2021年7月31日

〖プロローグ〗

・江戸時代の農民の生活を厳しく指導する「慶安の御触書」を見ると、農民は耐え難い思いを感じていた筈である。このような環境の中で農民は“新しい生活を求め失踪”(欠落)した-この報告では、先ず「欠落」の歴史を紹介し、続いて、江戸時代の武蔵国・多摩郡(現、東京都、埼玉県、神奈川県)の農村の欠落(はしり/失踪者)の実態を関前村(現・武蔵野市)の名主井口忠左衛門所有する古文書から読み取り、その一端を紹介した。

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江戸の農村
出典:「思い出してごらん、
あんなことあったでしょう

 

〖欠落の歴史〗

(戦国時代)

古代・大宝律令時代(701~704年)、本貫(本籍)から離脱することを「逃亡」などと言われていた。同様に中世においても年貢や公事(くじ)を納められないことなどを理由に居住地から離れることを「逃亡」と呼んでいた。「欠落」の言葉が見られるのは戦国時代頃からで、領主間で欠落者の返還を行う「人返し」に関する協定が結ばれたり、地域を支配する戦国大名が傘下の領主間で発生し人返しに関わる相論(争論)の仲裁に入ったり、分国法(注1)などで人返しの手続きを定めるなどの対応策が採られていた。

(江戸時代)

江戸時代には幕藩体制維持のために主従関係の強化と貢租納付義務の貫徹は支配体制維持のために必要不可欠な方針であった。その実現のために領民を固定化させることが前提となっていた。これに真っ向から反する欠落は領主側から見れば決して認められるものではなかった。「欠落」は“重大な犯罪”とみなされ、主君を持たない浪人や農民・商人等の被支配民の欠落は厳しく取り締まりの対象とされた。こうした欠落は江戸時代を通じて日本各地において頻発した。

 

〖武蔵国の動き〗

(戦国時代)

戦国時代の武蔵国(現:東京都・埼玉県・神奈川県の一部)では年貢・加地子(かじし)(注2)の重圧のよる百姓の欠落(村から退去)が頻発していた。彼らの多くは諸役負担の免除「自由」を享受しうる町や新開発地に流入し、旧来の従属関係を断ち切ろうとした。当時、武蔵国を支配していたのは戦国大名北条氏(小田原)で、年貢・役を村単位に賦課(村請)していた。

欠落百姓の所持地が荒地になると、その分の年貢・役は残った百姓が肩代わりしなければならなかった。そのため土豪・有力百姓にとっては、離村者を呼び戻したり、他村の農民を招き寄せたりして、荒れ地の再開発に努めることが重要な責務となった。北条氏もこれに対応して、一方では人返し(欠落した農民を連れ戻す)、他方では開発奨励という施策をとっていた。

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日下部金兵衛 稲刈り
出典:「かつて日本は美しかった


〖罰則概況〗

(発  覚)

「欠落」が発覚した際には欠落者の所属する家の当主(欠落者が当主であれば当然含まれない)・五人組・親類・村役人(町役人)らは3日間欠落者の帰りをまった後で30日以内に奉行所・代官所(武士の場合は上役)に対して「欠落届」を提出しなれければならなかった。

これを受けた奉行・代官は直ちに欠落者の闕所処分(けっしょ/財産没収)の手続きを行うともに当主などの目上の親族・五人組・村役人(町役人)らに欠落者の捜索を命じ、「欠落届」を提出させ、その後の捜索も彼らに対する義務であった。これは「欠落」は本人の犯罪というだけでなく、そういう反社会的な人間を出した共同体全体の“連帯責任”であると考えられたからである。

(捜索期限)

<日限尋>

欠落者の捜索にはまず30日の期限を設けた「日限尋」(ひぎりたずね)を実施し、これが最大6回(180日)行われ。それでも見つけられない場合には目上の親族・五人組(村役人)は処罰を受け、改めて無期限の「永尋」(ながたずね)が命じられた。なお、「日限尋」・「永尋」の最中に欠落者本人が自首を行った場合や第三者に捕らわれた場合にも目上の親族・五人組・村役人(町役人)による捜索に怠惰(たいだ)と考えられ、処罰の対象とされた。

<永 尋>

捜索の届出を受けて「永尋」を命じた奉行・代官にとっても事務処理の煩雑を招ききかねない永尋」のような事態は望ましいものではなかった。そこで、「永尋」となった時点で欠落者は家督・財産の面においては死亡に准じて扱われて、闕所の対象から免れた家財に関する相続の開始が宣告された。

<犯  罪>

また、「永尋」になった場合、家族や町村は旧離(勘当)・帳外(人別帳から除外)を申し出る事で家族関係の解消が認められ、後日欠落者が罪を犯しても縁坐の対象から免れた。なお、無宿とは欠落などによって人別帳からその名前が削られて住所の登録を失った者を指している。

<帰  還>

欠落者が捕らえられ或は自らの意思で帰還した場合には、原則的には「帰任届」を提出の後に欠落中に罪を犯していないかの確認が行われ、人別帳に氏名が復帰され後に家族に引き渡された。但し、欠落を原因として、発生した法的効果(闕所・相続・婚姻が解消された状態となった妻の再婚など)は全て有効とされた。

