像)は1930年(昭和5年)の火災で焼失しているが、本尊の淮胝観音像(じゅんていかんのんぞう/江戸重要文化財)は現存する。1940年(昭和15年)に仮本堂を建立して復興発願、現在の29代瑞雲正行住職に至って本堂、客殿山門、鐘楼堂など建立復興された。
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鐘楼
出典:「武蔵野市観光機構


墓地内には武蔵野市内最古の石仏「阿弥陀如来像」は、1682年(天和2年造立)が安置され、市の有形文化財に指定されている。この石仏は松平直政の命により、下屋敷跡地を開拓し、出雲新田(境新田のうちの境村)を開いた表情の巧みな表現など彫法、市内所在の石仏として代表的な美しさを持っている。

松平直政の信頼を集め、幕府下屋敷(現在の境及び境南町)の開墾に尽力した下田三右衛門の供養のため造立した阿弥陀如来像には『栄見道喜信士』の法名が刻まれている。松平直政の法名『高真院殿歓誉一空道喜大居士』から『道喜』の2文字を頂いたもので、300年前のその時代の消息を想像し、境村開闢の一端に触れることができる。現在は29代目の住職に受け継がれている。

新編武蔵風土記稿」(参照3)によると、年貢地、凡三段、小名西原、禅宗曹洞宗、江戸四ツ谷橋立国寺の末なり。本堂回禄にかかりて、今も本尊もなく、四間に六間の仮屋を営み置。開山開基詳ならず。観音堂。東方の方二あり、堂は三間四方木の立像一尺許なる正観音を安ず。

(来迎阿弥陀如来像)
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阿弥陀如来像
出典:「武蔵野市観光機構

上保谷村(旧保谷市)から境新田に移り住み、松平家(松江藩主松平出羽守直)、父は家康三男結城秀康)の下屋敷跡地を開拓して、出雲新田(境新田、後の境村)を開いた保谷三右衛門(下田)の追善(死者の冥福を祈って、生存者が善根を修めること)のために、1682年(天和2年)に造立されたものである。

観音院は、下屋敷内西方に直政によって建立された観音堂とこの墓所から幕府公認の村の寺院として発展しており、境新田村の開発のいわれを語る重要な資料である。美術的に見ても螺髪・内髯の単純化、尊顔の素朴な微笑、印相の表情の巧みな表現などの彫法は、本市所在の石仏としては最も古く。代表的な美しさを持っている(武蔵野市教育委員会掲示より)。


 
〖エピロ-グ〗

今から151年前に遡ると、世は明治3年5月の「境村戸口・畠等書上」(写)/(明治3午年人別差上候寫控置境村)「明治3午<うま>年人別差上候写し控置境村」(明治3年)によると、家数90軒/人数459人<内訳:男228人・女231人>/馬3疋/畠12町8反9畝9歩<入作反別>/畠1町9反3畝4歩<観音院>などである。時は明治維新であった。人々は時折、お寺に出向き煩悩を梵鐘の響きにより打ち払ったかもしれない。

151年後の現在、世情は新型コロナ(COVID-19)の感染者の増大で人心は乱れ、一向に先がみえない-ワクッチンを接種してもである。人々は何を信じる。報告者は適切な答えを持ち合わせていない。京都・妙心寺鐘(重要文化財)-戊戍(698年)在銘-がある。日本で最古である-人々は世の安寧を梵鐘に求めた。

向後も報告者は観音院の梵鐘の響きを心に刻むことになる。付記するが、日本の鐘の9割は以上が第2次世界大戦で、「金属類回収令」で、近代や近世以前に鋳造された鐘の多くが溶解され、日本の鐘の9割以上が第二次世界大戦時に失われたという-戦争の大罪、愚かさを痛感する。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(引用資料)

・編者児玉幸多「物語藩史」(第6巻)、人物往来社、昭和40年3月1日、初版発行

・「武蔵野市史」(資料編)、昭和40年3月発行、編纂武蔵野市史編纂委員会、発行武蔵野市役所、303頁

<メイド・イン・ニッポン企業>-日本人の心に響く鐘の音を追求-老子製作所 経済ビジネス 2013年7月26日

・武蔵野市観光機構資料(栄見山観音院)

・ウイキペディア

 

(参  照)

(1)サンスクリット:古代インド・サ-リア語に属する言語-インドなど南アジア使用された。

(2)松江藩主松平出羽守直政(1601<慶長6年>-1666年<寛文6年>)は、寛永15年(1638年)2月、信州松本から転封(てんぽう)してきた。同家は徳川直系一門の大名で、越前松平家の系統である。この系統はのち7家となって、明石・津山、そして宗家は福井藩として存続する。松江松平家は、後の広瀬・母里(もり)の分家が出て、出雲国内に三家が維新まで続いた。

(3)「新編武蔵風土記稿」は、文化・文政期に編まれた武蔵国の地誌。昌平坂学問所地理局による事業で編纂された。1810年(文化7年)に起稿し、1830年(天保1年)に完成した(全265巻)。