2021年8月15日


〖プロロ-グ〗

・武蔵境駅南口の近くに「観音院」がある(既報「観音院の梵鐘」2021年6月24日)。本堂があり、向かって左側の通用門の近くに古びた石仏が20体ある。その中の一体がいかにも幸せそうに笑みを見せている。その外の4体は頬杖し、微笑ましい。多くは無表情である-まさに喜怒哀楽の世界である。中には享保3年(1718年)年と判読できるものもある-当時、八代将軍吉宗は、江戸市民の華美な衣服を禁じている。また、琉球使と引見している。この石仏は、言わば、現武蔵境住民の祖先に当たる-武州多摩郡境村・境新田である。

・江戸時代の農村の事件に関する資料が意外と少ないことが分かる。『武蔵野市史』(続資料編)の中を見ると、「村の事件」としての項目がある。内容を見ると-享保11年(1726年)7月14日~文久元年(1861年)12月3日までの132年間に22件を数える。その事件の内容については。興味を抱かせるものもある。但し、殺人のような凶悪犯罪は見当たらない。以下、「武蔵野市史」から抜粋した事件の内容である。

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観音院
出典:「武蔵境散歩道


〖事   件〗

1 宝暦4年4月6日(1754年) 八兵衛嫁誘拐につき詫(わび)一札

        「申し入れ置き一札の事」

拙者(私)の儀(事)、先だって、理不尽に付き貴殿の娵(嫁)を誘い出し隠し置き、其の分が露顕し、そのままにしておけないので、お願いのお差紙(代官所からの召喚状)を頂くために、松庵村太右衛門殿・同村与右衛門殿・平助殿・源五右衛門殿右の衆、御役所様迄、お出かけ下された。この度の義は何分にも拙者理不尽に致したので、仰せ聞き候上は、一言も申し開きはしない。

以来、相慎(つつしみ)右の躰(からだ)の不埒(ふらち)仕り間敷候、おそよの義は早速お引き取り下され、これより、右出入の為の路銀・雑用代として金子(きんす)5両拙者より差し出し、熟談仕り候上は、此の義に付き何にても申し分少々これ無し、なお、また右の女に付き怪敷義も御座候は、何時なりとも拙者の方へお懸りベくなり候、これにより一札申し置き処、件の如(くだんのごとし)。

宝暦4年戌(いぬ)4月6日

     吉祥寺村庄之助印

          関前村八兵衛殿

          組頭中

          名主中

右の通り拙者共に取り扱い申し候処(所)、何分にてお済忝けあり候、然る上以来、共に何の申し分け少なくも無し、御座候、以上。

      松庵村     太右衛門印

      吉祥寺村扱人 与右衛門印

      同        平  助印

      同        源右衛門印

 

1 天明3年12月(1783年) 囚人護送につき木銭請取証文 

「差上げ申す木銭請取証文の事」

・ 51文  木銭代(木賃)

・ 148文  白米代

・〆 203文 

右は御代官様のため御用、囚人1人差し備え当たり宿泊候に付き、書面の通り木銭(注1/きせん・きちん)、石代お払い受け取り候、尤も止宿(宿泊)は過分の事、後日のため、木銭の証文の件ごとし。

天明3年卯年12月  内藤新宿

                 御宿  善次郎印

                 問屋  畔蔵

              上保谷村

              関前新田  差添人中

(注):江戸時代、宿駅で客の持参した食料を煮炊きする薪代(木銭/木賃宿<きちんやど>)だけを受け取って宿泊させた。最も古い形式の旅宿。食事つきの旅籠(はたご)に対していう。

 

1 文化3年4月25日(1820年) 勘右衛門乱行につき差し出し一札

             「差出し申す一礼の事」  

関前村組頭勘右衛門は如何したであろうか、同所百姓の所へ鋸(のこぎり)を持ってきて理不尽に狼狽をしたのに付き、その旨、御名主へ申し立て所、村方お名主中御改めも無駄が多いので、御代官様まで駆け込み訴えをすると右又兵衛へ罷り出でた所、折から田無村の権右衛門殿に居合わせ、一足先に帰村するので、その意を任せ、又兵衛立ち返り、村方において扱い人立ち入り、双方共にしかと相ただすし意見差し加え、尤も格別の旨も無い、勘右衛門方より又兵衛方へこれまでの義(事)は沙汰におよばず、以来、きっと相慎みの一書認め(しため)、双方共にこの一件をお願いし、なお、役人・五人組まで扱い人一同連印し差し出し申し候、後の為に証しによって、件の如し