加えて、罪を犯して欠落した場合には通常であれば追放相当以下の罪に関しては事件発生から1年以上を経過して逮捕されなかった場合には免訴されることになっていたが、欠落者には適用されなかった。なお、欠落者が主人を持つ家臣(武士)や奉公人(商人など)の場合には主従関係を損なったとして、さらに重い刑が課せられる可能性があった。

 

〖武蔵国事例〗

〇武蔵国多摩郡関前村・井口家(名主)の古文書に記載されている欠落・出奔の事例は、享保12年10月(1727年)-明治2年7月(1869年)までの142年に11件あった。その中から一部を紹介すると、以下のとおり。

△享保12年10月 「欠落人久離外願書」

・多摩郡関前村の三右衛門当年35歳、去る7月13日逐電しました。お役所様へお訴えます。所々探しましたが、見つかりません。親類、村中の者は難儀しておりますので、「久離帳」(きゅうり/人別帳除外)に記載してください。以上。

・多摩郡関前村 三右衛門兄 甚左衛門印

           同       治右衛門印

           同叔父    八兵衛印

           同叔父    □右衛門 

           同従弟    市右衛門

           名主      忠左衛門印

           組頭      七郎兵衛印

           同(次)     □兵衛印

           同        伊右衛生印

岩手藤左衛門様  御役所(代官所)

 

△宝暦4年3月11日、「欠落人の久離帳外願書」

・多摩郡関前村百姓八兵衛(既婚)当戌(いぬ)21歳、そよと申すものから、去る閏2月26日夜7ッ時欠落したので、所々皆と相尋ね探しましたが、見つかりません。何卒、御慈悲をもって欠落の御帳面に記載してください。以上。

・多摩郡関前村 願人    八兵衛印

          五人組   杢右衛門印

       八兵衛親類   庄右衛門印

         □親     平左衛門印

         □       半之丞印

          与頭     長吉印

          名主      孫三郎印

    伊奈半左衛門様 御役所(代官所)

 

△文化13年10月24日「欠落人行不明につき訴書」

・武州多摩郡関前村 

  百姓又兵衛倅 欠落人 仙右衛門 当年子(ねずみ)31歳

・仙右衛門は、当年4月中、家出致し、立戻りませんので申し上げす。同5月19日、

その段お訴え申し上げます。その節より180日の間、探しましたが、未だに行方は分かりません。30日毎に名主宅に集まり、評議しております。また相尋ね、心当たりを尋ねましたが、行方は分かりません。この段、御訴え申し上げます。以上。

 右関前村 仙右衛門親 百姓 又兵衛

           親類  忠左衛門

           組合  善右衛門

           組頭  伝七

           名主  忠左衛門

文化13年(子)10月24日    大岡源右衛門様
                  御代官所 


△文政5年9月21日 「欠落人行方不明につき訴書」

 武州多摩郡関前村 百姓欠落人 金 藏 午(うま)24歳 持高4石6斗4升

・金蔵儀当2月22日家出で致し、帰宅していない。その段同3月17日、お訴え申しま

したところ。その時より、9月20日まで180日の「日限尋/ひぎりたずね」仰せ付けられ、心当たりを所々尋ねましたが行方が分かりません、この段お訴え申し上げます。以上。

右 関前村欠落人金蔵 母ちよ

                親類金次郎

                組合平六

                村役人惣代・名主忠左衛門

   文政五□午(うま)9月21日

平岩右膳様 御役所

 

〖エピローグ〗

多摩郡関前村の欠落者は20代・30代前半の農民である。彼らの欠落の理由は不明である-生まれながらにして農民であり、同地にて一生を終えた。江戸時代は「士農工商」の時代であったという常識がある。厳しい身分制度のもと、農民は田畑の所有を許されず、重い年貢に苦しまれ、自給自足を強いられた。

しかし、専門家の見解によると、まったく異なる世界が見えてくるという。百姓たちは銭を使い、布を買い、それを身にまとって祭りをもりたてたという。その一方で、茶・書・華をたしなんだという。その一方で、乏しい資源を大切にし、浪費を抑え、そして元気で働いたといいう。

当時の関前村の経済規模は-石高は238石4斗8升9合(反別:65町4反5畝15歩)であった。人口構成は181人、うち男100人、女は81人、馬8匹であった(「明細帳」文政4年巳9月/1821年)という。このような経済規模から既述のような農民がいたという判断は難しい。今後の調査に待ちたい。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹


(注)

(1)戦国大名が両国支配のために制定した法令。民制関係の規定などの具体的なものが多い。今川氏の今川仮名目録、武田氏の甲州法度など。

(2)中世、名主(名田を所有する地主)が小作人から徴収した年貢。

 

(引用資料)

(1)『武蔵野市史』続資料編 武蔵野市役所、平成5年3月発行

(2)渡辺尚志著『百姓の力』-江戸時代から見える日本、柏書房(株)、2008年5月25日

(3)田中圭一著『百姓の江戸時代』、ちくま書房270、2000年11月20日

(4)(ウイキペディア)

 

(参  照)

(1)主君に仕える一般武士の出奔(しゅぽん)はこの発覚した時点で直ちにその家は改易処分(お家断絶)となるのが通例で「浪人の欠落」扱いを受けた。加えて、藩によっては、当主でなくても、元の当主である隠居や当主の母親の出奔であったとしても縁座による改易処分を受ける事例もある。