 文化3年寅4月25日        当村願人 又兵衛印

                   同所 相手勘右衛門印

                  同所 組合吉右衛門印

                  同村 同市右衛門印

                  同所 組頭伝七印

                  同所 扱人磯右衛門印

                  田無村扱人権右衛門印  

                  同所扱人 久米右儀印

           御名主  忠左衛門殿

 

1 文政12年2月27日(1829年) 無宿清次郎 逮捕の上召し連れにつき訴書

「恐れながら書付以て奉り申し上げ候」

武州多摩郡関前村百姓市左衛門が病気なので代わりに倅六之助・村役人惣代名主忠左衛門奉り申し上げ候、市左衛門の儀、家は8人暮らしで、農業を営んでいる。昨26日夜同人、その外の共は寝ており、六之助は用事があり、隣家へ罷り出で同夜四つ時(午後10時)過ぎ、立ち返った。

燈火を消したが、物音がしたので、様子を窺っていたところ、盗賊が押し入り、金子(きんす)を“差し出せ”と親市左衛門へ言った。盗賊は3人で、表口より、逃げ出した。追々近隣の者共に追いかけたが、2人は逃げ去り行方が分からない。1人を取り押さえ縄をかけ、尋ねたところ、無宿清二郎というものであった。金子を借りたいと3人で申し合わせ押し入ったと。外2人の名前等は不問、家の中を調べたが、紛失の品・怪我致しものはなかった、これにより右縄をかけ召し連れお訴え申し上げます。

              武州多摩郡関前村百姓市左衛門に付き代

              倅六之助

   文政12年丑2月27日

                                   村役人惣代名主忠左衛門

平岩右膳様  

        御役所(御代官)

田無村扱人権右衛門印  

                  同所扱人 久米右儀印

                  御名主  忠左衛門殿

 

1 文政12年2月晦日(みそか)清次郎入牢に付き赦免願書

 (端書/はしがき)

    「西久保村源勝寺御支配様へ御慈悲願い」

「恐れながら書付奉り願い上候」

武州多摩郡西久保村一向宗源照寺 御支配様へ御慈悲願い恐れながら書付奉り願い上候、元飯田町出生清次郎と申す者、同郡関前村より御差出に相成り、入牢仰せ付候、趣き承知仕り奉り恐れ入り候、然る処、右清次郎義は当村年寄り平蔵方に罷り在り候者にて兼ねて智人にて候処。

平日、悪事致し候義は勿論怪しき風聞も承り申さず、その上、病身の者にて嘆げかわしく奉りあり候間、何卒、格別の義を以て、御吟味相済候上は身分御引渡しに相成り候様仰せ付ける度、何卒、格別の哀れみを以ってこの上御慈悲以てお沙汰幾重にも奉り願い上候。

      武州多摩郡西久保村一向宗源照寺

文政12年丑年2月大晦日 平岩右膳様 

                                               御役所

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源照寺
出典:「猫の足あと


〖エピロ-グ〗

江戸時代の犯科帳をみると、江戸市中の犯罪が多発していることが分かる。その背景の一つに江戸には100万人(一時浪人が溢れていた)が住んでいた。生きることは人々の間に多くの利害得失(摩擦)が生まれ、犯罪を誘発した。

観音院には境村・境新田(古くは出雲新田)の開発者であった保谷三右衛門(下田)の追善供養にために建立された「観音院の来迎阿弥陀如来像」(武蔵野市指定有形文化財)がある。天和2年(1682年)に出雲新田(境新田・境村)を開発した。

境村・境新田に居住していたのは農民であった。生活上に起因するトラブルは多くあったが、大事に至らず済んだ。そこには村方三役(名主・組頭・百姓代)の連携により犯罪を未然に防いだことが要因として挙げられる。

観音院の古い墓石の多くが境村・境新田の農民であった-多くの墓誌を見ると、元禄時代の後期のものが多い。現在もその子孫が住んでおり、脈々と家が受け継がれている-報告者は近くにある「武蔵野市立境南小学校」の第2回生(昭和29年度卒業/1954年)である-多くの級友達の先祖は、既述の開発者である。

   (グロ-バリゼ-ション研究所)所長  五十嵐正樹

(引用資料)

(1)「武蔵野市史」、資料編 武蔵野市、平成5年3月発行

(2)「日本史年表」 編集東京学芸大学・日本史研究史、東京堂出版、昭和50年6月10日

(参考資料)

(1)渡辺尚志著「百姓の力」-江戸時代から見える日本、柏書房、2008年5月25日

(2)樋口秀雄著「続・江戸の犯科帳」(株)人物往来社、昭和38年5月20日

(3)大石慎三郎著「江戸時代」中央公論社、中公新書476、1977年8月25日